戦争遺跡

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千葉県松戸市、平潟遊郭跡地と陸軍工兵学校跡

6月頭、駅前の青線地帯跡でちょっと飲んで以来の再訪です。

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その青線地帯跡の長屋の一軒、美味いと噂だったカレー屋にまず入ります。

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カレー専門店印度。女将さん一人で切り盛りされてますが、本格的なスパイスカレーです。美味い。

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そんな訳で松戸駅西口から巡ります。北寄りの外れには、見るからに潰れたデパート跡が。こちらは1977年開店のダイエー松戸駅西口店の跡。去年、2024年8月に閉店となったそうです。

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ひたすら西へ歩いて行くと江戸川にぶつかります。納屋河岸跡は江戸〜明治時代の水運の名残り。鉄道が開通した明治29年(1896年)より衰退していきます。

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江戸川河川敷に出ました。納屋河岸は水運の物流拠点で、特に銚子からの鮮魚は利根川を遡上し我孫子市の布佐にて一度陸揚げされ、鮮魚街道(又はなま街道)で陸路松戸まで運ばれ、ここから日本橋の魚河岸まで再び船で運ばれていたそうです。醤油は利根川と江戸川が分岐する境町まで大回りして高瀬舟1本で運ばれていましたが。

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納屋河岸の常夜灯。実際河岸があった当時は今のような土手が無く、土手の位置に河岸の町並みが続いていたそうです。今思い出しましたが、そう言えば4月に訪れた松戸市立博物館に、河岸のミニチュアが展示されていた!なんで撮ってなかったんだ!

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土手から降りた所に平潟神社があります。この神社の東側一帯がかつて遊郭だった場所になります。

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神社の傍らには使われなくなり封鎖された祠が。祠の前には撤去された石碑やらなんやら。物置き的な感じになってます。

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神社の脇の草むらに横たわる石材には氏子の文字が確認出来ます。遊郭関連の屋号とか有ればと思いましたが、見つける事は出来ませんでした。

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その草むらに立つ、昔の街灯。恐らくは遊郭が存在した時代、大正から昭和初期の物かと思われます。

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かつて大門があった辺りから遊郭の跡地を見るとこんな感じ。すでに普通の住宅街となっており、建造物などは残っていません。

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しかし遺構として当時の電柱及び街灯の支柱だけは残っていました。

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こちらも当時の街灯。平潟遊郭は江戸時代、河岸の船宿が旅籠となりそこで働いてた飯盛り女が発祥とされています。

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明治に入り貸し座敷業として存続していましたが、明治31年(1898年)各所の貸し座敷が統合され平潟遊郭が誕生したそうです。すでに常磐線が開通し、隣接する納屋河岸が廃れ始めた時代。

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昔の電柱をアップで見るとこんな感じ。今でも街灯の支柱として利用されている物もあります。

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その後平潟遊郭は戦時中の昭和17年から18年、王子兵器という会社に売られて寮となり、学生と徴用工が入っていました。この時点で平潟遊郭は実質消滅したそうです。

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今回発見出来た当時の電柱は6本でしたが、実際はもっと有るかも知れません。戦後、かつての遊郭はその殆どが旅館などに転業させられましたが、3軒だけパンパン宿やGHQの要請によるダンスホールなどとして存続しました。

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古いアパートのような建物もありますが、遊郭との関係は不明。しかしその後、多くの建物が中国や満州からの引揚者寮や学生寮、北朝鮮への帰国者寮、戦災者寮などに使われ、現在住宅街として開発されています。

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ネットによればこの辺りに当時の柳の木が残っていたそうですが、それもすでに伐採されていました。

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さて今度は東口に向かいます。土止めのように崖地を背負うイトーヨーカドー。

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丘の上には陸軍工兵学校跡があります。敷地は現在聖徳大学と一部松戸中央公園となっています。

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公園の南東側に門柱と歩哨哨舎跡が残っています。この丘陵地帯は元々相模台城跡と言う城跡で、明治40年(1907年) から大正8年(1919年) まで松戸競馬場となっていました。その後競馬場は帝国陸軍に摂取され、終戦まで陸軍工兵学校となりました。煉瓦造りの門柱は工兵学校開設当初の物。

