戦争遺跡

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神奈川県座間市、高座海軍工廠中丸地下工場跡

座間市と言えば米陸軍キャンプ座間と日産座間工場ですね。

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小田急江ノ島線南林間駅と小田原線相武台前駅の間辺りに日産座間工場があります。この工場は昭和41年(1966年)に操業を開始し、バブル崩壊後の1995年、リストラに伴い自動車工場としては閉鎖されました。しかしその後も金型、工具、設備、電子機器の設計開発及び製造、電気自動車のリチウムイオンバッテリーの開発、生産などを行っています。

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昼休みの時間従業員が多く出入りしてましたが、インド人技師が目立ちました。ちなみに歴代の日産車が展示されている日産ヘリテージコレクションと言うのがあるのですが、予約制なので機会があれば見学したいですね。

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日産座間工場の西側は水源地のある谷が並行しており、芹沢公園として整備されています。ここに台湾少年工顕彰碑と言う物があるのですが、撮り損ねてしまいました。2年半前に帝都を歩くさんの記事をしっかり読んでいたのですが、その事をすっかり忘れておりました。ちゃんと記事を読み返していたら見落としなんて無かったのに!

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芹沢公園はジョギングや犬の散歩などに利用するのに、実に気持ちの良い公園です。水源地だけにホタルなども生息しているとか。

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さて、ここからが本題。谷の西側斜面に、高座海軍工廠中丸地下地下工場の跡があります。早速それらしき痕跡を発見。

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ほぼほぼ埋まってます。この高座海軍工廠中丸地下工場は高度1000mで飛来するB-29爆撃機に対抗する兵器として、高高度から急降下しながら爆撃機を撃墜する三菱の局地戦闘機「雷電」を製造するために造られました。

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おりしも本土爆撃が激化する昭和19年(1944年)、地上施設の建設と並行して地下工場も造られたそうです。

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地下壕内部はライトアップされているものの柵で閉鎖され内部は非公開。とは言え関東ローム層ならではの赤土土壌ほ斜面を歩いていても非常に柔らかく、これでは崩落の危険性もあると思わざるを得ません。

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現在は柵越に内部を覗けるだけですが、歴史や地質などの学術的調査であれば特別に中に入れるとか。

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内部には1/4スケールぐらいでしょうか、縮小版の雷電のレプリカが置かれています。ここより南にはかつて、昭和17年に完成し第三〇二航空隊が置かれた海軍厚木航空基地、現在の厚木米軍基地があり、北には昭和12年に東京から移転して来た陸軍士官学校、現在の米軍キャンプ座間などがあります。

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この雷電は昭和15年より堀越二郎を中心としたチームで設計が開始されており、テストや審査などを経て昭和17年3月に初飛行しました。しかしその後振動などの問題点も多く試作に試作を重ね、昭和18年より量産開始、昭和19年に正式採用となったそうです。

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もちろん地下壕は狭いので、中で製作されたバーツを地上で組み立ていたのでしょう。トンネルはあみだくじ状に掘られており、総延長1500mほどもあったそうです。

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工場建設当時日本では多くの若者が戦場に駆り出されており、そのため深刻な労働者不足に陥っていました。そこで台湾にて台湾少年工を募集したそうです。勉強しながら働けば旧制工業中学卒業の資格が得られ、更には給料も出ると言う事で多くの若者が台湾より渡って来たとか。

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地下壕の眠る丘陵の上は芝生の広場が広がっていました。
この近くの神社に空襲で亡くなられた方々の慰霊碑があったりもするのですが、下調べがちゃんと出来てなかったためにそこも行ってません。
とにかく今回は不完全燃焼過ぎる結果となり、今一度ちゃんと巡る必要があると思います。

千葉県南房総市、大房岬要塞戦争遺跡群

千葉県は房総半島の先端近く、廃墟としては有名な南房総市富浦の大房岬(たいぶさみさき)の戦争遺跡群に行ってまいりました。

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以前より行こう行こうと思いつつ、館山の手前の富浦駅はいかんせん遠い。最近は2両編成の新型車両が内房線から外房線まで通しで走っているみたいですね。

