集落

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埼玉県入間郡毛呂山町「新しき村」の保存車両

「新しき村」と聞いても全くピンと来ませんが、武者小路実篤は聞いた事あります。むしゃのこうじさねあつ、なんかカッコいいじゃありませんか。

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一般財団法人「新しき村」とは大正7年(1918)作家の武者小路実篤(1885~1976)が平等で格差無い理想社会と言う思想を基に構想し、共感した人が集まって宮崎県に村を作り一緒に暮らし始めたのが最初。後に昭和13年(1938)、宮崎の村が一部を残しダムに沈む事となったため、現在の埼玉県毛呂山町に大半が移住して来ました。村の門柱の奥には旗印が掲揚されています。

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少子高齢化や過疎化の影響で人数は減ったものの、現在も宮崎に3人、埼玉に8人が暮らしています。他にも村外会員として月500円の会費を納める会員が200人弱居るとか。ちなみに村は昔も今もこの新旧2箇所のみです。

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家賃や食費などは全て無料で月3万5千円の個人費が支給されますが、労働は当番制で農業(稲作や茶畑)を主な生業としています。その他に年に2回、それぞれ5万円の特別個人費が支給されるそうな。つまり衣食住の食と住が補償されて年収52万円。さらに光熱費、学費(公立高校まで)、医療費、保険、年金(但し支給される国民年金は全額を村に納入)などの一切を村が納めてくれる。ちなみに労働は1日6時間週休1日を目安とし、余暇は自己を生かす活動、つまり趣味や創作が奨励されており、個人主義と全体主義の絶妙なバランスを実践しているような感じ。公務員の基本労働時間よりちょい短い感じ。究極の社会保障とも言えますね。

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以前は養鶏が盛んで村人の数も多かったのですが、価格低迷などの理由で縮小してしまい、代わりに太陽光発電で電気を売るなどして公益収入を補填しているようです。1970年代には村内会員が60人を超え、5万羽の鶏を飼育し、年間の農業収入が2億円を超えていた時期もありましたが、現在は経済的に厳しくその当時の蓄えを切り崩しているのが現状だそうです。そのため新規入植者は極力受け入れないようにしているとか。

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今でも廃墟化した鶏舎が多く残っています。話がどんどん脱線して行きますが、共産主義とはまたちょっと違うようです。マルクス主義も武者小路実篤も読んでないので、詳しくは分からないし言えませんが、ただ決定的な違いはリーダー(村長)が存在しない事。あと個人の資産を全面的に認めている事です。平等の前提として「個」を認め尊重している点。最低限のルールと個々の尊重だけで村社会を成り立たせると言う事でしょうか。その点、国家レベルではマルクス・レーニン主義による社会主義国の方がより現実的だったのかも知れません。

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こちらは武者小路実篤美術館。晩年は画家としても活動されていました。「仲良き事は美しき哉」と聞くとピンと来る方も居るかも。因みに歴史的背景として、新しき村が誕生したのはロシア革命の翌年で、3年後に中国共産党が発足されました。東西冷戦時代からベルリンの壁の崩壊やソビエト崩壊を経て、共産主義及び社会主義国家は失策、または悪と言った共通認識がありますが、それは中央集権や官僚主義によって民主主義や人権が制限され、本来の社会主義の理想から遠く離れていただけと考えられます。

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つまり社会主義体制とは本来、利権争いや階級格差(貴族階級と労働者)による差別の無い平等で平和な社会を目指していたんですよね。お金を稼ぐと言う自由があるけど格差や争いの絶えない資本主義世界に対し、平等故に平和であるけど労働に張り合いが持てない世界。君主制だった中世が終わり様々な社会体制を模索、実験して来た訳です。しかし数々の国営企業が民営化されるように、経済を発展させるという価値観に於いては適してなかった。

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この村に入った時、正直第一印象として宗教的だったり左翼的だったり排他的だったりするイメージを持ってしまいました。ヤマギシ会の例もありますし、そのため実際イデオロギーの違いによって差別された事も有ったのかも知れません。しかし調べて見れば全然そんな事は無く、純粋に実篤氏の考える理想郷を具現化した共同体でした。逆に現代、シェアハウスやカーシェアなどの共有財産や共同生活が注目されていますが、ここは100年以上前からその思想を受け継ぎ、今も存在し続けています。実際、近隣との関係も良好で、村に野菜を買いに来たり犬の散歩をしたりする地元民も多いとか。

