三業地

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千葉県木更津市(5)、木更津駅西口界隈の街並み(後編)

千葉県木更津市(1)、潮干狩り場の電柱群
千葉県木更津市(2)、呪詛による結界、道切りのある集落
千葉県木更津市(3)、木更津港周辺とフェリー埠頭跡
千葉県木更津市(4)、木更津駅西口界隈の街並み(前編)

前編の続きです。

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解体工事が中断されたか完成前に中断されたかのような様相の廃ビル。住宅街には似つかわしくないですね。

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海も近くなって来たこの通りには明治23年(1890年)から昭和初期まで木更津新地楼と呼ばれる遊郭が存在してたそうです。かつてはこの辺りが海岸線で、ここより西150mほどにある現在の海岸線までは埋め立てられたとか。現在、遊郭当時の痕跡は全く見られません。

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こちらは創業100年の歴史のある老舗ビジネスホテル、栄楽旅館。現在でも営業されています。

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さて、今度は駅前通りの左手、南側を探索して行きます。こちら側も昭和な看板建築が健在。

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ふと路地裏跡に入って行く。建物が解体されて陽当たりが良くなってますが、激狭路地にスナック。

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路地を抜けると芸妓の見番がありました。この界隈は花街(三業地)のようです。現役との事なので、近くに料亭なども多少残っているのでしょう。ちなみにこの建物は昭和30年(1955年)建築。

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見番の向かいの超狭い路地を入って行きます。

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路地を抜けると町中華の大雅。もう廃業されている雰囲気ですが、扉の感じなどからここも元はバーか何かだったのか。

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抜けた先には思いっきりスナック街。しかもそのほとんどが現役。花街でありながらこの一帯、赤線または青線の時代もあったのかも知れません。

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こう言うバラックっぽくて狭そうな店、入ってみたいです。

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振り向いたらこんな感じ。大きな港と自衛隊駐屯地があるから、歓楽街が現役で残り続けていられるのでしょう。

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路地の先にあったのがなんとリアル深夜食堂。営業時間が22:00〜5:00と言うガチな店。やっぱ寡黙でカッコいい大将が一人でやってるのでしょうか。泊まりがけで来たいなぁ。

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他の路地も歩いてみましょう。スナックビルの中を通り抜けられるようです。

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スナックと住宅が混在しております。

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範囲としては街全体含めてたいして広くなく、駅周辺の市街地を巡る分には自転車を借りるまでもないです。そもそも道幅的に自転車じゃキツい路地もあります。

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歓楽街から外れても凝った看板建築がちらほら。

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こちらも元スナックと思われる建物。撮り歩いたらキリがないですね。

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と思ったら明治大正期とも思える木造建築。現在は民家ですが恐らくは開業医系ではないかと。

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八剱八幡神社。駅前通りのお寺さんも立派な建物ですが、ここも新築の建物を建ててます。さらに、ご当地ヒーローの鳳神ヤツルギをプロデュースしてたり。

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こちらは唯一の現役銭湯、宮の湯。南の外れにあります。

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夕方、三人ほど地元の方が居られました。需要はまだありそうですが、人参湯なき今、ここには残り続けて欲しいと思います。

以上、木更津を巡って参りました。

山梨県富士吉田市(後編)、青線地帯跡の路地裏迷宮

さて、後半はスナック街や旧青線地帯跡など、ディープな路地を歩いて行きます。実はこちらがメインディッシュ。駅から宮川を渡って1本目を左に。

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寂れた飲み屋街と言った感じの街並みを歩いてゆくと、右手にミリオン通りと言う路地裏飲食店街が見えてきます。

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入り口のゲートのさほど古さを感じさせないところから、現役の飲み屋街であると分かります。過疎化や高齢化がさほど進んでないのでしょうか、新しい看板も多く見られます。

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富士吉田は寒冷地なうえ火山性土壌である事から農耕には適しておらず、うどんの原料となる麦の栽培や養蚕、織物産業などを生業としていました。