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富浦駅から海岸線に出るとSNSで有名になった岡本桟橋があります。ここは夕暮れ時、富士山のシルエットが小さく見えたりして、超望遠で撮ればフォトジェニックなのかも。以前訪れた木更津の潮干狩り場ほど長くはないですが、夜になると明かりが灯ります。

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富浦駅から大房岬までは市営バスがオンデマンド方式で電話予約しないと走りません。レンタルサイクルあるかと調べてみると、有るには有るけど貸し出している場所が駅より徒歩18分の所にある道の駅で、電動アシスト自転車が1日1000円。目的地まで歩くと50分。面倒くさいから歩いちゃいました。

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大房岬の付け根、富浦漁港にある食堂おさかな倶楽部。この辺りにかつて戦車庫があったそうです。

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ちょうど昼も近いし食って行こうとお刺身3点盛り定食1280円。鮮度抜群だけど6切れかぁ。まぁ観光地だし。

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軍事施設の痕跡でもないかと見回していたら怪しい穴が。戦時中の軍関係の壕かどうかは定かでない。

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大房岬は断崖に囲まれているので、まずは急な坂道を登ります。電動アシスト自転車借りればよかったと後悔。坂の途中、もう使われて無い施設が。ここは駒澤大学セミナーハウスと言う保養施設でコロナ禍の影響から2022年9月に閉鎖されたそうです。

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岬の頂上に広がる大房岬自然公園内に砲台跡などの戦争遺跡群があります。見下ろせば先程いた富浦漁港が。

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こちらは草木に覆われてほとんど見えませんが、大房岬第一砲台の地下砲側弾薬庫跡。ちなみに第一砲台はその痕跡を残しておらず、砲台跡を模した展望台があるのみ。それはそうと夏に来るんじゃなかった。

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こちらは第二砲台跡。花壇にされております。横須賀に多く残る砲台跡と違い戦争遺跡を史跡として扱うつもりは無かったようです。大房岬要塞の砲台には巡洋艦「鞍馬」の副砲2門入り砲塔2基を40m間隔に設置され、これを砲塔砲座と言うそうです。

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こちらは第二砲台の弾薬庫跡。貫通通路の脇に部屋がありますが、浸水しているので近寄れません。第一次大戦後世界中で軍備縮小の気運が高まり、ワシントン海軍軍縮条約(1921年)によって日本を含めた五大海軍国が保有する主力艦の保有トン数が制限されました。その際廃棄される事となった旧式艦の主砲などを再利用しようと言う事となり、津軽海峡、対馬海峡、豊後水道、東京湾、それぞれの要塞に設置されたそうです。

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こちらは反対側の弾薬庫入り口。この大房岬要塞は元々幕末に台場が建設され、明治20年代より艦砲射撃の練習場として利用されていた場所に、昭和3年(1928年)から昭和7年(1932年)に掛けて建設されました。しかし航空機など兵器の進歩もあり、完成時にはすでに旧式化していたそうです。

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公園のビジターセンターの下にある第一探照燈掩灯所跡。こちらは夜に敵艦を照らすサーチライトが格納されていた地下施設そうです。ここよりさらに南の館山の向こう、房総半島突端に位置する洲崎に昭和2年(1927年)、巡洋艦「生駒」の砲塔砲座を備えた洲崎砲台が完成しています。

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右脇には小さな倉庫が。ともにコンクリート表面がボコボコしているのは赤煉瓦が剥がされた跡なのではないかと思われますがどうか。

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ビジターセンターからキャンプ場へ向かう途中に第二探照燈掩灯壕があります。まずは格納庫脇の入り口から入ります。

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こちらが格納庫の内部。壁面がとても綺麗に仕上げられています。

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地下に造られた格納庫の先には吹き抜け部分が。

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吹き抜けから格納庫を見るとこんな感じ。

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向かい側には第二照座までの下り坂トンネルがあります。建設当時である戦前、艦砲射撃だけで航空機からの爆撃は重要視されて無かったと想像するのですが、見事に地下施設にまとまってますね。
※時代背景としては満州事変、航空機はドイツでユンカースju52が開発される。

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真っ暗なトンネルの奥に進むと照明座の真下に出ます。ここからエレベーター方式でサーチライトが地上に飛び出る仕組み。パイロンが邪魔だなぁ。

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あまりにも真っ暗だし地面濡れてるし、もう引き返します。訪れたのが梅雨明け直前で、断続的に雨が続いてました。もう一度言います。夏に来るもんじゃない!あと懐中電灯必要!

