野田市

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茨城県境町、利根川東遷からの江戸への物流拠点

江戸から明治にかけての水運(水上交通)を語るのに、利根川から江戸川が分岐する関宿(せきやど)を避けては通れない。そう思い鉄道も通っていない千葉、茨城、埼玉が県を接する千葉県野田市の関宿へまず向かいました。

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結論から言うと関宿にはかつての城下町の雰囲気など一切残っていませんでした。

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関宿城も本来あった場所とは違う場所に1995年(平成7年)、鉄筋コンクリートで復元された物。しかも訪れた時、この関宿城博物館が休館日でした。

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元々建っていた場所がこちら。多少土塁が残っている程度。関宿は地図的に言えば千葉県の北西端、チーバ君の鼻先に当たる所です。利根川の北側が茨城県、利根川南側から旧渡良瀬川の流路(行幸湖)を通り南東に分岐する江戸川に接する所から南が埼玉県、銚子から太平洋に注ぐ利根川と東京湾に注ぐ江戸川との間が千葉県となります。説明が難しい。

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こちらは関所跡地。江戸時代初期までは鬼怒川水系の常陸川が銚子に流れ出て、渡良瀬川と利根川は江戸湾に流れ込んでいました。しかし家康の江戸入城後の元和7年(1621年)以降、水上交通確立のため利根川と渡良瀬川を常陸川に繋げて銚子へ流し、かつ旧渡良瀬川の流路を江戸川としました。これが利根川東遷と言う一大土木事業でした。

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利根川東遷が出来ると、利根川や渡瀬川からの流れが銚子方面と江戸湾とに分岐するこの地点は、水運の要衝となりました。特に北の太平洋沿岸地域から江戸へ向かう物資は、房総半島の外海を航行するよりも高瀬船で川を伝った方が安全かつ遅れなく運べると言う事でした。また、川幅の狭い箇所に棒出しと言う、江戸川への水量を調節する閘門もありました。

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関宿城博物館の北西端部を周回する土手道が県境で、その先の河川敷は茨城県になります。水面は見えませんがこの奥に川の分岐点があり、左手の江戸川の対岸もまだ茨城県。

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こちらが現在の江戸川への水量を調節する関宿水閘門。ここも茨城県になります。1927年(昭和2年)完成。江戸川下流域の水害を防ぐ役割を担っています。関東平野を流れる川は、その時代ごとに流路を変えて来たので、一言で説明する事が出来ません。

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関宿城博物館がある近くには珍しい事に浚渫船(しゅんせつせん)が保存されています。保存と言っても草に埋もれてますが。浚渫とは川底の砂や泥などをさらう作業を言います。

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大雨などで水量が増すと上流域で川岸や川底が削られ、その土砂が中流域から下流域へと流されて行きなす。土砂はそのまま川底に堆積し、それにより水深が浅くなって船の航行が困難になったり、急な増水に際し洪水の危険性が増します。江戸時代は人力で浚渫作業をしていましたが、明治以降浚渫船が輸入されるなどして機械化が進みました。

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関宿水閘門の近くには江戸川の下流域に掛けられていた鉄道橋の一部が保存されています。この橋梁は1907年(明治40年)に当時の総武鉄道の小岩〜市川間の江戸川橋梁に使用されていました。

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さて、関宿から県道17号、境大橋で利根川を渡って茨城県境町へと入って行きます。左手奥で左側に江戸川が分岐しています。

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対岸である境町側から眺める関宿城はこんな感じです。冬の早朝など空気が澄んでいる時ならば富士山も見えますが、かなりの望遠レンズでないと関宿城と富士山を並べて撮るのは無理です。なんか撮影スポットとして有名らしいですが、天守閣と富士山なんてそう簡単に撮れるもんじゃないです。そもそも復元天守閣だし。

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利根川を渡ると右手にはドン・キホーテとスーパー銭湯、スーパー、ダイソー、パチンコ、場外馬券場など。

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左手には道の駅さかい。一応、観光拠点です。ここをはじめ町内にはいくつかの隈研吾設計による建築物があります。公共事業だから予算あるのかな。

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道の駅は高いので、隣のドライブイン的な大はし食堂に入ります。

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最近はモツ煮定食を見かけたら必ず頼むようにしています。ここのモツ煮も味が濃くてご飯が進む。

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境町の町内には無人運転バスが運用されています。ソフトバンクの子会社であるBOLDLY株式会社及び株式会社マクニカの協力のもと自動運転バスを3台導入し、5年前から定期運転されています。たまに有人ワンボックスが来る事もありますが。