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こちらが歩哨哨舎跡。開設当初は木造だった物を昭和初期にコンクリート造に建て替えました。

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丘陵の南側に降りて行くと旧・帝国陸軍の境界石が残っています。終戦とともに廃止された陸軍工兵学校の跡地には港区田町より東京工業専門学校(後の千葉大学工学部)が移転して来ましたが昭和39年(1964年)に千葉市へ移転。その後大田区大森の聖徳大学が移転して来て今に至ります。

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こちらも数少ない境界石。そんな訳で特に大きな遺構などは残っていなかった松戸でした。

東京都武蔵野市、中島飛行機武蔵製作所引き込み線跡

以前立川飛行機の関連遺構を巡った際、立川飛行機と時を同じくして空襲の標的となった中島飛行機武蔵製作所の存在を知りました。

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今回、戦前までは中島飛行機武蔵製作所の引き込み線で戦後に国鉄武蔵野競技場線となった線路の廃線跡を巡ります。起点は三鷹駅の西にある三鷹車両基地の北側、堀合児童公園から。
※写真は撮影時間の時系列が逆となります。

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三鷹(東)側からの線路は戦後、国鉄武蔵野競技場線として敷かれた物となります。廃線跡はその全線が緑道にされており、googlマップで見ると廃線跡の軌跡がはっきりと分かります。

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三鷹で分岐した線路は北へ向かってカーブを描いて行きます。

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境浄水場の手前で玉川上水を渡ります。ここに掛け直された橋にだけ、ここが廃線跡だと示すように線路が埋め込まれていました。

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ここに唯一の遺構である橋台跡が残っているのですが、夏草に覆われてほとんど見えません。

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それとは別に、武蔵境(西)側から分岐して北へカーブを描く廃線跡もあります。こちらは大正13年に建設された境町浄水場まで濾過用の砂の運搬のために敷かれました。しかし昭和13年、ここより北に中島飛行機武蔵製作所が建てられると、工場までの物資の運搬にも利用されます。

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分かりやすく説明するとこんな感じ。戦時中は武蔵境から中島飛行機までの専用線、戦後は三鷹から国鉄武蔵野競技場線の線路が繋がり、武蔵境からの線路は元の砂運搬の引き込み線へと戻ります。

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武蔵境からの廃線跡にも玉川上水を渡る橋台が残っているのですが、いかんせん草木に覆われて水面すらも見えませんでした。冬になれば多少見えるかも知れませんが。写真右(北)側は境浄水場で左(南)側には玉川上水。

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かつての専用線はここから境浄水場の敷地に入り、濾過するための砂を集積していたそうです。

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少々話が逸れます。全体像こそ見えませんが浄水場は玉川上水に沿うような形で幅300m、長さ750mと言う広大な敷地に2列の水槽が連なっています。

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この境浄水場は大正13年(1924年)通水。緩速濾過方式の浄水場としては日本最大規模だそうです。

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浄水場の西端、村山貯水池(多摩湖)及び山口貯水池(狭山湖)から引き込まれて来る上水道には狭山・境緑道が続いています。またこの水は、ここから東へ井の頭通りの下を通って和田堀給水所にも流れて行きます。一度この一連の水の流れをまとめてみたい。

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また、境浄水場の南西角には玉川上水から千川上水が分岐する境水衛所跡があります。右(東)に流れて行くのが玉川上水、左(北)へ流れて行くのが千川上水。

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この境水衛所は江戸時代水番所と呼ばれ、玉川上水の水量の確認や流されて来る落ち葉の撤去などがされてました。

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こちらは千川上水への水量を調整する堰。境水衛所は昭和55年(1980年)新宿西口の淀橋浄水場が廃止された事に伴い玉川上水の利用が終了した事で廃止されました。

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ここより分岐して行く千川上水はかつて練馬を通り巣鴨まで至る上水道でした。現在では一部浄化された下水も流れ込みながら青梅街道沿いを流れて善福寺川へと流入しています。

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さて、話を廃線跡に戻し境浄水場東端から北へ歩いて行きます。ここから先は昭和13年(1938年)に完成した中島飛行機(現・スバル)武蔵製作所の引き込み線として開通しました。昭和13年と言えば立川飛行機製作所の完成と同じ年ですね。