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特に織物の産地としては平安時代から続いておりましたが、郡内織物や甲斐絹などのブランド力によって江戸期に織物産地の地位を確立したとか。

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ミリオン通りを抜けたところは西裏通りと言う、左上のマスコットはバクでしょうか、乾杯している事から商店街ではなくあくまで飲み屋街と言う認識。

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富士吉田の織物は明治大正期の機械化によって生産量も労働者の数も増加してゆく訳ですが、最盛期は戦後の昭和30年代、当時地元では揶揄としてガチャンとひと織りすれば壱万円、略してガチャマンと言われるほどに栄華を誇っていたそうです。

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この飲み屋の痕跡がやたら多いのは、労働者の街として若い男たちで賑わっていた証拠です。

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この三角形の土地に建つ狭小バラック建築。もしここの店が現役だったら絶対入ります。

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西裏通りを北へ歩き右手に見えてくる建物、これが月江寺のボスキャラである青線跡のカフェー建築です。ただ、月江寺に青線があったと言う正式な資料は残っておらず、戦後の進駐軍に対する歓楽街があったと言う話しかありません。とは言え、この状況証拠www

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その向かいにはかつて日昇旅館と言う見事なカフェー建築の建物があったのですが、残念な事に解体されてしまってました。もう数年早く来ていれば。

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ただの民家かと思い狭い路地を入って見れば飲食店の痕跡。怪しすぎます。隠れ過ぎてる隠れ家。

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西裏通りの左手、ミリオン通りの一本北側の路地もまたスナック街。ここは結構現役のお店が多いようです。

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川沿いの通りに出ればまた渋い建物が。この界隈はどこを歩いても昭和の歓楽街を色濃く残しています。

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普通のスナックビルもあります。いつガタが来てもおかしくない木造モルタル建築物よりは、鉄筋コンクリート造のビルにお店を出した方が雨漏りとか設備の不具合などの心配も無く安心なのでしょう。

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さて、今度は西裏通りの右手側。路地を入ったところに一軒のお寿司屋さん。

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建物の側面を覗くと見事な唐破風屋根の玄関が隠されていました。元々は料亭だったのでしょうか。

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その狭い路地を抜けてみると……。

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三階建ての楼閣が姿を現しました。こちらも月江寺では有名な物件の一つ。

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その裏通りは新世界乾杯通りと言うそうですが、この狭く入り組んだ感じ。三島や足利などを思い出すような迷宮です。

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振り返るとこの感じ。たまりません。進駐軍の相手をするいわゆるパンパンの私娼街だった新世界通りですが、進駐軍の跡地が自衛隊の富士演習場となった頃からは青線となっていたと思われます。しかし昭和40年に火事が起き、以降スナック街として残ったと言われております。

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来ました。場末の中の場末に見つけた廃墟路地。

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ちょっと中を覗いてみたらこんな感じ。Amazonの段ボールの違和感!

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キープボトルがそのまま放置されているスナックも。まさに昭和で時間が止まっています。

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一番奥の突き当たりから振り向いたらこんな感じ。いったいいつ頃まで営業されていたのでしょうか。

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「L」字形の廃墟路地を抜けて新世界乾杯通りに戻ると、真新しい共同トイレがありました。これは一時期全滅してしまった新世界通りを再生しようと、一般財団法人のリバースプロジェクトが空き店舗群を活用して建築設計の監修をし、増加傾向にある観光客を迎え入れる施設へと再生させた取り組みの一環だそうです。ガチな昭和遺産好きとレトロを求める若い世代との隔たりとして、トイレの問題は大きいです。狭くて汚い和式便所では若い女性客が寄りつかないので、そこは迎合すると言う事。実に理に適った考え方ですね。

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新世界乾杯通りから脇道を入るとこのようなビルが。すでに廃ビルですが看板にはサウナの文字が。

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ビルの隣には倒壊寸前の家屋が。ちょっと中を覗いてみましょう。

