危険地帯

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東京都台東区日本堤〜泪橋、山谷のドヤ街(再訪)

なんだか大阪を引き摺ってます。東京へ戻ってもドヤ街なんて。

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池袋から浅草まで明治通りをひた走る都営バス草64系統。王子駅や尾久、新三河島、荒川区役所、三ノ輪、吉原大門などを通るバスで日本堤下車。看板建築が出迎えてくれます。この草64系統結構便利なんですよ。

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土手通りを浅草方面に見て右手が吉原、左手が山谷になります。

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この山谷側には有名な老舗の天ぷら屋と桜鍋屋があります。この天ぷら屋「土手の伊勢屋」さんは明治22年創業で、現在の建物は震災後の1927年(昭和2年)に建て替えた国の登録有形文化財。いつも行列が出来てますが一度入ってみたいですね。

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伊勢屋の裏手の通りには、これまた歴史のありそうな木造建築。三ノ輪辺りは空襲で焼け野原となりましたが、伊勢屋の周辺は風向きが変わって奇跡的に焼け残ったとの事です。

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長屋造りの商店。一番手前のタバコ屋「平野屋」さんは大正7年創業と書いてありますが、こちらも中身は戦前建築なのでしょうか。

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早速簡易宿泊施設、いわゆるドヤがあります。横浜寿や西成釜ヶ崎ではほとんど見られなくなってしまった木造二階建てのドヤ。今では貴重な存在です。

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山谷には約16年前、2009年の年末に一度訪れていますが、その当時は歩き回ってもおらず簡易宿泊施設の写真もほとんど撮っていませんでした。しかし今回改めて歩いてみると、ドヤの多さが感じられました。それでもかつては220軒あったドヤが現在では110軒に減少しているとか。

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山谷のドヤ街は戦後の復興から高度成長期、そして東京オリンピックの建設需要に沸いた1960年代前半にピークを迎えます。

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東へ抜けると日光街道である吉野通り。昼間から開いている飲み屋がああります。

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普通に夕方から営業しそうな飲み屋もありますが、警戒が厳重すぎる。ただこの店、後日土曜日の夜に行ったら開いて無かったりしてたので廃業されているのかも。

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16年前度胸が無くて入れなかった飲み屋。午前中から開いてますが、夜は二軒とも早めに閉まります。

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二軒並んでいる内の左手前側の「紅豆(あずき)」さん。一人先客がいたと思ったら店主がスーパーの弁当食ってるだけでした。昼食を邪魔して申し訳ない。

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右隣の「光子」さんは以前無かったお店ですが、そちらはほぼ満席でした。どちらのお店も好き勝手に音楽を流しており、隣の光子さんでは合唱が始まりました。カラオケ居酒屋行く金がないからって合唱大会ですか。さすがにあの輪の中に割って入る勇気はない。

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吉野通りを北に向かい明治通りと交差する泪橋交差点を越えた辺り、古い看板建築なども見られます。

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吉野通りから一本奥に入った所で路上に人々が屯っている所がありました。何かと思えばほうらい地域包括支援センター及び福祉プラザ台東清峰会と言うそうで、高齢者向け介護施設のようです。

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その介護施設の裏手にある玉姫公園。以前訪れた時には路上生活者のコロニーとなっていた公園ですが、現在入り口が物々しい状態に。

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西成で言う所の三角公園みたいな物でしょうか。中に入ると路上生活者らしき人たちの姿がちらほら。

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公園の片隅にあるブルーシートはコロニーでしょうか。集めた空き缶なども見られます。

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この辺りにも多くの簡易宿泊施設が建ち並んでいます。宿泊代は概ね2250円前後。

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老朽化した簡易宿泊施設を取り壊してもまた新築の簡易宿泊施設となります。今では高齢化によって日雇い労働者の利用は減少していますが、外国人バックパッカーによる利用は増えているとか。

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潰れた飲み屋さんなども多く見られます。昔はたくさんの店が昼間からやっていたりしたそうですが、だいぶ減ってしまったとか。

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北側の明治通り沿いにも簡易宿泊施設が軒を連ねています。ビジネスホテルと銘打っていますが、実態はドヤです。

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明治通りの北側は荒川区南千住となりますが、この辺りも山谷と言われる地域に入ります。この先の突き当たりはJR貨物の隅田川駅。

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この建物など内部がどうなっているのか、とても気になります。

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南千住駅の手前まで来ると多少飲食店も増えて来ます。後日この「よりみち」さんに入りましたが、1時間1人2000円、延長1時間1500円で飲み放題、カラオケ別途で一曲100円。お姉さん1人で切り盛りされており、ほとんどスナックみたいな感じでした。左奥の「かすみ」さんは入っていませんが、1時間2000円で延長1時間1000円、カラオケ別途。

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吉野通りの向かい側、東側にある「再来」さんも同じシステム。この3軒は示し合わせているような料金ですが場末のスナック程度の料金なので、山谷でも多少余裕のある人しか入れなさそうです。

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ここらで一回リセット。銭湯の「栄湯」さんに入りました。天然温泉とありますが、井戸水を沸かしてた所よくよく調べてみたらメタケイ酸の数値が高く温泉に認定されちゃった、と言うやつです。柔らかい浴感で気持ちいい。

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さて、16年前に山谷を訪れた際はアーケード商店街を抜けてドヤ街を遠目に見たぐらいでした。

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その時はシャッター商店街の路上で昼間から寝てる人がいたりして、なかなかな雰囲気だったのを覚えています。

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そのアーケード商店街をさっきからずっと探しているのに見つからない。

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こちらが2009年の年末に撮ったいろは会商店街。

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なんと今歩いていた場所がアーケード商店街の跡地でした。確か路面も石タイル貼りだったと思うのですが、普通にアスファルトになっていました。上の2枚はほぼ同じ位置から撮影。いや、クスリの看板以外全部変わってるじゃないの!