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途中、関前高射砲陣地跡があります。米軍は昭和19年(1944年)7月のサイパン占領で、日本本土へ直接往復できるマリアナ諸島を確保してB29を配備。同年11月24日のB29による東京初空襲の際、中島飛行機武蔵製作所に対しても爆撃が行われました。

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廃線跡は現在グリーンパーク緑道として整備され、沿道には幾つもの小規模な公園が併設されています。ただ、少子化のためか子供が公園で遊ばなくなったためか、雑草が生い茂るままになっている所も。

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しばらく歩くと廃線跡は、戦時中に工場へと引き込まれて行った真っ直ぐ北へ進むルートと右へとカーブを描くルートに分岐します。

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こちらは戦後、国鉄武蔵野競技場線として敷かれたルート。昭和26年、工場跡地に建設された武蔵野競技場内の武蔵野グリーンパーク野球場への旅客輸送を目的として開通しました。

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グリーンパーク緑道は武蔵野中央公園で終点となります。この公園は中島飛行機武蔵製作所の跡地で、戦後より昭和48年(1973年)までアメリカ軍の住居として利用されていました。このグリーンパークと言う名前も当時進駐軍が使用していた地名に由来するとか。

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武蔵野中央公園の東側には都営住宅とUR団地が広がっており、この辺りが武蔵野グリーンパーク野球場の跡地と思われます。野球場は当初プロ野球チーム(一説には国鉄スワローズ本拠地のために元逓信省総裁松前重義の尽力で建設と言われているが秘密裏に進められていたため確証は無い)のホームグランドとして誘致していましたが、都心部からの遠さやスタジアム設備の悪さからプロ野球の本拠地招致に失敗。以降球場は単なる競技施設となり翌年からは列車も運行されることがなくなり1956年(昭和31年)に閉鎖。それを受けて国鉄武蔵野競技場線も昭和34年(1959年)廃線となりました。
ちなみに国鉄スワローズは昭和27年(1952年)よりフランチャイズ制が導入され、読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地としました。

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公園内にあるこの場所は、中島飛行機武蔵製作所があった当時、爆撃目標とされた地点だとか。ちなみに武蔵野中央公園には閉鎖された野球場の他に陸上競技場や体育館、市営サッカーグランドなどもあります。特にサッカーグランドは横河武蔵野フットボールクラブ(旧・横河電機実業団チーム)のホームでJ3を目指したが、2019年観客動員数が見込まれずに断念しています。

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近くの案内板には飛行機工場があった当時の写真プレートが幾つか展示されています。

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こちらは塞がれていますが、下には後に発掘された工場の地下通路跡が眠っているそうです。

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団地の南側には団地の住民たちが利用するためか、はたまたそれ以前よりあったのか、グリーンパーク商店街があります。
今回は廃線跡を中心にその周辺を散策しましたが、当時の遺構と呼べる物が非常に少なかったです。歩き回った割には収穫が少なかった。

千葉県銚子市(4)、ゴーストタウン化が進む市営住宅

千葉県銚子市(1)、銚子の街並み
千葉県銚子市(2)、旧・赤線地帯跡のスナック街
千葉県銚子市(3)、外川の犬吠埼市営住宅

とにかく暑いからどこにも行きたくないのが正直なところですが、頑張って再び銚子へ。
今回は素直に秋葉原、錦糸町、千葉乗り換えで各駅停車。2310円で自宅からおよそ3時間かかるのですが、特急しおさいを利用すると約2時間半で3890円。房総特急コスパ悪いなぁ。

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銚子駅の観光案内所で電動アシストのレンタルサイクルを借りて西へ。線路の南側にはヒゲタ醤油があります。古い建屋も多く残っていそうですが、コロナ以来工場見学は休止中のまま。

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そのまま銚子高校を横目に丘陵地を登って行くと、住宅街の中に下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地であることを示す翔天の碑が。昭和11年(1936年)ここより西側に銚子飛行場が建設されましたが、現在では宅地化が進む農地で、その痕跡はほぼ見られません。

