絹産業

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群馬県伊勢崎市(3)、蚕種で栄えた島村集落と渡し船跡

利根川中流域の南は埼玉県、北は群馬県ですが、群馬県伊勢崎市の南端にあたる利根川の南岸に一部群馬県の飛び地があります。こう言うのを河川飛び地と言うそうです。

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その飛び地である島村集落の西南側に田島弥平旧宅があります。蚕の種を作る養蚕農家なのですが、ここが世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に含まれています。

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こちらが田島弥平旧宅の母屋。実際に今でも住まわれているので一般公開されるのは毎月第三日曜日のみ。普段から公開されているのは一つ上の写真に写る桑場、蚕の種を作る小屋のみです。

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桑場には当時の道具などが展示されています。島村集落は江戸中期より蚕の卵、いわゆる蚕種の製造が盛んでした。しかし蚕の飼育は難しく、年によって生産量の差が大きかったため、田島弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の風通しが重要であるとの考えから清涼育と言う方法を開発し、安定した蚕の生産に成功しました。

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養蚕農家は風通しを良くするために屋根の上にヤグラ(越屋根、天窓ともいう)が乗っておりますが、この養蚕農家の目印とも言える近代養蚕農家の建築様式は、ここが原点となったそうです。まさに明治からの近代養蚕業の父とも言えますね。

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田島弥平住宅の東側に田島達行住宅があります。この周辺には田島一族の養蚕農家が密集しており、しかも江戸末期の母屋や石垣が残されています。また各農家ごとに蚕種生産者としての屋号を持っており、こちらの農家は對青盧(たいせいろ)と言います。建物は慶応2年(1866年)竣工。

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こちらは桑麻館。どちらも重要文化財であると同時に普通に生活している民家のため、当然ながら勝手に敷地に入るわけにはいきません。時代とともに建て増しや多少の改築はありますが、母屋の基本的な部分は変わっていません。

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田島善一住宅主屋、屋号は進成館。慶応年間(1865〜1868年)に建てられた入母屋造りで、一階に住居、一階の一部に桑場、二階が蚕室となっています。

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こちらは田島平内住宅で屋号は有隣館。明治元年(1868年)竣工。この田島家一族は島村集落の蚕種を生産する生産者集団で会社を立ち上げ、海外への輸出も行っていたそうです。当時の集落はまさに栄華を誇っていたのでしょう。

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こちらは田島定吉住宅主屋で屋号は栄盛館。文久元年(1861年)竣工。上毛地域は伊勢崎や桐生など毛織物産業の一大拠点でしたが、ここで生産された蚕種が北関東一帯の養蚕農家に運ばれて行ったのでしょう。

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こちらは文化財に指定されていないためか、建物を説明する看板がありませんでした。とは言え、こちらも年代を感じる木造建築で、景観としても保存されているのが窺えます。

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もちろん田島一族の養蚕農家が密集している集落南東部以外にも養蚕農家が散在しています。文化財指定こそされてなくても瓦屋根の大棟とか鬼瓦とか見事。

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重要文化財にされていると言う事で見に行った板倉。私有地なので中に入れないし、ただの板で出来た倉です。歴史的価値はよく分かりませんが、観光パンフに載っていたので行って見ました。場所も分かりづらいし、ちょっと観光地として中途半端なところ。

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日本の絹産業にとって重要な役割を担った事も当然ですが、同時に景観としてこのような立派な日本家屋が多く残されている集落である事も、世界遺産に含まれた要素のひとつだったんだと思います。しかし、群馬県の河川飛び地の集落に世界遺産があると言うことを、一体どれだけの人が知っているでしょうか。かく言う私も今回初めて知りました。

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こちらは集落の南東部に建つ日本基督教団島村教会、めぐみ保育園。この本館の建物は明治30年(1897年)建造で国の登録有形文化財に指定されています。一応観光パンフの地図に施設名だけは載っていますが、詳しい解説は書かれていません。

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そして道路の向かい側には昭和28年建造の保育園の別館が建っていますが、こちらは県境を挟んで埼玉県深谷市に入ります。こちらも共に国指定登録有形文化財。教会の創立は明治20年(1887年)で昭和30年(1955年)より保育園が開設されました。

