神社仏閣

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神奈川県南足柄市、未成道路と廃校跡と大雄山最乗寺

2月、仕事で度々小田原まで通ってました。川口からは2時間コースで遠いのなんの。

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18歳まで箱根に住んでいて高校は小田原まで通い、子供の頃から買い物と言えば小田原でした。2014年に一度小田原市街を歩きましたが、結構変わってしまいショックでした。しかし小田原駅前は地元の人間も多いし観光客も多い。前回の木更津と比べてしまうと……
駅前が寂れない要因のひとつとして、近くにイオンが無いから、などが考えられます。ちなみに駅前右手のビルは元丸井。

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それでたまたま仕事が早く終わったものだから、伊豆箱根鉄道大雄山線で大雄山まで来ました。

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大雄山線沿線には親戚の家もありました。なので勝手知ったる土地です。写真は1984年に撮影した旧型車両。

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大雄山駅構内に留置されているコデ165。昭和3年(1928年)に鉄道省で新造され、昭和35年(1960年)相模鉄道に譲渡。昭和51年(1976年)伊豆箱根鉄道へ入線し平成9年より工事用車両として改造されてコデ165となりました。これがまた、100年近く経っていながらいまだに現役として運用される事があるそうです。

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そのデコ165がモハ165だった当時の姿がこちら。よくぞ撮っていた!

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ノリでもう1枚。1984年頃の大雄山駅。普通鋼製の5000系第1編成(中央)デビュー当時。※第2編成よりステンレス製。

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車両は全てステンレス車両に変わってしまいましたが、大雄山駅の駅舎は当時と変わらず。

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さて今回、第一の目的地はアサヒビール神奈川工場近くにある未成道路。バスも通っておらずレンタルサイクルも無いのでどうしたものかと悩んだのですが、駅からそんなに離れてないので思い切ってタクシーに乗っちゃいました。

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ここは市道千津島苅野線未成線。1992年に都市計画決定され2008年アサヒビール神奈川工場までは完成したものの、ここから先の怒田地区までの510mが未成区間として残っているそうです。

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この区間に神宮山橋と皆沢橋と、約150mのトンネルが整備される予定でしたが、当初の予想より総事業費が膨らむことが分かり、2002年頃までに橋台2基と橋脚1基のみが作られたところで中断しているそうです。(廃墟探索地図参照)

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もっと奥まで探索してみたかったのですが、なにしろタクシーを待たせているもので、戻ります。

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側道はそのまま農道に繋がっております。

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さて、次なる目的地は旧・福澤小学校校舎(移設)。

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タクシー5000円で到着。入ろうとしたら止められて、敷地である丸太の森の入場料440円が掛かるとの事。丸太の森はアスレチックやキャンプ場などがある施設で、小学校の頃遠足か何かで来た記憶があります。

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玄関を入ったところ。ただここに入る時、撮影は許可が必要で、撮影の目的をしきりに聞かれました。しかも写真撮影する場合、別途3300円取られます。悩みましたが、せっかくここまでタクシーで来たし、引くに引けなくなってしまって仕方なく払いました。

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要はコスプレイヤーが撮影に来るらしく、そのロケ地としてお金取ってるようです。とんだ巻き添えだ。

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ここは校長室。福沢小学校は明治34年(1901年)に南足柄市怒田の善福寺に開校しました。この木造校舎は昭和8年(1932年)竣工。

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教室には机と椅子が並べられています。昭和59年(1984年)、福沢小学校の新校舎への移転に伴い、この旧校舎ほ昭和62年ここ丸太の森へと移築されたそうです。

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移築されたのは旧校舎の一部で、教室は一つしかありません。2012年には市の文化財に登録されました。

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廊下には昔の民具などが展示されています。なぜか猪の剥製まで。

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まぁ木造校舎で内部が公開されていて、机と椅子まで揃っている所は数少ないですからね。ロケ地に使いたい気持ちはわかります。

