産業遺産

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千葉県野田市(1)、キッコーマン醤油の企業城下町

2021年の夏に流山市のキッコーマンみりん工場を訪れましたが、そこはキッコーマンの前身である野田醤油株式会社設立時、野田醤油の出資によって万上味輪株式会社が設立されたのを発祥としております。そんな訳で今回、キッコーマン発祥の地である野田にやってまいりました。

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東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

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でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

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いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

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そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

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工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

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野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

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こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

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さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

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さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

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こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

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旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

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茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

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こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

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アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

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仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

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最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

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近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

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江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

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建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

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邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

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大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

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高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

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倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

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江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

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江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

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野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。

東京都立川市、東大和市、立川飛行機と日立航空機変電所跡

東京都立川市にある旧陸軍立川飛行場周辺の戦争遺跡を巡って来ました。

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JR中央線立川駅の北側。多摩モノレールの左手には立飛ホールディングスが2020年にオープンした複合施設、グリーンスプリングスが続いています。

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その裏手には国営昭和記念公園が広がっています。大正11年(1922年)開設された陸軍立川飛行場は終戦後GHQに摂取され米軍基地として利用されて来ましたが、跡地は現在の陸上自衛隊立川駐屯地ならびに昭和記念公園となっています。

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その不動産賃貸業などを営む立飛ホールディングスの前身が立川飛行機、後の立飛企業。大正13年(1924年)石川島造船所(後のIHI)を中心に出資して設立された石川島飛行機製作所を前身とする中堅航空機メーカーです。昭和5年(1930年)ここ立川へと移転し、昭和11年立川飛行機製作所と改名しました。

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立川飛行場の東側に隣接していたのが立川飛行機の軍事工場。非常に広大な敷地で現在も工業地帯として残っております。立川飛行機は戦時中、主に帝国陸軍の練習機などを生産しており、その代表格が九五式一型練習機、通称赤とんぼと親しまれていた複葉機です。

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立川飛行機の工場は空襲により大きな被害を受けましたが、多摩モノレールでひと駅行った高松駅から見えるこの建物などは、空襲を逃れた当時の建物と思われます。他にもノコギリ屋根の棟など軍事工場当時の建物が残っていると思われますが、その辺の判断は難しいです。

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立川飛行機は練習機や輸送機の開発及び生産を続けつつ、大手である中島飛行機(現在のスバル)が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産も行っていたそうです。

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昭和13年建設のこちらの給水塔も当時の面影を残しています。陸軍の航空機ばかり生産していた立川飛行機ですが、ちなみに海軍による赤とんぼ(練習機)は西宮市にある川西航空機(現・新明和)で開発、生産されていました。その後新明和は戦後初の国産旅客機YS11の開発に携わり、海軍の飛行艇を製作していた頃の技術を生かして自衛隊の飛行艇を開発するに至ります。

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隣の立飛駅周辺も立飛の工場に囲まれています。その工場敷地内にもうひとつ給水塔が。こちらも当時の建造物です。戦後も航空機メーカーとして復活する川西などに対比して、立川飛行機は1952年に戦後国産第一号機であるR-52型軽飛行機(練習機)を開発したものの、すでに時代遅れの技術であり量産には至らなかったそうです。その後不動産賃貸事業が中心となる立飛ですが、200名の社員で分離独立して立ち上げた「たま電気自動車」が後のプリンス自動車となり、スカイラインの開発へと続きます。スカイラインと言う名称がかつての航空機産業から来ているかどうかは、それは想像に過ぎませんが。

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多摩モノレールで更に北へ進み東大和市に入りました。玉川上水駅の北東、公園内に旧・日立航空機立川工場変電所跡があります。この日立航空機立川工場は、先に述べた立川飛行機に航空機エンジンを供給していた工場でした。母体はもちろんあの日立製作所です。日立は航空機開発には参加せず、あくまで下請けに専念していたんですね。尤も炭鉱やモーターなどの機械産業が主体でしたから。

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変電所は現在、水曜日と日曜日のみ内部が公開されています。ボランティアの方に解説して頂きながら廻って行きます。この日立航空機の前身は機械工業の先駆け的な存在である東京瓦斯(ガス)電気工業です。

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東京瓦斯電気工業は昭和14年に日立グループへ経営権を譲渡し終戦までエンジンを造り続けましたが、終戦後も鋳造分野の機械産業の場でゼノアなど社名を変えつつ存続しています。