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島村集落の北側には利根川が流れています。河川敷の方へ歩くと島村渡船船着場の表示が。

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しかし河原にはすでに何も残っていません。実は2019年の台風被害により渡し船が運休。そのまま復活する事なく2022年の10月、正式に廃止となってしまいました。利根川の向こうは伊勢崎市境町。以前訪れた伊勢崎銘仙の織物工場で栄えた街があります。

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島村から下流側に3キロ行った所に掛かる上武大橋を渡り、島村渡船の境町側船着き場へと来ました。土手の上にポツンと残るほったて小屋が、かつての船頭の詰め所です。

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かつてこの渡し船は立派な「県道」と言う扱いになっており、その歴史は江戸中期からと伝えられているとか。船はFRP製の9人乗り(船頭含む)でモーターボートのエンジンを2機付けていたようです。

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島村集落の方々の足であるとともに、地味ながらも観光資源でもありました。しかし車社会になり年々利用者も減っていたのでしょう。現在では境町駅から上武大橋を迂回してコミュニティバスが運行されています。

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南岸の島村側からは黄色い旗を掲げて呼んでいたようです。台風の被害に遭った後、伊勢崎市は市内全域の市民にアンケートを取ったそうです。その結果、利用しない、または利用したいとは思わないとの回答が67%に達したため廃止が決定したそうです。まず、全域って言うのがおかしな話で、島村地区の方々を対象にアンケートを取るべきではなかったかと。

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こちらは廃止直前まで使われていた船とは違うようですが、恐らくは渡し船として使われていたと思われる船。せっかく世界遺産に含まれたと言うのに、観光資源としても上手く利用出来なかったと言う事です。境町の歴史的建造物を巡りつつ、木の船で利根川を渡って養蚕農家の家並みを巡ると言う、それだけで充分魅力があると思うのですが。あるいは島村集落の方々が観光地化に乗る気じゃなかったなんて事も考えられますが、あくまでも想像の域を出ません。

埼玉県秩父市秩父市街(3)、ちちぶ銘仙館

今年は月3回以上の更新を目指していましたが忙しい時は忙しく、なかなか出かけられないので5月に秩父へ行った際に立ち寄った秩父銘仙を記事にします。2018年10月に秩父銘仙に関連する史跡を訪れたのに、なぜ当時「ちちぶ銘仙館」に行かなかったのか!

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ちちぶ銘仙館は西武秩父駅から歩いて5分ほどのところにあります。建物は昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場跡で、国の登録有形文化財です。

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入るとすぐに秩父銘仙が展示されています。秩父地方は江戸期から養蚕(ようさん)が盛んで、絹織物産業が発展して来ました。

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ちちぶ銘仙館のエントランス脇の部屋は元々事務所のような物だったのでしょうか、受け付け窓口のような凝った造りの小窓があります。
江戸期の絹織物は農家が副業として、各農家ごとに養蚕から製糸、機織りまで一貫して生産していました。

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奥はノコギリ屋根の工場となっています。
しかし明治に入ると欧米の機械産業による織物が輸入されるようになり、逆に欧米には大量の絹糸を求められるようになります。以来日本の絹織物産業は養蚕と製糸に集中される事となります。

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ノコギリ屋根の内部に展示されているのは撚糸機。糸を撚る(よる)ための機械だそうです。以上のような時代の流れから富岡製糸場が生まれ製糸の機械化が進み、農家では養蚕だけが続けられる事となります。

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ちなみに銘仙とは元々、上物の絹織物には不向きな屑繭や、2匹以上の蚕が1つの繭を作った玉繭から引いた太めの絹糸を緯糸(たていと)に使って密に織ったもので、絹としては丈夫で安価でもあったそうです。

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こちらが、各農家ごとに機織りをしていた時代の機織り機。
関東の主な銘仙と言えば伊勢崎、足利、桐生、秩父、八王子。この銘仙と言う言葉も明治に銀座三越で販売される際、銘「選」の着物として売り出された事からだそうです。

