廃神社

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。メディア等での画像使用については”unagidanyoro2@yahoo.co.Jp“までご連絡下さい。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

静岡県伊豆市、大仁金山跡の廃神社

廃墟系サイトではそこそこ有名な物件、大仁金山跡と山神社跡に行って来ました。

IMG_3505 Copy

三島から伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り大仁へ。昭和の車両がまだ現役で活躍しています。写真の車両は3000系1次形のトップナンバーで1979年製。揺れ方とか乗ってて懐かしかったです。

IMG_3490_Original

大仁駅は修善寺や伊豆長岡ほどの規模は無いものの温泉があるため、昭和の観光地の雰囲気が漂っています。

IMG_3492_Original

一本路地を入ればスナック街の跡地。かつては団体旅行で温泉旅館に泊まりに来た人たちが夜な夜な繰り出していたのでしょう。

IMG_3495_Original

もう、窓の造りが妖しいったらありゃしない。歓楽温泉街の残り香を感じます。

IMG_3513_Original

修善寺方面に歩いた所で、大仁橋の袂には大正4年(1915年)に架けられたトラス橋の一部が残されています。この橋は昭和33年に起きた狩野川台風の被害を受けながらも平成20年(2008年)まで使われ続けて来たとか。

IMG_3518_Original

橋を渡った先に宿泊及び日帰り入浴施設、修善寺時の栖(すみか)があります。その裏手がかつての大仁金山採掘場跡地であります。

IMG_3524_Original

階段状の遺構は選鉱所の基礎コンクリート。奥にシックナー(汚水を沈殿により廃棄物と水に分離させるタンク)も見えます。大仁金山(瓜生野金山)は安土桃山時代の天正年間に発見されたとされます。

IMG_3525_Original

選鉱所前を通り過ぎ脇道を入って行くと、なんとインクラインの跡が残っていました。江戸期は慶長年間に最盛期を迎えるもそのまま衰退して一時期休山したそうです。

IMG_3528

インクラインを登って行くと昇降台まで残っています。上にレールがありトロッコを乗せてケーブルカーのように昇降するようになっています。昭和8年(1933年)、帝國産金興業が既存の鉱区を買収し、大仁鉱山として操業を再開しました。

IMG_3531

インクラインの周辺にも石垣などの遺構が見られます。ここが最上部なのか、さらに上まで伸びていたのかは不明。昭和11年には選鉱所が完成しているので、これらの遺構はその当時の物と思われます。

IMG_3529_Original

斜面の僅かな足場を辿って選鉱所跡地に向かいますが、あまりにも足場が悪く滑り落ちそうになるので断念。行こうと思えば行けるかも知れないけど、行った所で何も無さそうだし。しかしこう言う道なき斜面を進んでいると、秩父の廃村巡りをしてた頃を思い出します。

IMG_3579_Original

インクラインから下りてまた元の脇道を登って行くと、山の斜面に沿って分かれ道がありました。

IMG_3534_Original

入って行くと坑道を発見。坑道口にしてはコンクリートでやけに立派に造られています。戦時中、坑道が航空機部品の地下工場に転用される計画があり、結局完成を待たずして終戦を迎えましたが、これらのコンクリート遺構はその時の物かも知れません。

IMG_3536_Original

昭和19年(1944年)本土への空襲が激化する中、特にターゲットとされた軍事工場を地下化するべく地下工場の建設指導要領案が作成されました。その作成に当たり研究施設としてここ大仁鉱山と福島県福島市の廃鉱山が利用されたそうです。

IMG_3537_Original

選鉱所の東側を回り込む沢伝いの脇道をさらに上って行くと、煉瓦にモルタルで化粧した壁面が残っています。作業員の詰所か倉庫だったか用途は不明ですが、煉瓦建築と言う事は昭和8年当時の建物かと考えられます。