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とにかくこの建物は機銃掃射による弾痕が生々しいです。こちらは階段脇の弾痕。機銃掃射は主に空母から飛来した戦闘機によるものも。それ以外にも、直撃は免れたものの爆撃による飛散物で抉られた跡もあるとか。

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裏に廻ると貫通した跡があります。右上の抉れている部分は鉄筋に当たって銃弾が貫通していないものの、その衝撃でコンクリートが剥がれた跡です。昭和13年(1938年)に完成した建物ですが、工場の敷地内の片隅で1993年まで稼働していたからこそ残っていたのかも知れません。

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外壁はまさに蜂の巣状態。戦争の激しさをここまで生々しく残す戦争遺跡も珍しいです。

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建物の脇には戦没者慰霊碑が建っています。立川の軍事施設群は3度の空襲を受け、110名が犠牲となりました。

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太平洋、つまり南側から米軍機が飛来して来たので、北側の壁には砲弾の跡がありません。

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戦前から戦後、高度経済成長など、様々な時代を生きてきた建物ですが、変電所故にでしょうか、改修工事とかそう言う物が為されて来なかったのでしょう。この扉にしても昭和初期の物と思われます。

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一部、塀も残されています。かつて建物を周回する塀によって、この戦争遺跡は隠され続けて来ました。

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さて、中に入って行きます。内部には貴重な資料や写真などが展示されており、戦争末期の度重なる空襲の事などが学べます。

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東洋陶器(TOTO)のロゴマークからこの洗面台は建設当時の物だと分かるそうです。変電所と言う利用のされ方も絶妙だったからこそ、あらゆる所が昔のままなんでしょう。

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銃弾によって抉られた階段の手摺りと二階スラブ。下から上に軌道を描いている事から跳弾による物と思われます。

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2階に上がってみると、変電設備が残っていました。昭和20年(1945年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機による最初の空襲がありました。これは大戦末期、帝国海軍が壊滅状態となっていた事で太平洋東沖まで空母の侵入を許してしまったためだそうです。16日に厚木海軍航空隊の最新鋭戦闘機、紫電改(川西飛行機)で迎撃するも、厚木飛行場や中島飛行機武蔵工場(武蔵野市)が爆撃されるとともに、17日ここ立川も機銃掃射を受けました。

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片隅には仮眠室が。畳一畳ほどの寝台があり、24時間人が詰めていたようです。建物内の建物で面白い造りをしています。2回目の空襲は同4月11日P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射。帝都防衛のために航空基地を造りまくり、工場を移転させる地下トンネルを堀りまくっていた時期ですが、成人男性の多くが戦地へと送られていた事で労働力不足に陥っていたため建設が間に合いませんでした。

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仮眠室の内部です。いつ頃どのくらいの頻度で使われていたのでしょうか。3回目の空襲は同4月24日、いよいよサイパンから硫黄島経由で101機のB-29が飛来します。

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この辺のロッカーには瓦斯電(ガスデン)のプレートが。つまり建設当時から使われていたと言う、なんて物持ちがいいと言うか、ロッカーぐらいスチール製にしてもいいのに!

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この消化器を示す木製パネルも相当な古さですね。こう言った物は例えば廃墟などでは腐敗して残っていない事が多いです。現役で使われ続けていたからこその奇跡。

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明電舎のプレートがありましたが、これもまた建設当時の物。使用されなくなって30年以上が経っている訳ですが、一般公開に向けて綺麗に掃除しただけで機器類はそのまま残っていたと言う事でしょう。

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ヒューズとかカッコいいって思ってしまいます。しかしここにも弾痕が。銃弾食らってんのに修理しながら55年もの間使い続いていたと言う事です。物持ち良すぎ!