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大まかに言えば道の駅と病院とショッピングセンターと高速バスターミナルなどを往復する感じです。レンタルサイクルを借りてたので乗りませんでしたが、無料です。

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境町はJRバス関東と朝日自動車によって東京駅八重洲口からの直行便も出ています。こう言うのは行政が頑張っているからなのでしょうか。以前東京駅から出る境町行き高速バスを見て、境町ってどこ?と思ってました。写真は後日駒込駅前でたまたま見かけたJRの境町行き高速バス。

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境町には古河から路線バスが運行されています。ちなみに関宿には東武伊勢崎線川間駅と東武動物公園駅から路線バスが出ており、関宿大橋を渡り境車庫まで運行されています。

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古河からの路線バスの終点、境町バス停前。正面には朝日自動車のタクシー営業所があり、左手には河岸の駅さかいと言う観光施設があります。観光施設と言っても手狭な案内所的な物で、しかも閉まってました。ただここには自動運転バスも来ますしdocomoのシェアサイクルもあります。

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しかしながら空いてる商店は一軒も無く、路線バスで観光に来た人は愕然とするでしょう。

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この辺りは江戸時代河岸があり、とても栄えていました。東北や北関東からの年貢米などの物資は、奥州街道より途中鬼怒川の水運を通り、日光街道東往還を通ってここ境町へと集積されます。そしてここから江戸川を下って江戸市中へと運ばれて行きました。いわゆる物流拠点でもあります。

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メインストリートは河岸跡から北へ延びる日光街道東往還。かつては船問屋や旅籠、茶店などが軒を連ねる関宿藩の宿場町でしたが、鉄道の登場によって衰退して行きます。こちらは見世蔵造りの旧・高木書店。

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こちらは村田酒店。煉瓦造りの店舗ですが前面が大きく塞がれているのが残念。奥にも広く倉庫などがあります。

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途中、気になるバラックなどもありました。

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裏通りに入った所で廃業旅館。旅館ふじと書かれた看板がありました。

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こちらも造り的に旅館か何かだったのでしょうか。

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現役の旅館、旅館山楽。特にこれと言った地場産業や名勝がある訳でも無いのに、なぜこんなに旅館業が多かったのか。

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紳士服婦人服のマルニ。かつては商店街としても賑わいを見せていたようです。

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駐車スペースのある商店街跡もあります。鉄道の通らない町として、早くから車社会に対応していたのでしょうか。

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これまた歴史のありそうな建物。市内は特に文化財登録もされていないので詳細は不明。しかし特に保存されている訳でもないのに、多くの歴史的建造物が残っています。

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貸家でしょうか、門柱にアーチが掛かっています。お洒落。

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旧日光街道東往還の東側には境大橋から北上する県道17号線が並走しており、北へ進むと圏央道の境古河ICがあります。こちらは交通量も多く幹線道路沿いの店舗なども多く栄えていました。こんな写真しか撮ってませんがww
ともあれ、2015年(平成27年)に圏央道境古河ICが開業した事により、それまで陸の孤島と化していた境町が急速に発展してきているのかも知れません。同様に阿見町や稲敷市、来年開通予定の千葉県多古町など、鉄道が通らなかった街々も、この圏央道によって変わって行く事でしょう。

千葉県野田市(2)、茂木一族邸宅探訪

野田市駅と江戸川に挟まれた一帯には醤油工場とともに、茂木一族を始めとする醤油醸造業に関わった人々の邸宅が密集しております。

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こちらは茂木七郎治邸。茂木一族の家庭で、4代目七郎治(襲名)は野田運輸(現在の総武物流)、花畑乗合自動車、野田自動車運輸の代表。また総武鉄道常務取締役や柏屋商事監査役、野田商誘銀行支配人(3代目ともに)などを歴任したそうです。

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東へ歩くとキッコーマン関連の研究施設や茂木本家美術館と並んで茂木七左衛門の邸宅があります。こちらは茂木一族の本家にあたり、現在の当主は14代目。内部は住居のため公開されてませんが、関東大震災後の大正15年(1926年)建築の母屋や蔵など多くの文化財建築があります。

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こちらはその煉瓦塀。茂木家は野田醤油として設立されて以来、各家ひと世代より1人しか入社できないという不文律があったそうです。

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北側には野田市民会館があります。こちらは茂木佐平次邸が敷地の半分を野田市に寄贈され一般開放しており、敷地には郷土資料館も併設されています。

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屋敷の塀には赤い漆喰が使われており、これは輸入された漆喰なのですが、どこの国って言っていたか、説明されたんですがちょっと忘れてしまいました。しかしお洒落ですね。

