水運

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埼玉県熊谷市〜群馬県邑楽郡千代田町、赤岩渡船

更新が滞り過ぎてもはやお久しぶりです。この忙しさもそろそろ出口が見えて来そうです。ちなみに邑楽郡は「おうらぐん」と読みます。読めるかーい!

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午前中に終わる仕事があったので、ここぞとばかりに熊谷へと向かいました。

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県道83号線で熊谷市北東部、利根川沿いの河岸があった葛和田へ。道端になぜか250キロ爆弾が碑のように立っていましたが、これは爆撃を受けたとかではなく戦後の昭和25年、故障した米軍機が落としていった不発弾だとか。

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渡船の埼玉県側の葛和田は河岸として栄えましたが、宿場町は対岸の群馬県側にありました。この辺りは長閑な農村と言った雰囲気。利根川沿岸と言う事もあり地下水も豊富なのでしょう。

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県道83号線はそのまま利根川の堤防へ。そこから群馬県へ渡る赤岩渡船も県道83号線と言う事になっております。

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堤防から河川敷へと降りて行くと路線バスの終点、葛和田バス停が。ここも実は県道になります。

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船頭さんは群馬県側に詰めているので、渡船を利用するには船を呼ばなくてはなりません。そのために黄色い旗を揚げます。この携帯の時代なんともアナログな。

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岸からちょっと離れた所の低いポールに黄旗を掲げたところで対岸にちゃんと伝わるのかと不安も覚えましたが、船はすぐ動き出しました。船が動いたのを確認すると旗を下げなければなりません。やがて波一つない川面を渡し船がやって来ます。

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あくまでも県道なので利用は無料。群馬県より委託を受けた千代田町が運用をしています。ライフジャケットを着用して出航。葛和田と赤岩は江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資等の集積地であり、陸運と水運の物流拠点として栄えました。また明治以降は絹織物や生糸輸送の中継地点としても賑わいを見せます。

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以前、伊勢崎市島村の島村渡船に行ってみたら、2019年の台風被害ですでに廃止されていたと言う事がありましたが、この赤岩渡船は関東最後の渡船として生き延びています。

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しかし船が群馬県側へと近づくにつれ、みるみる水深が浅くなって行きます。これは近年の台風や豪雨によって上流から流されて来た土砂がカーブの外側に当たる群馬県側に堆積した物。水深50センチほどでしょうか全然立てる程に浅く、船底が擦るギリギリの所なんじゃないでしょうか。

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あっという間の渡河でした。渡船は県道と言う事もあり県がお金を出していますが、浚渫作業にも予算が掛かるので、現在存続の危機となっています。

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こちらは船頭さんの詰め所。ちなみにご高齢の方とまだ若い方、二人で船を運航されてました。

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ただここから対岸の旗が上がっているかどうか、よほど目が良くないと見えません。

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地元のお爺ちゃんが自転車乗せて埼玉県側へと渡って行きます。利用者は居られるようですが、葛和田に一体何の用事があるのか。あるいは赤岩で用事を済ませた帰りかも知れませんが。

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県道だからと言う理由で奇跡的に存続しておりますが、いつまでも残っていて欲しいものです。

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堤防の上には一応史跡と言う事で、常夜灯なんかも作られています。

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明治大正期の物流解説。位置関係がよく分かります。両毛線開通以前の桐生の絹織物製品は、陸路の場合ここで川を渡り熊谷から開通したばかりの鉄道で東京へ。富岡製糸場の生糸はここを経由して関宿より江戸川へ入り、東京湾から横浜港に入り輸出されてゆく。

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橋も鉄道も不充分だった時代が最も栄えたのでしょう。

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ここより6キロ上流の国道407号線には1886年(明治19年)に妻沼から古戸町に掛かる古戸橋(現在の刀水橋)が開通し、9キロ下流の国道122号線には1929年(昭和4年)に昭和橋が開通しました。さらに後の1968年、5キロ下流に見沼代用水の取水口である利根大堰が完成し、県道20号線が走る武蔵大橋が開通。赤岩渡船だけが取り残された形となりましたが、現在も橋の建設が求められています。