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さて、やっとここからが本番。目的は保存車両です。この車両を見に行ったら、たまたまそこが「新しき村」だったと言うだけの話。

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この都電の車両は昭和29年製造。昭和43年に村外会員から寄贈され、当初幼稚園の園舎に使われていました。その後園舎が建てられましたが、昭和59年に閉園。

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しばらく朽ちるがままになっていたところ、寄付によって修復がされました。

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予算のせいか屋根は乗っけるだけになっていますが、辛うじて雨晒しにはなっていません。車両の脇には桜の木が植えられているので、桜の季節にまた撮りに来れたらいいな、なんて思います。

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帰りがけ、川越の日帰り入浴施設「小さな旅、川越温泉」に立ち寄りました。

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関東圏に乱立した大深度掘削による温泉施設です。ここも他所と変わらず紅茶色(どちらかと言うと黄色)のモール泉。加温源泉掛け流し浴槽があります。あまり特徴を感じないサラサラとした浴感ですが、湯上がりホカホカが止まりませんでした。なかなか優秀なお湯だと思います。
しかし、新しき村を訪れたのをきっかけに色々と興味が膨らみ、まだまだ知らない世界があるなぁと感じました。そしてこの「新しき村」は一般的な農村同様、過疎化や少子化の問題を抱えております。村民は基本的には村の繁栄や人口増加と言った発想が乏しく、宣伝活動なども皆無に等しい。なので、この実篤の理想郷は、現代人の記憶に残らず消えてゆく運命を辿るのかも知れません。

※4/9再訪

廃車両の脇に桜の木が有ったよなぁと思い、再訪してみました。

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周辺の桜が結構散ってしまった中、なんとまだ蕾の膨らみ始めた牡丹桜でした。品種までは分からなかったwwww

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まぁ花は咲いていたので、なんとなく撮って来ました。

千葉県香取郡多古町、里山サイクリング

前回訪れた成田空港近くの日帰り入浴施設、空の湯。そこに併設されているレンタル自転車空輪さんでマウンテンバイクを借りてサイクリングに行きました。
空輪さんではマウンテンバイクかロードバイクかを選択出来ますが、私は乗り慣れたマウンテンバイクをチョイス。4時間1200円、1日2000円で、しっかり整備された本格的なマウンテンバイクを借りれます。しかもメットやグローブなどもレンタル無料。

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成田空港周辺は台地の上になっており、広大な畑が広がっています。関東ローム層特有の粒子が細かく水捌けが良すぎる土壌では畑作となります。

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台地の至るところに水源があり、谷に沿って水田が広がって行きます(谷津と言う)。日本に多く見られる山と川の風景とは少し違う、北総台地特有の低い起伏に満ちた地形。

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そんな農村地帯の集落のひとつに残る廃校舎。

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この旧・興新小学校は1881年(明治14年)開校、1993年3月に他校と統合されて閉校しました。

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この廃校舎は映画「永遠の0」を始め数々のロケ地に使われています。そのために机と椅子が並べられているのでしょうか。

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もちろん鍵が掛かっていて中には入れませんが、窓から中の様子は伺えます。中はちゃんと手入れされており、廃墟化せずに保存されていました。

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校門跡。門柱が残されています。校舎は高台の上にあり、校門前からは石畳の坂道が続いてます。

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小学校の下には集落が広がっています。屋敷門のある立派な農家が多い。

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次に訪れたのは北東に位置する久賀小学校跡。校舎はすでに解体されており、跡地に集会所のような建物が建てられています。

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この小学校跡は栗山川沿いの水田地帯の外れの丘陵の上、次浦地区にあります。校庭の片隅に残る鉄棒。

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猫が日向ぼっこしてました。

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門柱も撤去され、そのまま放置されています。

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久賀小学校跡の近くの屋敷。土地の有力者でしょうか、見事なお屋敷です。

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その屋敷の右手に、明治42年創立の米本図書館があります。

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栗山川沿いの水田地帯を南側の下流域、多古町の中心街へと向かいます。途中、崩れかけた廃橋などが幾つか。

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多古町の中心街に建つ木内家住宅は大谷石を使った見事な屋敷で史跡にもなっています。多古町は小さな城下町ですが、近在にも多くの城跡が散在しています。

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ひとまず渋い大衆食堂で昼食。

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カツカレーを注文。さりげなく柿が付いてきて、食後にはコーヒーも頂きました。

