銭湯

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埼玉県川口市、新郷地区の僻地飲食店街

基本的に自分が現在住んでいる川口市はネタにしないと言うのがありました。なんかあまり好きじゃないんですよね川口って。どちらかと言うと20代に住んでた大久保の方が愛着あったり、とまぁそんな話はどうでもいいんですが、生活圏は写真を撮る場所じゃないって感覚が昔からありました。

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ただ年末年始、連れが川口郊外の病院に入院したため、しばらくお見舞いで通っていました。路線バスで川口安行とか峯八幡宮とか見当もつかない行き先のバスに乗り、降りたら国際興業バスの車庫がありました。

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バス営業所の裏手には工場が広がっています。首都高川口線の新郷入り口も近いので物流的にも都合がいいのでしょう。川口と言えば鋳物産業と言われ、荒川沿いの鋳物工場はことごとく潰れて高層マンションなんかになったりしていますが、それでも郊外に出るとやはり川口って基本工業地帯なんですよね。

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それにしてもどこだここは、と思ったら見沼代用水東縁が流れているじゃありませんか。浦和ではしっかり灌漑用水の役目を果たしていましたが、この辺りではすでにドブ臭い。

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一応某救急病院としておきますが(モロ名前出てますが)、1982年(昭和57年)開業当時の建物はかなり古く、設備は露出配管だらけ。入院時の医師の説明も個室ではなく廊下のベンチに横並びで、目の前をストレッチャーが慌ただしく行き交う。なんて昭和な病院なんだ!と、半ば感動しておりました。
何せ今まで、川口済生会病院や帝京大学病院や多摩医療センターなど、最新設備の整った大病院ばかりだったし、建設の仕事でも新築の巨大総合病院なんかやってるものですから、この格差が衝撃過ぎて。
お薬の説明書類の写真も白黒で、こう言うのって薬の色とかで判断するのにカラーコピーも無いんかいって言ったらお金無くて、と。ここはお寺さんの土地で借地らしいのですが、どんだけ経営厳しいのか。ただ噂ではどんな患者も断らず受け入れるらしく、入院患者はその殆どが高齢者。連れは3階でしたが、上の方の階に昇るにつれ終末期患者が多く、病床の大半を占めてるとか。看護師さんも上層階の担当になると精神的にもキツいらしく、それでもスタッフの皆さんは明るく元気に仕事されていました。
設備は古いけど人材でカバーしている、そんな印象を受けましたが、なんか頑張ってる中小企業っぽくて応援したくなりました。

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国道122号から本郷方面へ繋がるあづま橋通りと、鳩ヶ谷から草加へ続くさいたま草加線が交差する辺り。病院の奥に当たりますが、飲み屋さんが軒を連ねています。

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交差点にはネオン管の残るパチンコ屋さん。

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看板のドラセナと言う店はすでに存在しておりませんが、キャバレーのような物だったのでしょうか。

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何よりも不思議なのが、なぜこんな鉄道も走っていない所に、これだけ多くの飲食店が集中しているのかと言う点。

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住宅密集地でもない片田舎なので、普通に考えて車でしか来れません。昭和の頃は当たり前のように車で飲みに来たかも知れませんが、今はそう言う時代じゃないですからね。

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地図を見ると近くに新郷城跡と言う史跡があるので、昔からこの辺りには人が住んでいたと思われます。ただ日光街道と日光御成街道の中間に位置し宿場町でもない。つまり発展は近代の道路が整備されてからとなります。

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お見舞いの帰り、芝川沿いに清掃工場のある朝日町で途中下車。少し西に歩いた所の一軒の銭湯。

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奥まってますが震災復興建築系の銭湯建築のようです。

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導線に小さなアーケード商店街の跡。地権者が一緒なのでしょうか。

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こう言う所に早めにオープンする居酒屋なんてあったら絶対入っちゃいますが。

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左が「サウナひろい」で右が「広の湯」となります。看板の昭和感がたまりません。

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開放感溢れる高い天井と柱時計。浴室も壁は板張りに分厚い水色ペンキ。奥の壁には渓流をイメージしたタイル画。この銭湯、地元の方がひっきりなしに出入りしており、まさに地元に愛される銭湯と言った感じでした。

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広の湯から西へちょっと歩いた所に、スーパー銭湯の「極楽湯」があります。日曜日の夕方と言う時間帯もありますが、施設の前の道路が駐車場待ちの渋滞となっていました。こちらは近所の方と言うより周辺から車で来られる方がほとんど。