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赤岩の街は宿場町の面影などほとんど残っておりません。

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昭和の頃は商店街としても賑わいを見せていたそうですが、その面影すら失われていました。

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昼時、どうせメシ屋なんて無かろうと思っていたら、町外れに一軒だけ蕎麦屋の「さらしな」さんが。

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うどんセット。モツ煮を切らしてしまったそうなので代わりにアジフライ。ちょっと食い過ぎてしまった。

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群馬県側へは一日5本程度しか走ってない路線バスで館林へ。バスは途中ホームセンターのジョイフルホンダの建物の中まで入って行ったりします。
蕎麦屋の女将さんと少し話し込みましたが、やはり少子高齢化と過疎化が酷く空き家も多くあるとか。それもまた致し方ないと話されていました。

茨城県境町、利根川東遷からの江戸への物流拠点

江戸から明治にかけての水運(水上交通)を語るのに、利根川から江戸川が分岐する関宿(せきやど)を避けては通れない。そう思い鉄道も通っていない千葉、茨城、埼玉が県を接する千葉県野田市の関宿へまず向かいました。

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結論から言うと関宿にはかつての城下町の雰囲気など一切残っていませんでした。

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関宿城も本来あった場所とは違う場所に1995年(平成7年)、鉄筋コンクリートで復元された物。しかも訪れた時、この関宿城博物館が休館日でした。

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元々建っていた場所がこちら。多少土塁が残っている程度。関宿は地図的に言えば千葉県の北西端、チーバ君の鼻先に当たる所です。利根川の北側が茨城県、利根川南側から旧渡良瀬川の流路(行幸湖)を通り南東に分岐する江戸川に接する所から南が埼玉県、銚子から太平洋に注ぐ利根川と東京湾に注ぐ江戸川との間が千葉県となります。説明が難しい。

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こちらは関所跡地。江戸時代初期までは鬼怒川水系の常陸川が銚子に流れ出て、渡良瀬川と利根川は江戸湾に流れ込んでいました。しかし家康の江戸入城後の元和7年(1621年)以降、水上交通確立のため利根川と渡良瀬川を常陸川に繋げて銚子へ流し、かつ旧渡良瀬川の流路を江戸川としました。これが利根川東遷と言う一大土木事業でした。

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利根川東遷が出来ると、利根川や渡瀬川からの流れが銚子方面と江戸湾とに分岐するこの地点は、水運の要衝となりました。特に北の太平洋沿岸地域から江戸へ向かう物資は、房総半島の外海を航行するよりも高瀬船で川を伝った方が安全かつ遅れなく運べると言う事でした。また、川幅の狭い箇所に棒出しと言う、江戸川への水量を調節する閘門もありました。

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関宿城博物館の北西端部を周回する土手道が県境で、その先の河川敷は茨城県になります。水面は見えませんがこの奥に川の分岐点があり、左手の江戸川の対岸もまだ茨城県。

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こちらが現在の江戸川への水量を調節する関宿水閘門。ここも茨城県になります。1927年(昭和2年)完成。江戸川下流域の水害を防ぐ役割を担っています。関東平野を流れる川は、その時代ごとに流路を変えて来たので、一言で説明する事が出来ません。

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関宿城博物館がある近くには珍しい事に浚渫船(しゅんせつせん)が保存されています。保存と言っても草に埋もれてますが。浚渫とは川底の砂や泥などをさらう作業を言います。

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大雨などで水量が増すと上流域で川岸や川底が削られ、その土砂が中流域から下流域へと流されて行きなす。土砂はそのまま川底に堆積し、それにより水深が浅くなって船の航行が困難になったり、急な増水に際し洪水の危険性が増します。江戸時代は人力で浚渫作業をしていましたが、明治以降浚渫船が輸入されるなどして機械化が進みました。

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関宿水閘門の近くには江戸川の下流域に掛けられていた鉄道橋の一部が保存されています。この橋梁は1907年(明治40年)に当時の総武鉄道の小岩〜市川間の江戸川橋梁に使用されていました。