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多古郵便局。千葉県で最初に開局された郵便局3軒の内の1軒で、なんと明治3年開業と言う古さ。この点を見ると多古町が千葉県内に於いて、いかに栄えていたかが窺えます。多古町と言う町名自体つい最近知った自分としては意外過ぎる事実。

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この建物は昭和17年に建て替えられた物で昭和40年、3軒左手に移転するまで営業していました。

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窓から覗いた様子。歴史的価値から言えば内部も公開して欲しいところ。ちなみに2階は電話交換所だったそうです。後から知ったのですが多古町にはかつて花街があり、戦前には成田から八日市場までの成田鉄道多古線も走っていたとか。

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最後に訪れたのは多古中心街より南、田園地帯の中で島のように浮かぶその名も島集落。

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僅かな丘陵に広がる集落ですが、ここにも志摩城跡と言う城跡があります。志摩城については多古城の出城だと推定されるものの詳細は不明。しかし1455年に起きた享徳の乱に於いて千葉氏の滅亡とともに廃城となったそうです。

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この多古町一帯は鎌倉時代千田荘と言う、いわゆる千葉氏一族の地方豪族円城寺氏らの治める荘園でした。つまり田園としての歴史も古い上、さらに古墳も幾つか残っています。ちなみに台地の上の畑作地帯は主に明治以降の入植者たちによって開墾されて来ました。

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志摩城の廃城後、城址とその周辺に日蓮宗不受布施派の信徒による集落がつくられました。しかしその排他的な教義から江戸時代には禁教とされ、激しく弾圧されてしまいます。 信徒達は幕府からの監視探索を避けるために家々を高い槇塀で囲い、十字路のない迷路のような町並を造ったそうで、その名残りが今も残っています。

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垣根に囲まれた路地は時にカーブを描き時に分岐して、本当に迷います。集落の形としては非常に興味深い。

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島集落近くにある昭和34年竣工の円筒分水工。水争いを避けるため農業用水を公平に分配するものです。

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空の湯から多古町までは片道40分ぐらいなのですが、色々回ってなんだかんだでレンタル時間の4時間一杯掛かってしまいました。むしろ1日レンタルで余裕を持っても良かったかも知れません。
それにしても久しぶりにいい汗かきました。天気も良かったし起伏もなだらかだし空を見上げれば旅客機が通り過ぎる。サイクリングには最適でした。
運動の後は源泉掛け流しの温泉に浸かり、からの生ビール。もう言う事ありません。

石川県輪島市、間垣に囲まれた上大沢集落

能登半島の日本海側は内浦地区と雰囲気が一変し、荒々しい地形となります。

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海岸線は断崖絶壁となり、小さな河川が注ぐ狭い河口や山の中腹の僅かな平地に家々が身を寄せ合って集落を形成しております。輪島より集落と集落を結ぶ道は険しく、人の行き来を拒んでいるよう。

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輪島から西へ海岸伝いに行った上大沢地区。近隣の集落へ行くにも一度崖の上まで登り、峠道のような狭い道で尾根をいくつか越えて行かなければならない文字通り陸の孤島。もし富山湾側のように海岸線ギリギリに道を通そうものなら、日本海の荒波に一瞬で呑まれてしまいます。

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日本海側の集落の特徴として、海から吹き付ける北風から家々を守る間垣という囲いがあります。

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ここ上大沢地区のそれは集落全体を囲む大規模なもの。集落へ入るにも海側からだと、ご覧のような引き戸を開けて入ります。

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つい、ごめんくださいと言ってしまいそうな引き戸を潜れば集落が広がっています。

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振り返れば間垣の向こうに日本海。以前は北陸鉄道の路線バスも走っていましたが廃止され、2019年10月より輪島市によって「愛のりバス」というスクールバスが運行されています。輪島行きが朝2本昼1本、輪島発が昼1本夕方2本で、一応一般の人も乗れます。ただ運賃が一律100円で、輪島市に税金を払ってない他県者としては申し訳ない気分。タクシーを利用すると5000円以上掛かる距離だし。

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集落には狭い路地が張り巡らせられており家々の境界も曖昧。なんだか異世界に飛び込んでしまったような感覚。

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しかも集落のほぼ全ての家屋が板貼りの木造建築。国の重要文化的景観に指定されていますが、選定されたのが2015年。それまでにこれほど木造建築が密集して残っていたのは奇跡に近い。