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帰りのバスの時間まで1時間近くあったので、始発の道了尊バス停まで歩いて行っちゃおうと坂を下って行きました。すると途中、道了尊バス停方面と書かれた看板があり、近道かと思って入って行きました。するとどんどん山の中に入って行き、尾根越えする羽目に。いや、普通に登山道だし、陽は暮れ始めるし。

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なんとか自動車道に出て道了尊バス停まで辿り着きました。

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それでもまだ30分以上あったので、ちょっと見て行こうかと軽い気持ちで入って行きました。ここ大雄山最乗寺は曹洞宗のお寺さんです。

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山門です。最乗寺は開祖である開山了庵慧明禅師の弟子で、実際この寺院を建設した事で祀られている相模房道了が修験者だった事から、高尾山のように天狗が祀られています。

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延々と続く石段。引き返すに引き返せないと言うか、せっかくここまで来たのだからと、だんだん意地になって来ました。建立は1394年(応永元年)。分かりやすく言うと室町時代、足利義満が室町幕府の将軍で、一休さんが生きてた時代。

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やっと本堂に辿り着きました。まぁ私は特に仏閣には興味は無いのですがね。

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もう陽が暮れてしまいました。幼少時代の記憶なので殆ど覚えてませんでしたが、思ったより立派な寺社建築がたくさんあります。

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結界門。ここからが本番なのか?

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御真殿。さらに奥には奥の院がありますが、そろそろバスが出る時間。

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鉄下駄が奉納されています。ここだけ幼少期の記憶として残っていました。水源地であるが故にいつも湿度が高いのですが、なんかジメジメしていた印象も覚えています。

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さて、そろそろ戻らないと。足速に石段を降って行きました。春とか秋とか、良い季節に来れば良いかと思います。パワースポットとかね言われてますけど、山に入ればどこだってパワースポットですよ。ほんと、どこも客引きのためのキャッチコピーとしてパワースポットってすぐ言いたがるからwww

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小田原に戻って来ました。大雄山線小田原駅の管理所が駅舎カフェとして保存されています。この木造建築は大雄山線開業当時、大正14年(1925年)当時の貴重な建築物です。

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そんな訳でしばらく小田原まで通っていたのですが。帰りがけは栄町の立ち飲み焼き鳥「鳥元」さんに通っていました。

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地元の常連さん方で賑わうお店。小田原はまた改めて市街地とか歩きたいですね。

埼玉県東松山市(2)、巌殿山正法寺と門前町

日本セメント専用線を歩いた後、高本駅跡地からゴルフ場のある丘陵地を越えていきます。

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一応峠になります。すでに2時間近く歩いており、ちょっと無茶しました。

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峠を越えて小川沿いに田園を下って行くと集落が開けて来ます。火の見櫓も最近では随分少なくなってしまいました。

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大東文化大学のある丘陵地の手前の谷間に、巌殿山正法寺(巌殿観音)とその門前町が広がっています。

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今では普通の住宅街のようになっていますが、かつて門前町として栄えていた頃の歴史を残そうと、当時の屋号などが各お宅の前に掲げられています。目薬屋?

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畳屋さんは今でも畳屋としてやられているようです。他にも鍛冶屋、塗師屋など、坂の下の方には職人が集まっていたようです。

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坂を上りお寺さんに近づいて行くと宿坊などが増えて来ます。今は空き地になっていてもそこに何が有ったのかは必ず掲げられています。

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大黒屋さんは宿坊と言うより旅籠か何かだったのでしょうか。

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丁子屋と言う屋号は茶屋などに多く用いられています。山門の手前に建っているので、休憩所のような役割だったのかも知れません。

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山門から急な階段を登って行きます。巌殿山正法寺は西暦718年(奈良時代)に開山された真言密教のお寺で、坂東三十三ヶ所の第十番札所です。

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階段を登り切って振り返ると、門前町の全景が見下ろせます。

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磨崖仏ではありませんが、岩肌に穿たれた窪みに沢山の石仏が安置されています。