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商店街の跡地には1990年に建てられた日本基督教団日本堤伝導所(教会)があり、そこが山谷労働者福祉会館となっています。炊き出しのような活動として皆さんで大鍋を作られていました。教会が炊き出し活動をするのは新宿中央公園などでよく見られましたが、支援団体として山谷争議団・反失業闘争実行委員会と言ういかにもな団体や、在日アジア労働者と共に闘う会などの市民団体が関与しています。
ちなみにこの山谷争議団は元々日雇い労働者たちが集まり暴力団系の口利き屋や手配師と衝突を続けて来た団体ですが1995年、新左翼の一派である革命的労働者協会(革労協)により派閥以外のメンバーを追い出してこの施設を占拠。しかし数ヶ月後争議団のメンバーが突入して施設を奪還し、革労協メンバーを追い出したなんて事もあったそうです。

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アーケードが撤去されたのはシャッター商店街が路上生活者の寝床と化していたからかも知れません。この辺行政って容赦無いんですよね。まぁ何はともあれ、昼間からやってる居酒屋「追分」さんに入ります。

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お客さんは爺さん2人と婆さん2人、カラオケで盛り上がっていました。酒が進めば私もその輪の中に入って一緒に飲めや歌えや。店は大阪から流れて来た姉さんが切り盛りされています。この店、絶対また来ようと思ったのですが、少々飲み過ぎて帰りバスに乗った記憶がありません。

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それにしても山谷は横浜寿や西成と比較すると、飲み屋の数が圧倒的に少ないですね。これだけの規模のドヤ街で昼間から飲める店が5軒ほどしかありません。いや、まぁ普通の街から考えれば充分多いんですがね。表を徘徊している人も少なく感じました。思うに、三大ドヤ街の中で最も高齢化が進んでいるのかも知れません。

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その後も何度か飲みに通ってますが、夜遅くまでやってる店が非常に少ないです。追分さんなど昼間からやっている店は8時に閉まるし、昼間にシャッター閉まっていた店はほとんどが廃業していました。そんな中、いろは会商店街を土手通りに向かう途中にあったお弁当屋の「うさぎ」さん。

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そのお弁当屋さんの脇に、分かりづらいですが小さな入り口があります。入って見るとカラオケ居酒屋でした。酒が飲める弁当屋。非常に狭い店ですが、行くあてを失った酒飲み達で賑わっていました。ここもちょっと通いたい。

大阪府大阪市西成(4)、釜ヶ崎あいりん地区(後編)

夜行バスの疲れと飲み過ぎでガッツリ寝ました。

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ビジネスホテル加賀屋を出ると右手向かいに激渋なうどん屋さんが。昨夜は開いてなかったのですが、朝飯はここに決まりです。

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間違いなく昭和な「きらく」さん。同じく朝飯を食いに来たお地元の客さんや旅行者で賑わってます。

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店はお婆ちゃんが一人で切り盛り。ただ後日調べたのですが数年前までホルモンうどん250円だったとか。それが今では500円に。まぁ250円てのが異常なんですが、これも万博の影響か。

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このホルモンうどんのホルモンが鬼美味い。いや、こんなに美味いホルモンは本当に久々で、大袈裟じゃなく想い出に残る美味さ。大阪を発つ前にもう一度来ても良かったと後悔してます。

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今日は昼間の西成を少し歩きます。

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16年前に訪れた時はこの辺りに謎の屋台飲み屋が軒を連ねていました。こちらは2009年当時の写真。

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その何飲まされるかよく分からないような怪しい屋台に入って見たかったのですが、今ではすっかり強制退去させられてしまいました。西成も変わってしまった。

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ここはもしかしたら以前行こうと決めていたホルモン屋ではないかと。確証は無いですが、ここ数年で消えてしまった店も多いようです。

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その路地を入って行くとこんな感じ。居酒屋さんは現役か廃業しているのか、昨晩はこの路地に気付きませんでした。

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今池本通り商店街の東、北の動物園前駅へと南北に伸びる飛田本通り商店街。こちらの喜久屋雑貨店は初代が明治時代に奈良から移って商売を始め、現在は4代目のお母さんが切り盛りしているそうです。建物はその明治末期の物だとか。文化財レベルですね。

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飛田本通り商店街からさらに東へ。飛田新地の南端に接する新開筋中央商店街。この辺りもシャッター商店街からカラオケ居酒屋通りに変貌した商店街です。なんか裏で何かが関与してそうな。ここの一番奥で昨晩飲んでました。

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この建物は16年前にも撮った物件。当時からすでに廃業してましたが、そのままの形で残っていました。