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さらに南へ程近く、市営三崎住宅があります。

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こちらの敷地は非常に広く、43棟が現存していました。

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建物は全て木造モルタル造の平屋建て、6畳と3畳の2DKで181戸となります。

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ここは昭和39年(1964年)から随時完成しつつ、昭和43年(1968年)には最後の区画が完成。

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しかし現在では老朽化が進み、新規入居募集を終了。

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高齢化が進みほとんどが夏草が生えるに任せた廃墟と化しています。

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トイレのある位置。肥溜めは隣の家と共用で臭気を抜く煙突が縦に伸びています。汲み取りの蓋が二つあるので、一応肥溜めは分かれているのでしょうか。

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て言うか果たして下水道は完備されているのだろうか。20年ぐらい前、津田沼に住んでいた友人のアパートが汲み取り式で、それを最後に見ていないのですが。

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何しろ生活排水がダイレクトにドブへとつながっている様子なのです。よくよく見てみるとこの一帯にはマンホールと言う物が見当たらない。下水処理人口普及率を調べたところ千葉県では77.6%だそうです。ちなみに東京都は99.7%、全国平均で81.7%。
………と、徳島19.5%⁉︎

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住人は見た感じですが10軒あるか無いか。無住となった棟などは草も生え放題。

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恐らく家賃は相当安いんでしょうね。

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団地入り口には地図でも掲示されていたのでしょうか、看板のような物の痕跡が。

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さて、一旦銚子駅前まで戻りそのまま東へ。太平洋に面した銚子外港まで来ました。

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展望タワーがありますが登らない。

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内陸部に入ると漁業で財を成した立派なお屋敷などが点在しております。

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そんな中にあるのが旧・西廣家。江戸時代末期に紀州から来て銚子に移り住み漁業を始めました。今も銚子を代表する船主です。主屋は住まわれているので非公開ですが明治10年(1877年)に建てられた木造平屋桟瓦葺。

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元々平屋建てだった鰹節製造所を、地方からやってきた従業員の居住スペースを確保するために昭和10年(1935)に2階建てに改造しました。痛みが早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場の稼働も開始します。

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こちらは1865年から1868年(江戸時代末期慶応年間)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物。現在は漁網の他、船舶を補修するための器具や建具、高膳などが置かれています。

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煉瓦塀の建築年代は不明ですが、大正末期から昭和初期に設置されたようです。ちなみに倉庫内部の一般公開は第2第4日曜日だそうです。

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さて、丘陵の上の方へ登って行くと市営黒生町住宅があります。ほとんど剥がれてしまったアスファルト舗装。マンホールが見当たらない事から、簡易的な下水管は埋設されているも汲み取り式便所なのではないかと。

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ここは銚子市の市営住宅の中で最も古く、昭和31年(1956年)〜32年にかけて建造。

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10棟32戸が現存しておりますが、特に老朽化が激しく屋根など崩壊しかけている棟も。

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間取りは1K、2K、3Kと3種類あります。すでにゴーストタウンと化していると思っていましたが、一軒だけもしかしたら住んでいらっしゃるかも知れない。

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周辺は普通に住宅街が広がっており、ここだけが取り残されたような形に。

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銚子市には前回訪れた市営犬吠埼住宅もそうですが、他にも外川台町住宅など木造平屋建ての団地が多く残っています。

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高齢化や過疎化による人口減少で老朽化した市営住宅は解体されて行くかと思われますが、予算の問題などもあると思われますし基本放置なのかなとも思います。

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最後に駅前を右手に行った所にある吉原食堂。

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雰囲気やよし。地元に愛される昭和の大衆食堂な感じ。

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アジフライ定食。小ぶりのアジ2匹とイワシでしょうか魚フライ2切れ、カボチャのフライ、これで980円。なかなか安いのでは。
ちなみにビールも頼んでいますがレンタルサイクル返却した後なので、飲酒運転はしてません。

東京都立川市、東大和市、立川飛行機と日立航空機変電所跡

東京都立川市にある旧陸軍立川飛行場周辺の戦争遺跡を巡って来ました。

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JR中央線立川駅の北側。多摩モノレールの左手には立飛ホールディングスが2020年にオープンした複合施設、グリーンスプリングスが続いています。