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さて、関宿から県道17号、境大橋で利根川を渡って茨城県境町へと入って行きます。左手奥で左側に江戸川が分岐しています。

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対岸である境町側から眺める関宿城はこんな感じです。冬の早朝など空気が澄んでいる時ならば富士山も見えますが、かなりの望遠レンズでないと関宿城と富士山を並べて撮るのは無理です。なんか撮影スポットとして有名らしいですが、天守閣と富士山なんてそう簡単に撮れるもんじゃないです。そもそも復元天守閣だし。

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利根川を渡ると右手にはドン・キホーテとスーパー銭湯、スーパー、ダイソー、パチンコ、場外馬券場など。

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左手には道の駅さかい。一応、観光拠点です。ここをはじめ町内にはいくつかの隈研吾設計による建築物があります。公共事業だから予算あるのかな。

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道の駅は高いので、隣のドライブイン的な大はし食堂に入ります。

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最近はモツ煮定食を見かけたら必ず頼むようにしています。ここのモツ煮も味が濃くてご飯が進む。

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境町の町内には無人運転バスが運用されています。ソフトバンクの子会社であるBOLDLY株式会社及び株式会社マクニカの協力のもと自動運転バスを3台導入し、5年前から定期運転されています。たまに有人ワンボックスが来る事もありますが。

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大まかに言えば道の駅と病院とショッピングセンターと高速バスターミナルなどを往復する感じです。レンタルサイクルを借りてたので乗りませんでしたが、無料です。

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境町はJRバス関東と朝日自動車によって東京駅八重洲口からの直行便も出ています。こう言うのは行政が頑張っているからなのでしょうか。以前東京駅から出る境町行き高速バスを見て、境町ってどこ?と思ってました。写真は後日駒込駅前でたまたま見かけたJRの境町行き高速バス。

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境町には古河から路線バスが運行されています。ちなみに関宿には東武伊勢崎線川間駅と東武動物公園駅から路線バスが出ており、関宿大橋を渡り境車庫まで運行されています。

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古河からの路線バスの終点、境町バス停前。正面には朝日自動車のタクシー営業所があり、左手には河岸の駅さかいと言う観光施設があります。観光施設と言っても手狭な案内所的な物で、しかも閉まってました。ただここには自動運転バスも来ますしdocomoのシェアサイクルもあります。

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しかしながら空いてる商店は一軒も無く、路線バスで観光に来た人は愕然とするでしょう。

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この辺りは江戸時代河岸があり、とても栄えていました。東北や北関東からの年貢米などの物資は、奥州街道より途中鬼怒川の水運を通り、日光街道東往還を通ってここ境町へと集積されます。そしてここから江戸川を下って江戸市中へと運ばれて行きました。いわゆる物流拠点でもあります。

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メインストリートは河岸跡から北へ延びる日光街道東往還。かつては船問屋や旅籠、茶店などが軒を連ねる関宿藩の宿場町でしたが、鉄道の登場によって衰退して行きます。こちらは見世蔵造りの旧・高木書店。

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こちらは村田酒店。煉瓦造りの店舗ですが前面が大きく塞がれているのが残念。奥にも広く倉庫などがあります。

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途中、気になるバラックなどもありました。

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裏通りに入った所で廃業旅館。旅館ふじと書かれた看板がありました。

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こちらも造り的に旅館か何かだったのでしょうか。

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現役の旅館、旅館山楽。特にこれと言った地場産業や名勝がある訳でも無いのに、なぜこんなに旅館業が多かったのか。

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紳士服婦人服のマルニ。かつては商店街としても賑わいを見せていたようです。

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駐車スペースのある商店街跡もあります。鉄道の通らない町として、早くから車社会に対応していたのでしょうか。

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これまた歴史のありそうな建物。市内は特に文化財登録もされていないので詳細は不明。しかし特に保存されている訳でもないのに、多くの歴史的建造物が残っています。