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また激渋なうどん屋さんが。テレビのロケが入っているようですが、残念ながら先程うどん食ったばかり。後で知ったのですがこの昭和25年創業のうどん屋「助六」さん、なんとこの日が最終日で閉業してしまったそうです。意地でも入ればよかったと後悔。

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こちらは新開筋中央商店街の北側に並行する山王市場商店街。東へ行くと飛田新地です。

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山王市場商店街にある萬盛湯。西成は現役の銭湯の数も利用者の数も多い上、開店時間も早いです。

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飛田本通り商店街の北側、動物園前商店街から東に逸れた脇道にあるオーエス劇場。オーエスと聞くとかつて西新宿にあったストリップ小屋を思い出しますが、こちらは普通の大衆演劇場です。1954年(昭和29年)開館。

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劇場の通りはかつて飲食店で賑わっていた名残りを感じられます。

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商店街から裏通りを歩いて行くと、1993年に廃止となった南海電鉄天王寺支線の廃線跡がありました。

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木造で土壁って、いつの時代の長屋でしょうか。戦前の匂いがします。

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高速入り口のループの下は雨が凌げると言う事で浮浪者が住み着くのを防ぐため、斜めのフェンスで囲まれています。

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あいりん地区の方へ戻ります。萩之茶屋本通り商店街の南、南海電鉄天王寺支線の廃線跡沿いに西成三角公園があります。公園脇では椅子を出して昼間から酒盛りする人々が。西成は今でこそだいぶ大人しくなりましたが、かつて日本屈指の治安の悪い土地でした。

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公園向かいの立ち飲み屋さん。カウンターは満席に近かったけど、客は観光客などの他所者が多い気がします。値段もさほど安いって程でもない。かつて高度成長期、西成では日雇い労働者たちによる暴動が頻発していました。

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三角公園ではボランティア団体に雇われているだろう方がドラム缶に火を焚べていました。10年ほど前までは横浜の寿町でも見られた光景ですが、後ろに写るステージ、書体などから察するに左向きの方々です。ステージではオッチャンが弾き語りで何か歌ってましたが、そのライブも正式に許可を取っているのか。公園内には他にもテントが設営され、様々な社会問題に対する署名活動などが行われています。

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こちらは前日の夜に萩之茶屋北公園の公衆トイレで撮った物ですが、釜日労・反失連と書かれた看板が。1974年結成の釜ヶ崎日雇労働組合とNPO法人釜ヶ崎反失業連絡会。市民運動とボランティア団体ですが、炊き出しなどの活動もされています。新左翼の残党かも知れないし、行政も下手に刺激したくはないでしょう。なんたって「闘争」とか書かれているし。

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三角公園そばの屋台で休憩。この焼き鳥ジローは以前路上の掘立て小屋だったそうですが、現在ではガレージを借りて屋根を作っています。
西成暴動は1961年から始まり1973年までに21回、その後1990年と1992年、2008年にも一回づつ起きています。

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年末で仕入れが無かったのか焼き鳥は無かったのでおでんをいただきます。これで900円。高くないか?観光客と見なされて足元見られてないか?
西成暴動は当初、警察とのトラブルや求人の少なさが原因で暴動に発展していました。しかし1970年代、ここに新左翼が関わって来ます。日雇い労働者たちを揺動し警察隊との衝突に発展したりします。その流れで現在でも左翼系の活動家がここ西成に根を生やしています。右翼系暴力団との喧嘩沙汰から暴動に発展した事も。

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萩之茶屋本通り商店街のカラオケ居酒屋で昼飲み。先輩方の演歌の歌声に誘われて入ってしまいました。他にも昼間からやっているカラオケ居酒屋が何軒もありましたが、見た目いかつい若い兄さん方が入っていると警戒してしまいます。しかし店名が餃子の王将て!…いや、良く見たら玉将!ww

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しかもこだわりの餃子店と看板に銘打っていながら、餃子は市販の冷凍餃子て!ボケ倒しにツッコミどころ満載ですが、在日系のママさんは4ヵ月前から副業でここを始めたそうです。本業は日本橋のミナミの方のスナックだとか。次回はミナミ界隈にも行ってみたいです。

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萩之茶屋駅前のいわゆるバッタ屋さんてやつでしょうか。まぁ衣類なんかが安い。
そんな訳で西成の現在でしたが、海外のバックパッカーがドヤを利用するようになり、インバウンドで観光客も増え、大阪万博で人が押し寄せ、すっかり観光地化している感があります。日雇い労働者たちの高齢化は山谷や寿町でもありましたが、SNSなどを通して他所者が集まれば、そこで商売しない手はない。大阪の逞しさでもあります。


大阪府大阪市西成(3)、釜ヶ崎あいりん地区(前編)

さて続きです。大阪環状線新今宮で下車。前編では夜のあいりん地区で飲み歩きドヤに泊まります。

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阪堺電気軌道の乗り場がパチンコ屋ってのも衝撃。

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こう言う立ち飲み屋も惹かれますね。

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この辺りの銭湯はほぼ現役です。入船温泉となっていますが、天然温泉や鉱泉はありません。ただ、宿泊も出来るそうです。

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新今宮駅の南側はすでにドヤ街ですが、南へ歩いて行くといわゆるあいりん地区と呼ばれる地域に入って行きます。