IMG_5495

その向かい側には謎のコンクリートの塊が。これも鉱山関連の遺構でしょうか。

IMG_3575_Original

近くには坑道の入り口が。こちらは素掘りのままで、先程見た坑道入り口とは明らかに違います。昭和13年(1938年)採掘時に温泉を掘り当て、以後同時に温泉の採掘も始まります。鉱山労働者や観光客向けに入浴施設が建ち、戦後の昭和24年(1949年)大仁温泉として開湯したとか。

IMG_3540_Original

さらにまた坑道入り口を発見。大仁には製錬所が無かったため、産出された鉱石は伊豆箱根鉄道と国鉄の貨物列車で、茨城県の日立鉱山まで運ばれて行ったそうです。

IMG_3546_Original

こちらも坑道入り口。数々の入り口がありますが、そのほとんどがしっかり塞がれています。これは金山故に盗掘を試みる輩が現れたからでしょうか。

IMG_3543_Original

いよいよ奥に鳥居が見えて来ました。大仁鉱山は山深い土地でなく狩野川沿岸の平地沿いにあるため、鉱山住宅や共同浴場などは平地に造られた物と思われます。よってそれらの遺構は全く残っていないでしょう。

IMG_3551_Original

境内にも坑道らしき物が見受けられますが、こちらは塞がれていませんでした。昭和8年に採掘を再開した大仁鉱山ですが、太平洋戦争が没発すると事情が変わって来ます。それまで日本は国内で産出された金によって欧米諸国から様々な物資を買い付けて来ましたが、戦争が始まると欧米からの輸入が途絶え、金を採掘する理由が薄れます。

IMG_3553_Original

同時に銅・鉄・石炭・鉛・亜鉛・マンガンなど戦争に直接的に必要な鉱物資源を自給する必要が出て来たため、金鉱山の資材や人員を他の鉱山に振り分けると言う、金鉱山整備令が昭和18年(1943年)に敷かれました。

IMG_3549_Original

この時点で選鉱所は役目を終えてダイキャスト工場へと転用され、坑道の一部は先に触れたように軍事工場に利用する事が決定されました。地震の多い伊豆半島ですが、鳥居はしっかり立ち続けています。

IMG_3561_Original

右手には小さな石橋と祠もあったようです。その後も銅製錬用の含金珪酸鉱は小規模に採掘されていたそうですが、昭和期に於ける本格的な金山としての歴史はおよそ10年と非常に短いものになりました。

IMG_3555_Original

山神社とは鉱山労働者の安全を祈願するために建立される物で、全国各地に存在します。もちろんここのように廃神社となった場所も多くあるでしょう。

IMG_3563_Original

さて、拝殿までの階段を登って行きます。階段は途中崩壊していますが、廃墟好きの方々は必ずここを乗り越えて行きます。

IMG_3566_Original

こちらが拝殿。現在は恐らく霊抜きされていると思われます。金の採掘が終了しておよそ80年以上経っていますが、その後もしばらく地元の方々に管理されていたのかも知れません。

IMG_3544_Original

またこの山神社が、江戸期の金採掘の頃からこの場所にあったのか、いつ頃から祀られていたのか定かではありませんが、鳥居の脇に昭和11年奉納の文字が。ちなみに選鉱所跡の上の辺りにも山神社跡があるそうですが、行き方分からないしハードな道のりが予想されるため断念。

IMG_3572_Original

そんな訳で素晴らしい空間でした。薮が枯れる冬まで待った甲斐があります。このような場所を何の根拠もなく心霊スポットに仕立て上げる輩も居るかも知れませんが、くれぐれも肝試しなんかで土地を荒らさないようにしていただきたい。

IMG_5452

最後に修善寺まで足を伸ばして温泉に入ろうかと。なんと修善寺駅前にシェアサイクルのハローサイクルが設置されていました。本数の少ない路線バスを利用するより断然早く往復できます。秋の田園風景の中を電動アシストで気持ちよくサイクリング。