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奥の部屋はこんな感じです。この建物は1階が事務所、2階が詰め所と変電設備と言った造りのようです。昔の変電設備がここまでしっかり残っているのも凄い。

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碍子とか配線とか、なんか興奮します。これは電気業界に於ける博物館とも言えるでしょう。これでも戦後の小松ゼノア(旧・富士自動車)時代に設備が更新されているそうですが、どこが更新されているのやら。

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かつてこの先には工場が広がっており、その先の空から米軍機が襲来して来ました。そんな光景を今でもどこかの国の人が目にしているのかも知れません。そんな訳で小さな建物でしたが、戦争の壮絶さを肌で感じる事が出来るような、非常に見応えのある建物でした。

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シメは立川駅南口東側の歓楽街にある立ち飲みえびす屋さん。

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しばらく立川で仕事があったので、何度か通いました。店内は電子タバコのみ可。紙タバコは店頭のカウンターのみ。いや、立川は紙タバコOKの店がほとんど無いです。

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そんな立川駅南口なのですが、商店街全域が宗教都市化していると言うね。

埼玉県深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡

前回深谷の宿場町を散策した翌日、続け様に深谷へ行ってしまいました。

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今回はレンタルサイクルのハローサイクルを利用して廃線跡を巡ります。ハローサイクルは都心部に集中して増殖中ですが、飛び地のように深谷駅前にもありました。観光用としてもっと地方都市にも増えて欲しいです。

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深谷駅の東側を東京方面に向かって高崎線と並走するように日本煉瓦製造専用線の廃線跡が始まります。

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まず最初に目につく遺構はつばき橋。煉瓦造りの橋台とガーター橋は当時のもので、上の歩道部分は後から付けたもの。

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廃線跡はほぼそっくりそのまま歩道及びサイクリングロードとして活用されています。

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途中には休憩出来るベンチが設置されており、このようにお昼寝も出来ます。

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途中、福川に掛かるあかね橋を渡ったところに、専用線当時のガーター橋が移設保存されています。これは明治28年(1895年)の建設当時の物で、現存する日本最古のポーナル型プレートガーター橋だそうです。

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こちらは福川の北側に広がる水田地帯に架けられていたボックスガーター橋。どちらも深谷市の指定文化財に登録されています。

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住宅街を抜ければ長閑な風景が続きます。日本煉瓦製造は当初船運による輸送を行なっていましたが明治28年(1895年)、高崎線深谷駅(明治17年延伸開業)まで日本初の民間専用線として開通しました。

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水田ではちょうど新米の収穫がされています。日本煉瓦製造が深谷に造られたのは周辺で煉瓦製造に適した土が採れたからと言います。その土も渋沢栄一が周辺の畑作農家に対して、水を引くための灌漑工事をこちらでやって稲作出来るようにするから土をタダでくれ、と言って材料である土を集めたそうです。当時は畑作より稲作のが儲かる事もあり、周辺農家とwin-winの関係を築いていたと言えます。

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その灌漑用水路の上を跨ぐ煉瓦造りのアーチ橋。アーチ橋と言えば碓氷峠の碓氷第三橋梁も日本煉瓦製造で造られた煉瓦を使用しております。

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アーチ橋の隣にある備前渠鉄橋。国指定重要文化財となっております。もうすぐ日本煉瓦製造の敷地に入ります。ちなみにこの日本煉瓦製造専用線は昭和50年(1975年)廃止となりました。

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サイクリングロードをそのまま進むと日本煉瓦製造の煉瓦塀が見えてきます。

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日本煉瓦製造株式会社はここ深谷出身の渋沢栄一らによって明治20年(1887年)に設立された、日本初の機械式煉瓦工場です。

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この旧・事務所棟は開業の翌年明治21年(1988年)に建造された瓦葺き木造平屋建て事務所。

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当初は煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導のために招き入れたネスチェンテス・チーゼ技師の住居として使われていましたが、その法外な報酬のため問題視され、明治22年には帰国しています。その辺、富岡製糸場と同じ轍を踏んでいます。ちなみに渋沢栄一は明治5年の富岡製糸場開設にも関わっています。

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内部は残念ながら非公開ですが、明治期の木造建築は超貴重なので無理もないです。

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旧・事務所棟の奥には変電室も残されております。こちらは明治39年(1906年)高崎水力電気株式会社より電線を敷設し、深谷でいち早く電気を導入した際に建てられたもの。ちなみに高崎水力電気は明治37年、榛名山南麓に上室田発電所を開設し電力供給を開始した会社。

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さて、こちらに保存されているのはホフマン輪窯6号窯。かつては煉瓦造りの煙突が聳えていましたが、関東大震災で倒壊。以後コンクリート造にされました。