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今回は末盛湯と言う銭湯にまず入ります。

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中央に浴槽があり、左右の壁際に洗い場が並ぶ配置。東京以外ではこの配置が一般的のように感じますが、銭湯にはそこまで詳しくないので何とも。

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猫デカっ!何匹か野良猫を見かけましたがことごとくデカくて何とも言えない貫禄がありました。

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街が暗いのはもう正月休みに入ってしまった店が多いからでしょうか。

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この辺りはすでに釜ヶ崎ドヤ街、あいりん地区の中心地となります。

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この建物は16年前に訪れた時も撮りました。この界隈はほとんど昔と変わっていません。

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とりあえず一軒目のお店に入ります。

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昼は鉄板焼き、夜はカラオケ居酒屋の「なんきん」さん。岡山のお父さん方と飲みました。どうやら釜ヶ崎の住人では無さそう。

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南海電鉄萩の茶屋駅から阪堺電気軌道今池駅まで、あいりん地区を貫くアーケード商店街、萩の茶屋本通り商店街。この辺りに来ると人通りも多くなって来ます。

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スーパー玉出天下茶屋店。16年前、初めてこの店を見た時はパチンコ屋かと思いました。

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ちょっと小腹が空いてうどんでも啜りたくなりました。

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どうしょうもなく死にそうな人にはかけうどんを食わせるとか。

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しかし、カスうどんが900円て、そりゃぼったくりですがな。

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西成の有名店ホルモンやまきは2023年の夏より休業となり、マスターがお亡くなりになって閉店となりました。ところが斜向かいに復活と見せかけて2代目でもなんでもない「やまき」がオープン。味も全く違うけど間違いなく美味いとか。情報無しで勘を頼りにふらふら飲み歩いていたので入りませんでしたが、次回は絶対来よう。

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再びアーケード。堺筋を越えて東へ続く今池本通り商店街。

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この辺の飲み屋も惹かれますが、中はいっぱいで入れず。次回また来る機会があったら絶対入ろう。

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こちらのアーケード、カラオケ居酒屋がやたらあります。

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ここも良さげなんですが中は満席でした。

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なんか違う。昔からあるお店で地元の常連客で賑わうような雰囲気とは、なんか違う気がします。席は空いているんですが入る気になれず。

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延々とこのようなカラオケ居酒屋が続きます。適当に入ってもいいんですが、横浜寿町の経験からどうしても慎重になってしまいます。

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いつまでもふらふら徘徊していても酔いが醒めるので、試しに一軒入ってみます。

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お店は始めて1年ほど。最近こちらに越して来た兄さんや地元じゃない方々でしたが、なんだかんだで楽しんでしまいました。

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どうやら今池本通り商店街はシャッター商店街がここ数年でカラオケ居酒屋通りに変貌したようです。それは大阪万博による観光客の増加も関係しています。

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こちらはあいりん地区の中心にあたる三角公園。

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年末の三角公園は静かなものでした。奥の方に人だかりが見えますが、あの輪の中に入って行く度胸は無い。

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最後はかなりベロベロになって予約してチェックインも済ませておいたビジネスホテル加賀へ。

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普段は千円台で泊まれるドヤ街ですが、予約の時点で安い宿はすでにいっぱいで、しかも年末年始料金のため2800円。

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それでも充分安いのですが、見ての通りの狭さで風呂トイレ共同となります。

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枕薄っ!
まあ寝るだけなのでね。翌日30日は昼間のドヤ街を歩きますが、その様子は後編で。

大阪府大阪市九条(1)、赤線跡の松島新地

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。新年早々、大阪からスタートさせて頂きます。
今回は連れが入院するなど諸事情により何十年ぶりかの一人旅となりました。尤も関東圏内の日帰りはいつも一人旅なのですが、泊まりがけでは久しぶりに一人。と言うわけで無茶ができます。

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まず夜行バスなんて16年前の大阪旅行以来になります。連れは夜行バスでは寝れないとの事なので、地方へ行く際は飛行機か新幹線となっていました。今回もお金が有れば新幹線なのですが、背に腹はかえられぬ夜行バス。バスタ新宿から往路は予約のタイミングが遅れた事も重ねて帰省ラッシュ料金なのか28日発9800円、復路は30日発4200円。新幹線は片道14800円なので半額ならばいいかなと、利用したのは桜交通。来たのは三菱ふそうエアロバスシリーズ(好きな方)。23:10発です。

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ね、寝れねーっ!
こんなにキツかったっけ。4人掛けの狭さもありますが、背中痛いし振動で寝れない。鉄道ではロングシートの端っこでも速攻眠れるのに、バスはリクライニング倒しても殆ど眠れない。50代で夜行バスは無理でした。

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体バキバキで寝不足気味に梅田へ到着。喫茶店に入ろうと検索したら、座って缶コーヒーが飲める喫煙所でした。

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以前、2009年に彼女と夜行バスで大阪に着いて、まず朝イチ最初に行ったのが飛田新地でした。ひどい話ですwwww
そして今回は西区九条の松島新地へ行って見ます。赤線跡地のちょんの間地帯です。

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早朝なのは大阪の「新地」と付く特殊飲食店街で写真を撮るのが危険だから。カメラを構えようものなら怖い人にカメラを没収されると言う話です。各建物の前には撮影禁止と貼り紙がされています。