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貸家でしょうか、門柱にアーチが掛かっています。お洒落。

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旧日光街道東往還の東側には境大橋から北上する県道17号線が並走しており、北へ進むと圏央道の境古河ICがあります。こちらは交通量も多く幹線道路沿いの店舗なども多く栄えていました。こんな写真しか撮ってませんがww
ともあれ、2015年(平成27年)に圏央道境古河ICが開業した事により、それまで陸の孤島と化していた境町が急速に発展してきているのかも知れません。同様に阿見町や稲敷市、来年開通予定の千葉県多古町など、鉄道が通らなかった街々も、この圏央道によって変わって行く事でしょう。

千葉県松戸市、平潟遊郭跡地と陸軍工兵学校跡

6月頭、駅前の青線地帯跡でちょっと飲んで以来の再訪です。

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その青線地帯跡の長屋の一軒、美味いと噂だったカレー屋にまず入ります。

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カレー専門店印度。女将さん一人で切り盛りされてますが、本格的なスパイスカレーです。美味い。

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そんな訳で松戸駅西口から巡ります。北寄りの外れには、見るからに潰れたデパート跡が。こちらは1977年開店のダイエー松戸駅西口店の跡。去年、2024年8月に閉店となったそうです。

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ひたすら西へ歩いて行くと江戸川にぶつかります。納屋河岸跡は江戸〜明治時代の水運の名残り。鉄道が開通した明治29年(1896年)より衰退していきます。

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江戸川河川敷に出ました。納屋河岸は水運の物流拠点で、特に銚子からの鮮魚は利根川を遡上し我孫子市の布佐にて一度陸揚げされ、鮮魚街道(又はなま街道)で陸路松戸まで運ばれ、ここから日本橋の魚河岸まで再び船で運ばれていたそうです。醤油は利根川と江戸川が分岐する境町まで大回りして高瀬舟1本で運ばれていましたが。

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納屋河岸の常夜灯。実際河岸があった当時は今のような土手が無く、土手の位置に河岸の町並みが続いていたそうです。今思い出しましたが、そう言えば4月に訪れた松戸市立博物館に、河岸のミニチュアが展示されていた!なんで撮ってなかったんだ!

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土手から降りた所に平潟神社があります。この神社の東側一帯がかつて遊郭だった場所になります。

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神社の傍らには使われなくなり封鎖された祠が。祠の前には撤去された石碑やらなんやら。物置き的な感じになってます。

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神社の脇の草むらに横たわる石材には氏子の文字が確認出来ます。遊郭関連の屋号とか有ればと思いましたが、見つける事は出来ませんでした。

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その草むらに立つ、昔の街灯。恐らくは遊郭が存在した時代、大正から昭和初期の物かと思われます。

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かつて大門があった辺りから遊郭の跡地を見るとこんな感じ。すでに普通の住宅街となっており、建造物などは残っていません。

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しかし遺構として当時の電柱及び街灯の支柱だけは残っていました。

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こちらも当時の街灯。平潟遊郭は江戸時代、河岸の船宿が旅籠となりそこで働いてた飯盛り女が発祥とされています。

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明治に入り貸し座敷業として存続していましたが、明治31年(1898年)各所の貸し座敷が統合され平潟遊郭が誕生したそうです。すでに常磐線が開通し、隣接する納屋河岸が廃れ始めた時代。

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昔の電柱をアップで見るとこんな感じ。今でも街灯の支柱として利用されている物もあります。

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その後平潟遊郭は戦時中の昭和17年から18年、王子兵器という会社に売られて寮となり、学生と徴用工が入っていました。この時点で平潟遊郭は実質消滅したそうです。

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今回発見出来た当時の電柱は6本でしたが、実際はもっと有るかも知れません。戦後、かつての遊郭はその殆どが旅館などに転業させられましたが、3軒だけパンパン宿やGHQの要請によるダンスホールなどとして存続しました。

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古いアパートのような建物もありますが、遊郭との関係は不明。しかしその後、多くの建物が中国や満州からの引揚者寮や学生寮、北朝鮮への帰国者寮、戦災者寮などに使われ、現在住宅街として開発されています。

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ネットによればこの辺りに当時の柳の木が残っていたそうですが、それもすでに伐採されていました。