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なんと家主がいました。

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「勝手に覗くんじゃにゃい!」
ごめんなさい。

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さらに奥、つまり東へ。こんな外れにまで飲食店街があったなんてと思うほどに、飲み屋街としての規模は相当なものです。

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この辺まで来るとさすがに現役の店はありません。

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店頭のベンチで焼き鳥とホッピー。賑わっていた昭和当時の光景が目に浮かびます。
と言うわけで以上ですが、やはり行ってみて良かった。一部で有名になったからって後回しにしたお陰で解体された建物もあったし、もっと早く来るべきでした。

茨城県筑西市(1)、下館の商家と花街跡

下館は東西にJR水戸線、北へ真岡鉄道、南へ関東鉄道常総線と、十字に鉄道が走ってます。

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下館駅は明治22年(1887年)国鉄水戸線の前身となる水戸鉄道として開業。明治45年には国鉄真岡線の前身となる真岡軽便鉄道が開通し、大正2年(1913年)には関東鉄道の前身となる常総鉄道が開通し、交通の要衝となりました。現在の駅舎は昭和12年竣工。

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駅前には筑西市役所が入った複合施設、下館スピカが建っています。複合施設と言っても実際はほとんどが市役所で、一部オフィスとヤマザキYショップ、パソコン教室などが入るのみ。

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平成3年(1991年)に開業したこの施設には、当初サティが入っていましたがマイカルの経営破綻の影響で平成14年(2002年)に閉店。一時は完全閉鎖となりますが、その後風俗店が施設内に開業すると言う噂を聞き下館市(当時)が国の補助金を使ってマイカル跡地を購入し再生。スーパーマーケットのエコスや2000年に経営破綻した長崎屋を誘致しました。しかしそのエコスも2006年に撤退。食品スーパーを補填するべくサントマトが出店されたものの2007年に撤退。その後エイムが出店したものの売り上げは下降の一途を辿り2008年に撤退。テナントが次々撤退する中、2007年に筑西市が分庁舎を開設。すると今度は経済産業省から中心市街地活性化総合支援事業の補助金を返せと言われ、4100万円を返還する事となる。

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もうこうなったら売却しかないとの結論に辿り着くも買い手が見つからず、結局2017年筑西市役所本庁舎の老朽化を理由に、この施設へと本庁舎が引っ越して来ました。なんかWikipediaを読んでたらもはや笑うしかないと思った。

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駅前通りは駅前商店街が道路拡張事業のために潰されており、さらに電線の地下化で電柱が無くなっています。商業の街としての歴史があるのに、税金の使い方として色々間違っている気がする。

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駅前を東へ入ると下館魚市場が。かつては駅周辺も賑わっていたのでしょう。

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下館の地形には独特なものがあります。駅前から少し西に歩くと小高い丘があります。その丘は3階建の屋根ぐらいの高さなのですが、丘自体は細長く北へ続き羽黒神社に繋がります。こちらは坂の途中の煎餅屋さん。

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丘に登ったところにある看板建築は塗炭板で塞がれている。何かの商売をされていたのでしょう。

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その斜向かいのかせき堂本店さんも目を惹きます。明治15年創業の洋菓子屋さんでカステラが人気だとか。

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消化器の看板。かなりの年代物とお見受けできる。下館の現在の住所は甲、乙、丙で大雑把に分けられています。しかし実際の通称は旧町名である稲荷町(甲)とか金井町(乙)とか。

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丘の東側は稲荷町になりますが、この一帯はかつて花街として栄えていました。

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しかし稲荷町一帯は昭和15年、大火に見舞われたそうで、そのため戦前の建物はほとんど残っていません。

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花街なので料亭や置き屋、待ち合いなどの三業地かと思われますが、青線なども有ったのではとも言われてあります。