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煉瓦を焼く窯ですが木造の屋根も付いていました。現在、極力手を加えないように耐震補強工事が進められています。ホフマン輪窯とは陸上トラックのような形でドーム状の窯が一周している物で、窯上部の穴から石炭を粉状にした粉炭を入れる事で徐々に温度を上げて行きます。それを時計回りに繰り返し、仕上がったらまた新しい煉瓦を焼き始める。いわゆる流れ作業で煉瓦を大量生産する窯です。

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ボランティアによる観光ガイドさんに案内され窯の中へ。煉瓦建築は東京駅をはじめ明治大正期の建造物に多く見られますが、関東大震災によって地震に対する脆弱性が指摘されるようになります。その後の震災復興建築をはじめとする昭和の建築物は鉄筋コンクリートが主流となり、煉瓦の需要は大幅に減少して行きました。

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日本煉瓦製造は後に秩父セメント(現・太平洋セメント) の子会社となり、2006年、株主総会において自主廃業を決定、清算されました。ちなみに秩父セメント(大正12年設立)の創業者である諸井恒平は日本煉瓦製造の創業メンバーとして渋沢栄一の推薦で入社し、支配人から取締役を経て明治40年には専務取締役にまで昇進した人物であります。

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かつてセメントの父と呼ばれる浅野総一郎は明治17年にセメントの官営模範工場を払い下げましたが、その際渋沢栄一に相談した所、煉瓦の接着などに使われていたセメント産業は儲からないから紡績をやりなさいと言われたそうです。しかし浅野総一郎はセメントの未来を信じて懇願し、役所に口利きしてもらいました。なんとも皮肉な結末に感じてしまいます。
さて、この後は渋沢栄一関連の史跡に立ち寄ります。

神奈川県横浜市保土ヶ谷区、日本カーリット火薬工場跡

ちょっと涼しくなって来たって事だし、横浜市保土ヶ谷区の山の中に残る火薬工場跡地に行って来ました。

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相鉄星川駅は久々に降りましたが、いつの間に高架化されていたようで。しかし広々とした駅前は閑散としていました。ここから新桜ヶ丘団地行きのバスに乗って行きます。

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県公社住宅前バス停で降り北へ少し歩くとたちばなの丘公園があり、ここが日本カーリット火薬工場跡地となります。

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工房は一つ一つが土塁で囲まれており、短いトンネルで中に入るようになっています。これはいざ爆発事故が起きた際、被害が最小限に防げるようにするための安全対策です。それでも昭和30年(1955年)、火薬の充填作業中に混入した異物の摩擦が原因で爆発。同じ作業場にあった約600キロの火薬が誘爆し、さらに作業所内を手押し車で搬送中だった400キロの火薬にも引火し爆発したと言う事故がありました。この事故により3名が死亡、重軽傷者19名を出したそうです。

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1箇所だけ搬入搬出用トロッコの軌道が残されていました。かつてトロッコは手前右手にあったトンネルを通り、東側の火薬庫及び出荷場まで延びていたとか。ちなみにそのトンネルは現在埋め戻されています。

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こちらは第四混和室入り口。カーリット爆薬の原材料となる過塩素酸アンモニウムや硝酸アンモニウムなどを混ぜ合わせる工室があったそうです。カーリットとは火薬類の国内自給をするために北欧スウェーデンから技術導入し、国産の鉱物から製造される爆薬の名称です。

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大正8年(1919年)、保土ヶ谷の丘陵地に浅野セメント及び浅野財閥創始者の浅野総一郎によって火薬工場が建設され、翌1920年に日本カーリット株式会社が設立されました。浅野総一郎と言えばセメント関連の記事でも触れましたが、セメント産業の父と言われる人物ですね。

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裏手に廻ると建物はすでに解体され竹林になっているのが分かります。これがもし戦争遺跡などであればボランティアなどにより綺麗に整備されていたかも知れませんが、市の予算だけでは限界があります。

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こちらは第九填薬工室。いわゆる爆薬を筒などに充填する所ですね。明治期に於ける火薬の需要は主に軍事目的だったため、火薬製造は官営工場に限られていました。しかし炭鉱や鉱山など民間にも需要が増えて行く中、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発。官営工場から民間への払い下げ中止や海外からのダイナマイト輸入禁止などに伴い産業用火薬が不足。大正6年より民間での火薬製造が許可されるようになりました。