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その機織り製品も工場で生産されるように。結局のところ上質な生糸は外貨を稼ぐために輸出され、あぶれた生糸で国内向けの着物を織った物が銘仙と言う事になります。とは言え丈夫で安くデザイン性にも優れている事から、庶民の間では人気を博していました。

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こちらは蚕(かいこ)から糸を取り出すところ。リアルな蚕が見れます。蚕って結局、蛾の幼虫がサナギになった物なんですよね。
実際製糸工場では富岡製糸場に展示されていたような長大な繰糸機で一度に大量な蚕から糸が繰り取られます。

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こちらは糸を染色する甕。地中に埋まっているのも意味があると思いますが、ちょっと駆け足で見てしまいました。また行く機会があれば色々質問もしてみたいところ。実際ここは蚕から着物が出来るまでの工程を、全て勉強出来、また体験も出来る施設となっております。
ちなみに日本ならびに中国(清国)に機械式製糸工場が広まった事により、欧米諸国に於ける生糸の相場が大暴落して、欧米の製糸工場や紡績工場が大打撃を受けたなんて事もあったとか。

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かくして製糸、紡績産業は明治大正から昭和初期にかけて、日本の主要産業のひとつとなり、日清紡や東洋紡、カネボウなどの巨大企業を生み出しました。私もまだまだ勉強不足なのですが、蚕(カイコ)から糸を紡ぐのを長繊維(製糸場)と言い、綿花や羊毛、麻などから糸を紡ぐのを短繊維(紡績工場)と言うそうです。

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しかしながら昭和後期、日中国交正常化以来安い製品が入って来るようになったり、東南アジアなどの途上国の発展やら貿易の規制緩和やらで、国内生産による紡績業界は衰退して行く事となります。特に現代は長繊維から織られる着物は着られなくなり、短繊維から織られる洋服の時代です。今や養蚕自体が過去の遺物とも言えます。

群馬県富岡市(1)、世界遺産富岡製糸場

観光地、ましてや世界遺産なんて行かないと思ってましたが、最近ちょっと考えが変わって来ました。去年まで北関東の産業遺産関連を巡って来ましたが、ならば富岡製糸場ぐらい一度は行っておかないとと思い富岡市にお邪魔しました。

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駅から南に歩いたところ、富岡製糸場の隣に建つ旧韮崎製糸場で富岡製糸場の入場券を購入します。駅からここまで小さなシャトルバスが走っていますが、徒歩10分なので散策しながら歩けばすぐ着いてしまいます。

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この韮崎製糸場は明治9年から明治12年まで、富岡製糸場をモデルに建てられた民間の製糸場です。操業期間は短いものの当時の構造がそのまま残っていたため、貴重な遺構として保存されております。

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さて、いよいよ超有名な富岡製糸場です。

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入り口左手に建つ検査人館からして素晴らしい明治建築なのですが、残念ながらこちらは立ち入り禁止。

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入ってすぐ横たわっているこの代表的な建物は東置繭所。いわゆる繭の保管倉庫ですが、入って正面の東棟と奥の西棟とがあります。幕末から明治初頭、それまでの生糸産業は手作業による物しか有りませんでしたが、それでは糸の太さが均一にならないと言う事情から機械化が欧米市場から求められました。

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明治維新によって日本が開国して行ったそんな時代背景の中、富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が設立した模範器械製糸場です。まずは官営で機械化された工場を造り、それを模した形で全国に民間製糸場が広がって行くわけです。

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こちらは奥に位置する西繭置所。西棟東棟ともに明治5年の開業当時の建造物です。とにかく巨大。二階建ての構造ですが倉庫だけあって1階層の天井がやたら高いです。ちなみに富岡製糸場開設の立役者としては大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一などが名を連ねています。まさに国家プロジェクト。

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富岡製糸場は初め官営で開業されました。しかし海外から呼び寄せた技術者たちの高額な人件費や女工たちの在勤期間の短さなどが原因で経営不振に。当初の模範や伝承と言った目的も果たしたと言う事で、明治26年には民営化されます。

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基礎や外壁こそは明治の物ですが何度も改修されているので、この扉などは昭和の物かも知れません。とは言え意匠は素晴らしい。