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VHDカラオケ。VHDとは1980年代に日本ビクターが開発したレコード盤形状のビデオディスクだそうです。しかし同時期、製品化が少し遅れたものの解像度の高いLD(レーザーディスク)をパイオニアが開発。VHD規格の市場は徐々にLDに押されて行く事となります。

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丘の東側麓を並行して稲荷町通りが続きます。

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建物の詳細は不明ですが、青線があった当時の建物はもう無いのかも知れません。

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ただ花街の名残りとしてスナック街の痕跡があります。そのほとんどが廃業していますが。

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さらに北へ進むと銭湯の松の湯さんが。後継者不足のため2013年に廃業されたとか。

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稲荷町通り裏手の崖を登ると羽黒神社があります。1481年創建。神社の参道の周辺に花街があると言うのも、よく見る構図ですね。

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羽黒神社の裏手にある中澤時計店の建物。もう営業はされていないようですが、昭和12〜13年に建てられたこの看板建築の重厚感たるやもはやボスキャラ。

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丘の上の尾根道をそのまま北へ進むと国道50号線にぶつかります。交差点の建物もいい味出している。

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東に広がる市街地へと国道を下って行きます。ちなみに現在北側郊外を迂回する形でバイパスが通っており、この市街地を突っ切る旧道は水戸と小山を結ぶ旧・結城街道となります。

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城下町であるとともに宿場町としても栄えた下館ですが、街道筋には蔵造りの商家が立ち並んでいます。この建物は荒七酒店。

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江戸時代より醤油や味噌の醸造をされてたそうですが現在は酒屋さん。母屋は昭和8年建造で登録有形文化財。

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向かいの建物は料亭だった建物で、現在は建築設計事務所が入っています。こちらも登録有形文化財。

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旧街道を東へ進んで行くと角に中島商店と言う煙草屋さん。下館は主に真岡木綿や結城紬を扱う商業の町として発展したそうです。

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結城街道から下館駅へ戻るべく市街地に入って行きます。駅前通りで特に目を惹くのがこの老舗の和菓子屋さん、たちかわ本店。大正12年(1923年)創業でやたら立派な造り。

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古くからの商家が多いので敷地は縦長な鰻の寝床ですがそれでも広い。見た目小さな平屋建てに見えてもその奥に立派な蔵が控えていたりします。

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もちろん立派なお屋敷ばかりでなく、このようなバラックもあります。かつて何の店だったのか、別に下館に限っての事じゃありませんが兎にも角にも現役の商店が非常に少ない。

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最後に火の見櫓。道路の上に建っています。
下館の市街地は結構小さくまとまっており、軽く散歩するには丁度よい感じでした。

群馬県富岡市(2)、富岡の街並み

さて、富岡の市内を巡って行きます。

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富岡にはまず高崎駅0番ホームより下仁田行きの上信電鉄に揺られて行きました。

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車両は昭和56年新潟鉄工製の6000系がまだ現役で走っています。

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長い直線を高速走行すると激しく横揺れ。実に懐かしい感覚です。

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さすが世界遺産登録されただけあって、駅は綺麗に建て替えられています。

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駅前には富岡倉庫があります。右手の赤煉瓦造りは1号倉庫で明治34年建造。

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こちらの2号倉庫は大谷石造りで大正12年建造。この倉庫の向こう側に上信電鉄上州富岡駅があり、いわゆる上信電鉄の貨物輸送のための倉庫で、かつては線路が横付けされていたと思われます。

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2号倉庫の先に繋がっているのは明治33年建造、木造土壁造りの3号倉庫。

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3号倉庫の向かいには明治36年建造の乾燥場があります。富岡は駅前から明治大正期の建造物が出迎えてくれます。

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二階の乾燥場に繭を上げるベルトコンベア。

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さて、富岡倉庫から南へ歩いて行きます。東西に走る下仁田街道の手前、路地にあるのが神部医院。

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病院ですがどう見ても料亭のような造り。かつてこの界隈は花町として栄えていた時期もあるので、その名残りかも知れません。