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なので人通りが最も少ない朝方にこっそり撮るしかありません。そもそも目的は貴重な建築物を撮る物であります。撮っていけないのは営業中に店先で誘いをかける女の子です。

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以前飛田新地を訪れた時は早朝に写真を撮った後、夕方再び訪れて鯛よし百番で鯛ちりを食べました。その際営業中のちょんの間も見ましたが、なんとも独特な雰囲気でした。

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それにしても素晴らしい建物ばかり。想像していたよりも広く、飛田新地とそんなに変わり無いといった印象。

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元々の発祥は遊郭でありんす。ありんすとか言っちゃったよ。遊郭や赤線地帯のネタの時は毎回その時代背景について解説してますが、今一度解説します。知ってるよって方は読み飛ばしてください。

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松島遊郭の歴史は明治2年、現在の場所より東の木津川べりに新たに遊郭が完成した事から始まります。大阪に於ける遊郭そのものは江戸時代から新町遊郭などがありましたが、そちらは衰退していきました。

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しかし1945年(昭和20年)、大阪大空襲により全焼。1947年(昭和22年)、現在の場所に移して再開します。

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とは言え戦後1946年(昭和21年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されたので、カフェーや料亭などの体裁で再開します。いわゆる赤線の時代となります。

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やがて1957年(昭和32年)に売春防止法が成立(翌年施行)し、全国の娼館の歴史は完全に幕を閉じることになった。はずでした。

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しかしここを含めて業態をかえつつも場所も建物もそのまま残った場所が幾つかありました。飛田をはじめ滝井、信太山など。京都にも確かあったはず。

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とは言え廃業されたり取り壊されて空き地になったり、マンションが建てられてしまった場所もありんす、いや、あります。ちょっと前までは新地のど真ん中にマンションなんて考えられなかったのですが、時代が変わったのでしょうか。

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売春防止法以降全国の赤線青線地帯は、料亭などの三業地として存続したり、ソープ街と形を変えたり、そのまま消滅したりと様々でしたが、ここ松島新地など関西の新地はちょんの間地帯として生き残っています。

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ここなんていかにもなちょんの間建築です。赤線時代小規模な店だったと言う事でしょうか。ちなみにちょんの間とはソープとは違いお上のお目溢しを頂いてない、摘発対象となる本番ありきの業態。関東では川崎堀之内にのみ生き残っています。

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この辺り看板が無いと言う事は潰れたお店の跡でしょう。ここなども遊郭っぽい造りじゃありませんが、そもそもの話、遊郭は空襲で一度焼け野原となっています。

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現在の松島新地の建物は全て戦後建築。それなのにカフェー建築のように洋風でハイカラな物は建てずに、あくまでも江戸時代から明治大正の遊郭を思わせる造りになっています。

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これは「遊郭の気分」を出すために遊郭建築を再現したと言う事か、はたまた公娼制度が廃止されたにもかかわらず松島遊郭を再興させようと言う気分からか。東京で言う所の震災後の銭湯建築みたいな考え方でしょうか(ちょっと違うか)。

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ただ、飛田新地に残る重要文化財の鯛よし百番は大正中期の建設とされています。飛田は大正7年に完成し、戦火を逃れた建物が幾つかあったそうです。やはり戦前からの遊郭建築との決定的な違いは木造モルタル造りである事。内部の構造も明治大正期の、それこそ鬼滅の刃に出てくるような遊郭建築とは全く違うのかも知れません。

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遊郭の端には茨住吉神社があります。氏子の名前を探せば遊郭の名前もあるでしょう。

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街外れに松島料理組合の入る松島会館があります。表向きはあくまで料亭の体裁を取っているので、組合も料理組合と言う名前になります。

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松島新地の外れに、気になる場所を見つけました。

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建物と建物の間が狭い路地となっています。

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これは唯ならぬ雰囲気。想像ですが、青線としての私娼窟があったのかも知れません。

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この狭さは身を隠すため。現在は普通の住宅ですが、建物の造りなどから怪しいと感じました。
また機会があれば、他の「新地」も見てみたいです。
大阪シリーズ、しばらく続きます。多分1月いっぱいこなせるww

千葉県成田市(3)、成田闘争の痕跡を巡る

成田は2020年の夏と2021年の秋に訪れましたが、最初に訪れた際航空科学博物館が休館日だったと言う苦い思い出があります。
(1)空港シャトルシステムと成田駅周辺
(2)東成田駅(旧・成田空港駅)

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成田空港は出航と到着それぞれ1回ずつ利用していますが、LCCで一番端っこに着いてタラップで降り、バスに乗ってさらに歩かされてと良い思い出が無いので、飛行機に乗る際は専ら羽田利用となっています。埼玉の川口からだとスカイライナー利用すれば、所要時間は大差無いんですがね。

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まぁそんな成田空港に対する苦言はともかく空港の南、芝山千代田駅近くの「空の湯」に併設された「空輪」さんにてmont-bellのMTBを2000円でレンタル。今回で2回目です。

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まず訪れたのは以前休館日だった航空科学博物館。

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こちらはジャンボジェットことボーイング747に関する展示がメインとなります。昭和を代表する旅客機ですが、ついぞ乗った事無かったんですよね。

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1番の目的はこのYS-11だったんですが、この前ザ・ヒロサワシティで見て来ちゃいました。