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元々はこのような巌窟に観音像が安置されていただけでしたが、この地を訪れ竜退治をした坂上田村麻呂が都に戻った際御利益を伝えた事から、桓武天皇によって796年に伽藍を建立されたそうです。

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想像以上に巨大な観音堂。鎌倉時代には東松山一帯を治めていた比企氏が帰依した事から源頼朝や北条政子の庇護も受けていましたが、後の戦国時代、東松山の松山城を奪った上杉憲勝に対して北条氏康が周辺の寺社を焼き払った際、ここも焼かれてしまいました。その後幾度か焼失しますが、現在の観音堂は明治時代に移築した建物だそうです。自分は古代から中世の歴史に弱いです。

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観音堂の脇には樹齢700年を超える大イチョウがあります。室町時代から江戸時代にかけて札所として栄えた巌殿観音ですが、明治初期の廃仏毀釈運動をきっかけに門前町共々衰退して行ったそうです。

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昭和に入り戦後巌殿山や物見山などがにわかに観光地として賑わった時期もありましたが、現在も札所巡りとして地味ながらも訪れる方はおられます。

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3時間以上歩き通したのは久しぶりです。と言うわけで、最後に東松山郊外の日帰り入浴施設、蔵の湯東松山店に立ち寄りました。

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地下1200mより汲み上げられる鉱泉は無色透明なナトリウム塩化物強塩泉。天然温泉浴槽は露天の1ヶ所のみで循環濾過。基本掛け流されず加水率50%未満の井戸水加水で、時々源泉が投入される感じです。毎分37.3Lの湧出量なので致し方ないでしょう。いや、先月行った行田の茂美の湯の400Lって言うのが異常なだけであって、普通はこんなものか。しかしオーバーフローさせずに循環濾過させると、人が多い時など水面に汚れが浮いてしまいますね。内湯だったらジェットバスでなんとなく誤魔化せますが。


大田区羽田、羽田煉瓦堤と五十間鼻無縁仏堂

蒲田の東、羽田空港の手前は糀谷などの住宅街が続き、ちょっとした下町の雰囲気が残っています。

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京急羽田線は穴守稲荷から地下に潜り、海老取川の下を通って羽田空港へ。通る電車のほとんどが都営浅草線の車両で、たまに北総鉄道。京急の車両が来るまで何本も見送りました。

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穴守稲荷の駅は小ぢんまりとしており、大成建設が寄贈した穴守稲荷神社の鳥居があります。

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駅前商店街はなかなかにして賑わっており、下町風情を残しています。ここでも京急の車両を待つのに何本も見送った。

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多摩川に向けて歩って行くと途中首都高の高架下に、銭湯の重の湯があります。

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実に味わいのある建物。浴室には見事な富士山が描かれてますが、だいぶペンキが剥がれかけています。しかしお客さんは多く、ひっきりなしに人が出入りしていました。

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多摩川まで出ると羽田の渡し跡に突き当たります。この渡し船は江戸時代以前よりあり、江戸末期には穴守稲荷から川崎大師への観光ルートとして非常に賑わっていたそうです。

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しかし昭和14年に大師橋が完成した事で渡し船は廃止されました。その大師橋も現在真新しい吊り橋に架け替えられています。

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羽田の地は古くから洪水に悩まされて来ました。そこで内務省により多摩川改修計画が立案され、大正7年(1917年)から昭和8年(1933年)まで、16年の工期を経て堤防上に鉄筋煉瓦造りの塀が建設されました。

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かつて1632mもあったこの羽田煉瓦堤は、今でも道路沿いにずっと続いています。

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特にこの羽田第二水門の辺りには、当時の姿を残している場所があります。水門と煉瓦堤の間は船溜まりとなっており、屋形船や釣り船が停泊していました。

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右手の川側が堤外地となりますが、かつては桟橋、生簀、造船所、材木置き場、作業場などがあり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでいたそうです。