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浴室は公式サイトからお借りします。来訪者数に対して施設のキャパがちょっと狭い感じ。案の定浴槽は子供たちで芋洗い状態。タイミングが悪かったです。お湯は一般的な黒湯で、そんなに深く掘ってないのかも知れません。食事処もメニューが充実しており大繁盛していました。

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さらに西へ歩いて国道122号沿い、昔ながらの健康ランド的な雰囲気の「湯パークラジウム」。よくもまぁこんな近所に三者三様のお風呂が揃っていると。
この湯パークラジウムは近い内に行きたいのですが、もし行けたら何かしら加筆するかも知れません。


大阪府大阪市西成(3)、釜ヶ崎あいりん地区(前編)

さて続きです。大阪環状線新今宮で下車。前編では夜のあいりん地区で飲み歩きドヤに泊まります。

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阪堺電気軌道の乗り場がパチンコ屋ってのも衝撃。

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こう言う立ち飲み屋も惹かれますね。

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この辺りの銭湯はほぼ現役です。入船温泉となっていますが、天然温泉や鉱泉はありません。ただ、宿泊も出来るそうです。

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新今宮駅の南側はすでにドヤ街ですが、南へ歩いて行くといわゆるあいりん地区と呼ばれる地域に入って行きます。

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今回は末盛湯と言う銭湯にまず入ります。

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中央に浴槽があり、左右の壁際に洗い場が並ぶ配置。東京以外ではこの配置が一般的のように感じますが、銭湯にはそこまで詳しくないので何とも。

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猫デカっ!何匹か野良猫を見かけましたがことごとくデカくて何とも言えない貫禄がありました。

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街が暗いのはもう正月休みに入ってしまった店が多いからでしょうか。

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この辺りはすでに釜ヶ崎ドヤ街、あいりん地区の中心地となります。

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この建物は16年前に訪れた時も撮りました。この界隈はほとんど昔と変わっていません。

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とりあえず一軒目のお店に入ります。

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昼は鉄板焼き、夜はカラオケ居酒屋の「なんきん」さん。岡山のお父さん方と飲みました。どうやら釜ヶ崎の住人では無さそう。

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南海電鉄萩の茶屋駅から阪堺電気軌道今池駅まで、あいりん地区を貫くアーケード商店街、萩の茶屋本通り商店街。この辺りに来ると人通りも多くなって来ます。

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スーパー玉出天下茶屋店。16年前、初めてこの店を見た時はパチンコ屋かと思いました。

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ちょっと小腹が空いてうどんでも啜りたくなりました。

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どうしょうもなく死にそうな人にはかけうどんを食わせるとか。

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しかし、カスうどんが900円て、そりゃぼったくりですがな。

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西成の有名店ホルモンやまきは2023年の夏より休業となり、マスターがお亡くなりになって閉店となりました。ところが斜向かいに復活と見せかけて2代目でもなんでもない「やまき」がオープン。味も全く違うけど間違いなく美味いとか。情報無しで勘を頼りにふらふら飲み歩いていたので入りませんでしたが、次回は絶対来よう。

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再びアーケード。堺筋を越えて東へ続く今池本通り商店街。

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この辺の飲み屋も惹かれますが、中はいっぱいで入れず。次回また来る機会があったら絶対入ろう。

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こちらのアーケード、カラオケ居酒屋がやたらあります。

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ここも良さげなんですが中は満席でした。

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なんか違う。昔からあるお店で地元の常連客で賑わうような雰囲気とは、なんか違う気がします。席は空いているんですが入る気になれず。

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延々とこのようなカラオケ居酒屋が続きます。適当に入ってもいいんですが、横浜寿町の経験からどうしても慎重になってしまいます。

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いつまでもふらふら徘徊していても酔いが醒めるので、試しに一軒入ってみます。

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お店は始めて1年ほど。最近こちらに越して来た兄さんや地元じゃない方々でしたが、なんだかんだで楽しんでしまいました。

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どうやら今池本通り商店街はシャッター商店街がここ数年でカラオケ居酒屋通りに変貌したようです。それは大阪万博による観光客の増加も関係しています。

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こちらはあいりん地区の中心にあたる三角公園。

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年末の三角公園は静かなものでした。奥の方に人だかりが見えますが、あの輪の中に入って行く度胸は無い。

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最後はかなりベロベロになって予約してチェックインも済ませておいたビジネスホテル加賀へ。

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普段は千円台で泊まれるドヤ街ですが、予約の時点で安い宿はすでにいっぱいで、しかも年末年始料金のため2800円。

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それでも充分安いのですが、見ての通りの狭さで風呂トイレ共同となります。

