6月頭、駅前の青線地帯跡でちょっと飲んで以来の再訪です。

その青線地帯跡の長屋の一軒、美味いと噂だったカレー屋にまず入ります。

カレー専門店印度。女将さん一人で切り盛りされてますが、本格的なスパイスカレーです。美味い。

そんな訳で松戸駅西口から巡ります。北寄りの外れには、見るからに潰れたデパート跡が。こちらは1977年開店のダイエー松戸駅西口店の跡。去年、2024年8月に閉店となったそうです。

ひたすら西へ歩いて行くと江戸川にぶつかります。納屋河岸跡は江戸〜明治時代の水運の名残り。鉄道が開通した明治29年(1896年)より衰退していきます。

江戸川河川敷に出ました。納屋河岸は水運の物流拠点で、特に銚子からの鮮魚は利根川を遡上し我孫子市の布佐にて一度陸揚げされ、鮮魚街道(又はなま街道)で陸路松戸まで運ばれ、ここから日本橋の魚河岸まで再び船で運ばれていたそうです。醤油は利根川と江戸川が分岐する境町まで大回りして高瀬舟1本で運ばれていましたが。

納屋河岸の常夜灯。実際河岸があった当時は今のような土手が無く、土手の位置に河岸の町並みが続いていたそうです。今思い出しましたが、そう言えば4月に訪れた松戸市立博物館に、河岸のミニチュアが展示されていた!なんで撮ってなかったんだ!

土手から降りた所に平潟神社があります。この神社の東側一帯がかつて遊郭だった場所になります。

神社の傍らには使われなくなり封鎖された祠が。祠の前には撤去された石碑やらなんやら。物置き的な感じになってます。

神社の脇の草むらに横たわる石材には氏子の文字が確認出来ます。遊郭関連の屋号とか有ればと思いましたが、見つける事は出来ませんでした。

その草むらに立つ、昔の街灯。恐らくは遊郭が存在した時代、大正から昭和初期の物かと思われます。

かつて大門があった辺りから遊郭の跡地を見るとこんな感じ。すでに普通の住宅街となっており、建造物などは残っていません。

しかし遺構として当時の電柱及び街灯の支柱だけは残っていました。

こちらも当時の街灯。平潟遊郭は江戸時代、河岸の船宿が旅籠となりそこで働いてた飯盛り女が発祥とされています。

明治に入り貸し座敷業として存続していましたが、明治31年(1898年)各所の貸し座敷が統合され平潟遊郭が誕生したそうです。すでに常磐線が開通し、隣接する納屋河岸が廃れ始めた時代。

昔の電柱をアップで見るとこんな感じ。今でも街灯の支柱として利用されている物もあります。

その後平潟遊郭は戦時中の昭和17年から18年、王子兵器という会社に売られて寮となり、学生と徴用工が入っていました。この時点で平潟遊郭は実質消滅したそうです。

今回発見出来た当時の電柱は6本でしたが、実際はもっと有るかも知れません。戦後、かつての遊郭はその殆どが旅館などに転業させられましたが、3軒だけパンパン宿やGHQの要請によるダンスホールなどとして存続しました。

古いアパートのような建物もありますが、遊郭との関係は不明。しかしその後、多くの建物が中国や満州からの引揚者寮や学生寮、北朝鮮への帰国者寮、戦災者寮などに使われ、現在住宅街として開発されています。

ネットによればこの辺りに当時の柳の木が残っていたそうですが、それもすでに伐採されていました。

さて今度は東口に向かいます。土止めのように崖地を背負うイトーヨーカドー。

丘の上には陸軍工兵学校跡があります。敷地は現在聖徳大学と一部松戸中央公園となっています。

公園の南東側に門柱と歩哨哨舎跡が残っています。この丘陵地帯は元々相模台城跡と言う城跡で、明治40年(1907年) から大正8年(1919年) まで松戸競馬場となっていました。その後競馬場は帝国陸軍に摂取され、終戦まで陸軍工兵学校となりました。煉瓦造りの門柱は工兵学校開設当初の物。

こちらが歩哨哨舎跡。開設当初は木造だった物を昭和初期にコンクリート造に建て替えました。

丘陵の南側に降りて行くと旧・帝国陸軍の境界石が残っています。終戦とともに廃止された陸軍工兵学校の跡地には港区田町より東京工業専門学校(後の千葉大学工学部)が移転して来ましたが昭和39年(1964年)に千葉市へ移転。その後大田区大森の聖徳大学が移転して来て今に至ります。