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下仁田街道に出て西へ。少し歩くと左手に阪本耳鼻咽喉科医院が。商家の隣に増築された建物は大正建築でしょうか、詳細は不明。

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製糸場西通りを左、南へ歩きます。この先は富岡製糸場の裏門に続きます。

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ひさしがひしゃげてますが、この二階の欄干は料亭か何かだった事を思わせます。最大38名の芸者が置屋に席を置い ていたとされていますが、昭和58年頃には消えてしまったとか。

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右に曲がると大正湯と言う銭湯があります。臨時休業と書かれてましたが昼過ぎには煙突から煙が立ち昇っていたので、午後3時には開店していたのかもしれません。次回は入りたいところ。

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下仁田街道の南を併走する銀座通りを東に歩きます。こちらは料亭でしょうか。明治大正から昭和中期まで製糸業で栄えた富岡ですから、当然接待などに使われた料亭も多かった事でしょう。

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折れてます。いつ倒壊してもおかしくない。富岡の街は2011年の東日本大地震の後、2014年に豪雪被害を受けてます。度重なる災害で半壊した家屋も多かった事でしょう。

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花街の名残りとしてスナックなども点在しています。かつては遊廓から戦後の赤線まであったそうですが、いかんせん群馬県は廃娼県だったので資料が全く残ってないそうです。

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二階に欄干があるだけで花街の名残りではと思ってしまいますが、なんとも言えません。

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富士屋食堂。数年前までは営業してたみたいなんですが、訪れた時には既に廃業。ここで昼メシ食いたかった。

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銀座通りを東に進んで行くと右手に狭い路地が。この路地は二町通りと言って現在寂れたスナック街となっています。赤線とか有ったのはこの辺でしょうか。

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現役のスナックです。夜は夜で多少賑やかなのかもしれません。

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ふと目に留まった民家ですが、この六角形の窓はただの民家では無さそう。

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ニ町通りの奥にある廃墟スナック。左手の軒が崩れており、危険物件と言う事で行政から解体するよう言われているみたいです。

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御金処。いわゆる質屋さんですが、かつては左側にも建物があり相当狭い路地となっていたようです。後ろめたさから人目を忍んで狭い路地へスッと消えてゆく、みたいな。

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銀座通りを更に歩くと右手が三町通りと言う路地になります。こちらは現役の割烹料理店よろづや。こちらも三業地(或いはニ業地)の名残りでしょうか。

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銀座通りの南、富岡製糸場の正門から東へ伸びる城町通りに出たところに建つ民家に「梅本」の看板が。こう言った看板、元は置き屋だったのではと考えられます。この向かいにかつて昭和6年(1931年)に消防団の詰所として建てられた江原時計店の建物があったのですが、残念ながらすでに解体されていました。

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町中の喫煙所。富岡市は分煙運動を進めており、市内のあちこちに灰皿が設置されています。私個人的な話になりますが、喫煙者としては頭ごなしに禁煙と言われないだけでも有難い限り。

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最後に衣料品店のいりやま。奥に赤煉瓦造りの倉庫もあります。
富岡製糸場は衰退の末に閉鎖となりましたが、街はまだまだ栄えているようです。元々は企業城下町だった部分はありますが、これからは観光産業で賑やかになっていって欲しいです。

群馬県館林市(2)、ニ業地の街並みと史跡

駅の東、県道57号を越えた辺りに、かつての花街がありました。最盛期で150人居た芸妓さんも今では消えてしまいましたが、料亭や割烹はその名残りとして残っています。花街を求めて歩いて行くと、県道を渡る前から料亭などが目につくようになってきます。

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大正3年より昭和13年まで見番があった青梅天神裏、見事な3階建ての木造建築があります。料亭「福志マ」(?)。看板の書体が古過ぎてよく読めません。

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詳細は不明ですが、この辺りに見番があった時代から考えて恐らく大正時代の創業かと思われます。市内では町歩きのパンフレットなども配布されていますが、このような立派な建物が載ってないところ、ダメです。