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今回の本当の目的は航空科学博物館の奥にある空と大地の歴史館。成田闘争(三里塚芝山闘争)に関する資料館となります。ここには貴重な資料の数々が展示されており、また70年代に起きた成田闘争の歴史を解説してくれます。以前から訪れてみたかったのですが、最近限界ニュータウン探訪記さんの成田闘争に関する遺構を巡るYoutubeを紹介して頂き、それを観たら改めて訪れてみたい気持ちが強くなったと言うわけです。

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分かりづらいですが航空科学博物館の最上階にある食堂から蔦に覆われた鉄塔が見えます。これがまさしく成田闘争の痕跡なのです。
元々成田の地は8世紀頃から続く牧草地で、古くは源氏に軍馬を供給しており江戸期には佐倉牧と呼ばれる軍馬の生産地となっていました。明治8年には明治政府による下総牧羊場が設けられ、後の明治21年には宮内省下総御料牧場となります。

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航空科学博物館の南西、森の中にある廃墟。ここが当時の岩山団結小屋と言われています。

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御料牧場の規模は時代と共に縮小されて行き、大正12年には約千ヘクタールが、昭和21年には戦後開拓として約二千ヘクタールが農地へと転換されました。当初牧場跡地の農地開拓としては、明治期に職を失った下級武士や武家の奉公人、流浪の民などにより開拓が進められて行きます。

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開拓民の暮らしは困窮を極め東京窮民などと呼ばれました。また戦後は敗戦による占領地からの引揚者や帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などにより開拓されて行きましたが、こちらもまた貧困を極めて新窮民などと呼ばれました。左端に写るのが沖縄民の入植願書。

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岩山団結小屋の奥には岩山鉄塔と呼ばれる遺構があります。敷地には獄中死した活動家星野文昭氏の慰霊碑があり、献花されていました。
戦後成田で開拓が進むいっぽう1960年代、コンコルドの開発と共にこれからは超音速旅客機の時代が来ると思われていました(結局採算性の悪さから消えましたが)。同時に羽田空港は手狭となり、かと言って拡張するにも当時の土木技術では水深20mの海床を埋め立てする事が出来ず、よって航路の問題、騒音問題などから、第二国際空港の建設が叫ばれていました。

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鉄塔というのはつまり滑走路建設予定地に要塞として建て、そこに立てこもって工事を妨害するという物だそうです。塔の上から機動隊目掛けて火炎瓶を投げ、それに対して放水で応戦するという物。

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幾つかの候補地は上がったものの霞ヶ浦はボーリング調査の結果地盤に問題があり、富津岬沖などの東京湾上は船舶航路でパンク状態。そこで程よい丘陵地であり宅地開発も進んでいないと言う訳で成田、当時の富里村に白羽の矢が立ったわけです。

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しかしその決定に於いて政治的駆け引きに利用される事が多かったそうで、閣議決定も電撃的に決められ、地権者達にとってはまさに青天の霹靂に近い状態だったとか。

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猛反発を受けた佐藤栄作内閣は空港の規模縮小と、昭和44年(1969年)に栃木県の那須へと移転された御料牧場の跡地へ計画地を移動し、幕府直轄領時代から続く古村を避けて、金で解決出来そうな東京窮民や新窮民の農地を選び、富里案から北東側の三里塚案への改訂案を示しました。豪農とは違い小作人なら金で簡単に解決出来ると勘繰っていた訳です。

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成田の丘陵地帯には幾つもの湧水地である湿地と川が流れています。そう言った川沿いには古村と呼ばれる、極端な話中世から住んで来た人々が稲作を営んで来ました。

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一方、丘の上では明治以降、特に戦後入植した人々が樹木を伐採し土を耕し、関東ローム層故の畑作農業を営んで来ました。
ここで問題だったのは当時、地元住民に対する意見聴取や相談が一切されていなかった事にあります。富里村に造られると思っていた三里塚、芝山地区の貧困部落民たちは、報道でその事実を知りました。戦争が起きたら爆撃対象となる、ジェット機の騒音で牛の乳が出なくなる、そう言って猛反発します。

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成田空港の東側を北上すると横堀地区。左手は成田空港建設センターの敷地ですが、監視塔とサーチライトがあり、物々しい雰囲気になって来ました。
基本計画が発表されたのは終戦から21年経った昭和41年(1966年)、やがて空港反対組織と革新政党、左翼団体、そして共産党や社会党らの後押しを受け、三里塚芝山地区に三里塚空港反対同盟が結成されます。特に戦後入植した人々は住宅資金や営農資金の返済が終わり、やっと農業が軌道に乗り始めた頃でした。

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成田航空建設センターの脇を入り右手の畦道を進むと、横堀農業研修センター跡があります。土地はすでに空港会社の所有となっていますが、今も尚反対同盟の集会に使われているそうです。
ちなみに成田航空建設計画の三里塚案では三里塚御用牧場が4割、残りは民有地で千数百人の住民と交渉する必要がありました。

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敷地に入ると左手にはトイレ。古い物と後に設置された仮設トイレがあります。
当時寄せ集めで結成された新東京国際空港公団で用地買収に奔走するわけですが、省庁より出向して来た職員の横柄な態度が不評を買います。もし民間企業に土地買収を委託していれば早く話が収まったという説もあるほど。

