倉庫

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千葉県銚子市(4)、ゴーストタウン化が進む市営住宅

千葉県銚子市(1)、銚子の街並み
千葉県銚子市(2)、旧・赤線地帯跡のスナック街
千葉県銚子市(3)、外川の犬吠埼市営住宅

とにかく暑いからどこにも行きたくないのが正直なところですが、頑張って再び銚子へ。
今回は素直に秋葉原、錦糸町、千葉乗り換えで各駅停車。2310円で自宅からおよそ3時間かかるのですが、特急しおさいを利用すると約2時間半で3890円。房総特急コスパ悪いなぁ。

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銚子駅の観光案内所で電動アシストのレンタルサイクルを借りて西へ。線路の南側にはヒゲタ醤油があります。古い建屋も多く残っていそうですが、コロナ以来工場見学は休止中のまま。

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そのまま銚子高校を横目に丘陵地を登って行くと、住宅街の中に下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地であることを示す翔天の碑が。昭和11年(1936年)ここより西側に銚子飛行場が建設されましたが、現在では宅地化が進む農地で、その痕跡はほぼ見られません。

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さらに南へ程近く、市営三崎住宅があります。

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こちらの敷地は非常に広く、43棟が現存していました。

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建物は全て木造モルタル造の平屋建て、6畳と3畳の2DKで181戸となります。

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ここは昭和39年(1964年)から随時完成しつつ、昭和43年(1968年)には最後の区画が完成。

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しかし現在では老朽化が進み、新規入居募集を終了。

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高齢化が進みほとんどが夏草が生えるに任せた廃墟と化しています。

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トイレのある位置。肥溜めは隣の家と共用で臭気を抜く煙突が縦に伸びています。汲み取りの蓋が二つあるので、一応肥溜めは分かれているのでしょうか。

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て言うか果たして下水道は完備されているのだろうか。20年ぐらい前、津田沼に住んでいた友人のアパートが汲み取り式で、それを最後に見ていないのですが。

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何しろ生活排水がダイレクトにドブへとつながっている様子なのです。よくよく見てみるとこの一帯にはマンホールと言う物が見当たらない。下水処理人口普及率を調べたところ千葉県では77.6%だそうです。ちなみに東京都は99.7%、全国平均で81.7%。
………と、徳島19.5%⁉︎

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住人は見た感じですが10軒あるか無いか。無住となった棟などは草も生え放題。

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恐らく家賃は相当安いんでしょうね。

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団地入り口には地図でも掲示されていたのでしょうか、看板のような物の痕跡が。

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さて、一旦銚子駅前まで戻りそのまま東へ。太平洋に面した銚子外港まで来ました。

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展望タワーがありますが登らない。

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内陸部に入ると漁業で財を成した立派なお屋敷などが点在しております。

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そんな中にあるのが旧・西廣家。江戸時代末期に紀州から来て銚子に移り住み漁業を始めました。今も銚子を代表する船主です。主屋は住まわれているので非公開ですが明治10年(1877年)に建てられた木造平屋桟瓦葺。

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元々平屋建てだった鰹節製造所を、地方からやってきた従業員の居住スペースを確保するために昭和10年(1935)に2階建てに改造しました。痛みが早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場の稼働も開始します。

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こちらは1865年から1868年(江戸時代末期慶応年間)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物。現在は漁網の他、船舶を補修するための器具や建具、高膳などが置かれています。

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煉瓦塀の建築年代は不明ですが、大正末期から昭和初期に設置されたようです。ちなみに倉庫内部の一般公開は第2第4日曜日だそうです。

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さて、丘陵の上の方へ登って行くと市営黒生町住宅があります。ほとんど剥がれてしまったアスファルト舗装。マンホールが見当たらない事から、簡易的な下水管は埋設されているも汲み取り式便所なのではないかと。

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ここは銚子市の市営住宅の中で最も古く、昭和31年(1956年)〜32年にかけて建造。

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10棟32戸が現存しておりますが、特に老朽化が激しく屋根など崩壊しかけている棟も。

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間取りは1K、2K、3Kと3種類あります。すでにゴーストタウンと化していると思っていましたが、一軒だけもしかしたら住んでいらっしゃるかも知れない。