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枕薄っ!
まあ寝るだけなのでね。翌日30日は昼間のドヤ街を歩きますが、その様子は後編で。

千葉県木更津市(5)、木更津駅西口界隈の街並み(後編)

千葉県木更津市(1)、潮干狩り場の電柱群
千葉県木更津市(2)、呪詛による結界、道切りのある集落
千葉県木更津市(3)、木更津港周辺とフェリー埠頭跡
千葉県木更津市(4)、木更津駅西口界隈の街並み(前編)

前編の続きです。

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解体工事が中断されたか完成前に中断されたかのような様相の廃ビル。住宅街には似つかわしくないですね。

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海も近くなって来たこの通りには明治23年(1890年)から昭和初期まで木更津新地楼と呼ばれる遊郭が存在してたそうです。かつてはこの辺りが海岸線で、ここより西150mほどにある現在の海岸線までは埋め立てられたとか。現在、遊郭当時の痕跡は全く見られません。

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こちらは創業100年の歴史のある老舗ビジネスホテル、栄楽旅館。現在でも営業されています。

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さて、今度は駅前通りの左手、南側を探索して行きます。こちら側も昭和な看板建築が健在。

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ふと路地裏跡に入って行く。建物が解体されて陽当たりが良くなってますが、激狭路地にスナック。

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路地を抜けると芸妓の見番がありました。この界隈は花街(三業地)のようです。現役との事なので、近くに料亭なども多少残っているのでしょう。ちなみにこの建物は昭和30年(1955年)建築。

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見番の向かいの超狭い路地を入って行きます。

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路地を抜けると町中華の大雅。もう廃業されている雰囲気ですが、扉の感じなどからここも元はバーか何かだったのか。

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抜けた先には思いっきりスナック街。しかもそのほとんどが現役。花街でありながらこの一帯、赤線または青線の時代もあったのかも知れません。

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こう言うバラックっぽくて狭そうな店、入ってみたいです。

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振り向いたらこんな感じ。大きな港と自衛隊駐屯地があるから、歓楽街が現役で残り続けていられるのでしょう。

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路地の先にあったのがなんとリアル深夜食堂。営業時間が22:00〜5:00と言うガチな店。やっぱ寡黙でカッコいい大将が一人でやってるのでしょうか。泊まりがけで来たいなぁ。

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他の路地も歩いてみましょう。スナックビルの中を通り抜けられるようです。

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スナックと住宅が混在しております。

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範囲としては街全体含めてたいして広くなく、駅周辺の市街地を巡る分には自転車を借りるまでもないです。そもそも道幅的に自転車じゃキツい路地もあります。

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歓楽街から外れても凝った看板建築がちらほら。

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こちらも元スナックと思われる建物。撮り歩いたらキリがないですね。

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と思ったら明治大正期とも思える木造建築。現在は民家ですが恐らくは開業医系ではないかと。

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八剱八幡神社。駅前通りのお寺さんも立派な建物ですが、ここも新築の建物を建ててます。さらに、ご当地ヒーローの鳳神ヤツルギをプロデュースしてたり。

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こちらは唯一の現役銭湯、宮の湯。南の外れにあります。

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夕方、三人ほど地元の方が居られました。需要はまだありそうですが、人参湯なき今、ここには残り続けて欲しいと思います。

以上、木更津を巡って参りました。

埼玉県深谷市(3)、渋沢栄一生家と関連史跡

前回の続き。電動アシスト自転車は広範囲を周れるので便利です。

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さて、ネギ畑の中を疾走して渋沢栄一の生家に向かいます。

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途中、渋沢栄一記念館兼八基公民館があります。時間も無かったし、渋沢栄一を掘り下げたら本当にキリが無いのでスルー。

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とりあえず渋沢栄一の生家だけ見に行きました。

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立派なお屋敷です。渋沢家は元々藍玉(藍染めの原料)の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓でした。

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渋沢栄一は江戸末期の天保11年(1840年)に生まれ、百姓から一橋家家臣に取り立てられ武士となります。やがて徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、維新後明治政府で官吏となりました。年齢的には坂本龍馬の4つ年下で、幕末の志士世代なんですね。

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民部省を経て直属の上司である井上馨の下で造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となります。まさか自分が紙幣の顔になるとは思っていなかったでしょう。この頃、従兄の尾高惇忠を富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げ(明治5年)を託すなどして関わっています。

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渋沢栄一の本当の活躍は明治政府を退官して実業家になった後、明治6年、33歳になった頃からの事であります。