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エレベーターが設置されたのは戦後でしょうか。明治26年に民営化されましたが最初の入札では買い手が付かず、2回目の入札で買い取る事を決めたのは三井銀行部の理事をされていた中上川彦二郎氏。福沢諭吉の甥に当たり、資源の乏しい日本にとって今後外貨を獲得するには機械産業の発展しか無いと言う思いからだったとか。

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二階部分に登ってみます。赤煉瓦の外壁の中に、ブリキの内壁が二重構造という形となっています。これは昭和に入ってからの構造で、お茶の箱のように乾燥効率を上げるための工夫だとか。

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内部はこんな感じ。三井の時代は9年続きましたが明治35年、原合名会社を率いる原富太郎が富岡製糸場を含む4つの工場を買い受けます。ちなみに原富太郎は横浜の三渓園を造った実業家で、前身の原商店は先代(義父)が生糸問屋で財を成しています。

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赤煉瓦の外壁の内側に、当時の雑誌を貼り付けて修繕した跡が見て取れます。さすが女工さんで成り立つ工場だけあって主婦の友。広告のシボレーが1934年型と思われるので、昭和9年当時の印刷物かと。

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こちらは東置繭所に併設されている変電施設。残念ながら内部は見れません。

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そしてこちらがメインと呼べる繰糸所。開設当時の明治5年建造です。原合名会社による運営は長く昭和13年まで続きました。そして昭和14年、当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることとなります。

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こちらが繰糸所の内部。現在展示されている繰糸機は開業当時のフランス式繰糸機を復元された物ですが、当時は繰糸所の規模として世界最大だったそうです。

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蚕を煮て繭から糸を紡ぎ出す。その様子が一部の繰糸機に展示されていました。明治、大正、昭和と生糸産業を支えて来た富岡製糸場ですが、和服を着る機会の減少などに加え、昭和42年(1972年)の日中国交正常化による中国産の廉価な生糸の輸入増加などが原因で生産量は減少の一途を辿り、昭和62(1987年)に操業を停止、閉鎖となりました。

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鉄水溜と貯水槽。左手奥の鉄水溜は明治8年頃に造られた製糸に必要な水を溜めておくための巨大な水槽です。この鉄水溜の製造には軍艦の造船技術であるリベット止めが使われ、およそ400トンの水を溜めおくことが出来たそうです。

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それにしても操業停止から36年経っても廃墟化せず、当時のままで保存されていたのには片倉工業の努力があってこそです。解体せずそのままの姿で維持管理を続けるためには年間一億ものお金が掛かるとか。

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古い物、特に歴史的価値のあるものを大切に保存するという心意気には尊敬の念を抱きます。しかし一部の建物は重要文化財指定を受け、最終的には世界遺産に登録されたわけですから、その苦労も報われたんじゃないでしょうか。

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こちらは開業当時の動力として使われていた蒸気機関の復元モデル。これが実際蒸気で動いています。この徹底ぶりは感動します。現在片倉工業は保守管理の役目を終え富岡市に所有権を譲りました。

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東繭置所の向かい、入場ゲートに近い所にある女工館。こちらは開業時、全国に技術を伝える役目を担った伝習工女たちに、ヨーロッパの機械製糸の技術を教えた4人のフランス人女性教師のために建てられた建物。明治6年建造で実に贅沢な造りをしてますが、残念ながら内部は見れません。建物は後に役員宿舎や娯楽施設などに利用され、大正12年以降は従業員食堂として使い続けられていました。

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こちらは片倉時代の昭和15年に建造された診療所。しかし医師は開業当時からずっと常駐されていたそうです。福利厚生というか、明治初頭から労働者のことを考えられたシステムと言うのは、政府が雇用したフランス人のポール・ブリューナの指導があったからこそかも知れません。

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こちらがフランソワ・ポール・ブリューナが家族と暮らした首長館。ブリューナは官営製糸場の建設地選定から携わっており、契約期間を終えた明治9年に帰国しています。しかし当時の一般的な日本人職工の年俸が74円程度だったのに対し年俸9000円を支払われており、一時期大久保利通や伊藤博文らが問題視した事も。