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周辺は普通に住宅街が広がっており、ここだけが取り残されたような形に。

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銚子市には前回訪れた市営犬吠埼住宅もそうですが、他にも外川台町住宅など木造平屋建ての団地が多く残っています。

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高齢化や過疎化による人口減少で老朽化した市営住宅は解体されて行くかと思われますが、予算の問題などもあると思われますし基本放置なのかなとも思います。

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最後に駅前を右手に行った所にある吉原食堂。

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雰囲気やよし。地元に愛される昭和の大衆食堂な感じ。

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アジフライ定食。小ぶりのアジ2匹とイワシでしょうか魚フライ2切れ、カボチャのフライ、これで980円。なかなか安いのでは。
ちなみにビールも頼んでいますがレンタルサイクル返却した後なので、飲酒運転はしてません。

千葉県野田市(1)、キッコーマン醤油の企業城下町

2021年の夏に流山市のキッコーマンみりん工場を訪れましたが、そこはキッコーマンの前身である野田醤油株式会社設立時、野田醤油の出資によって万上味輪株式会社が設立されたのを発祥としております。そんな訳で今回、キッコーマン発祥の地である野田にやってまいりました。

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東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

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でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

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いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

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そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

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工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

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野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

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こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

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さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

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さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

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こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

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旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

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茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

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こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

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アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

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仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

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最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

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近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

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江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

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建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

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邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

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大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

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高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

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倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

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江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

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江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

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野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。

埼玉県深谷市(1)、旧中山道沿いの宿場町

深谷と言えばネギしかない。そんなイメージの街が新紙幣の肖像となった渋沢栄一生誕の地として大フィーバーです。

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東京駅駅舎の赤煉瓦がここ深谷の地で造られた、と言う事で東京駅を模した深谷駅舎。実際の煉瓦ではなく煉瓦色のタイル張りですが。

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駅前にやたら広い空き地が広がっています。再開発計画推進中との事ですが、閑散とした駅前の雰囲気を助長していますね。

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駅から東へ。旧中山道まで出ると旧道沿いにスペースが。これは道路拡張計画に伴い、沿道の古い建物を一掃した痕跡。こう言う道路拡張工事って、土地取得に手間取って何十年も掛かったりするんですよね。そんな絵に描いた餅みたいな再開発のために、どれだけ多く貴重な建物が解体された事か。

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さて、旧中山道の深谷宿を日本橋寄りから北へ歩いて行く事にしましょう。こちらの建物はお米屋さんの「だいまさ」。江戸末期の創業だそうです。

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倒壊寸前の建築物もあります。いわゆる倒壊の危険性がある空き家で、まず市町村による調査、指導が入り、所有者がそのまま解体しなければ勧告や命令が入ります。それでも所有者の高齢化やそれに伴う解体費用の問題などで放置が続いたら行政代執行となります。

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なぜか伊香保温泉の観光ホテル「古久家」の看板。古久家は現存しているみたいです。近くに看板屋さんがあり、伊香保にお得意さんが多かったようで。

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向かい側は看板建築のように見えて実は昔ながらの商家と言う。古い建物が次々と解体され歯抜け状態になると、以前隠されていた建物の奥が見えちゃうんですよね。

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こちらは旧街道沿いの街並みでボスクラスの建物、塚本商店さん。元は燃料屋として日本煉瓦製造株式会社に石炭を納めていたそうです。大正元年(1912年)建造でウダツのような赤煉瓦の防火壁が迫力あります。

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深谷宿は前回の記事、鴻巣宿同様江戸期に中山道の宿場町として栄え、街道でも最大規模の町だったそうです。

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街道を歩いて行くと見世蔵なども残っています。詳細は不明。

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こちらの建物は小林商店。赤煉瓦倉庫は大正元年(1912年)建造で砂糖や乾物などを貯蔵していたそうです。木造3階建の洋館は昭和2年(1927年)建造。

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こちらは江戸末期の嘉永元年(1848年)創業の造り酒屋、藤橋藤三郎商店(藤橋酒造)。煉瓦煙突は大正時代に建造された物。深谷には何軒か酒造会社がありますが、軟水の井戸水が酒造りに適しているそうです。

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こちらは大正10年頃建造の福島邸。煉瓦造りのウダツが洒落ています。