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近くにある湧水地の奥に地下壕のような物が見えますが、地下通路の入り口でしょうか。

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こちらは発電所跡。内部はコンクリートで塞がれており、中までは見えません。ちなみにこの要塞もまた他の帝都防衛施設同様敵艦が東京湾に攻めて来る事もなかったので、実戦で火を吹く事がありませんでした。とは言っても度重なる空襲や訓練中の事故などによる犠牲者はおられました。

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最後に大房岬南側の入り江にある海軍秘密特殊部隊山岡部隊訓練基地跡。山岡部隊とは昭和19年(1944年)に館山市佐野の平砂浦海岸にあった館山海軍砲術学校で編成され、この場所で崖を登るなどの訓練をしていました。

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波打ち際に残るコンクリート遺構らしき物たちは当時の物でしょうか。館山海軍砲術学校の訓練は過酷な事で有名でしたが、その中で特に身体能力などに優れた生徒たちが送り込まれた山岡部隊の訓練はまさに過酷を極めていたそうです。

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こちらには終戦前、特攻兵器である人間魚雷回天10型が格納されていたと言われています。

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山岡部隊は元々回天による特攻が目的ではなく、一式陸攻による敵航空基地への強行着陸や潜水艦による潜入によって、フィリピンやサイパンなどの基地で破壊活動をするための特殊部隊だったそうです。

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海中には潜水艦が海に出るためのレールが沈んでいます。他の本土決戦のための桜花や震洋の基地同様ここから回天か出撃することはありませんでしたが、東シナ海の米軍基地に対する破壊工作はほぼ特攻のような物だったそうです。またこの部隊は英語も教育され、アメリカ本土でのスパイ活動も想定されていたとか。

7/18撮影。何はともあれ暑い。暫く更新出来なくても許して下さい。

千葉県柏市、陸軍高射砲第二連隊跡地にある廃屋群

今年2月、帝都を歩く様で紹介された千葉県柏市根戸にある陸軍高射砲第二連隊跡地にある謎の廃屋群がずっと気になっいて、自分もこの目で見てみたい!と思っていたものだから行ってしまいました。ネタを被せちゃってごめんなさい!

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JR常磐線を北柏駅で下車。駅は歩道橋が旧道と並走する水戸街道を越えた向こう側にあります。旧道を走る路線バスを待ちますが、しかしこの坂道とカーブ凄い見覚えがある、と思ったら以前訪れた秋水燃料庫跡(畑にブルボンのルーベラ突き刺したようなやつ)に向かう時、柏から乗ったバスで通った道でした。つまり同じバスでした。

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さてこちらが廃屋群です。ネットでは廃村と呼ばれていますが自分の中で「村」=「田舎」であり、柏市の住宅街が広がる中に姿を見せたここはむしろゴーストタウンと呼びたい。そう言ってまたゴーストタウンネタの弾数を増やそうとする。

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区画は柵で囲まれていますが、およそ12棟ほど、2つの区画で中央の通りは通り抜けられます。

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北東側の建物が木造でかなり古そうなのですが、どうも1970年前後の物の様です。もっと古い戦後建築のようにも見えますが、年代はウチの実家と同じぐらいでウチも木造平屋だから似たような感じ。

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隣の家屋はこんな感じ。外壁にモルタルを塗っただけで近代的に見えます。グリーンフェンスの網目から撮ると全体像写すのが難しい。このフェンスは2015年の時点で建てられたとか。

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この土地は元々陸軍高射砲第二連隊の第十四部隊将校集会所跡地に相当します。