IMG_5456

修善寺駅より南東に4キロ、上白石地区の大見川沿いに小川温泉共同浴場はあります。

IMG_5460

奥は民家となっており午後2時開店。200円を払って入ります。

IMG_5462

脱衣場はこんな感じ。とても質素で良いですね。

p2456_1

内部は地元の方々が居られたので伊豆市観光サイト様より画像をお借りします。(画像は女湯)
泉質は無色透明なナトリウム・硫酸塩温泉で源泉掛け流し。源泉温度が高いため浴槽脇の蓋を開けてコックを開き、加水して温度調整しているようです。

埼玉県熊谷市(1)、廃村新川集落跡と三島神社跡

ちょっと更新に間が空きましたが、やっと仕事が落ち着いたので行田方面に行って参りました。

IMG_3954

行田駅の駅前のスカスカ感、高崎線のどの駅で降りても似たような雰囲気です。かつては駅前商店街も多少有ったのかも知れませんが。

IMG_3956

行田駅でレンタルサイクルを借り南西へ。堤防の上には決壊跡の碑があります。特に昭和22年のカスリーン台風の被害は酷く、沿岸から東京にかけて大規模な浸水被害があったとか。

IMG_3957

度重なる洪水を経て築かれた堤防から荒川河川敷へと降りて行きます。ちなみに市街地は行田市でしたが、元荒川と言う小川を渡って荒川河川敷に入ると熊谷市になります。

IMG_3959

広大な農地となっている河川敷を進むと墓地があります。この墓地がかつて存在した新川集落の痕跡です。

IMG_3962

以前、さいたま市と川越市の荒川河川敷に存在した農村の跡地である塚本堤外地握津堤外地に訪れましたが、ここは町としても栄えていたようです。

IMG_3964

始まりは江戸初期、堤防の内陸側を流れる元荒川から現在の荒川へと流れを移した江戸初期の瀬替工事が新川村の発祥となります。

IMG_3967

江戸時代、地下水が豊富だったことから桑が良く育ち、養蚕業が盛んになりました。川の下流側、南東側より上流側へと進んで行きます。

IMG_3975

廃村としてはあまりにも古すぎて、かつての家はこのように雑木林になっております。

IMG_3978

小さな祠はいつの時代の物か。奥の竹林も屋敷の跡地です。

IMG_3977

農地の至る所に地下水を汲み上げるポンプがあり、そのために電線が張り巡らされています。

IMG_3987

農地のほとんどが水田で、二毛作によって麦も作られているとか。土壌は本当に良いそうです。

IMG_3970

こちらは数少ない遺構のひとつ、大正時代の屋敷の石垣。最盛期がいつ頃なのか分かりませんが、明治20年(1887年)の時点で94戸532人の人が住み、49艘の船があったそうです。

IMG_3980

村の跡を進んでいくと新川村についての説明が。この村には江戸初期より500人ほどの人々が暮らし、戦後間もなく廃村となったそうです。

IMG_3981

かつての村の地図。廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋などが軒を連ねています。秩父で伐採された材木が荒川を下り、この地で筏に組み上げられて江戸は木場まで下って行ったと言う。同時に船運としての交通の要衝でもあったようです。

IMG_3983

かつての屋敷への入り口。中には基礎となる束石ぐらいは残っているかも知れませんが、とても入れる状態ではありません。

IMG_3985

村の上流側の端辺りまで来ました。ここにも墓地があります。村は度重なる洪水の被害に遭いながらも300年もの歴史を重ねて来ました。

IMG_3988

こちらは3箇所目の墓地。大正時代には現在の堤防が村の内陸側に出来た事により取り残される形となります。折しも鉄道の開通によって船運は廃れ、養蚕業もナイロンの登場によって廃れて行き、人口も減り続けていました。

IMG_3995

最後に三島神社跡を探します。ゴルフ練習場の脇を進んで行くと行き止まり。戻って練習場の方に尋ねると、行き止まりの先の畑の奥にあるとの事。もう一度行き止まりまで進み畑へと降りて脇を進む。

IMG_3990

目的地はこの藪の中。Googleで調べた時とはえらい違う様子。

IMG_3992

あ、ありましたwww
崩れかけた鳥居。奥の藪は増水によって薙ぎ倒されています。いや、増水の度に幾度となく浸水しているだろう場所に、鳥居が残っているだけでも凄いです。
思えば墓地でも幾つかの墓石が倒れていました。その度に一族の方が直し、管理され続けているのでしょう。