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裏手には見事な煉瓦建築が続いていますが、これはこんにゃく原料倉庫兼製造工場だそうです。

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こちらは田中藤左衛門商店(七ツ梅酒造)跡。現在ではもう酒造りをやめてしまいましたが、当時の建物がそのまま保存されており、中を見学できるようになっています。

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入り口ではこの建物の修繕維持費のため、入場料100円を寄付の形で納めます。中には古書店やカフェなどになっており、多くの観光客が訪れていました。

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またこの建物はネットフリックスのドラマのロケ地に使われており、撮影当時の小道具などがそのまま残されていて、独特な雰囲気が醸し出されています。

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この田中藤左衛門商店は元禄7年(1694年)創業で平成16年(2004年)廃業。以降、一般社団法人「まち遺し深谷」が跡地の管理を行っているとか。

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巨大な蔵はイベントや映画の上映などに活用されています。

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こちらは明治末期創業の糸屋製菓店。店頭には最中や羊羹などが並べられていました。

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間口が狭く奥に長い鰻の寝床なので、建物の奥が見どころだったりもします。

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こちらは関根弁之助商店。詳しくは分かりませんが肥料関連の会社のようです。ただこの関根弁之助と言う人物は大正8年に現在の深谷倉庫を設立しており、埼玉県倉庫協会長や深谷町議を歴任されていたそうです。

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こちらは春山邸。詳細は不明ですが敷地内の蔵は江戸末期の物と明治期の物が残っているとか。

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随分北へと歩いて来ました。こちらは現役の造り酒屋、瀧沢酒造。

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脇道を入ると見事な煉瓦塀が続きます。埼玉県小川町にて文久三年(1863年)に創業。明治30年(1897年)良質な水を求めてこの地に移転したそうです。

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ちょっと覗いて見ました。事前予約すれば見学可能だそうなので、一度ちゃんと見学してみたいですね。

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昭和5年(1930年)建造の煉瓦煙突がどこよりも高く、しかも円筒型で立派です。コンクリート煙突は円筒型ですが煉瓦煙突はその殆どが四角柱の形状を成しています。

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レンタルサイクル借りればよかった、と思うほどに足がガタガタになりました。と言う事で深谷市街南の外れ、17号線にあるスーパー銭湯「国済寺天然温泉美肌の湯」。関東のスーパー銭湯には珍しく無色透明な単純温泉。循環濾過ですが加水してないのか、滑り感もあるしっかりとした浴感。期待以上に良いお湯でした。

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さて、次回は日本煉瓦製造専用線跡を巡ります。

群馬県富岡市(1)、世界遺産富岡製糸場

観光地、ましてや世界遺産なんて行かないと思ってましたが、最近ちょっと考えが変わって来ました。去年まで北関東の産業遺産関連を巡って来ましたが、ならば富岡製糸場ぐらい一度は行っておかないとと思い富岡市にお邪魔しました。

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駅から南に歩いたところ、富岡製糸場の隣に建つ旧韮崎製糸場で富岡製糸場の入場券を購入します。駅からここまで小さなシャトルバスが走っていますが、徒歩10分なので散策しながら歩けばすぐ着いてしまいます。

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この韮崎製糸場は明治9年から明治12年まで、富岡製糸場をモデルに建てられた民間の製糸場です。操業期間は短いものの当時の構造がそのまま残っていたため、貴重な遺構として保存されております。

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さて、いよいよ超有名な富岡製糸場です。

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入り口左手に建つ検査人館からして素晴らしい明治建築なのですが、残念ながらこちらは立ち入り禁止。

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入ってすぐ横たわっているこの代表的な建物は東置繭所。いわゆる繭の保管倉庫ですが、入って正面の東棟と奥の西棟とがあります。幕末から明治初頭、それまでの生糸産業は手作業による物しか有りませんでしたが、それでは糸の太さが均一にならないと言う事情から機械化が欧米市場から求められました。

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明治維新によって日本が開国して行ったそんな時代背景の中、富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が設立した模範器械製糸場です。まずは官営で機械化された工場を造り、それを模した形で全国に民間製糸場が広がって行くわけです。