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その裏手には国営昭和記念公園が広がっています。大正11年(1922年)開設された陸軍立川飛行場は終戦後GHQに摂取され米軍基地として利用されて来ましたが、跡地は現在の陸上自衛隊立川駐屯地ならびに昭和記念公園となっています。

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その不動産賃貸業などを営む立飛ホールディングスの前身が立川飛行機、後の立飛企業。大正13年(1924年)石川島造船所(後のIHI)を中心に出資して設立された石川島飛行機製作所を前身とする中堅航空機メーカーです。昭和5年(1930年)ここ立川へと移転し、昭和11年立川飛行機製作所と改名しました。

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立川飛行場の東側に隣接していたのが立川飛行機の軍事工場。非常に広大な敷地で現在も工業地帯として残っております。立川飛行機は戦時中、主に帝国陸軍の練習機などを生産しており、その代表格が九五式一型練習機、通称赤とんぼと親しまれていた複葉機です。

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立川飛行機の工場は空襲により大きな被害を受けましたが、多摩モノレールでひと駅行った高松駅から見えるこの建物などは、空襲を逃れた当時の建物と思われます。他にもノコギリ屋根の棟など軍事工場当時の建物が残っていると思われますが、その辺の判断は難しいです。

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立川飛行機は練習機や輸送機の開発及び生産を続けつつ、大手である中島飛行機(現在のスバル)が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産も行っていたそうです。

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昭和13年建設のこちらの給水塔も当時の面影を残しています。陸軍の航空機ばかり生産していた立川飛行機ですが、ちなみに海軍による赤とんぼ(練習機)は西宮市にある川西航空機(現・新明和)で開発、生産されていました。その後新明和は戦後初の国産旅客機YS11の開発に携わり、海軍の飛行艇を製作していた頃の技術を生かして自衛隊の飛行艇を開発するに至ります。

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隣の立飛駅周辺も立飛の工場に囲まれています。その工場敷地内にもうひとつ給水塔が。こちらも当時の建造物です。戦後も航空機メーカーとして復活する川西などに対比して、立川飛行機は1952年に戦後国産第一号機であるR-52型軽飛行機(練習機)を開発したものの、すでに時代遅れの技術であり量産には至らなかったそうです。その後不動産賃貸事業が中心となる立飛ですが、200名の社員で分離独立して立ち上げた「たま電気自動車」が後のプリンス自動車となり、スカイラインの開発へと続きます。スカイラインと言う名称がかつての航空機産業から来ているかどうかは、それは想像に過ぎませんが。

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多摩モノレールで更に北へ進み東大和市に入りました。玉川上水駅の北東、公園内に旧・日立航空機立川工場変電所跡があります。この日立航空機立川工場は、先に述べた立川飛行機に航空機エンジンを供給していた工場でした。母体はもちろんあの日立製作所です。日立は航空機開発には参加せず、あくまで下請けに専念していたんですね。尤も炭鉱やモーターなどの機械産業が主体でしたから。

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変電所は現在、水曜日と日曜日のみ内部が公開されています。ボランティアの方に解説して頂きながら廻って行きます。この日立航空機の前身は機械工業の先駆け的な存在である東京瓦斯(ガス)電気工業です。

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東京瓦斯電気工業は昭和14年に日立グループへ経営権を譲渡し終戦までエンジンを造り続けましたが、終戦後も鋳造分野の機械産業の場でゼノアなど社名を変えつつ存続しています。

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とにかくこの建物は機銃掃射による弾痕が生々しいです。こちらは階段脇の弾痕。機銃掃射は主に空母から飛来した戦闘機によるものも。それ以外にも、直撃は免れたものの爆撃による飛散物で抉られた跡もあるとか。

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裏に廻ると貫通した跡があります。右上の抉れている部分は鉄筋に当たって銃弾が貫通していないものの、その衝撃でコンクリートが剥がれた跡です。昭和13年(1938年)に完成した建物ですが、工場の敷地内の片隅で1993年まで稼働していたからこそ残っていたのかも知れません。

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外壁はまさに蜂の巣状態。戦争の激しさをここまで生々しく残す戦争遺跡も珍しいです。