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ここからは日本初の銀行である第一銀行(後の第一勧銀・みずほ銀行)を創業し、その後も各銀行の顧問を受けてます。その他事業の面に於いては王子製紙や東京ガス、東京電力をはじめ造船、鉄道、保険会社、紡績、建設、製鉄、挙げたらキリが無いほど、ほぼ全ての業界に関わって行きます。

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まぁこの辺に関して興味がある方は、ここじゃ無くてWikipediaを参照してくださいwww

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渋沢栄一生家から深谷駅方面へと戻って行きます。途中、草ヒロってやつですか、古いトラックが廃車になってたりします。なかなか懐かしい日野のトラック。

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こちらは渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった尾高惇忠の生家です。惇忠は前出の通り富岡製糸場の初代場長を務めた人物です。

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母屋の裏手に残る煉瓦造りの蔵。渋沢栄一が23歳の頃、北辰一刀流の千葉道場で交友を結んだ勤皇志士たちの影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、尾高惇忠や同じく従兄弟の渋沢喜作らと高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち、長州藩と連携して幕府を倒すという計画をこの家で立てていたそうです。結局惇忠の弟である尾高長七郎の説得で中止したとか。やんちゃだったんですね。一橋家の家臣になる前の話。

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こちらの煉瓦建築は誠之堂と言って東京の世田谷区にあった第一銀行の保養・スポーツ施設、清和園の敷地内に建てられていたものを現在地に移築復元したものです。大正5年(1916年)、渋沢栄一の喜寿を祝って第一銀行の行員たちの出資により東京の世田谷区に建てられた物だそうです。

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多くの賓客を招くよう装飾の凝ったホールがあります。

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隣に建つ清風亭は、大正15年(1926)、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。

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こちらの内装も煌びやかです。

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国道17号を渡る手前、自転車で走っていると煉瓦煙突を発見。

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向かいの家の方に話を伺ったところ、元は土管を造る工場だったそうです。深谷の地は焼き物に適した粘土がよく採れ、昔から瓦などの焼き物が多く造られていたそうだです。そう言った焼き物の技術も煉瓦造りに応用されたそうです。ちなみに茶色い陶器製の土管は明治時代より下水管として塩ビ管が登場するまで広く使われていました。

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市街地に戻った所で深谷市で唯一生き残っている銭湯、中湯さんに入りました。建物は昭和31年建造ですが、銭湯としては200年もの歴史(江戸後期)があるとか。

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ロッカーは無く籐で編んだ籠があるタイプ。この古さと緩さがたまりません。ご主人曰く真ん中の蛇口は勢いが弱いから壁際の蛇口を使うようにと。入ると左手の壁際の蛇口は全て塞がれていたので、右手の3箇所しか使えないと言う。ただ、常連さん2人しか居なかったので問題無し。酒造りにも適した軟水の井戸水を使用したお湯は、柔らかい浴感でゆっくり寛げます。こう言う銭湯はいつまでも残ってて欲しいものですね。

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とまぁ渋沢栄一ゆかりの地を巡って来たわけですが、近代産業史を調べると大抵この人が顔を出します。振り向けば渋沢栄一みたいに。それでも10年かそれ以上前までは歴史上の偉人の中でも知名度的に結構マイナーなポジションだったと思います。そう考えると渋沢栄一は今でこそ近代経済の父とか資本主義の父とか言われていますが、むしろ裏で暗躍していた経済界のドン、と言った印象も受けます。

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最後は駅前の居酒屋、一番星さんで。

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モツ煮込みが超美味い!なんだこれ!
行田で食べたモツ煮も美味かったけど、意外と埼玉ってモツ煮込みが美味い土地なのか?
あとこの店、焼き鳥も超美味かった。

埼玉県深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡

前回深谷の宿場町を散策した翌日、続け様に深谷へ行ってしまいました。

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今回はレンタルサイクルのハローサイクルを利用して廃線跡を巡ります。ハローサイクルは都心部に集中して増殖中ですが、飛び地のように深谷駅前にもありました。観光用としてもっと地方都市にも増えて欲しいです。

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深谷駅の東側を東京方面に向かって高崎線と並走するように日本煉瓦製造専用線の廃線跡が始まります。

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まず最初に目につく遺構はつばき橋。煉瓦造りの橋台とガーター橋は当時のもので、上の歩道部分は後から付けたもの。

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廃線跡はほぼそっくりそのまま歩道及びサイクリングロードとして活用されています。

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途中には休憩出来るベンチが設置されており、このようにお昼寝も出来ます。