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戦後しばらく建物が残っていましたが徐々に宅地開発が進み、昭和45年(1970年)前後にこれらの建物が建てられたと思われます。そして昭和54年(1979年)までちょうどこの位置に将校集会所の建物があったそうです。

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しかしこの一角は戦後ずっと国有地だったようで、建てられたのは公務員住宅だったと言う話があります。

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中央の通りから西側へ、奥の方まで続く木造平屋建て長屋。一説には大蔵省の宿舎と言う話と国立病院の看護師の宿舎と言う話もある。公務員住宅ならばどちらも正解かと思われるが、1980年代にはすでに人が住んでいなかったと言う話もある。

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また、この区域は地中の空洞を示す地中レーダー調査結果の図面がフェンスに複数張り出されていたそうです。将校集会所があった事から防空壕跡と言う説が濃厚ですが、特にその辺のことを詳しく調査する人も居ないでしょう。とにかく陥没の危険があると言う事。

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南側は路地を挟んで宅地化されています。陥没の危険があるから無住となったのか、ただ公務員住宅としての役目を終えたから無住となったのか、そこのところは定かではありませんが、恐らくは後者でしょう。

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ともあれ国有地と言う性質上、土地の売却が何十年も放ったらかしにされていたのでしょうか。ただ、公務員住宅にしては建物の統一性が見られないとの指摘の通り、確証はもてず謎だけが残ったままであります。

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ただ、地中レーダー調査があったためか、たまに草刈りされていた痕跡もあります。

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西側は新しい戸建て住宅が密接して建てられていますが、この西側にもかつては3棟の団地が建てられていたそうです。しかし2017年の時点で解体され戸建て住宅になったとか。

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さらに西側には4棟からなる市営根戸団地があります。ベランダに増設されてるのはユニットバスかシャワールーム。ただこの造りの物は風呂に入る際一度外気に触れるため、冬場なんかに心臓発作で倒れた人がいたと言う事例もあります。

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こちらの棟は建屋壁面からボイラーの排気口が突き出しているのを見るに、最初から風呂付きのようです。ちなみにこの団地は廃墟群が建てられたのと同じ頃の昭和43年(1968年)から47年にかけて建てられたそうです。それ以前ここには陸軍高射砲第二連隊の兵舎が建てられており、戦後は引揚者寮として使われていたとか。

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市営根戸団地と並行して右手、南側に同じく4棟並んでいるのは、柏市市営高野台改良住宅団地。こちらの方が先に建っており、竣工は昭和39年(1964年)から42にかけて。

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市営住宅から南東にある高野台児童公園に陸軍高射砲第二連隊の営門の門柱が移設保存されています。ここより西、現在の柏の葉公園辺りに陸軍柏飛行場が昭和13年開設され、同時にこの高射砲連隊も設営されました。北西側にある秋水燃料庫も柏飛行場の関連施設です。

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こちらも移設保存されている歩哨所。高射砲第二連隊に関しては帝都を歩くさんの記事にてとても細かく解説されています。

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更に南に歩くと、照空予習室及測遠機訓練所と言う建物があります。戦後外壁が白く塗り替えられて柏市西部消防署根戸分署として再利用されていました。側面の突起は陸軍施設時代のクレーンの支柱。

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もともと内部は吹き抜け構造で外階段にて屋上にあがり、測遠機で航空機との距離を測る訓練をしてたそうです。ちなみに昭和18年(1943年)、高射砲第二連隊が東京へ移転すると、東部歩兵第83部隊と東部工兵第14部隊が跡地を利用する事となったそうです。

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南端の畑の傍らに、陸軍の境界石が残っていました。

埼玉県桶川市、熊谷陸軍航空学校桶川分教場跡

旧日本海軍における飛行学校の中枢が以前訪れた土浦海軍航空隊予科練であるのに対し、旧日本陸軍における飛行学校が所沢陸軍飛行学校および熊谷陸軍飛行学校などになります。ちなみに予科練と言う言い方は海軍でしか使わないようです。

