牛久と言えば牛久シャトーと大仏ぐらいしかないと言ったイメージを持ってました。

実際、駅前には何も無いです。水戸街道の宿場町として栄えた牛久は西南側の外れにありますが、今回そっちには行きませんでした。

線路の東側を並走する幹線道路の花水木通り沿いに、駐車場完備の大型店舗が軒を連ねており、地元の方はこの辺で買い物を済ませるのでしょう。

花水木通りを越えた所に牛久シャトーがあります。牛久シャトーは明治36年(1901年)完成したワイン醸造所です。

正面の旧事務室は立入禁止。国産ワインの歴史は明治9年(1876年)、札幌に麦酒醸造所と共に開設された開拓使による葡萄酒醸造所から始まります。明治10年(1877年)には山梨に県立葡萄酒醸造所が開設、明治13年には兵庫県の加古川に官営播州葡萄園(明治29年廃園)が開園されました。

事務室を抜けると旧醗酵室があります。この牛久シャトーを開設した神谷傳兵衛(でんべえ)氏(1865〜1922)は、明治6年、17歳の時に横浜外国人居留区の商会で働きながら洋酒の製造法を勉強し、19歳の頃は深川の米穀商や麻布の酒商で働き、明治13年(1880年)24歳で独立。浅草に「みかはや(三河屋)銘酒店を立ち上げます。

その後、輸入ワインや泡盛の販売、ブランデーの製造販売などを手掛け明治19年、登録商標蜂印香竄葡萄酒の成功で世に出ました。

発酵室の中には発酵樽が左右に並んでいます。洋酒やワインの製造販売で成功を収めた神谷傳兵衛ですが、今度は葡萄の生産から醸造まで一貫して手掛けようと農場を開き、この牛久シャトーを建設しました。

醸造室の両端から2階に上がれるようになっています。階段には明治建築の凝った意匠が細部に見て取れます。

こちらは2階展示室。神谷傳兵衛と牛久シャトーの軌跡を追う事が出来ます。牛久シャトーで本格的なワイン造りを始めた神谷傳兵衛は明治45年(1912年)、浅草の「みかはや銘酒店」を改装し、神谷バーを開業します。神谷傳兵衛って誰?って思いながら展示物を見ていましたが、あの浅草神谷バーの神谷ってこの神谷さんなんだ!って、繋がった時はちょっと鳥肌立った。

浅草神谷バーは20年以上前、一度だけ入った事があります。上の階の畳敷きの宴会場でしたが、初めて電気ブラン飲んでかなり酔っ払った記憶が。ちなみに現在の神谷バーの建物は大正10年(1921年)に建てられた物です。

2階に展示されているワイン製造に関する機器たち。

蜂印香竄葡萄酒の看板。ちなみに蜂印香竄葡萄酒は今でもハチブドー酒として神谷バーで飲む事が出来ます。

こちらは地下に広がる貯蔵庫。非常に暗いです。ここで熟成されるわけですね。牛久シャトーのワイン醸造は太平洋戦争によって葡萄園が荒廃し、終戦後に農地改革が行われ小作地として解放されることとなり、一旦生産を終了する事となりました。

醸造室の左手の貯蔵庫は内部が改装されてレストランになっています。

しかし近年、葡萄の栽培からワインの生産までを復活させております。

収穫された葡萄は醸造室の西側から建物に運び込まれます。

こちらが醸造室内に造られた現在のワイナリー。自分はあまりワインは飲まないのですが、ここで生産されたワインを神谷バーなんかで飲めるのならば、一度飲んでみたいですね。

さて、牛久駅より南東へ約5キロ。かつての神谷葡萄園の南端に当たりますが女化(おなばけ)と言う地区になります。この女化神社は明治以降東京の芸者衆がこぞってお参りに訪れていたそうで、狛犬は子連れの狐となっております。ちなみにこの女化神社周辺だけがお隣、龍ヶ崎市の飛び地となります。

神社の近く、旧岡田小学校女化分校校舎があります。

明治31年創立の開拓入植者の私立尋常小学校が前身でこの校舎は戦前の木造校舎。昭和47年(1972年)に閉校したそうです。

現在でも地域の多目的スペースとして利用されており、綺麗に管理されております。

最後に女化街道を南に越えて再び龍ケ崎市、大正9年(1920年)竣工の旧竹内農場赤煉瓦西洋館。

ここには小松製作所(コマツ)の創業者であり、快進社(ダットサン・現日産自動車)の創業者の一人でもある竹内明太郎(吉田茂首相の兄)が経営していた竹内農場がありました。そして竹内明太郎の別荘兼農場主の住居としてこの建物は建てられたそうです。

当時は多くの著名人を招待していましたが竹内明太郎本人が利用していたのは大正12年までで、以降は弟の直馬一家が移住し昭和7年まで使われていたそうです。今では文化財登録され柵で囲まれていますが、少し前までは荒廃した廃墟だったのでしょう。