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敷地はほぼ廃墟にしか見えないのですが、この建物が今もなお使われているかどうかまでは分かりません。
戦後の開拓民は兵役でお国のために戦い、敗戦で満洲や台湾、中国、朝鮮半島から引き揚げ、行き場を失ってこの地で開拓を始め、貧困生活を乗り切りながらも戦後の東京の食糧不足を助け、やっと豊かな暮らしが出来ると思ったその矢先、勝手に閣議決定されて話が進められ、土地買収に来たのは高飛車に出てけと言う官僚上がり。その職員が例えば戦後育ちの東大出の若造だったりして、今まで国に尽くして来た人生を否定されたようで、そりゃキレますね。

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建物の玄関には横堀農業研修センターの看板が建っていますが、実際には反対運動の団結小屋として使われていました。
新空港建設が計画されるまで、行政は東山地区営農改善計画として養蚕用の桑の栽培を開拓農家に推進しており、それに応じて栽培を始めた矢先に改善計画は反故にされました。これも怒りを買う要因の一つ。

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廃墟の傍らには三里塚芝山連合空港反対同盟と書かれた廃車両が打ち捨てられています。
市民運動が激化する中、そこに目を着けて煽ったのが左翼団体でした。これは成田に限らず高度成長期に起こった負の連鎖と言えましょう。左翼や当時の共産党、社会党など様々な団体が関わり、結局反対同盟は周辺地域も巻き込んで1200世帯にも及びました。

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横堀農業研修センターからさらに滑走路へと近づいていきます。両側をフェンスに挟まれ、そのフェンスの上には警報用でしょうか、電線が走っています。
それでも地道に用地買収のため職員が奔走する中、千葉県、運輸省、新東京国際空港公団は破額の金銭的代償、移転先や廃農後の保証など、国費に物を言わせた好条件を提示し始めます。相場以上の土地買い取り価格などから、結果9割もの地権者が理解を示す事となります。今後の事、将来的な事を冷静かつ現実的に考えれば当然でしょう。兼業農家となり空港内での仕事を斡旋された者や、そのまま空港公団の職員となる者までいたそうです。

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暫く進むと道は滑走路の下を潜り、横堀鉄塔へと続きます。以前はこの道路の入り口付近に警備員が立ち来訪の目的を聞かれたそうですが、先日は空港敷地内の櫓の上から警備員が監視しているにとどまりました。
次々と土地が売られてゆく中、地権者と小作農民である反対派との亀裂が部落内での疑心暗鬼を呼び、軋轢が生じます。反対派からしてみれば土地を売った者は裏切り者であり、人間関係が殺伐となって行く。特に反対派の数が多い地域では賛成派の家への村八分や嫌がらせなどがエスカレートして行ったそうです。

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googleマップの画像を見た時は衝撃でした。その場所は、完全に滑走路の中に孤立しているのです。

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こちらが横堀鉄塔。竹林に覆われながら今なお空港敷地内に聳え立っているのですが、登記簿は加瀬勉さんの私有地となっており成田空港株式会社(旧・新東京国際空港公団)⁾が買い取れなかった土地となります。
昭和42年(1967年)10月、国と公団は初めて2000人の機動隊とともに外郭測量のための杭打ちを行いました。誰もが予想し得なかった実力行使に、陳情やデモだった運動から武力対決へと変貌して行きます。以後公団は必ず機動隊と共に現れ、小作農民はあの全学連や左翼団体と手を結ぶに至ります。同時に選挙の得票数獲得を目的に開拓農民に歩み寄っていた共産党及び社会党は、こりゃヤバいと思ったのか離れて行きました。

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竹林の中には廃墟化した建物が確認できます。以前はこの周辺に幾つもの団結小屋があったそうです。

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こちらが団結小屋の配置図。反対派及び左翼団体の中でも様々な派閥があるようです。後にこの左翼団体の中でも抗争が起き、俗に内ゲバと呼ばれる暴力抗争へと発展して行きます。
昭和43年(1968年)、ついに反対同盟と機動隊との間での衝突が始まり、多くの怪我人や逮捕者を出す事となりました。時代背景としてその翌年1969年1月には新左翼の全共闘により東大安田講堂事件が起こされます。

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昭和46年(1971年)9月16日、第二次行政代執行に於いて中核派などの新左翼及び同調する学生達と、機動隊などの警察隊とが衝突した東峰十字路事件が起こりました。その時に反対派のゲリラ部隊が警察隊を襲撃し、ついに神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査、計3名の死者を出す事となります。写真は福島誠一警視(二階級特進)の慰霊碑。

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こちらは空港敷地内に建つ東峰神社。以前空港会社が土地を取得しましたが境内の木の伐採を巡り裁判が起こされ、後に和解して現在では東峰地区と天神峰地区の住民複数名の共有となっています。

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木の伐採については空港建設予定地内の樹木一本一本を個人の所有物とし、建設を妨害すると言う手段も取られていました。
東峰十字路事件が起こる前までのメディアは反対派に同情的で行政を批判する報道がなされていました。しかし死者が出た事を受けて世論が一転する事となります。戦後、60年代から70年代にかけての左翼系デモに於いて死者が出たのはこれが初めてとなります。またこの事件後反対派農民の中でも「殺すとか引くわー」って言う意見が広がって行きます。農地を取り上げられた当事者と、ただ権力に反発したいだけの反政府勢力との間に溝が生まれて来るのです。