IMG_3996

先祖が暮らした土地と言う事で村の痕跡はほぼ消滅したものの、今でも農地は使われ続け、村の存在は語り継がれていきます。

神奈川県厚木市、旧佐藤稲荷神社と旧伏見稲荷神社

すっかり寒くなりました。下草は枯れ藪の背も低くなりました。この季節になってから行こうと満を持していたスポットが幾つかあります。そう、冬は廃墟の季節www
緑に囲まれた廃墟も美しいのですが、基本藪漕ぎしたかありませんしね。

IMG_3565

と言うわけで訪れたのは神奈川県厚木市。小田急本厚木駅から半原方面行きのバスに乗ります。

IMG_3566

泉と言うバス停で降りて西へ。枯れ沢となっている荻野川を渡ります。

IMG_3567

清原地区と言う集落は長閑な農村風景。もっとも丹沢山地の麓で水田がないので、今では農業だけを生業としている家も少なさそうです。

IMG_3568

集落の細い道を歩いていると、途中諏訪神社という小さなお社が。こちらは今でもちゃんと管理されているようです。

IMG_3569

やがて道沿いに鉄柱製の鳥居が見えて来ました。

IMG_3570

鳥居を潜って脇道を進むと二つ目の鳥居が。銘板の文字はすでに判別出来なくなっていますが、ここは佐藤稲荷神社と言うそうです。

IMG_3571

廃神社です。廃神社と言う言い方自体、近年オカルト系で言われ始めた造語のようで、正確には管理されなくなった神社。

IMG_3574

右手には社務所の跡でしょうか、廃墟があります。この神社についての詳細は全く分かりません。それこそ管理されていた方を探し出さない限りは。

IMG_3575

左手には民家と思われる建物。しかしここも廃屋のようです。詳細は分からないものの厚木市の文化財獨案内と言うパンフレットに、この佐藤稲荷神社とこの後訪れる伏見稲荷神社の名前がマップ上に記載されている事から、厚木市からの認知度は高かった事が伺えます。

IMG_3577

参道入り口に狐の狛犬一対、拝殿の足元にもちっちゃい狐の狛犬が一対。本当は厚木市の市役所行ったりして調べる事も出来るかもしれませんが、そこまでガチじゃないんですよ。

IMG_3578

手水鉢も草に埋もれながら残っています。このような場所が心霊スポットみたいに紹介される事もありますが、そもそも神社と心霊って全く関係ありませんからね。

IMG_3580

さて、この佐藤稲荷神社の手前を右に入る畦道があります。
神社、例えば稲荷神社に於いては京都の伏見稲荷神社や茨城の笠間稲荷神社などの大社があり、全国のお稲荷さんって要はその出張窓口みたいなもの。こっちが呼ばなきゃ降りて来ません。

IMG_3581

その畦道の途中、竹藪に分け入る踏み跡のようなところが。
また神社が廃止となる場合は、合祀と言って近くの神社に吸収合併されます。観音像などが祀られている祠などの場合、観音様は近くのお寺に移されます。墓地にしたって基本ちゃんと魂抜きする。東京赤坂の豊川稲荷なんかに行くと、開発で消えて行った祠に祀られていたお狐様がたくさん集められています。

IMG_3583

踏み跡と言っても途中倒木などもあり、とても管理されているようには見えません。まぁ結局、根拠のない怖い話なんかを造り上げて、このような廃神社で肝試しなんかする連中が地元の方々に迷惑かけることがあるんですよね。

IMG_3584

竹林混じりの雑木林を登って行くと、途中右手に倒壊した祠のようなものが見えました。

IMG_3594

やがて視界が開けると、奥の方に社殿跡が。うーん、物語シリーズの北白蛇神社のようにはいかない。

IMG_3596

こちらが旧伏見稲荷神社跡です。ここも詳細は不明ですが、大正12年(1923年)建造とだけは分かりました。意外と新しいんですね。あるいはもしかしたら元々祠のようなものが存在し、大正時代に社殿が建立されたって事かもしれません。