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こちらは奥に位置する西繭置所。西棟東棟ともに明治5年の開業当時の建造物です。とにかく巨大。二階建ての構造ですが倉庫だけあって1階層の天井がやたら高いです。ちなみに富岡製糸場開設の立役者としては大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一などが名を連ねています。まさに国家プロジェクト。

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富岡製糸場は初め官営で開業されました。しかし海外から呼び寄せた技術者たちの高額な人件費や女工たちの在勤期間の短さなどが原因で経営不振に。当初の模範や伝承と言った目的も果たしたと言う事で、明治26年には民営化されます。

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基礎や外壁こそは明治の物ですが何度も改修されているので、この扉などは昭和の物かも知れません。とは言え意匠は素晴らしい。

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エレベーターが設置されたのは戦後でしょうか。明治26年に民営化されましたが最初の入札では買い手が付かず、2回目の入札で買い取る事を決めたのは三井銀行部の理事をされていた中上川彦二郎氏。福沢諭吉の甥に当たり、資源の乏しい日本にとって今後外貨を獲得するには機械産業の発展しか無いと言う思いからだったとか。

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二階部分に登ってみます。赤煉瓦の外壁の中に、ブリキの内壁が二重構造という形となっています。これは昭和に入ってからの構造で、お茶の箱のように乾燥効率を上げるための工夫だとか。

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内部はこんな感じ。三井の時代は9年続きましたが明治35年、原合名会社を率いる原富太郎が富岡製糸場を含む4つの工場を買い受けます。ちなみに原富太郎は横浜の三渓園を造った実業家で、前身の原商店は先代(義父)が生糸問屋で財を成しています。

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赤煉瓦の外壁の内側に、当時の雑誌を貼り付けて修繕した跡が見て取れます。さすが女工さんで成り立つ工場だけあって主婦の友。広告のシボレーが1934年型と思われるので、昭和9年当時の印刷物かと。

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こちらは東置繭所に併設されている変電施設。残念ながら内部は見れません。

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そしてこちらがメインと呼べる繰糸所。開設当時の明治5年建造です。原合名会社による運営は長く昭和13年まで続きました。そして昭和14年、当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることとなります。

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こちらが繰糸所の内部。現在展示されている繰糸機は開業当時のフランス式繰糸機を復元された物ですが、当時は繰糸所の規模として世界最大だったそうです。

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蚕を煮て繭から糸を紡ぎ出す。その様子が一部の繰糸機に展示されていました。明治、大正、昭和と生糸産業を支えて来た富岡製糸場ですが、和服を着る機会の減少などに加え、昭和42年(1972年)の日中国交正常化による中国産の廉価な生糸の輸入増加などが原因で生産量は減少の一途を辿り、昭和62(1987年)に操業を停止、閉鎖となりました。

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鉄水溜と貯水槽。左手奥の鉄水溜は明治8年頃に造られた製糸に必要な水を溜めておくための巨大な水槽です。この鉄水溜の製造には軍艦の造船技術であるリベット止めが使われ、およそ400トンの水を溜めおくことが出来たそうです。

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それにしても操業停止から36年経っても廃墟化せず、当時のままで保存されていたのには片倉工業の努力があってこそです。解体せずそのままの姿で維持管理を続けるためには年間一億ものお金が掛かるとか。

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古い物、特に歴史的価値のあるものを大切に保存するという心意気には尊敬の念を抱きます。しかし一部の建物は重要文化財指定を受け、最終的には世界遺産に登録されたわけですから、その苦労も報われたんじゃないでしょうか。

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こちらは開業当時の動力として使われていた蒸気機関の復元モデル。これが実際蒸気で動いています。この徹底ぶりは感動します。現在片倉工業は保守管理の役目を終え富岡市に所有権を譲りました。

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東繭置所の向かい、入場ゲートに近い所にある女工館。こちらは開業時、全国に技術を伝える役目を担った伝習工女たちに、ヨーロッパの機械製糸の技術を教えた4人のフランス人女性教師のために建てられた建物。明治6年建造で実に贅沢な造りをしてますが、残念ながら内部は見れません。建物は後に役員宿舎や娯楽施設などに利用され、大正12年以降は従業員食堂として使い続けられていました。