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現在の建物は大正13年完成したものが殆どですが、明治初期の茶室も残っており、皇族を招待した事もあるとか。この茂木佐平次家もまた野田醤油設立に関わった家で、野田醤油(キッコーマン)3代目と8代目社長を輩出されています。

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中に入って行きましょう。前回でも触れましたが元々野田市は江戸川の中流域東岸に位置し、東側では麦や大豆の生産が盛んで、江戸川下流域の塩田から塩を運んでこれる事や、同じく水運によって江戸の町までの流通も確保出来る事から、古くより醤油蔵がいくつも建ちました。

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江戸期の利根川や江戸川の水運は、このような高瀬船が使われていました。江戸川下流域の塩田と言えば、以前訪れた市川市本行徳が塩田で栄えた水運の町でした。

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貴重な大正ガラスの窓から庭園が望めます。ちなみに野田醤油の登録商標で現在の社名でもある亀甲萬は元々この茂木佐平次家の商標だったとか。

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以前、大正期の日本家屋で見かけたこの小窓、何かと思って聞いてみたら、雨戸を戸袋に仕舞う際に使う、戸袋の小窓でした。なるほど。醤油醸造蔵は全国各地にご当地醤油としてありますが、首都圏ではキッコーマンと銚子市のヤマサが二大巨塔でしょう。ちなみに国内シェアで言えば1位がキッコーマンで30%、2位が銚子のヤマサで11.7%、3位が館林の正田醤油で6.5%、4位が銚子のヒゲタ、5位が小豆島のマルキンと続きます。
……小豆島⁉︎

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こちらは理容室。寄木細工の床板が見事です。ちなみに以前訪れた館林の正田醤油は元々野田に小麦を卸していた業者で、明治初期茂木房五郎に勧められて醤油醸造業を始め、その製法を教わったのが始まり。余談ですが創業者の正田文右衛門の孫が日清製粉の創業者。

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理容室の鏡も当時の物です。ともあれ、創業家の世襲による家族経営と違い一族複数の家から経営者を出しているので、没落せずにここまで続いているんでしょうね。徳川御三家みたいな。

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理容室の隣には浴室があります。こちらにも屋敷の塀で使われている赤い漆喰が使用されています。

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浴槽の隣にはなんと、大正時代のシャワーがまでありました。初めて見ましたが、とにかく贅を尽くしています。これでも分家なんですよね。時代によっては一族同士の醜い権力抗争なんてのも、もしかしたら有ったかも知れません。

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こちらは使用人専用の五右衛門風呂。使用人専用とは言え立派なものです。ちなみに現在、このお屋敷は将棋の名人戦などでも使われているそうです。

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台所の土間には五右衛門風呂に薪を焚べる所があります。よく当時のままの状態で残っていたと感心するばかり。

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厨房には大きなまな板があるのですが、蓋をすると賄いを食べるためのテーブルとなります。

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賄いテーブルの向こうには食器棚が。これまで茂木一族関連を調べていましたが、とにかくキリがない。茂木一族が地元の金融から流通から商社に至るまで、関連会社の全てを牛耳っており、まさに茂木帝国(高梨家他も含む)なので、これぞ企業城下町といった感じですね。

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小さな棚が引き出せます。なんとお洒落で機能的な。

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薪を焚べるいわゆるコンロ。上には換気口もあり、現在のキッチンの原型を見ているようです。建物は今でも将棋の会場や様々なイベント等で利用されているため、上にガスコンロが乗せられています。

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床下収納は現在使われていませんが、かなりの広さ。

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こちらが普段遣いの玄関。賓客のみ正面の門から入り、他のお客さんはみんなこちらから入ります。

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そんなわけで、説明付きで細かい所まで見せていただき、非常に見応えがありました。

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最後はスーパー銭湯「のだ温泉ほのか」に立ち寄りました。ここは源泉掛け流し浴槽もあり非常に良いお湯。歩き疲れが癒されました。

千葉県野田市(1)、キッコーマン醤油の企業城下町

2021年の夏に流山市のキッコーマンみりん工場を訪れましたが、そこはキッコーマンの前身である野田醤油株式会社設立時、野田醤油の出資によって万上味輪株式会社が設立されたのを発祥としております。そんな訳で今回、キッコーマン発祥の地である野田にやってまいりました。

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東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

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でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

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いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

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そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

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工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

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野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

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こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

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さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

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さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

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こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

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旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

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茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

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こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

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アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

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仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

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最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

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近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

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江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

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建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

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邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

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大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

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高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

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倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

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江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

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江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

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野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。

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