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また、戦後の昭和20年9月、進駐軍により鈴木新田(現在の羽田空港)に住んでた住民約三千人余りが48時間以内の強制退去を命じられ、その一部がこの堤外地に移り住んだりもしました。

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そして昭和48年、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成した事で、煉瓦堤はその役割を静かに終えました。

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煉瓦塀と煉瓦塀の間には板を差し込むような溝が。増水した時に塞ぐのでしょうが、外堤防が出来るまでは堤外地の家々は浸水します。

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羽田では中世より漁が続けられており、昭和30年代までは海苔の養殖も行われていたそうです。飛行機が飛んでますね。

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しかし高度成長期の水質汚染などにより衰退し、現在では細々と漁が続けられているものの、釣り船が主な生業となっているとか。

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多摩川沿いに海側へ。羽田空港との間を隔てる海老取川が多摩川と合流する地点、小さな祠が川に突き出しています。

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いわゆる洲に建つこの祠は五十間鼻無縁仏堂。ブロック塀や橋は平成16年に整備されたもので、それ以前は洲から階段を登って行ったと思われます。満潮時や増水の際にはお参り出来ません。意地でも飛行機を入れる。

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いつの時代から有ったかは不明だそうですが、かつてはここよりさらに海側の川面に角塔婆が一本建つのみだったとか。しかし昭和53年、護岸工事に伴い現在の位置に移設され祠も建てられました。

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無縁仏。つまり河口付近に漂着する水死体を供養するものです。関東大震災や太平洋戦争末期の空襲に際しては、かなりの数の水死体がここの洲に流れ着いて来たそうです。

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祠は今でも地元の方が花を供えたりして管理されています。どうしても飛行機を入れたがる。

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海老取川の向こうは羽田空港。右側は今年1月に全面オープンした住友不動産の複合型商業施設、羽田エアポートガーデン。中には日帰り温泉も有るのですが、料金がなんと4800円!インバウンド狙いにも程がある。行けるかそんなもん!

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川を渡れば羽田空港。移設された大鳥居があります。この、旧穴守稲荷神社大鳥居は移設する際に事故などが起き、よく祟りなんて言われました。

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鳥居の脇には、かつてこの地に存在した羽田鈴木町(鈴木新田)の事が書かれています。まぁ、飛行場と言えば強制退去の話はつきものですね。

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以上です。あぁ、飛行機で遠くに行きたい。

川崎市麻生区、現代に残る廃仏毀釈の残滓

前回、廃仏毀釈をテーマに取り上げようと秩父の山奥まで足を運んだのに空振りに終わり、消化不良だったので改めて調べ、その物証を求めて川崎市麻生区に来ました。

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小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。

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北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。

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その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。

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改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。

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仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。

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次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。

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神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。

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神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。

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次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。

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ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。

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取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。

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ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。

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鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。

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奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。

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最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。

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寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。

ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。

茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル

巨大廃ホテルやバラック飲み屋、スナック街がある事をインスタで知り、笠間に行って来ました。

茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

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以前、筑波海軍航空基地に訪れるため笠間市にある常磐線友部駅に降りました。しかし笠間市の中心街は友部から水戸線でふた駅乗った笠間駅。元々は城下町として発展した笠間ですが、町の中心には笠間稲荷神社があります。

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しかし水戸線笠間駅は中心街である笠間稲荷周辺より1キロ以上南に位置しています。これは中心街に駅を設置すると線路を大きく北へ迂回させる必要が出て来ると言う地形的な理由からだと言われていますが、鉄道によって宿場が寂れるからと反対運動が起きたとも言われています。

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そのため笠間駅から笠間稲荷神社まで観光客を運ぶべく、笠間人車軌道が大正5年(1915)より営業されました。駅前から笠間稲荷神社の西側まで一直線に敷かれた線路は、路面電車のように道路に敷設されたため、廃線跡の痕跡は一切残っておりません。