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こちらは片倉時代の昭和15年に建造された診療所。しかし医師は開業当時からずっと常駐されていたそうです。福利厚生というか、明治初頭から労働者のことを考えられたシステムと言うのは、政府が雇用したフランス人のポール・ブリューナの指導があったからこそかも知れません。

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こちらがフランソワ・ポール・ブリューナが家族と暮らした首長館。ブリューナは官営製糸場の建設地選定から携わっており、契約期間を終えた明治9年に帰国しています。しかし当時の一般的な日本人職工の年俸が74円程度だったのに対し年俸9000円を支払われており、一時期大久保利通や伊藤博文らが問題視した事も。

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首長館の裏手には講堂が併設されております。明治維新後の日本はブリューナのような多くのお抱え外国人(通称)を雇っており、彼らは日本の近代化に大いに貢献されました。

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講堂の奥には大正7年(1917年)建造の寄宿舎(榛名寮)。20畳以上の大部屋が幾つもあり、地方から出てきた女工さんたちが共同生活されていたそうです。女性の社会進出と言えば高度成長期のイメージですが、地方の貧しい農家に産まれた女性が嫁入り以外の選択肢として、このような雇用が有ったと言う事です。

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こちらは昭和15年(1940年)建造の寄宿舎(妙義寮)。右手に同じ造りの浅間寮があります。一棟につき15畳の部屋が16室あり、一部屋に12人ほどが暮らしていたとか。室内にはアイドルのポスターや観光地のペナントなどが貼られているそうですが内部は非公開。見てみたい。

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最後に敷地内に建つ社宅を紹介します。敷地内と言う事は部長や専務など重要なポストに就いていた方々が暮らしていたのでしょう。

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下駄箱が古い。この建物の建設年代は見落としてしまいましたが、造りからして恐らく昭和初期と言ったところでしょうか。明治、大正、昭和と、それぞれの年代の建築物が混在している富岡製糸場を巡っていると、明治建築と戦後建築との違いとか、なんとなく分かるようになってきます。

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それにしても、よくぞ当時のままの形で残っていると感心するばかりです。これが昭和62年(1987年)まで現役で稼働していたと言うのですから。

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台所の雰囲気も昭和そのもの。閉業間際の頃にはすでに使われなくなり、廃墟化していた時期があったのかも知れませんね。置かれている魔法瓶や食器などは展示用にディスプレイされた物でしょう。

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ちょっと立派な社宅。役職によって社宅のグレードが変わって来るのは、以前足尾銅山の社宅で見ました。富岡製糸場の敷地内には多くの建築物が残っていますが、内部を公開しているのは極一部。それでも公開されている箇所にはそれぞれスタッフを配置し、監視カメラも多く設置されています。世界遺産故に多くの外国人観光客を受け入れなければならないので、案内と同時に監視もしなければならない。

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こちらは三軒長屋の社宅。敷地外にも恐らく多くの社宅が存在していたと思われます。もっと多くの建築物を内部まで公開するには当然もっと多くのスタッフが必要となりますし、そうなってくると大赤字になってしまいます。

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まだ一部、乾燥所など復元作業が行われている棟もあります。土曜日に訪れましたが、観光客の数に対してスタッフの人数の多さを考えるとすでに赤字じゃ無いかと思われますし、かと言って人数を減らすのは外国人観光客受け入れの観点から言ってリスキー。税金で運営している分それに見合った経済効果がなければ今以上お金も掛けれないし難しいところですが、富岡市は充分頑張っていると思います。京都ぐらい観光客が来ればいくらでもお金掛けられるけど、なんだかんだ言ってマイナーだし、渋いし、バエないしwww

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以上となりますが、とにかく見応えありました。まぁ近代史などに興味が無い方はどうか分かりませんが、私は予想以上に行って良かったと思います。もっともっと多くの人に訪れて欲しいし、観光会社も近隣の温泉と併せたツアーなんかを組んで欲しい。
次回は富岡の市内散策を紹介します。

群馬県伊勢崎市(2)、絹織物で栄えた境町

東武伊勢崎線の太田と伊勢崎市の中間地点にある境町。ちょうど伊勢崎、太田、深谷に囲まれた知名度の低い町ですが、利根川の支流で赤城山から流れる広瀬川の北岸に位置する事から古くより交通の要衝として栄えて来ました。