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首長館の裏手には講堂が併設されております。明治維新後の日本はブリューナのような多くのお抱え外国人(通称)を雇っており、彼らは日本の近代化に大いに貢献されました。

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講堂の奥には大正7年(1917年)建造の寄宿舎(榛名寮)。20畳以上の大部屋が幾つもあり、地方から出てきた女工さんたちが共同生活されていたそうです。女性の社会進出と言えば高度成長期のイメージですが、地方の貧しい農家に産まれた女性が嫁入り以外の選択肢として、このような雇用が有ったと言う事です。

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こちらは昭和15年(1940年)建造の寄宿舎(妙義寮)。右手に同じ造りの浅間寮があります。一棟につき15畳の部屋が16室あり、一部屋に12人ほどが暮らしていたとか。室内にはアイドルのポスターや観光地のペナントなどが貼られているそうですが内部は非公開。見てみたい。

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最後に敷地内に建つ社宅を紹介します。敷地内と言う事は部長や専務など重要なポストに就いていた方々が暮らしていたのでしょう。

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下駄箱が古い。この建物の建設年代は見落としてしまいましたが、造りからして恐らく昭和初期と言ったところでしょうか。明治、大正、昭和と、それぞれの年代の建築物が混在している富岡製糸場を巡っていると、明治建築と戦後建築との違いとか、なんとなく分かるようになってきます。

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それにしても、よくぞ当時のままの形で残っていると感心するばかりです。これが昭和62年(1987年)まで現役で稼働していたと言うのですから。

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台所の雰囲気も昭和そのもの。閉業間際の頃にはすでに使われなくなり、廃墟化していた時期があったのかも知れませんね。置かれている魔法瓶や食器などは展示用にディスプレイされた物でしょう。

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ちょっと立派な社宅。役職によって社宅のグレードが変わって来るのは、以前足尾銅山の社宅で見ました。富岡製糸場の敷地内には多くの建築物が残っていますが、内部を公開しているのは極一部。それでも公開されている箇所にはそれぞれスタッフを配置し、監視カメラも多く設置されています。世界遺産故に多くの外国人観光客を受け入れなければならないので、案内と同時に監視もしなければならない。

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こちらは三軒長屋の社宅。敷地外にも恐らく多くの社宅が存在していたと思われます。もっと多くの建築物を内部まで公開するには当然もっと多くのスタッフが必要となりますし、そうなってくると大赤字になってしまいます。

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まだ一部、乾燥所など復元作業が行われている棟もあります。土曜日に訪れましたが、観光客の数に対してスタッフの人数の多さを考えるとすでに赤字じゃ無いかと思われますし、かと言って人数を減らすのは外国人観光客受け入れの観点から言ってリスキー。税金で運営している分それに見合った経済効果がなければ今以上お金も掛けれないし難しいところですが、富岡市は充分頑張っていると思います。京都ぐらい観光客が来ればいくらでもお金掛けられるけど、なんだかんだ言ってマイナーだし、渋いし、バエないしwww

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以上となりますが、とにかく見応えありました。まぁ近代史などに興味が無い方はどうか分かりませんが、私は予想以上に行って良かったと思います。もっともっと多くの人に訪れて欲しいし、観光会社も近隣の温泉と併せたツアーなんかを組んで欲しい。
次回は富岡の市内散策を紹介します。

群馬県伊勢崎市(2)、絹織物で栄えた境町

東武伊勢崎線の太田と伊勢崎市の中間地点にある境町。ちょうど伊勢崎、太田、深谷に囲まれた知名度の低い町ですが、利根川の支流で赤城山から流れる広瀬川の北岸に位置する事から古くより交通の要衝として栄えて来ました。

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駅前には何も有りませんが、近くを通る国道17号線沿いにちょっとした工業団地があります。

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駅前にはインド料理屋。ちょうど昼時だったので入ろうと思ったら、インド、パキスタン系の方々で満席。

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ならばここはどうか?と、思ったらイスラム教のモスクでした。