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まるで映画のオープンセットのよう、と思ったら、ひと山越えた東隣の大沢地区では2015年NHK朝の連続ドラマ「まれ」のロケ地に使われていました。そのドラマ見た事は無いんですがね。

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集落は川の左岸(西側)に細長く、背後には山が迫っております。

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家々が密集しているため、路地のいたるところに消火栓があります。この狭さでは当然消防車など入って来れず、それ以前に輪島から消防車が到着するまで30分近く掛かる。火が出たら全滅の可能性だってある。

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このような隔絶された集落でも猫はいる。

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間垣は海岸から川沿いに沿って、ずっと続きます。谷が狭いため川伝いに風が吹き込むのでしょう。

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漁具でしょうか。海底のウニとかワカメとか取れそうな形。

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集落の一番奥には神社もあります。夏には祭も開催されていますが、すでに高齢化が進んでいるため山車の曳き手にも困っている事でしょう。

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集落の奥には川沿いに水田地帯が広がっています。いわゆる半漁半農を生業として来たようです。

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輪島の北東部にある千枚田は有名ですが、この間垣の里は直前まで全く知りませんでした。もっとも隣の大沢地区に民宿が一軒あるのみで、この上大沢地区には商店はおろか自動販売機すら無く、観光スポットとしてもマイナー中のマイナー。本当に明治大正から時が止まっているかのようです。

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間垣がニガタケという細い竹を使用してますが、まるで城壁に囲まれた都市国家のようにも見えて来ます。ウドを採って来たお婆ちゃんに挨拶するとにこやかに返事してくれましたが、ここまでの秘境となると村社会的意識も強かろうと想像します。

【日記】埼玉県秩父、小鹿野地方攻略その1

公共交通機関を利用し日帰りの旅をすると、周れる目的地がかなり絞られてしまいます。なので、何度か訪れて記事にしようと思います。そんな訳で下書き的な意味での日記です。
去年の12月は浦山地区の廃村群を巡りましたが、あそこのように見事な廃村が集中している場所って滅多に無いようで、と言うか、廃屋が解体されずにあれだけの数が残っている事自体奇跡に近いようです。過疎化、高齢化に伴い秩父の山には他にも多くの廃村が存在しているだろうという想像もしつつ、小鹿野地方の山村を巡って行きます。

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まずは西武秩父駅へ。スタートが遅れてバスに乗れなかったため、とりあえずGW直前にオープンしたばかりの日帰り入浴施設、祭の湯に浸かって策を練ります。こちらは駅直結の施設で地下2000mから汲み上げたナトリウム塩化物冷鉱泉を加水加温、循環濾過して提供されています。内湯、露天、共に広い浴槽がいくつも有りますが天然温泉は露天にひとつだけ。後は薬湯という名の入浴剤浴槽や、人工炭酸泉などでお茶を濁してます。唯一の温泉もあまり特徴を感じられないものですが、まぁ600円で駅直結で汗を流せるなら、と言ったところ。
しかし隣接するフードコートはGWの人出の多さに対応しきれておらず、名物の草鞋カツは開店1時間で売り切れ。他の店も午前中なのに40分近く待たされるという体たらくぶり。

※祭の湯はオープンして26日目にあたる2017年5月19日、規定値を上回るレジオネラ菌が検出されたため、営業を一時休止しております。
※6/8より営業再開されました。

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西武秩父駅から西武バスで小鹿野町へ。小鹿野からは町営バスを乗り継いで白井差口行きに乗り、途中の大谷橋で下車。小森川沿いの街道筋に伸びる大谷集落を散策。

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早速第一廃屋発見。いや、そうじゃない。廃屋探しに来た訳じゃないのに、なんか変な癖がついてしまっている。

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トイレはやはり別棟のようです。

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山道の途中から集落のあちこちに至るまで、多くの道祖神や祠などを見かけます。左端は馬頭観音。

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過疎化高齢化で寂れた限界集落を期待なんて言ったら不謹慎極まりないのですが、結構人が暮らしているようです。春風にそよぐ洗濯物。

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今回の目的地はここ、両神小学校大谷分校跡。斜面を少し登って俯瞰で撮ったのですが、背後には荒れた墓地が。墓石が倒れてたり石仏の首が無かったり、そう、荒れていたのです。

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昭和46年廃校。以後、林間学校として利用されており、校庭にはバーベキュー施設も完備されております。玄関前には真新しい靴なども置かれており、今でもちゃんと管理されている様子。

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裏手、つまり県道側に回ると、実は二階建てであったのだと分かります。