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こちらは旅館跡。昭和初期建造のようですが、かつては割烹旅館か何かだったのでしょうか。

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県道を渡り一本奥の通りに出ると、そこはかつての花街であり今でも現役の料亭街。

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南へ向かって歩くと料亭第五があります。

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向かいは現在民家が建っていますが、かつてはこちら側に本店があったのでしょうか、潜り戸と行燈と松の木が残されています。

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第五で引き返して北へ向かって歩きます。こちらは現在お寿司屋さんですが、花街の面影を色濃く残しています。

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こちらも現在居酒屋ですが、かつては料亭か何かだったのでしょうか。館林にはこのような花街の面影が多く残されており、それを観光の目玉とする動きがあります。

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こちらは元酒屋さん。このような昭和遺産も残っています。

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現在は民家ですが屋根を見れば贅を尽くした建造物である事が伺えます。あとはこのような貴重な建物をリフォームしてカフェなどに再利用してもらえると、いつまでも残り続けるのですが。

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途中右手に現れるのが、旧館林ニ業見番組合事務所。車寄せにある唐破風屋根とその上にある二つの千鳥破風が見事。

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ちょうど祝日だったので内部が公開されていました。この建物は昭和13年(1938)建造で、国登録有形文化財です。

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玄関脇の増設された階段は、二段目まで豆タイル貼り。一般的には料亭、置屋、待ち合いで三業地と言いますが、埼玉と群馬は廃娼県だったので、料亭(甲種料理業)、芸妓置屋のみのニ業地となります。

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芸妓さんたちが芸を磨いていた舞台。館林の見番は明治42年に堅町に設置され、大正7年谷越町の青梅天神裏に移転。さらに昭和13年、現在の場所に新事務所が建設され、見番が移転しました。

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ただ建物はあちこちにガタが来ており、改修もままならないのが現状です。東京芝浦の三業地見番跡のような本格的な改修工事には相当な予算がかかりますし。ただ見番として使用された期間は短く、昭和19年には日清製粉の所有となり、昭和31年には当時の所有者の正田貞一郎が館林市に寄贈。以後、商工会議所の事務所、本町2丁目区民会館などに利用されて来ました。

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見番跡をさらに北へ進むと、突き当たりに外池商店と言うこれまた古い商家が。昭和4年(1929)建造で、以前は造り酒屋も経営していたそうですが現在は酒屋さんとなっております。

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外池商店のある通りは「歴史の小径」として館林駅から館林城跡までの散策路として整備されています。城跡方面へ歩いて行くとまた古い建物が目につくようになります。

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二階の壁の装飾がちょっと凝っている木造建築。館林は古くから城下町として栄えていましたが、特に発展したのは徳川家や松平家が城主となった江戸中期からとされています。

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こう言うカーブとか風情を感じます。

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鷹匠町長屋門。豪農の松沢家の長屋門を再利用、改築して武家屋敷の長屋門を再現したもの。館林の古い建物はもうだいぶ壊されており、観光のために作られた物も点在しております。

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移築されて来た武家屋敷。駅から城跡までの散歩コースである歴史の小径にわざわざ移築されています。

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武家屋敷の塀。その裏にはマンションが建設されています。奥には田中正造記念館もありますが休館中でした。どうも、観光地として城下町を売りにするのか明治大正期の街並みを売りにするのか、どちらも中途半端でコンセプトがしっかり決まって無いようにも感じられます。

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こちらは館林城の土橋門。建物のほとんどは明治7年の火事で焼失され、現在天守のあった敷地には市役所や美術館、文化会館などが建てられています。日本の城は明治政府の廃城令で全国から消えてしまいましたが、その跡地に市役所や県庁などを建てたいって言う気持ちは分からないでもない。

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城跡の手前の国道7号線沿いには、営業しているかどうか不明な旅館が。

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倉庫なのか住居だったのか、謎の廃墟も。

次回に続く。



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都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

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