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建物の脇には戦没者慰霊碑が建っています。立川の軍事施設群は3度の空襲を受け、110名が犠牲となりました。

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太平洋、つまり南側から米軍機が飛来して来たので、北側の壁には砲弾の跡がありません。

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戦前から戦後、高度経済成長など、様々な時代を生きてきた建物ですが、変電所故にでしょうか、改修工事とかそう言う物が為されて来なかったのでしょう。この扉にしても昭和初期の物と思われます。

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一部、塀も残されています。かつて建物を周回する塀によって、この戦争遺跡は隠され続けて来ました。

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さて、中に入って行きます。内部には貴重な資料や写真などが展示されており、戦争末期の度重なる空襲の事などが学べます。

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東洋陶器(TOTO)のロゴマークからこの洗面台は建設当時の物だと分かるそうです。変電所と言う利用のされ方も絶妙だったからこそ、あらゆる所が昔のままなんでしょう。

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銃弾によって抉られた階段の手摺りと二階スラブ。下から上に軌道を描いている事から跳弾による物と思われます。

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2階に上がってみると、変電設備が残っていました。昭和20年(1945年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機による最初の空襲がありました。これは大戦末期、帝国海軍が壊滅状態となっていた事で太平洋東沖まで空母の侵入を許してしまったためだそうです。16日に厚木海軍航空隊の最新鋭戦闘機、紫電改(川西飛行機)で迎撃するも、厚木飛行場や中島飛行機武蔵工場(武蔵野市)が爆撃されるとともに、17日ここ立川も機銃掃射を受けました。

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片隅には仮眠室が。畳一畳ほどの寝台があり、24時間人が詰めていたようです。建物内の建物で面白い造りをしています。2回目の空襲は同4月11日P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射。帝都防衛のために航空基地を造りまくり、工場を移転させる地下トンネルを堀りまくっていた時期ですが、成人男性の多くが戦地へと送られていた事で労働力不足に陥っていたため建設が間に合いませんでした。

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仮眠室の内部です。いつ頃どのくらいの頻度で使われていたのでしょうか。3回目の空襲は同4月24日、いよいよサイパンから硫黄島経由で101機のB-29が飛来します。

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この辺のロッカーには瓦斯電(ガスデン)のプレートが。つまり建設当時から使われていたと言う、なんて物持ちがいいと言うか、ロッカーぐらいスチール製にしてもいいのに!

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この消化器を示す木製パネルも相当な古さですね。こう言った物は例えば廃墟などでは腐敗して残っていない事が多いです。現役で使われ続けていたからこその奇跡。

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明電舎のプレートがありましたが、これもまた建設当時の物。使用されなくなって30年以上が経っている訳ですが、一般公開に向けて綺麗に掃除しただけで機器類はそのまま残っていたと言う事でしょう。

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ヒューズとかカッコいいって思ってしまいます。しかしここにも弾痕が。銃弾食らってんのに修理しながら55年もの間使い続いていたと言う事です。物持ち良すぎ!

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奥の部屋はこんな感じです。この建物は1階が事務所、2階が詰め所と変電設備と言った造りのようです。昔の変電設備がここまでしっかり残っているのも凄い。

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碍子とか配線とか、なんか興奮します。これは電気業界に於ける博物館とも言えるでしょう。これでも戦後の小松ゼノア(旧・富士自動車)時代に設備が更新されているそうですが、どこが更新されているのやら。

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かつてこの先には工場が広がっており、その先の空から米軍機が襲来して来ました。そんな光景を今でもどこかの国の人が目にしているのかも知れません。そんな訳で小さな建物でしたが、戦争の壮絶さを肌で感じる事が出来るような、非常に見応えのある建物でした。

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シメは立川駅南口東側の歓楽街にある立ち飲みえびす屋さん。

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しばらく立川で仕事があったので、何度か通いました。店内は電子タバコのみ可。紙タバコは店頭のカウンターのみ。いや、立川は紙タバコOKの店がほとんど無いです。

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そんな立川駅南口なのですが、商店街全域が宗教都市化していると言うね。