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駅前には何も有りませんが、近くを通る国道17号線沿いにちょっとした工業団地があります。

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駅前にはインド料理屋。ちょうど昼時だったので入ろうと思ったら、インド、パキスタン系の方々で満席。

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ならばここはどうか?と、思ったらイスラム教のモスクでした。

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気が付いたら町中をインド系の人々が闊歩しています。これは工業団地が近いせいでしょうか、外国人街になりつつあります。地方都市のあるあるですが、いずれこの辺もテーマに掘り下げて行きたいところ。

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駅の近くにイベントスペースやアートギャラリーとして利用されている境赤レンガ倉庫があります。

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ここは大正8年(1919年)に繭の保管庫として建設されたレンガ造りの倉庫です。境町は江戸末期より織物産業が盛んになり、桐生、伊勢崎と肩を並べる織物産業の街で、伊勢崎銘仙として広く売り出されていました。ちなみに銘仙とは明治後期より使われるようになった平織した絣の絹織物(大衆向けの和服)の総称で、桐生銘仙や伊勢崎銘仙などブランド名としても使われていました。

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路地にやたら立派な建物がありました。宏遠館って書いてあるこの建物は資源ごみのステーションになっているので、公民館か何かだったのでしょうか。詳細は不明。

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境町は広瀬川の舟運が始まる鎌倉時代から発達した集落です。またこの辺りは足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の新田荘南西部に位置していました。

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江戸時代になると京都から東照宮へと向かう勅使が、中山道から日光街道までショートカットする日光例幣使街道が整備され、境町も文久3(1863)年に正式に宿場町となり発展しました。また同時に足尾銅山の公銅(幕府の銅)を陸路から利根川の水運へと切り替える港としても栄え、江戸末期には生糸の流通でも重要な役割を担い、2と7の付く日は市が立ち「六斎市」と呼ばれていました。

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織物産業で栄えていた当時の名残りとして蔵造りの商家などもあります。ちなみに関東の五大銘仙と言われていたのが境町を含む伊勢崎、桐生、足利、秩父、八王子。桐生はともかく足利も秩父も八王子も歩いていながら、絹産業をテーマに巡っていません。改めて行く必要があります。

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ただ、観光地として整備されていないので、貴重な歴史的建造物は朽ちるがまま。行政からの援助でもあればいいのですが。

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こちらは商家をリノベーションして営業されている中澤カフェ。

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一方で傾いて倒壊しそうな建物も目に付きます。

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今では普通の民家ですが、かつては何かしらの商売をされていたのでしょうか。

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見た目は看板建築ですが、中身は大正末期から昭和初期建造の町家造りと言われる井筒屋さん。

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そしてこちらが境町のボスキャラと言うべき存在感を放つ板倉屋薬局。

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昭和8(1933)年建造で、土蔵造りの商家に3階建ての洋館が増築されています。

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こちらは明治42(1909)年建造の土蔵造りの商家、斎藤家さん。

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こちらはお団子や豆餅が好評な和菓子屋さんの伊勢屋さん。

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飯島本陣跡。表は近代的ですが、裏は中庭や蔵のある立派な商家となっています。

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宿場町の西の外れから北、東武伊勢崎線方面に戻ります。

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絹の家と呼ばれているこの邸宅は、境町で明治から大正に掛けて機織業の発展に努めた金子仲次郎の居宅です。平成17年の市町村合併により境町は伊勢崎市に組み込まれていますが、伊勢崎機織組合を立ち上げたメンバーの中にも境町出身の者が多く含まれていたそうです。

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住宅街の中の古民家。こう言う玄関って今ではなかなか見ない。いっとき境町の元機屋が「境銘仙」として売り出したら大当たりしましたが、すぐに伊勢崎町の元機屋が「伊勢崎銘仙」として売り出したため、地域ブランド名を伊勢崎に取られたと言う騒動があったとか。「境銘仙」は境町の専売であると訴訟したが通らず、最終的には伊勢崎銘仙に組み込まれてしまったとか。

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旧群馬県蚕業取締所境支所。明治39(1906)年に蚕種の微粒子病対策を目的に設けられたもので、現在残る建物は昭和2(1927)年に建替えられた物。しかし現在では立ち入り禁止になっていました。
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