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気が付いたら町中をインド系の人々が闊歩しています。これは工業団地が近いせいでしょうか、外国人街になりつつあります。地方都市のあるあるですが、いずれこの辺もテーマに掘り下げて行きたいところ。

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駅の近くにイベントスペースやアートギャラリーとして利用されている境赤レンガ倉庫があります。

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ここは大正8年(1919年)に繭の保管庫として建設されたレンガ造りの倉庫です。境町は江戸末期より織物産業が盛んになり、桐生、伊勢崎と肩を並べる織物産業の街で、伊勢崎銘仙として広く売り出されていました。ちなみに銘仙とは明治後期より使われるようになった平織した絣の絹織物(大衆向けの和服)の総称で、桐生銘仙や伊勢崎銘仙などブランド名としても使われていました。

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路地にやたら立派な建物がありました。宏遠館って書いてあるこの建物は資源ごみのステーションになっているので、公民館か何かだったのでしょうか。詳細は不明。

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境町は広瀬川の舟運が始まる鎌倉時代から発達した集落です。またこの辺りは足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の新田荘南西部に位置していました。

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江戸時代になると京都から東照宮へと向かう勅使が、中山道から日光街道までショートカットする日光例幣使街道が整備され、境町も文久3(1863)年に正式に宿場町となり発展しました。また同時に足尾銅山の公銅(幕府の銅)を陸路から利根川の水運へと切り替える港としても栄え、江戸末期には生糸の流通でも重要な役割を担い、2と7の付く日は市が立ち「六斎市」と呼ばれていました。

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織物産業で栄えていた当時の名残りとして蔵造りの商家などもあります。ちなみに関東の五大銘仙と言われていたのが境町を含む伊勢崎、桐生、足利、秩父、八王子。桐生はともかく足利も秩父も八王子も歩いていながら、絹産業をテーマに巡っていません。改めて行く必要があります。

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ただ、観光地として整備されていないので、貴重な歴史的建造物は朽ちるがまま。行政からの援助でもあればいいのですが。

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こちらは商家をリノベーションして営業されている中澤カフェ。

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一方で傾いて倒壊しそうな建物も目に付きます。

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今では普通の民家ですが、かつては何かしらの商売をされていたのでしょうか。

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見た目は看板建築ですが、中身は大正末期から昭和初期建造の町家造りと言われる井筒屋さん。

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そしてこちらが境町のボスキャラと言うべき存在感を放つ板倉屋薬局。

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昭和8(1933)年建造で、土蔵造りの商家に3階建ての洋館が増築されています。

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こちらは明治42(1909)年建造の土蔵造りの商家、斎藤家さん。

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こちらはお団子や豆餅が好評な和菓子屋さんの伊勢屋さん。

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飯島本陣跡。表は近代的ですが、裏は中庭や蔵のある立派な商家となっています。

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宿場町の西の外れから北、東武伊勢崎線方面に戻ります。

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絹の家と呼ばれているこの邸宅は、境町で明治から大正に掛けて機織業の発展に努めた金子仲次郎の居宅です。平成17年の市町村合併により境町は伊勢崎市に組み込まれていますが、伊勢崎機織組合を立ち上げたメンバーの中にも境町出身の者が多く含まれていたそうです。

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住宅街の中の古民家。こう言う玄関って今ではなかなか見ない。いっとき境町の元機屋が「境銘仙」として売り出したら大当たりしましたが、すぐに伊勢崎町の元機屋が「伊勢崎銘仙」として売り出したため、地域ブランド名を伊勢崎に取られたと言う騒動があったとか。「境銘仙」は境町の専売であると訴訟したが通らず、最終的には伊勢崎銘仙に組み込まれてしまったとか。

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旧群馬県蚕業取締所境支所。明治39(1906)年に蚕種の微粒子病対策を目的に設けられたもので、現在残る建物は昭和2(1927)年に建替えられた物。しかし現在では立ち入り禁止になっていました。

群馬県館林市(3)、織物や製粉で栄えた街

先月に引き続き館林へ再訪して来ました。

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先月末、館林より帰ってから色々と調べるにつき、まず正田貞一郎を語らずして館林を語れないと知り、再訪の機会を伺っていました。しかし仕事が忙しく、早くも1か月が経ってしまった。