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赤煉瓦の内壁は建設当時、関東大震災以前の物でしょうか。コンクリート造のトンネルは逆に震災復興建築ではないかと、これは想像の域を出ません。折しも第一次世界大戦終結後、日本で2番目の民間火薬工場である浅野同族株式会社保土ヶ谷工場として稼働を始めたそうです。当時の浅野総一郎はと言えば浅野財閥の主幹産業である浅野セメントが、日本のセメント産業に於いて全国の生産高の半分を占めた頃であります。

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第九填薬室左手のトンネル。一つの工房には必ず2箇所トンネルが設けられています。1920年に日本カーリット株式会社を設立したものの大正12年(1923年)、関東大震災による被災を受け、日本カーリットは浅野セメントに吸収合併。その後太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)には軍需工場となり、戦後のGHQによる財閥解体を経て昭和21年(1946年)、GHQが火薬製造の再開を許可。昭和26年(1951年)再び日本カーリットに社名を戻したとか。

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内部は右手への横穴が。先程の横穴と繋がっていると思われます。平成7年(1995年)、周辺の宅地化が進が進んだ事と火薬の販売量の低下もあり保土ヶ谷工場は閉鎖。群馬県の赤城工場へ移転となりました。

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包装収函工室。いわゆる製品を箱詰めする工室。工場跡地はたちばなの丘公園として遊歩道などが整備されました。ただ今の時期は蜘蛛の巣が多い。横浜市も少ない予算の中、年2回業者に委託して草刈りはしていますが、遊歩道を歩く人が少なければすぐ蜘蛛の巣が張られてしまいます。自分の場合、せっかく張った蜘蛛の巣を破壊するのが申し訳ないと思ってしまうんですよね。

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こちらも中を覗くと左手へ続くトンネルがあります。元々火薬工場はその危険性から周辺に緩衝地帯を設けなければならないと火薬取締法で定められています。そのため広大な敷地は原生林に囲まれており、ホタルも生息しているとか。ちょうどそのホタル生息地の方で草刈り作業が行われていました。

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包装収函工室のもう一方のトンネル。土手の向こうの工室跡地の裏手は丘になっており、その上も遊歩道が通っております。そこからは木々の合間から、辛うじてトンネルの向こう側を見下ろすことも出来ます。ただ、この工場跡地の公園は、公園としてはまだ半分も完成しておらず、手付かずの場所も多くあります。

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内部も見事に煉瓦の内壁が残っています。中に入れるようにしてくれたらとつくづく思いますが、崩落の危険性とか色々あるのでしょう。

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導爆線工室。導爆線とはロープ状の爆薬であり、大型の例えば飛行機や船舶などの解体作業に用いられる事が多いそうです。

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この工室は元々第三包装工室として使われていましたが、 昭和30年代後半に導爆線を製造する工室に転用されました。時代によって製造する製品が変わると工室の用途も変わって行きます。

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導爆線工室もう一方のトンネル。合計4つの工室、8箇所のトンネルが残されていました。

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建屋は一切残されていませんが、大正から近代までの産業遺産としては非常に貴重な遺構だと思います。もちろん軍事目的である爆弾の製造もされていましたが、それ以上に鉱山に於いて発破の存在は欠かせない物です。地味ながらも日本の産業を支えて来た事は確かだと思います。

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最後に1箇所だけ残されている工場の塀。危険区域、火気厳禁、の文字が辛うじて読み取れます。

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公園内に掲示されている閉鎖前の日本カーリット火薬工場の全景。現在保存されている土塁は最盛期に40箇所あった内の4箇所とごく一部に過ぎず、右下の火薬庫跡地などは現在介護施設やマンションが建てられています。とは言え自然豊かな遊歩道として、その敷地は有効に活用されていました。

茨城県牛久市、牛久シャトー他文化財建築等

牛久と言えば牛久シャトーと大仏ぐらいしかないと言ったイメージを持ってました。

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実際、駅前には何も無いです。水戸街道の宿場町として栄えた牛久は西南側の外れにありますが、今回そっちには行きませんでした。

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線路の東側を並走する幹線道路の花水木通り沿いに、駐車場完備の大型店舗が軒を連ねており、地元の方はこの辺で買い物を済ませるのでしょう。

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花水木通りを越えた所に牛久シャトーがあります。牛久シャトーは明治36年(1901年)完成したワイン醸造所です。