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さて今度は東口に向かいます。土止めのように崖地を背負うイトーヨーカドー。

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丘の上には陸軍工兵学校跡があります。敷地は現在聖徳大学と一部松戸中央公園となっています。

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公園の南東側に門柱と歩哨哨舎跡が残っています。この丘陵地帯は元々相模台城跡と言う城跡で、明治40年(1907年) から大正8年(1919年) まで松戸競馬場となっていました。その後競馬場は帝国陸軍に摂取され、終戦まで陸軍工兵学校となりました。煉瓦造りの門柱は工兵学校開設当初の物。

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こちらが歩哨哨舎跡。開設当初は木造だった物を昭和初期にコンクリート造に建て替えました。

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丘陵の南側に降りて行くと旧・帝国陸軍の境界石が残っています。終戦とともに廃止された陸軍工兵学校の跡地には港区田町より東京工業専門学校(後の千葉大学工学部)が移転して来ましたが昭和39年(1964年)に千葉市へ移転。その後大田区大森の聖徳大学が移転して来て今に至ります。

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こちらも数少ない境界石。そんな訳で特に大きな遺構などは残っていなかった松戸でした。

埼玉県さいたま市、見沼通船堀閘門開閉実演

こうもん、かいへい、じつえん。
平仮名で書いちゃいけません。閘門、つまり端的に言えば規模は小さいけどパナマ運河みたいな物です。去る8月20日、見沼通船堀にて閘門の開閉実演が行われました。

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JR武蔵野線東浦和駅から南東へ。見沼代用水東縁を渡ります。見沼代用水とは灌漑農業用水で、江戸中期の享保13年(1728年)に江戸幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために普請した用水路です。この見沼代用水は行田市の北で利根川から取水し、蓮田市で東西に分岐。この東縁は戸田競艇場にて荒川に合流し、西縁は足立区で荒川に合流します。

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その東縁から真ん中を流れる芝川を介し西縁へと至る運河、見沼通船堀があります。通船堀は芝川を境に西縁と東縁に分かれており、こちらは西縁二の関の船溜まり跡。つまり水を堰き止めて水位を上げ下げする閘門があった場所で、船溜りがあったため幅が広くなっています。

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水は見沼代用水西縁から芝川に向かって流れて行きます。しばらく歩くと西縁一の関の閘門が復元されています。

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今年は特に水量が少ないらしいですが、かつてはここを和船が航行していました。見沼通船堀は見沼代用水完成の三年後、享保16年(1731年)に東西の見沼代用水と中央の芝川を結ぶ運河として造られました。

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やがて芝川に合流。芝川は桶川や上尾の湧水地を源流として、かつて沼地だった見沼を通り川口市南東部で荒川へと注ぎます。

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芝川の左岸(西側)には水神社があります。ここは通船堀開通の翌年に創建され、水難防止の神として祀られて来ました。現在の本殿は関東大震災で全壊した翌年の大正13年に建てられた物。

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芝川の東側には鈴木家住宅があります。鈴木家は幕府から見沼通船堀の各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う差配役を命じられていました。文政年間に(1818年〜1830年)江戸から移住し、建物もその当時の物と考えられているそうです。

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土日などは奥まで入られるようになっていますが、母屋は生活されているので公開されていません。裏手の蔵や小屋には昔の農機具や、見沼代用水に関するパネルなどが展示されています。

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芝川から見沼代用水西縁へ向かって見沼通船堀西縁が分岐して行きます。この辺りにもかつては河岸(かし)があったそうです。

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100メートルほどでしょうか、遡って行くと復元された一の関があります。

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さらに100〜200メートルほどでしょうか、二の関があります。今回の閘門開閉実演では一の関のみ閘門を閉めます。

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まず一の関で、角落(かくおとし)と呼ばれる板を放り投げます。実演は保存会の方々をはじめボランティアスタッフで行われており、保存のためのクラウドファンディングも募集しているとか。