実際、駅前には何も無いです。水戸街道の宿場町として栄えた牛久は西南側の外れにありますが、今回そっちには行きませんでした。

線路の東側を並走する幹線道路の花水木通り沿いに、駐車場完備の大型店舗が軒を連ねており、地元の方はこの辺で買い物を済ませるのでしょう。

花水木通りを越えた所に牛久シャトーがあります。牛久シャトーは明治36年(1901年)完成したワイン醸造所です。

正面の旧事務室は立入禁止。国産ワインの歴史は明治9年(1876年)、札幌に麦酒醸造所と共に開設された開拓使による葡萄酒醸造所から始まります。明治10年(1877年)には山梨に県立葡萄酒醸造所が開設、明治13年には兵庫県の加古川に官営播州葡萄園(明治29年廃園)が開園されました。

事務室を抜けると旧醗酵室があります。この牛久シャトーを開設した神谷傳兵衛(でんべえ)氏(1865〜1922)は、明治6年、17歳の時に横浜外国人居留区の商会で働きながら洋酒の製造法を勉強し、19歳の頃は深川の米穀商や麻布の酒商で働き、明治13年(1880年)24歳で独立。浅草に「みかはや(三河屋)銘酒店を立ち上げます。

その後、輸入ワインや泡盛の販売、ブランデーの製造販売などを手掛け明治19年、登録商標蜂印香竄葡萄酒の成功で世に出ました。

発酵室の中には発酵樽が左右に並んでいます。洋酒やワインの製造販売で成功を収めた神谷傳兵衛ですが、今度は葡萄の生産から醸造まで一貫して手掛けようと農場を開き、この牛久シャトーを建設しました。

醸造室の両端から2階に上がれるようになっています。階段には明治建築の凝った意匠が細部に見て取れます。

こちらは2階展示室。神谷傳兵衛と牛久シャトーの軌跡を追う事が出来ます。牛久シャトーで本格的なワイン造りを始めた神谷傳兵衛は明治45年(1912年)、浅草の「みかはや銘酒店」を改装し、神谷バーを開業します。神谷傳兵衛って誰?って思いながら展示物を見ていましたが、あの浅草神谷バーの神谷ってこの神谷さんなんだ!って、繋がった時はちょっと鳥肌立った。

浅草神谷バーは20年以上前、一度だけ入った事があります。上の階の畳敷きの宴会場でしたが、初めて電気ブラン飲んでかなり酔っ払った記憶が。ちなみに現在の神谷バーの建物は大正10年(1921年)に建てられた物です。

2階に展示されているワイン製造に関する機器たち。

蜂印香竄葡萄酒の看板。ちなみに蜂印香竄葡萄酒は今でもハチブドー酒として神谷バーで飲む事が出来ます。

こちらは地下に広がる貯蔵庫。非常に暗いです。ここで熟成されるわけですね。牛久シャトーのワイン醸造は太平洋戦争によって葡萄園が荒廃し、終戦後に農地改革が行われ小作地として解放されることとなり、一旦生産を終了する事となりました。

醸造室の左手の貯蔵庫は内部が改装されてレストランになっています。

しかし近年、葡萄の栽培からワインの生産までを復活させております。

収穫された葡萄は醸造室の西側から建物に運び込まれます。

こちらが醸造室内に造られた現在のワイナリー。自分はあまりワインは飲まないのですが、ここで生産されたワインを神谷バーなんかで飲めるのならば、一度飲んでみたいですね。

さて、牛久駅より南東へ約5キロ。かつての神谷葡萄園の南端に当たりますが女化(おなばけ)と言う地区になります。この女化神社は明治以降東京の芸者衆がこぞってお参りに訪れていたそうで、狛犬は子連れの狐となっております。ちなみにこの女化神社周辺だけがお隣、龍ヶ崎市の飛び地となります。

神社の近く、旧岡田小学校女化分校校舎があります。

明治31年創立の開拓入植者の私立尋常小学校が前身でこの校舎は戦前の木造校舎。昭和47年(1972年)に閉校したそうです。

現在でも地域の多目的スペースとして利用されており、綺麗に管理されております。

最後に女化街道を南に越えて再び龍ケ崎市、大正9年(1920年)竣工の旧竹内農場赤煉瓦西洋館。

ここには小松製作所(コマツ)の創業者であり、快進社(ダットサン・現日産自動車)の創業者の一人でもある竹内明太郎(吉田茂首相の兄)が経営していた竹内農場がありました。そして竹内明太郎の別荘兼農場主の住居としてこの建物は建てられたそうです。

当時は多くの著名人を招待していましたが竹内明太郎本人が利用していたのは大正12年までで、以降は弟の直馬一家が移住し昭和7年まで使われていたそうです。今では文化財登録され柵で囲まれていますが、少し前までは荒廃した廃墟だったのでしょう。

















