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正面の旧事務室は立入禁止。国産ワインの歴史は明治9年(1876年)、札幌に麦酒醸造所と共に開設された開拓使による葡萄酒醸造所から始まります。明治10年(1877年)には山梨に県立葡萄酒醸造所が開設、明治13年には兵庫県の加古川に官営播州葡萄園(明治29年廃園)が開園されました。

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事務室を抜けると旧醗酵室があります。この牛久シャトーを開設した神谷傳兵衛(でんべえ)氏(1865〜1922)は、明治6年、17歳の時に横浜外国人居留区の商会で働きながら洋酒の製造法を勉強し、19歳の頃は深川の米穀商や麻布の酒商で働き、明治13年(1880年)24歳で独立。浅草に「みかはや(三河屋)銘酒店を立ち上げます。

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その後、輸入ワインや泡盛の販売、ブランデーの製造販売などを手掛け明治19年、登録商標蜂印香竄葡萄酒の成功で世に出ました。

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発酵室の中には発酵樽が左右に並んでいます。洋酒やワインの製造販売で成功を収めた神谷傳兵衛ですが、今度は葡萄の生産から醸造まで一貫して手掛けようと農場を開き、この牛久シャトーを建設しました。

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醸造室の両端から2階に上がれるようになっています。階段には明治建築の凝った意匠が細部に見て取れます。

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こちらは2階展示室。神谷傳兵衛と牛久シャトーの軌跡を追う事が出来ます。牛久シャトーで本格的なワイン造りを始めた神谷傳兵衛は明治45年(1912年)、浅草の「みかはや銘酒店」を改装し、神谷バーを開業します。神谷傳兵衛って誰?って思いながら展示物を見ていましたが、あの浅草神谷バーの神谷ってこの神谷さんなんだ!って、繋がった時はちょっと鳥肌立った。

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浅草神谷バーは20年以上前、一度だけ入った事があります。上の階の畳敷きの宴会場でしたが、初めて電気ブラン飲んでかなり酔っ払った記憶が。ちなみに現在の神谷バーの建物は大正10年(1921年)に建てられた物です。

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2階に展示されているワイン製造に関する機器たち。

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蜂印香竄葡萄酒の看板。ちなみに蜂印香竄葡萄酒は今でもハチブドー酒として神谷バーで飲む事が出来ます。

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こちらは地下に広がる貯蔵庫。非常に暗いです。ここで熟成されるわけですね。牛久シャトーのワイン醸造は太平洋戦争によって葡萄園が荒廃し、終戦後に農地改革が行われ小作地として解放されることとなり、一旦生産を終了する事となりました。

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醸造室の左手の貯蔵庫は内部が改装されてレストランになっています。

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しかし近年、葡萄の栽培からワインの生産までを復活させております。

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収穫された葡萄は醸造室の西側から建物に運び込まれます。

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こちらが醸造室内に造られた現在のワイナリー。自分はあまりワインは飲まないのですが、ここで生産されたワインを神谷バーなんかで飲めるのならば、一度飲んでみたいですね。

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さて、牛久駅より南東へ約5キロ。かつての神谷葡萄園の南端に当たりますが女化(おなばけ)と言う地区になります。この女化神社は明治以降東京の芸者衆がこぞってお参りに訪れていたそうで、狛犬は子連れの狐となっております。ちなみにこの女化神社周辺だけがお隣、龍ヶ崎市の飛び地となります。

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神社の近く、旧岡田小学校女化分校校舎があります。

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明治31年創立の開拓入植者の私立尋常小学校が前身でこの校舎は戦前の木造校舎。昭和47年(1972年)に閉校したそうです。

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現在でも地域の多目的スペースとして利用されており、綺麗に管理されております。

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最後に女化街道を南に越えて再び龍ケ崎市、大正9年(1920年)竣工の旧竹内農場赤煉瓦西洋館。

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ここには小松製作所(コマツ)の創業者であり、快進社(ダットサン・現日産自動車)の創業者の一人でもある竹内明太郎(吉田茂首相の兄)が経営していた竹内農場がありました。そして竹内明太郎の別荘兼農場主の住居としてこの建物は建てられたそうです。

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当時は多くの著名人を招待していましたが竹内明太郎本人が利用していたのは大正12年までで、以降は弟の直馬一家が移住し昭和7年まで使われていたそうです。今では文化財登録され柵で囲まれていますが、少し前までは荒廃した廃墟だったのでしょう。

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