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まずは館林駅の真横に有りながらその存在に全く気づいてなかった変電所跡。

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この建物は伊勢崎線が全線電化された昭和2(1927)年当時の建築物です。旧貨物駅跡になりますが東武の敷地なので、奥までは入れません。

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では前回歩いてなかった町の北側を東へと進みます。前回遠くから撮ったボーリング場跡と思われるような造りの晴明ビル。以前はパチンコ屋が入ってたようですが、現在はパブやキャバクラが入っています。

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こちらは「Tatebayashi public space」と言う厨房付きシェアスペース。

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意匠が見事ですが1930年代(戦前)建造で何かの事務所として使われていたそうです。

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ポツンと建っていたのは国登録有形文化財の分福酒造店舗跡。推定江戸末期の建造だそうです。国の文化財で記念館にもなっているのに、観光パンフなどに紹介されていない。

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前回見逃した木造建築物が、まだまだありました。

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仲町の辺り、バス通りを館林城跡方面に歩きます。しかし木造建築と木造建築の間がスッポリ空き地となっています。かつてはどんな街並みが連なっていたのか、もはや想像も出来ません。

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特に文化財などに指定されてないので詳細は分かりませんが、藍染の「ひろせ商店」と看板が出ています。

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館林城跡は微妙に紅葉シーズン。

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市役所の裏手、城跡の敷地に向井千秋記念こども科学館がありました。宇宙飛行士の向井千秋さんって館林出身だったんですね。

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その向かいに今回の目的地の一つ、旧上毛モスリン事務所。前回スルーしてしまいました。

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まずモスリンとは何ぞや。モスマンではなくモスリン。モスリンとは木綿や羊毛などを平織りにした薄地の織物の総称で、ヨーロッパでは薄手の綿織物を指しますが日本では毛織物全般を指すそうです。最初人物名かと思ってた。

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この上毛モスリン事務所は明治43年建造。元々建っていた場所とは多少ズレますが、現在は館林市第二資料館として公開されています。

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上毛モスリンは明治35(1902)年設立。当時仲町の辺りに工場を建てましたが、明治40(1907)年に東武鉄道が開通した事を受けてもっと近代的な大規模工場が必要と思い、明治43(1910)年にここ、旧館林城二の丸跡地に新工場を建設。当時の変電所の一部がモニュメントとして保存されています。

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この事務所も明治43年当時の物だそうです。元々養蚕の盛んだった北関東ですが、ここ館林周辺でも伊勢崎や桐生と並んで機織業が盛んでした。荒井藤七、鈴木平三郎らは輸入に頼っていたモスリン生地の国産化に取り組み、明治28(1895)年におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられています。

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金庫と倉庫の扉が一階の傍らに有ります。しかし大正12(1923)年、関東大震災で練馬の工場が倒壊した事などによる打撃から立ち直ることが出来ずに破綻。昭和2(1927)年、日本興業銀行や日本毛織などにより設立された共立モスリン株式会社に譲渡されました。

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その金庫は事務所から張り出す形で赤煉瓦にて建てられています。これは恐らく火事になっても大事な物は焼けないようにと言う事でしょう。共立モスリンは昭和16(1941)年、神戸の日本毛織に合併。工場はその後戦時下だった昭和18(1943)年には軍の要請を受けて中島飛行機(現・スバル)に貸与されましたが、戦後はGHQに摂取され倉庫として使われました。

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その後館林工場は神戸生絲に賃貸され再稼働しますが昭和53(1978)年、市庁舎建設に伴い規模を縮小。平成4(1992)年には館林市羽附旭町へ移転となって、城跡にあった繊維工場は解体されました。

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旧館林モスリン事務所の隣には武家屋敷でもある作家田山花袋邸跡があります。これは昭和54年に城町より移築されたもの。

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さらに東へ歩くと明治末期に建てられた旧秋元別邸があります。秋元興朝とその子春朝は旧館林藩主秋元家に係わりの深い人物で、東京駿河台にある秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