埼玉県深谷市(4)、熊谷市(2)、軍事工場跡地の戦争遺跡

あけましておめでとうございます。
毎年恒例の新春スペシャル企画なんかも考える間もなく年を越してしまいました。
新年一発目は去年深谷で撮り残した戦争遺跡関連を巡って行きます。今回も深谷駅前にあるレンタルサイクルのハローサイクルを利用しました。

深谷市(1)、旧中山道沿いの宿場町
深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡
深谷市(3)、渋沢栄一生家と関連史跡
熊谷市(1)、廃村新川集落跡と三島神社跡
熊谷市(2)、東武熊谷線廃線跡と未成線

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)10月、陸軍兵器廠の板橋火薬工場を度重なる空襲から疎開させるべく、ここ深谷一帯に東京第二陸軍造兵廠深谷製造所が設立されました。その本部となる建物が現在の深谷第一高等学校の敷地内に残っています。

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東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は深谷市内に原郷工場(深谷工場)、明戸工場(日本煉瓦製造株式会社上敷免工場)、櫛挽工場の3箇所。こちらは深谷駅の北東側、日本煉瓦製造専用線の沿線に建てられた原郷工場のために建てられた給水塔になります。この建物は昭和30年より個人の所有となり現在でも住居として再利用されています。

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こちらは深谷市街から南西方向に7キロ弱離れた所に造られた櫛引工場の弾薬庫跡。

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手前のコンクリート構造物も当時の物でしょうか。もしかしたら高射砲の台座かもしれません。

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内部はがらんどうです。火薬庫と言われている割には随分とこぢんまりしています。土塁なども無いしコンクリートの厚みも薄い方なので、むしろ高射砲の弾薬庫だったのかも知れませんね。

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階段が残っていたので2階に上がってみました。ちなみに十条にあった兵器工場、東京第一陸軍造兵廠は大宮、川越、春日部に疎開されました。

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2階部分の屋根は無く雨曝しとなっています。畑の中にこの建物だけが残されているのは、もしかしたら農機具の倉庫として使われていたのかもしれません。

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周辺は耕作地が広がり、工場跡の痕跡は全く見られません。ただこの深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦を迎えたそうです。

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深谷駅から南へ進むと工業団地がありますが、北西半分は深谷市で南東側は熊谷市となります。写真の広大な工場はJFE建材。

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市境を越えて熊谷市に入ると航空自衛隊熊谷基地があります。ただ航空自衛隊と言っても滑走路は無く、航空関連の学校などが入っているようです。

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こちらは隣接するJFE建材の敷地ですが、何やら古い木造建築がありました。この工業団地の敷地には、かつて熊谷陸軍飛行学校がありました。もしかしてですが、これは当時の建物である可能性が。

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熊谷陸軍飛行学校は昭和10年(1935年)設立。かつて滑走路だった敷地が現在の工業団地となっており、熊谷や深谷の市街地から見て高台の台地となります。そう言えば以前、熊谷陸軍航空学校桶川分教場跡なども訪れていました。

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この奥に見える給水塔もかなり怪しい。また、倉庫なども当時の物が使われてる場合もあります。これと全く同じ造りの給水塔が自衛隊基地内にもありますが、そちらは基地祭やさくら祭などで公開される時にしか確認出来ません。

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ただこの給水塔は工場の奥にあり、さらに背の高いフェンスが建っているため近付く事が出来ません。熊谷陸軍飛行学校は終戦後進駐軍に摂取されましたが昭和33年(1958年)に返還されました。

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航空基地跡地が米軍から返還された翌年の昭和34年(1959年)、南東の端部に秩父セメント(現・太平洋セメント)のプラントが建設されました。

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こちらはセメント工場からJR高崎線の熊谷貨物ターミナルに至る引き込み線の跡です。

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秩父鉄道の貨物専用線三ヶ尻線として秩父鉄道の武川駅からセメント工場(三ヶ尻駅)に入り、高崎線の熊谷貨物ターミナルまでを結んでいましたが、2020年にJR高崎線への接続線が廃止されました。現在出荷に関してはトラックのみとなっています。

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秩父の武甲山で採掘された石灰石を秩父鉄道経由でセメント工場まで輸送する貨物列車はいまだ現役。これは秩父鉄道と並走する国道140号線が、2車線道路であるなどの道路事情による所が大きいのかも知れません。


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