こちらも数少ない境界石。そんな訳で特に大きな遺構などは残っていなかった松戸でした。

その青線地帯跡の長屋の一軒、美味いと噂だったカレー屋にまず入ります。

カレー専門店印度。女将さん一人で切り盛りされてますが、本格的なスパイスカレーです。美味い。

そんな訳で松戸駅西口から巡ります。北寄りの外れには、見るからに潰れたデパート跡が。こちらは1977年開店のダイエー松戸駅西口店の跡。去年、2024年8月に閉店となったそうです。

ひたすら西へ歩いて行くと江戸川にぶつかります。納屋河岸跡は江戸〜明治時代の水運の名残り。鉄道が開通した明治29年(1896年)より衰退していきます。

江戸川河川敷に出ました。納屋河岸は水運の物流拠点で、特に銚子からの鮮魚は利根川を遡上し我孫子市の布佐にて一度陸揚げされ、鮮魚街道(又はなま街道)で陸路松戸まで運ばれ、ここから日本橋の魚河岸まで再び船で運ばれていたそうです。醤油は利根川と江戸川が分岐する境町まで大回りして高瀬舟1本で運ばれていましたが。

納屋河岸の常夜灯。実際河岸があった当時は今のような土手が無く、土手の位置に河岸の町並みが続いていたそうです。今思い出しましたが、そう言えば4月に訪れた松戸市立博物館に、河岸のミニチュアが展示されていた!なんで撮ってなかったんだ!

土手から降りた所に平潟神社があります。この神社の東側一帯がかつて遊郭だった場所になります。

神社の傍らには使われなくなり封鎖された祠が。祠の前には撤去された石碑やらなんやら。物置き的な感じになってます。

神社の脇の草むらに横たわる石材には氏子の文字が確認出来ます。遊郭関連の屋号とか有ればと思いましたが、見つける事は出来ませんでした。

その草むらに立つ、昔の街灯。恐らくは遊郭が存在した時代、大正から昭和初期の物かと思われます。

かつて大門があった辺りから遊郭の跡地を見るとこんな感じ。すでに普通の住宅街となっており、建造物などは残っていません。

しかし遺構として当時の電柱及び街灯の支柱だけは残っていました。

こちらも当時の街灯。平潟遊郭は江戸時代、河岸の船宿が旅籠となりそこで働いてた飯盛り女が発祥とされています。

明治に入り貸し座敷業として存続していましたが、明治31年(1898年)各所の貸し座敷が統合され平潟遊郭が誕生したそうです。すでに常磐線が開通し、隣接する納屋河岸が廃れ始めた時代。

昔の電柱をアップで見るとこんな感じ。今でも街灯の支柱として利用されている物もあります。

その後平潟遊郭は戦時中の昭和17年から18年、王子兵器という会社に売られて寮となり、学生と徴用工が入っていました。この時点で平潟遊郭は実質消滅したそうです。

今回発見出来た当時の電柱は6本でしたが、実際はもっと有るかも知れません。戦後、かつての遊郭はその殆どが旅館などに転業させられましたが、3軒だけパンパン宿やGHQの要請によるダンスホールなどとして存続しました。

古いアパートのような建物もありますが、遊郭との関係は不明。しかしその後、多くの建物が中国や満州からの引揚者寮や学生寮、北朝鮮への帰国者寮、戦災者寮などに使われ、現在住宅街として開発されています。

ネットによればこの辺りに当時の柳の木が残っていたそうですが、それもすでに伐採されていました。

さて今度は東口に向かいます。土止めのように崖地を背負うイトーヨーカドー。

丘の上には陸軍工兵学校跡があります。敷地は現在聖徳大学と一部松戸中央公園となっています。

公園の南東側に門柱と歩哨哨舎跡が残っています。この丘陵地帯は元々相模台城跡と言う城跡で、明治40年(1907年) から大正8年(1919年) まで松戸競馬場となっていました。その後競馬場は帝国陸軍に摂取され、終戦まで陸軍工兵学校となりました。煉瓦造りの門柱は工兵学校開設当初の物。

こちらが歩哨哨舎跡。開設当初は木造だった物を昭和初期にコンクリート造に建て替えました。

丘陵の南側に降りて行くと旧・帝国陸軍の境界石が残っています。終戦とともに廃止された陸軍工兵学校の跡地には港区田町より東京工業専門学校(後の千葉大学工学部)が移転して来ましたが昭和39年(1964年)に千葉市へ移転。その後大田区大森の聖徳大学が移転して来て今に至ります。

こちらも数少ない境界石。そんな訳で特に大きな遺構などは残っていなかった松戸でした。































































































































