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隣にある民家は空き家になったのか、解体工事が進んでいました。

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県道に降りる手前に小さな祠。しかし中の木彫の仏像は無造作に立て掛けられている。なんか荒れてます。

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廃屋を見ると、ついつい撮ってしまいます。

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大谷集落を出て川沿いに歩いて行くと、双龍の巌という切り立った岩山が。室町時代からの伝説が残ることから、この谷には古くから人が住んでいたのだと分かります。

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やがて数軒の民家が残る堂上集落に。使われなくなった火の見櫓の周囲は平坦な草地が広がっております。かつてはもっと多くの民家があったのではないかと想像できます。

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拓けた里まで下りて来ると、小鹿野町市街地の外れに当たる薬師の湯という道の駅に出ました。ここからは西武秩父と三峰口、小鹿野町、それぞれに出るバスが出ています。
最後にこの薬師の湯でひとっ風呂。内風呂のみですが、そこそこ広い浴槽。24度の単純温泉を加温、循環濾過して使用しています。あまり特徴の感じられない浴感ですが、湯上りはさっぱりスベスベで気持ちのいいお湯でした。

また何度か小鹿野町方面には訪れますが、そのうち小鹿野町や秩父の市街地をレンタルサイクルで巡って見たいとも思います。

埼玉県川越市、廃村、握津集落堤外地

 前回に引き続き荒川中流域の堤外地を訪れます。今回は塚本より上流、JR川越線を越えた左岸、握津(あくつ)集落です。

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 さっそく民家跡を発見。ここは荒川の東側になりますが、住所的には川越市の飛び地となります。

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 生け垣が農村風景の面影を残しています。ここ握津は他の堤外地同様、大正時代に始まった荒川改修工事によって、堤防の外側に取り残されてしまった集落です。その堤防も現在高さを上げるための工事がなされています。

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 堤防の上から眺めると河川敷の水田地帯に雑木林が点在しているようにしか見えませんが、歩いて見ると生活道の痕跡があちらこちらに残っています。

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 昭和の初め頃までは渡し舟の船着き場などもあり、およそ70世帯、500人もの人々が暮らしていたそうです。しかし堤防が内陸部に築かれて以降、昭和5〜6年に20〜30戸が強制移転。それ以降、平成15年までに26世帯が自費で移転。しかし平成11年の水害で全18世帯が床上浸水した事をきっかけに、平成16年には国から移転補償予算が出るようになったため、平成18年までには全世帯の移転が完了したそうです。

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 廃村となった後、全ての家屋は解体され、現在このような空き地しか残っていません。荒川改修工事は東京を水害から守るためのものだったそうで、その際幾つもの集落が堤外地として犠牲になってしまいました。どこかダム湖に沈んだ村などを思い出します。

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 左奥の高台にも住居跡があります。よくある農村風景から民家だけが消え去っています。

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 僅かに残る遺構。確かにこの場所で人々は暮らしていました。

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 木製の古い電柱。川沿いに長く広がる大宮カントリークラブのための送電線と所々僅かに掛かる電線以外は、昔のまま時が止まっています。

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 しかしここも前回紹介した塚本集落同様、農地だけはそのほぼ全域が現役で使われていました。

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 水田の所々に建つ小屋は水を汲み上げるポンプ小屋かと思われます。

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 直進すると家々を繋ぐ生活道。左手は民家に上がる私道です。

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 こちらも民家跡。かなり立派な家屋が多かったと想像出来ます。

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 集落の中心にただ一軒、公民館の跡だけが解体されずに残っています。その入り口脇に庚申塔が残っていました。

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 公民館はすでに使われておらず廃墟と化しています。

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 公民館の左手前には集落の各所から集められて来たのでしょうか、馬頭観音やお地蔵さんなどが無造作に並べられています。しかしよく見るとお地蔵さんの首が! これは恐らく明治初期全国的に広がった廃仏毀釈運動の名残りだと思われます。
 急に怖くなって来ましたが大丈夫。少なくとも先日行った浦山地区みたいに熊は出ないから。

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 公民館左手には防火水槽が残っています。

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 そして裏手には雑草に覆われた廃神社が。どうもこの握津集落は、下流の塚本集落とどこか違った雰囲気が漂っているように感じてしまいます。

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 集落を抜けて荒川まで出ると大宮カントリークラブ。急に近代的かつ現実的な世界へと解放されます。
 なんだこの雲は!wwwww
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