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こちらは昭和初期に離れだった洋館を移築、増築したもの。

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庭先には多くのツツジや桜なども植えられており、観光スポットとなっております。

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訪れた10/25は暖かく、紅葉と一緒に勘違いした桜までもが咲いてしまっていました。紅葉と桜なんて、とんだ異常気象です。

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城跡の先には城沼が広がっています。館林城はこの沼を濠として利用し造られました。ここで館林駅に戻るのですが、基本みんな車で移動するものだから館林駅から市役所のある館林城跡までの路線バスが1時間に1本あるかないか。そのため館林駅まで20分ほど歩かなくてはなりません。この辺は群馬県ならではと言えるかもしれない。

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館林駅の反対側(西側)に、群馬県のご当地醤油である正田醤油が有ります。あまり聞き慣れない醤油メーカーですが、主に業務用として全国で使われているそうです。

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正田醤油は三代目正田文右衛門が千葉県野田市の二代目茂木房五郎(野田醤油・後のキッコーマン)より醤油醸造業を勧められ、明治6(1873)年末に醤油醸造業を創業したのが初めで、当時はキッコウショウ(亀甲正)と言う屋号でした。

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本社の脇に正田記念館が有りますが午後2時に閉館だったために入れず。キッコウショウはその後大正6(1917)年に正田醤油として会社設立。営業所が仙台、東京、名古屋、大阪にあるので、都内のスーパーでも見かける事があるかも知れません。

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正田醤油の南隣には日清製粉があります。日清製粉の前身は明治33年(1900)創業の館林製粉で、後の明治40年に創業した横浜の日清製粉を翌41年に吸収合併し、社名も日清製粉と改名しました。

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西口駅前には日清製粉グループ製粉ミュージアムがあります。入場料200円。群馬県東部及び栃木県南西部のいわゆるJR両毛線沿線は、古くから二毛作により稲作と共に小麦が栽培されており、日本屈指の小麦生産地として名を馳せて来ました。

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こちらは展示されている昔の製粉機械。それ以前は水車と石臼により小麦が製粉されて来ましたが、いち早く機械化による製粉事業を興したのが館林製粉、後の日清製粉であります。ちなみにカップヌードルの日清食品やサラダ油の日清オイリオとは無関係。日清製粉(現・日清製粉ウェルナ)は小麦粉やマ・マースパゲッティの会社。

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新館を抜けると創業当初から使われて来た本館が現れます。ちなみに国内で主に生産されている小麦は中間質小麦と言って、うどんなどに適した中力粉となります。パンに適しているのは硬質小麦によって出来る強力粉ですが日本には梅雨があるため熟成させることが出来ず、アメリカ産やカナダ産に頼っています。


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館林製粉創業者の正田貞一郎は正田醤油の創業者、三代目正田文右衛門の孫であり、平成の明仁天皇の皇后、美智子妃殿下の祖父に当たります。そのため美智子妃殿下は当時、粉屋の娘などと揶揄されていたとか。

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こちらは上毛モスリン事務所に展示されていた正田貞一郎の馬車。貞一郎は明治33年に館林製粉を創業した際、当初自らは専務取締役に就任。その後日清製粉の二代目社長や東武鉄道の会長、貴族院議員などを歴任されています。ちなみに館林製粉〜日清製粉の初代社長には明治30年創業の東武鉄道の初代社長(創立総会役員に代わって明治38年就任)も兼任した鉄道王の異名を持つ根津財閥創始者、根津嘉一郎を据えてます。東武との関係は切っても切れない。
スタッフに質問したのですが、小麦の穀倉地帯であり貞一郎の実家のある館林で製粉業を始めたものの、うどん以外は輸入小麦に頼らざるを得ない現状から結局港から館林に運んで製粉して各地に出荷すると言うのは、東武鉄道が開通したとは言え非効率だったのではと疑問を投げ掛けてみました。すると、苦労したのだと思いますとの答え。うーん。結局大正15年に鶴見工場が完成するわけですが。

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アンケートに答えたらお土産にお好み焼き粉を貰いました。
ともあれ館林はとんでもない経歴の実業家のゆかりの地であり、北関東を代表する都市の一つである事がわかりました。
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