廃墟系サイトではそこそこ有名な物件、大仁金山跡と山神社跡に行って来ました。

三島から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り大仁へ。昭和の車両がまだ現役で活躍しています。写真の車両は3000系1次形のトップナンバーで1979年製。揺れ方とか乗ってて懐かしかったです。

大仁駅は修善寺や伊豆長岡ほどの規模は無いものの温泉があるため、昭和の観光地の雰囲気が漂っています。

一本路地を入ればスナック街の跡地。かつては団体旅行で温泉旅館に泊まりに来た人たちが夜な夜な繰り出していたのでしょう。

もう、窓の造りが妖しいったらありゃしない。歓楽温泉街の残り香を感じます。

修善寺方面に歩いた所で、大仁橋の袂には大正4年(1915年)に架けられたトラス橋の一部が残されています。この橋は昭和33年に起きた狩野川台風の被害を受けながらも平成20年(2008年)まで使われ続けて来たとか。

橋を渡った先に宿泊及び日帰り入浴施設、修善寺時の栖(すみか)があります。その裏手がかつての大仁金山採掘場跡地であります。

階段状の遺構は選鉱所の基礎コンクリート。奥にシックナー(汚水を沈殿により廃棄物と水に分離させるタンク)も見えます。大仁金山(瓜生野金山)は安土桃山時代の天正年間に発見されたとされます。

選鉱所前を通り過ぎ脇道を入って行くと、なんとインクラインの跡が残っていました。江戸期は慶長年間に最盛期を迎えるもそのまま衰退して一時期休山したそうです。

インクラインを登って行くと昇降台まで残っています。上にレールがありトロッコを乗せてケーブルカーのように昇降するようになっています。昭和8年(1933年)、帝國産金興業が既存の鉱区を買収し、大仁鉱山として操業を再開しました。

インクラインの周辺にも石垣などの遺構が見られます。ここが最上部なのか、さらに上まで伸びていたのかは不明。昭和11年には選鉱所が完成しているので、これらの遺構はその当時の物と思われます。

斜面の僅かな足場を辿って選鉱所跡地に向かいますが、あまりにも足場が悪く滑り落ちそうになるので断念。行こうと思えば行けるかも知れないけど、行った所で何も無さそうだし。しかしこう言う道なき斜面を進んでいると、秩父の廃村巡りをしてた頃を思い出します。

インクラインから下りてまた元の脇道を登って行くと、山の斜面に沿って分かれ道がありました。

入って行くと坑道を発見。坑道口にしてはコンクリートでやけに立派に造られています。戦時中、坑道が航空機部品の地下工場に転用される計画があり、結局完成を待たずして終戦を迎えましたが、これらのコンクリート遺構はその時の物かも知れません。

昭和19年(1944年)本土への空襲が激化する中、特にターゲットとされた軍事工場を地下化するべく地下工場の建設指導要領案が作成されました。その作成に当たり研究施設としてここ大仁鉱山と福島県福島市の廃鉱山が利用されたそうです。

選鉱所の東側を回り込む沢伝いの脇道をさらに上って行くと、煉瓦にモルタルで化粧した壁面が残っています。作業員の詰所か倉庫だったか用途は不明ですが、煉瓦建築と言う事は昭和8年当時の建物かと考えられます。

その向かい側には謎のコンクリートの塊が。これも鉱山関連の遺構でしょうか。

近くには坑道の入り口が。こちらは素掘りのままで、先程見た坑道入り口とは明らかに違います。昭和13年(1938年)採掘時に温泉を掘り当て、以後同時に温泉の採掘も始まります。鉱山労働者や観光客向けに入浴施設が建ち、戦後の昭和24年(1949年)大仁温泉として開湯したとか。

さらにまた坑道入り口を発見。大仁には製錬所が無かったため、産出された鉱石は伊豆箱根鉄道と国鉄の貨物列車で、茨城県の日立鉱山まで運ばれて行ったそうです。

こちらも坑道入り口。数々の入り口がありますが、そのほとんどがしっかり塞がれています。これは金山故に盗掘を試みる輩が現れたからでしょうか。

いよいよ奥に鳥居が見えて来ました。大仁鉱山は山深い土地でなく狩野川沿岸の平地沿いにあるため、鉱山住宅や共同浴場などは平地に造られた物と思われます。よってそれらの遺構は全く残っていないでしょう。

境内にも坑道らしき物が見受けられますが、こちらは塞がれていませんでした。昭和8年に採掘を再開した大仁鉱山ですが、太平洋戦争が没発すると事情が変わって来ます。それまで日本は国内で産出された金によって欧米諸国から様々な物資を買い付けて来ましたが、戦争が始まると欧米からの輸入が途絶え、金を採掘する理由が薄れます。

同時に銅・鉄・石炭・鉛・亜鉛・マンガンなど戦争に直接的に必要な鉱物資源を自給する必要が出て来たため、金鉱山の資材や人員を他の鉱山に振り分けると言う、金鉱山整備令が昭和18年(1943年)に敷かれました。