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その熊谷陸軍飛行学校の分校が保存されていると言う事で桶川に降り立ちました。桶川の中心街は西側であり、駅前には巨大駐車場を併設した東武ストアが。

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バスの時間までちょっとあったので裏口と言える東側を軽く歩きました。かつては商店街として多少栄えていたようですが、大半の建物は解体され駐車場や空き地になっています。

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そんな中、商店街の面影を残す建物が。ただしとっくに閉業となっている様子。

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こちらはパン屋さん跡の裏の玩具屋さん跡。ほんとにこう言った個人商店て生き残ってないです。

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それはさておき本題に入ります。JR桶川駅から西へバスで10分。荒川の河川敷に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場があります。荒川の向こう岸にはかつて滑走路があったとか。

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道すがら、周辺から集められた陸軍の境界石が何基も置かれています。

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こちらが桶川分教場。飛行機は第一次世界大戦で初めて軍事利用が始まりましたが、日本に於いては大正9年(1920年)、陸軍所沢航空大隊に航空学校が開校しました。その跡地は後に航空自衛隊入間基地となります。

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正門左手には守衛棟が残っています。陸軍が航空兵力の増強に本腰を入れ始めたのは満州事変からと言われてますが、昭和10年(1935年)、熊谷に陸軍熊谷飛行学校が開校し、その2年後の昭和12年(1937年)、ここ桶川分教場が開校しました。

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守衛棟の内部。畳や電灯などが当時の姿に再現されています。

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守衛棟の脇にはコンクリート造の弾薬庫が。小さいですが学校なので銃弾が多少あればいいんでしょう。

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正門を入ると右手に車庫棟があります。ちなみに海軍の方では昭和4年(1929年)、横須賀海軍航空隊の中で予科練習制度が設けられ、14歳以上20歳未満が飛行技術を学ぶ事となります。

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車庫棟の天井。これらの建物は一度解体し、腐った部分などを接木で再生させ、再度組み立てるという復元整備のための大改修工事を行いました。ちなみに改修前の状態は帝都を歩く様で詳しくレポートされています。比べて見ると本当に綺麗に復元された事が分かります。

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こちらが兵舎棟。工事が終わった令和2年(2020年)、桶川飛行学校平和祈念館として再び一般公開される事となりました。終戦の年、昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校と並んで桶川分教場も閉校となり、以降終戦まで特攻隊の訓練場となりました。

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内部は綺麗に磨かれており、戦前の建物とは思えないほど。この兵舎は戦後GHQに摂取され、その後戦地からの引揚げ者や戦災による生活困窮者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。

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宿舎棟には貴重な写真や資料などが展示されています。当時の練習機と言えば複葉機の九五式I型中間練習機、通称赤とんぼと呼ばれていた機体。

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寝室が再現されています。狭いので足と頭を交互にして寝る形に。太平洋戦争に於いては多くの少年や青年たちがここで寝食を共にしながら学び、戦地へと送られて行きました。

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こちらは当時の教科書。改めて考えてみれば戦争以前までの日本語って、漢字とカタカナなんですよね。漢字と平仮名と言う現代の文章って、戦後の学校教育から一般化したと言った感じで100年も経っていない事になります。もちろん平仮名は平安時代から存在していましたが、あくまで私的文書や女性が使う文字とされていました。

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宿舎棟の奥には便所棟があります。他にも幾つか棟がありましたが、GHQに摂取された際に取り壊されたそうです。

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ここも当時の形に復元されています。

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内部は学校当時の内装に復元されていますが、2006年まで市営住宅として人が住んでいたそうです。

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改修工事がされたとは言え、ここまで当時の姿を残していたと言うのが奇跡的と言えましょう。今後ロケ地などにも活用出来そうですね。

神奈川県横須賀市、千代ヶ崎砲台跡

さて、走水砲台と川間ドックの後は観音崎の南の岬にある千代ヶ崎砲台跡に行ってみます。

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川間ドックの少し先、急な坂道を延々と登って行くと千代ヶ崎砲台に辿りつきます。こちらは走水砲台に比べると全然高い位置にあります。土曜日曜祝日のみの公開となりますが、ボランティアガイドによる親切な案内と説明もあります。いずれも無料ですが、ガイドをしてもらうと地下内部まで入らせてもらえます。