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途中、福川に掛かるあかね橋を渡ったところに、専用線当時のガーター橋が移設保存されています。これは明治28年(1895年)の建設当時の物で、現存する日本最古のポーナル型プレートガーター橋だそうです。

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こちらは福川の北側に広がる水田地帯に架けられていたボックスガーター橋。どちらも深谷市の指定文化財に登録されています。

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住宅街を抜ければ長閑な風景が続きます。日本煉瓦製造は当初船運による輸送を行なっていましたが明治28年(1895年)、高崎線深谷駅(明治17年延伸開業)まで日本初の民間専用線として開通しました。

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水田ではちょうど新米の収穫がされています。日本煉瓦製造が深谷に造られたのは周辺で煉瓦製造に適した土が採れたからと言います。その土も渋沢栄一が周辺の畑作農家に対して、水を引くための灌漑工事をこちらでやって稲作出来るようにするから土をタダでくれ、と言って材料である土を集めたそうです。当時は畑作より稲作のが儲かる事もあり、周辺農家とwin-winの関係を築いていたと言えます。

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その灌漑用水路の上を跨ぐ煉瓦造りのアーチ橋。アーチ橋と言えば碓氷峠の碓氷第三橋梁も日本煉瓦製造で造られた煉瓦を使用しております。

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アーチ橋の隣にある備前渠鉄橋。国指定重要文化財となっております。もうすぐ日本煉瓦製造の敷地に入ります。ちなみにこの日本煉瓦製造専用線は昭和50年(1975年)廃止となりました。

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サイクリングロードをそのまま進むと日本煉瓦製造の煉瓦塀が見えてきます。

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日本煉瓦製造株式会社はここ深谷出身の渋沢栄一らによって明治20年(1887年)に設立された、日本初の機械式煉瓦工場です。

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この旧・事務所棟は開業の翌年明治21年(1988年)に建造された瓦葺き木造平屋建て事務所。

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当初は煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導のために招き入れたネスチェンテス・チーゼ技師の住居として使われていましたが、その法外な報酬のため問題視され、明治22年には帰国しています。その辺、富岡製糸場と同じ轍を踏んでいます。ちなみに渋沢栄一は明治5年の富岡製糸場開設にも関わっています。

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内部は残念ながら非公開ですが、明治期の木造建築は超貴重なので無理もないです。

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旧・事務所棟の奥には変電室も残されております。こちらは明治39年(1906年)高崎水力電気株式会社より電線を敷設し、深谷でいち早く電気を導入した際に建てられたもの。ちなみに高崎水力電気は明治37年、榛名山南麓に上室田発電所を開設し電力供給を開始した会社。

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さて、こちらに保存されているのはホフマン輪窯6号窯。かつては煉瓦造りの煙突が聳えていましたが、関東大震災で倒壊。以後コンクリート造にされました。

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煉瓦を焼く窯ですが木造の屋根も付いていました。現在、極力手を加えないように耐震補強工事が進められています。ホフマン輪窯とは陸上トラックのような形でドーム状の窯が一周している物で、窯上部の穴から石炭を粉状にした粉炭を入れる事で徐々に温度を上げて行きます。それを時計回りに繰り返し、仕上がったらまた新しい煉瓦を焼き始める。いわゆる流れ作業で煉瓦を大量生産する窯です。

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ボランティアによる観光ガイドさんに案内され窯の中へ。煉瓦建築は東京駅をはじめ明治大正期の建造物に多く見られますが、関東大震災によって地震に対する脆弱性が指摘されるようになります。その後の震災復興建築をはじめとする昭和の建築物は鉄筋コンクリートが主流となり、煉瓦の需要は大幅に減少して行きました。

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日本煉瓦製造は後に秩父セメント(現・太平洋セメント) の子会社となり、2006年、株主総会において自主廃業を決定、清算されました。ちなみに秩父セメント(大正12年設立)の創業者である諸井恒平は日本煉瓦製造の創業メンバーとして渋沢栄一の推薦で入社し、支配人から取締役を経て明治40年には専務取締役にまで昇進した人物であります。

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かつてセメントの父と呼ばれる浅野総一郎は明治17年にセメントの官営模範工場を払い下げましたが、その際渋沢栄一に相談した所、煉瓦の接着などに使われていたセメント産業は儲からないから紡績をやりなさいと言われたそうです。しかし浅野総一郎はセメントの未来を信じて懇願し、役所に口利きしてもらいました。なんとも皮肉な結末に感じてしまいます。
さて、この後は渋沢栄一関連の史跡に立ち寄ります。
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