この時点で選鉱所は役目を終えてダイキャスト工場へと転用され、坑道の一部は先に触れたように軍事工場に利用する事が決定されました。地震の多い伊豆半島ですが、鳥居はしっかり立ち続けています。

右手には小さな石橋と祠もあったようです。その後も銅製錬用の含金珪酸鉱は小規模に採掘されていたそうですが、昭和期に於ける本格的な金山としての歴史はおよそ10年と非常に短いものになりました。

山神社とは鉱山労働者の安全を祈願するために建立される物で、全国各地に存在します。もちろんここのように廃神社となった場所も多くあるでしょう。

さて、拝殿までの階段を登って行きます。階段は途中崩壊していますが、廃墟好きの方々は必ずここを乗り越えて行きます。

こちらが拝殿。現在は恐らく霊抜きされていると思われます。金の採掘が終了しておよそ80年以上経っていますが、その後もしばらく地元の方々に管理されていたのかも知れません。

またこの山神社が、江戸期の金採掘の頃からこの場所にあったのか、いつ頃から祀られていたのか定かではありませんが、鳥居の脇に昭和11年奉納の文字が。ちなみに選鉱所跡の上の辺りにも山神社跡があるそうですが、行き方分からないしハードな道のりが予想されるため断念。

そんな訳で素晴らしい空間でした。薮が枯れる冬まで待った甲斐があります。このような場所を何の根拠もなく心霊スポットに仕立て上げる輩も居るかも知れませんが、くれぐれも肝試しなんかで土地を荒らさないようにしていただきたい。

最後に修善寺まで足を伸ばして温泉に入ろうかと。なんと修善寺駅前にシェアサイクルのハローサイクルが設置されていました。本数の少ない路線バスを利用するより断然早く往復できます。秋の田園風景の中を電動アシストで気持ちよくサイクリング。

修善寺駅より南東に4キロ、上白石地区の大見川沿いに小川温泉共同浴場はあります。

奥は民家となっており午後2時開店。200円を払って入ります。

脱衣場はこんな感じ。とても質素で良いですね。

内部は地元の方々が居られたので伊豆市観光サイト様より画像をお借りします。(画像は女湯)
泉質は無色透明なナトリウム・硫酸塩温泉で源泉掛け流し。源泉温度が高いため浴槽脇の蓋を開けてコックを開き、加水して温度調整しているようです。

三島から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り大仁へ。昭和の車両がまだ現役で活躍しています。写真の車両は3000系1次形のトップナンバーで1979年製。揺れ方とか乗ってて懐かしかったです。

大仁駅は修善寺や伊豆長岡ほどの規模は無いものの温泉があるため、昭和の観光地の雰囲気が漂っています。

一本路地を入ればスナック街の跡地。かつては団体旅行で温泉旅館に泊まりに来た人たちが夜な夜な繰り出していたのでしょう。

もう、窓の造りが妖しいったらありゃしない。歓楽温泉街の残り香を感じます。

修善寺方面に歩いた所で、大仁橋の袂には大正4年(1915年)に架けられたトラス橋の一部が残されています。この橋は昭和33年に起きた狩野川台風の被害を受けながらも平成20年(2008年)まで使われ続けて来たとか。

橋を渡った先に宿泊及び日帰り入浴施設、修善寺時の栖(すみか)があります。その裏手がかつての大仁金山採掘場跡地であります。

階段状の遺構は選鉱所の基礎コンクリート。奥にシックナー(汚水を沈殿により廃棄物と水に分離させるタンク)も見えます。大仁金山(瓜生野金山)は安土桃山時代の天正年間に発見されたとされます。

選鉱所前を通り過ぎ脇道を入って行くと、なんとインクラインの跡が残っていました。江戸期は慶長年間に最盛期を迎えるもそのまま衰退して一時期休山したそうです。

インクラインを登って行くと昇降台まで残っています。上にレールがありトロッコを乗せてケーブルカーのように昇降するようになっています。昭和8年(1933年)、帝國産金興業が既存の鉱区を買収し、大仁鉱山として操業を再開しました。

インクラインの周辺にも石垣などの遺構が見られます。ここが最上部なのか、さらに上まで伸びていたのかは不明。昭和11年には選鉱所が完成しているので、これらの遺構はその当時の物と思われます。

斜面の僅かな足場を辿って選鉱所跡地に向かいますが、あまりにも足場が悪く滑り落ちそうになるので断念。行こうと思えば行けるかも知れないけど、行った所で何も無さそうだし。しかしこう言う道なき斜面を進んでいると、秩父の廃村巡りをしてた頃を思い出します。