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東峰神社の向かい側では今でも農業が続けられています。土地はすでに成田空港側が買い上げていながらも、小作農家の方がいまだ農耕作業を行なっているため、ここを仮に小作地(1)と呼称します。
結果的に、1966年の基本計画にあった昭和47年(1972年)竣工予定は頓挫し、昭和53年(1978年)開港となりました。

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成田空港A滑走路とB滑走路の間に当たる、成田空港敷地内の東峰神社と小作地の位置。完全に空港を分断しています。
抗争は開港直前まで続きます。昭和53年(1978年)3月26日、3月30日の開港を控えた新東京国際空港の管制塔に日本革命的共産主義者同盟のゲリラが進入し、管制塔内の機器を破壊すると言う成田空港管制塔占拠事件が起きました。この時呼応するかのように、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家約300人が乱入し、騒乱状態となりました。このため、開港が3月30日から5月20日に延期となったそうです。

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こちらは上記Googleマップに示した小作地(2)です。
開港後も反対運動は細々と続いていましたが、平成4年(1992年)12月15日に反対同盟、千葉県、日本国政府、運輸省による第11回成田空港問題シンポジウムで、新東京国際空港建設時の強硬姿勢について日本国政府から正式に謝罪がありました。
そして平成6年(1994年)10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議においては、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸相(当時)と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わしました。その後、多数の地権者が移転に応じたことで上記Googleマップの北側、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展したそうです。
だがしかし!
成田闘争はまだ終わっていなかった。



こちらの動画は去年、2023年2月22日の映像です。場所は上記の空港内小作地(1)、残っていた櫓を撤去しようとした所、このような騒ぎが起きました。動画の中には中核派の白メットも映っており、令和の現在でも昭和の左翼が現存すると言う現実に驚くばかりでした。

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成田空港第一ターミナルから南に位置する芝山千代田駅方面へ幹線道路が通っています。道路はA滑走路とB滑走路を結ぶ連絡路の下を通っており、歩道も並行してトンネルとなっています。

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一瞬トンネルを出た所で東側に入る道があり、木の根ペンションと言う看板が。しかしここはまだ空港の真っ只中になります。
空港が開港してもう46年が経ちます。空と大地の歴史館の展示の中では成田空港問題シンポジウムと円卓会議の段階で空港問題は解決したとされています。それは反対同盟に参加していた多くの農家が補償問題に於いて折り合いがついたと言う事です。

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地図で見るとこんな感じ。芝山鉄道と県道62号線が避けるように通っています。こちらも前出の横堀鉄塔と同じく加瀬勉さんの敷地ですが、空港会社に土地を取られるのを防ぐため、敷地内の名義を複数人で共有している一坪共有地と言う形を取っているそうです。
多くの農家が和解してもなお、空港内に土地を売らず残留する極一部の農家と、それを支援する左翼団体が存在します。反対運動の目的は何か。成田空港を廃止して農地にする事なのか。それとも保証金の問題なのか。

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こちらが木の根ペンション。今でも反対派の会合に利用されているそうです。空と大地の歴史館の方に聞いた話によると、普段は休業していますが、泊まろうと思えば泊まれなくも無いとの事。まぁ泊まるにはかなりの度胸が必要ですが。
現在でも周辺には警察車両が頻繁に巡回しています。元々この地で貧困に耐えながら開拓して来た農民たちは今や三世代前で、ご存命の方はもうほとんど居ないそうです。政府の横暴に怒り反対運動を続けていた農民と、言い方は悪いですがそれに便乗して反政府活動を続ける左翼団体。全く当事者ではない人々が騒ぎを起こしているようにすら映ります。それは学生運動等の「時代」と言う流れで結論づけようとしても、どうしても理解できない。私にとっては親の、いわゆる団塊世代の時代感覚なのかも知れません。

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目の前を飛行機が通り過ぎます。なんたって飛行場の中ですからね!
しかし歴史を俯瞰的に見ると、戦時下の日本に於いては国家防衛のための航空基地を造る際、御国のためという名目で農地を強制徴収された農家など沢山いました。今まで訪れて来た香取航空基地然り、茂原、土浦、調布、数え上げればキリが無いです。それが戦後の高度成長期、人権問題や市民運動が熱を増した時代。運輸省などの官僚の旧態然とした感覚と、戦後生まれの自由と理想を求めた世代の感覚との差異が、大きな社会問題へと発展して行ったと言う事でしょうか。
とは言え、世界の各途上国のような革命を起こす内戦状態にはならない。昭和45年(1970年)のよど号ハイジャック事件や、昭和47年(1972年)の浅間山荘事件などの日本のテロリズムは、多くの民意を動かすまでには至らないし、明治維新のような事は起きない。

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さて、レンタルMTBを返却して最後は空の湯の素晴らしい加温加水無し源泉掛け流し浴槽で疲れを取り、生ビールでリセット。やはりここのお湯はトップクラスですね。
ちょっと今回は昭和史に偏った記事になってしまいました。ともあれ様々な物を見るにつれ、まだまだ知らない事ばかりだと思うばかりです。


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