IMG_3588

社務所が併設されていたのでしょうか、ヤカンやシンクなどが脇に散乱してました。あるいは宮司さんが住んでいたのでしょうか。

IMG_3589

電灯もあり、かつてはここまで電気が通っていたようです。

IMG_3590

裏から見たらこんな感じ。裏手には一升瓶が多く散乱していました。御神酒と言う事か。
ともあれ、雰囲気が不気味であるのは確か。私もビビりぃなので物音にビクビクしながら探索しました。

IMG_3595

帰り道の路すがら、こちらをガン見する猫に癒されてここを後にしました。

埼玉県さいたま市、廃村、塚本集落堤外地

 JR京浜東北線浦和駅からバスで西へ、荒川の河川敷にある廃村を訪れました。

image

 秋ヶ瀬公園の北に位置するこの場所は、サイクリングロードにもなっている荒川堤防の河川敷側にあります。私は20年ほど前、川口からサイクリングで来た際ちょうどこの辺りで引き返した記憶があり、その当時はまだ集落が存在していたのですが、まさか堤防の外側に村があるなど想像もしていませんでした。

image

 堤防の東側には塚本の本集落が存在します。だいぶ宅地造成も進んでいますが、かつて堤外に住んでいた人々もこちら側に引っ越されました。

image

 集落は上流側の外東地区に二軒、下流側の外西地区に十数軒あったとされます。まずは外東地区から。

image

 家屋は全て解体され、跡地だけが散在します。

image

 水田の真ん中に昔使われていた電柱と石碑のようなもの。どうしょうも無いくらいの逆光。

image

 水田に水を引くポンプ小屋と昔の電柱。この堤外地は民家こそ消滅しましたが、耕地は今でも使われています。

image

 次に外西地区へ入って見ましょう。廃村の奥、川べりには浦和軟式少年野球連盟専用グランドや大宮カントリークラブのゴルフコースなどのあるので、電線が張られています。

image

 所々に残る集落で使われていた電柱は、時代を感じさせます。

image

 もう使われなくなってしまった自治会の掲示板。

image

 耕地のほとんどが現役で使われており、この日も軽トラなどの車4台、6人ほどの方が作業などをしており、廃村の雰囲気は正直有りません。

image

 集落の移転は昭和59年から始まりますが、平成11年の水害がきっかけとなり平成14年には全世帯が補償を受けた上で堤防の内側への移転を完了しました。

image

 もともとこの集落は大正時代に始まった荒川改修以降堤防の外側に取り残されてしまった形となり、以降も頻繁に水害に遭っていたそうです。

image

 野生化した竹藪や雑木林の中に、幾つもの民家跡が残っています。

image

 外西地区の中心には薬師堂と墓地が残されており、ここの「薬師堂のマキ」は市の天然記念物に指定されています。

image

 この日、二人のご老人が堂内で茶飲話をされていましたが、このあとまだ何人か集まることになっているようです。元住民による集会などは、まだこの地で行われているみたいで、住居こそ無くなったものの、暮らしはいまだこの地で続けられている事が伺えます。

image

 またこの辺りには野良猫が多く住み着いています。先祖代々暮らし続けている猫かどうか分かりませんが、元住民の方々が世話されているのかも知れません。

image

 道端の小さな石祠のようなものが残されています。

image

 薬師堂の右手の竹藪を抜け奥の道を荒川の流れる左手に歩いて行くと、八幡社の鳥居が残っています。この鳥居は平成元年に建て替えられた物で、当時はまだこの地で暮らし続けるという思いがあったのだと想像出来ます。

image

 鳥居の奥、雑木林のトンネルを抜けると、拝殿こそ無くなってしまったものの、八幡社の小さな祠が残されています。奥は御玉霊神社で右は恐らく水神宮。ただこちらは参拝される人がもう居ないのか、あまり管理されている様子が伺えませんでした。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