インクラインから下りてまた元の脇道を登って行くと、山の斜面に沿って分かれ道がありました。

入って行くと坑道を発見。坑道口にしてはコンクリートでやけに立派に造られています。戦時中、坑道が航空機部品の地下工場に転用される計画があり、結局完成を待たずして終戦を迎えましたが、これらのコンクリート遺構はその時の物かも知れません。

昭和19年(1944年)本土への空襲が激化する中、特にターゲットとされた軍事工場を地下化するべく地下工場の建設指導要領案が作成されました。その作成に当たり研究施設としてここ大仁鉱山と福島県福島市の廃鉱山が利用されたそうです。

選鉱所の東側を回り込む沢伝いの脇道をさらに上って行くと、煉瓦にモルタルで化粧した壁面が残っています。作業員の詰所か倉庫だったか用途は不明ですが、煉瓦建築と言う事は昭和8年当時の建物かと考えられます。

その向かい側には謎のコンクリートの塊が。これも鉱山関連の遺構でしょうか。

近くには坑道の入り口が。こちらは素掘りのままで、先程見た坑道入り口とは明らかに違います。昭和13年(1938年)採掘時に温泉を掘り当て、以後同時に温泉の採掘も始まります。鉱山労働者や観光客向けに入浴施設が建ち、戦後の昭和24年(1949年)大仁温泉として開湯したとか。

さらにまた坑道入り口を発見。大仁には製錬所が無かったため、産出された鉱石は伊豆箱根鉄道と国鉄の貨物列車で、茨城県の日立鉱山まで運ばれて行ったそうです。

こちらも坑道入り口。数々の入り口がありますが、そのほとんどがしっかり塞がれています。これは金山故に盗掘を試みる輩が現れたからでしょうか。

いよいよ奥に鳥居が見えて来ました。大仁鉱山は山深い土地でなく狩野川沿岸の平地沿いにあるため、鉱山住宅や共同浴場などは平地に造られた物と思われます。よってそれらの遺構は全く残っていないでしょう。

境内にも坑道らしき物が見受けられますが、こちらは塞がれていませんでした。昭和8年に採掘を再開した大仁鉱山ですが、太平洋戦争が没発すると事情が変わって来ます。それまで日本は国内で産出された金によって欧米諸国から様々な物資を買い付けて来ましたが、戦争が始まると欧米からの輸入が途絶え、金を採掘する理由が薄れます。

同時に銅・鉄・石炭・鉛・亜鉛・マンガンなど戦争に直接的に必要な鉱物資源を自給する必要が出て来たため、金鉱山の資材や人員を他の鉱山に振り分けると言う、金鉱山整備令が昭和18年(1943年)に敷かれました。

この時点で選鉱所は役目を終えてダイキャスト工場へと転用され、坑道の一部は先に触れたように軍事工場に利用する事が決定されました。地震の多い伊豆半島ですが、鳥居はしっかり立ち続けています。

右手には小さな石橋と祠もあったようです。その後も銅製錬用の含金珪酸鉱は小規模に採掘されていたそうですが、昭和期に於ける本格的な金山としての歴史はおよそ10年と非常に短いものになりました。

山神社とは鉱山労働者の安全を祈願するために建立される物で、全国各地に存在します。もちろんここのように廃神社となった場所も多くあるでしょう。

さて、拝殿までの階段を登って行きます。階段は途中崩壊していますが、廃墟好きの方々は必ずここを乗り越えて行きます。

こちらが拝殿。現在は恐らく霊抜きされていると思われます。金の採掘が終了しておよそ80年以上経っていますが、その後もしばらく地元の方々に管理されていたのかも知れません。

またこの山神社が、江戸期の金採掘の頃からこの場所にあったのか、いつ頃から祀られていたのか定かではありませんが、鳥居の脇に昭和11年奉納の文字が。ちなみに選鉱所跡の上の辺りにも山神社跡があるそうですが、行き方分からないしハードな道のりが予想されるため断念。

そんな訳で素晴らしい空間でした。薮が枯れる冬まで待った甲斐があります。このような場所を何の根拠もなく心霊スポットに仕立て上げる輩も居るかも知れませんが、くれぐれも肝試しなんかで土地を荒らさないようにしていただきたい。

最後に修善寺まで足を伸ばして温泉に入ろうかと。なんと修善寺駅前にシェアサイクルのハローサイクルが設置されていました。本数の少ない路線バスを利用するより断然早く往復できます。秋の田園風景の中を電動アシストで気持ちよくサイクリング。

修善寺駅より南東に4キロ、上白石地区の大見川沿いに小川温泉共同浴場はあります。

奥は民家となっており午後2時開店。200円を払って入ります。

脱衣場はこんな感じ。とても質素で良いですね。

内部は地元の方々が居られたので伊豆市観光サイト様より画像をお借りします。(画像は女湯)
泉質は無色透明なナトリウム・硫酸塩温泉で源泉掛け流し。源泉温度が高いため浴槽脇の蓋を開けてコックを開き、加水して温度調整しているようです。











































































