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水飛沫を上げて投げ込まれる角落。この閘門開閉実演は年に一回、8月に開催されて来ましたが、近年の気温上昇を鑑みて来年からは6月にしようと言う話になっています。

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落とされた角落は流れに沿って関枠へと引き寄せられます。

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一枚一枚角落が関枠に渡されて行き、これを10枚ほど重ねて運河を堰き止め、見沼代用水から流れて来る水によって水位を上げます。

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このようにして標高の低い芝川から標高の高い見沼代用水へと船を航行させます。

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逆に見沼代用水から船が来た場合、二の関を堰き止めて二の関の手前まで航行し閘門を解放。そのまま堰き止めてある一の関まで進み同じように閘門を解放して芝川まで下って行きます。

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ちなみに復元されている和船は2分の1スケールなので実際はもっと大きい物となります。

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船を二の関の上流へ引き入れたら、最後に角落を一枚づつ引き上げて水を解放し、水位を元に戻します。

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通船堀西縁を西端まで遡ると見沼代用水西縁にぶつかります。見沼代用水は元々農業用水路として通された物なので、物資の運搬については秋分から春分にかけてとなります。

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こちらが見沼代用水西縁。江戸時代は主に見沼代用水沿岸地域からの年貢米などが江戸へ運ばれ、帰りの船で塩や肥料などの物資が運ばれて来たそうです。

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こちらは見沼代用水西縁を北へ遡った所。この見沼代用水は、芝川沿岸の平地の東西の際、丘陵の手前を流れますが、東縁は途中芝川の支流に沿って北上します。元々は見沼と言う沼を溜め池として利用していましたが、江戸時代に入り干拓し見沼田園と言う広大な穀倉地帯が広がるようになりました。

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その見沼区北柳にある坂東家住宅見沼くらしっく館。デカい屋敷です。

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坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(和歌山)の出身で、1675年に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したそうです。

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しかし下流の村の反対に遭い1718年2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻します。その後、徳川吉宗が新田開発を推奨した事で3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り加田屋新田としたそうです。ちなみにこの囲炉裏には実際に火がくべられています。

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屋根の裏側が煙で燻されている事で防虫効果があります。この坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、江戸末期の安政4年(1885年)。

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つまりそれまでは江戸に住んでいたと言う事で、地元の地方豪族や庄屋とは違います。言うなれば江戸にある土地開発会社みたいな物でしょうか。

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見沼代用水西縁から灌漑用水路が東へと分岐して行きます。

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用水路は途中水道橋にて川を渡り、川向こうの田畑にも水を供給しています。上のパイプは上水道でしょうか。

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こちらは見沼代用水東縁を上流へと遡ったところ。東縁は芝川と付かず離れずの距離を並行して流れています。つまり芝川の右岸(東側)は丘陵地が間近まで迫っていると言う事。左手の桜並木が土手の役割を果たし、その左手はもう芝川の河川敷になります。

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そこにさいたま市立浦和博物館があります。この建物は埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学)の鳳翔閣(明治11年建造)を移築し玄関部分のみ復元した物。

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ここに当時の船に使われていた船箪笥や米櫃などが展示されています。

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こちらは水桶やロープなど。水運に関与していた家の蔵に眠っていたそうです。
基本、近代史には興味ありますが、江戸時代には疎いです。しかし調べてみれば、これはこれで面白いですね。

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最後に見沼天然温泉小春日和。ここの加温加水無しの源泉掛け流しのぬるいお湯が好きで、もう何回も通っています。

千葉県野田市(1)、キッコーマン醤油の企業城下町

2021年の夏に流山市のキッコーマンみりん工場を訪れましたが、そこはキッコーマンの前身である野田醤油株式会社設立時、野田醤油の出資によって万上味輪株式会社が設立されたのを発祥としております。そんな訳で今回、キッコーマン発祥の地である野田にやってまいりました。

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東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

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でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

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いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

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そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

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工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

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野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

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こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

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さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

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さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

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こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

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旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

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茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

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こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

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アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

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仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

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最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

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近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

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江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

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建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

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邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

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大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

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高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

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倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

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江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

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江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

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野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。

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