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途中、当時の人車軌道を復元した車両が展示されています。

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この車両は人車軌道が開業してから100年の節目である2015年に、クラウドファンディングで集めた資金によって再現されました。

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当時、線路を順繰り順繰り前に持って行く形で走行させ、笠間駅から笠間稲荷神社停車場跡まで、実際走行させたそうです。もちろん人力で押しながら。

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こちらは復元車両試作1号機。ちなみに人車軌道は大正14年(1925)にガソリンカーを導入し人力では無くなりますが、競合する乗合バスに押されて昭和5年(1930)廃止となりました。

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こちらは終点の稲荷神社前停車場跡地。駅からの参拝客を笠間稲荷神社まで送迎する目的で走っていたので、停車場は笠間駅前と稲荷神社前の2箇所しかありませんでした。

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折しもゴールデンウィーク、多くの観光客で賑わっていました。笠間稲荷神社は菊人形で有名です。茨城と言えば偕楽園の梅と笠間稲荷神社の菊人形。

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門前のお土産屋さんも近年の観光地としては珍しく賑わっています。

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笠間稲荷神社自体知らなかったのですが、よくよく調べてみたら日本三大稲荷の一つに数えられているそうです。日本三大稲荷には諸説あり、自称も含めて14社寺もあるとか。しかし一般的には伏見稲荷大社(京都)、豊川稲荷(愛知)、笠間稲荷神社(茨城)、祐徳稲荷神社(佐賀)の4社寺が挙げられることが多いそうです。

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門前にも多くの観光客。時代に合わせてカフェなんかもちゃんとあります。

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笠間稲荷神社の向かいに御神酒を造られている酒蔵、笹目宗兵衛商店があります。

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この酒蔵は敷地内を通り抜けることが出来、中を見学することもできます。この酒蔵は当初笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年より現在の笹目宗兵衛商店へと経営が譲られました。

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酒蔵の裏に出ました。むしろこちらが正面になるのかな。

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稲荷神社から見て酒蔵を抜けた先、駅寄りになりますが、かつて花街だった一画があります。写真は今も残る芸妓組合。

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旧町名で喜楽町と呼ばれていたこの一画には、花街の名残りとして割烹や旅館などが点々とあります。

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しかしながら数は少なく建物も新しく、花街として栄華を誇っていた時代の景色はほとんど残っていませんでした。強いて言えばこの屋号ぐらい。

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門前右手の突き当たりには、かさま歴史交流館。かつてこの建物は、明治中期建造の木造三階建ての旅館、井筒屋本館でした。東日本大震災の被害を受け、それを契機にリノベーションされたそうです。

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旅館と言えば、笠間稲荷神社の東の丘陵に廃ホテル、ホテル山乃荘があります。

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バブル期に増築なり改築なりされたのでしょうか、天守閣を模した建造物まで。市街を見下ろす眺望は、さぞ見事だったろうと想像できます。

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廃墟の右手、東側の坂を登って行くと、建物の正面側に回り込めます。ここホテル山乃荘は昭和28年(1953)創業。しかし2011年の東日本大震災で被災し、以後復旧を試みていましたが、同年の5/10に廃業となりました。山乃荘女将のツイッター参照。ちなみに女将は現在伊香保で働いているとか。

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建物の西側に回り込み少し坂を下ると、正面玄関へのアプローチがあります。

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震災を機に廃業となりましたが、笠間でこれだけの巨大施設は時代のニーズにも合っておらず、恐らくは経営自体も廃業寸前では無かったのかと想像できます。

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現に廃業後10年以上経った今でも解体出来ずに放置されています。崖地でこれだけの施設ですから解体費用も相当なものかと思われますがそんなお金はどこにも無く、ましてや税金で賄うわけにもいきません。

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これは全国各地の温泉街などでも問題となっていますが、特に良質な温泉が出る訳でもなく観光地としての発展が見込めないのも事実であります。

と言う訳で笠間は奥が深いので、このまま続編へと続きます。
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