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千代ヶ崎砲台は明治28年(1895年)完成。こちらは塁道という通路。左手の盛り土された部分の向こう側が砲台となります。明治大正期の砲台は基本的には石積みで、ところどころに煉瓦が使われています。ちなみに東京湾の砲台に使われている石材は、対岸の富津市鋸山で産出された房州石と言われています。

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ここは終戦まで使われていましたが、戦後、昭和35年(1969年)より海上自衛隊の通信施設、千代ヶ崎送信所として利用されてました。左手のコンクリートの壁面は自衛隊施設時代の名残り。ちなみにコンクリートは幕末より日本に入って来ていましたが、一般的に建築で使われるようになったのは関東大震災後と言われています。

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塁道から各砲座までは地下通路で繋がっています。千代ヶ崎送信所は2013年に閉鎖され、2016年に横須賀市管轄となります。以降、埋め立てられた砲座を掘り返すなどの発掘作業や施設整備を経て、2021年に一般公開されるようになりました。

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濾過池(奥)と沈殿池(手前)。こちらでは雨水を集めて濾過し、飲料水としていました。

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明治20年代以降の建築なので、ここの煉瓦はオランダ積み(イギリス式)となります。入り口付近の色が黒っぽい煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と言って、焼き過ぎる事で撥水効果を出しているとか。

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雨水が当たる所は黒ずんだ焼き過ぎ煉瓦。煉瓦建築も知れば知るほど奥が深い。

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塁道に面しているのは兵員詰所や倉庫。火薬はその奥の地下部分になります。

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兵員詰所を内部から見たところ。当時の鉄扉や窓枠などの金属部品は、戦後の混乱期に悉く盗まれてしまったとか。左下の小さな穴は換気口。

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部屋の一番奥には排気口があります。

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排気口の地上部分はコンクリートで埋められてました。

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こちらが詰所の奥にある火薬庫。

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火気厳禁なのでランプは部屋の外にあり、明かり取りから採光する形。

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火薬庫の中には地上の砲座に火薬を揚げる縦穴が2箇所あります。

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火薬庫の奥の階段を昇り砲座に出て来ました。

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千代ヶ崎砲台には3箇所の砲台があり、それぞれに28ミリ榴弾砲が2門づつ、計6門の大砲がありました。

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砲台は土塁に囲まれたすり鉢状となっています。これは敵艦に発見されないためで、逆に砲撃する際は観測所から角度やタイミングが指示されます。

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昔の潜水艦映画などで見るような、通信するための管。これで観測所からの指示が届きます。ガイドさんの説明を聞きながら巡ると砲台の構造が良く理解出来て面白いです。

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これが砲座の一つを上から見たところ。東京湾要塞の砲台は、その大部分が三浦半島に集中しています。それはひとつに東京湾の入り口である浦賀水道が、最も対岸との距離が近い事。もうひとつは千葉県側は遠浅で水深が浅いため、艦船はどうしても三浦半島の東海岸に沿って航行しなければならない事。

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一度埋まっていたこれらの砲座を掘り出したと言うのだから、ほぼ発掘作業ですね。また当時の大砲は飛距離も無く命中率も低いため、浦賀周辺以外に造る意味があまり無かったそうです。

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こちらは先程まで歩いていた塁道を土塁の上から見たところ。この千代ヶ崎砲台は他の各砲台と同様、結局火を噴く事はありませんでした。それもそのはず、大艦隊で東京湾に押し寄せたところで、浦賀水道を抜けるには一直線に並ぶしか無く、いい標的となってしまうのでわざわざ東京湾から上陸しようとは思いません。実際、太平洋戦争末期、アメリカが計画した首都制圧作戦(コロネット作戦)では相模湾と九十九里浜に上陸する予定でした。

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もちろん抑止力としての役目は果たしましたが、それ以前に徳川家康が幕府を開く地に江戸を選んだ時点で、天然の要塞は出来上がっていたとも言えます。
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都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

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