熊谷市

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埼玉県熊谷市〜群馬県邑楽郡千代田町、赤岩渡船

更新が滞り過ぎてもはやお久しぶりです。この忙しさもそろそろ出口が見えて来そうです。ちなみに邑楽郡は「おうらぐん」と読みます。読めるかーい!

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午前中に終わる仕事があったので、ここぞとばかりに熊谷へと向かいました。

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県道83号線で熊谷市北東部、利根川沿いの河岸があった葛和田へ。道端になぜか250キロ爆弾が碑のように立っていましたが、これは爆撃を受けたとかではなく戦後の昭和25年、故障した米軍機が落としていった不発弾だとか。

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渡船の埼玉県側の葛和田は河岸として栄えましたが、宿場町は対岸の群馬県側にありました。この辺りは長閑な農村と言った雰囲気。利根川沿岸と言う事もあり地下水も豊富なのでしょう。

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県道83号線はそのまま利根川の堤防へ。そこから群馬県へ渡る赤岩渡船も県道83号線と言う事になっております。

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堤防から河川敷へと降りて行くと路線バスの終点、葛和田バス停が。ここも実は県道になります。

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船頭さんは群馬県側に詰めているので、渡船を利用するには船を呼ばなくてはなりません。そのために黄色い旗を揚げます。この携帯の時代なんともアナログな。

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岸からちょっと離れた所の低いポールに黄旗を掲げたところで対岸にちゃんと伝わるのかと不安も覚えましたが、船はすぐ動き出しました。船が動いたのを確認すると旗を下げなければなりません。やがて波一つない川面を渡し船がやって来ます。

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あくまでも県道なので利用は無料。群馬県より委託を受けた千代田町が運用をしています。ライフジャケットを着用して出航。葛和田と赤岩は江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資等の集積地であり、陸運と水運の物流拠点として栄えました。また明治以降は絹織物や生糸輸送の中継地点としても賑わいを見せます。

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以前、伊勢崎市島村の島村渡船に行ってみたら、2019年の台風被害ですでに廃止されていたと言う事がありましたが、この赤岩渡船は関東最後の渡船として生き延びています。

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しかし船が群馬県側へと近づくにつれ、みるみる水深が浅くなって行きます。これは近年の台風や豪雨によって上流から流されて来た土砂がカーブの外側に当たる群馬県側に堆積した物。水深50センチほどでしょうか全然立てる程に浅く、船底が擦るギリギリの所なんじゃないでしょうか。

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あっという間の渡河でした。渡船は県道と言う事もあり県がお金を出していますが、浚渫作業にも予算が掛かるので、現在存続の危機となっています。

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こちらは船頭さんの詰め所。ちなみにご高齢の方とまだ若い方、二人で船を運航されてました。

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ただここから対岸の旗が上がっているかどうか、よほど目が良くないと見えません。

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地元のお爺ちゃんが自転車乗せて埼玉県側へと渡って行きます。利用者は居られるようですが、葛和田に一体何の用事があるのか。あるいは赤岩で用事を済ませた帰りかも知れませんが。

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県道だからと言う理由で奇跡的に存続しておりますが、いつまでも残っていて欲しいものです。

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堤防の上には一応史跡と言う事で、常夜灯なんかも作られています。

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明治大正期の物流解説。位置関係がよく分かります。両毛線開通以前の桐生の絹織物製品は、陸路の場合ここで川を渡り熊谷から開通したばかりの鉄道で東京へ。富岡製糸場の生糸はここを経由して関宿より江戸川へ入り、東京湾から横浜港に入り輸出されてゆく。

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橋も鉄道も不充分だった時代が最も栄えたのでしょう。

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ここより6キロ上流の国道407号線には1886年(明治19年)に妻沼から古戸町に掛かる古戸橋(現在の刀水橋)が開通し、9キロ下流の国道122号線には1929年(昭和4年)に昭和橋が開通しました。さらに後の1968年、5キロ下流に見沼代用水の取水口である利根大堰が完成し、県道20号線が走る武蔵大橋が開通。赤岩渡船だけが取り残された形となりましたが、現在も橋の建設が求められています。

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赤岩の街は宿場町の面影などほとんど残っておりません。

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昭和の頃は商店街としても賑わいを見せていたそうですが、その面影すら失われていました。

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昼時、どうせメシ屋なんて無かろうと思っていたら、町外れに一軒だけ蕎麦屋の「さらしな」さんが。

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うどんセット。モツ煮を切らしてしまったそうなので代わりにアジフライ。ちょっと食い過ぎてしまった。

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群馬県側へは一日5本程度しか走ってない路線バスで館林へ。バスは途中ホームセンターのジョイフルホンダの建物の中まで入って行ったりします。
蕎麦屋の女将さんと少し話し込みましたが、やはり少子高齢化と過疎化が酷く空き家も多くあるとか。それもまた致し方ないと話されていました。

埼玉県深谷市(4)、熊谷市(2)、軍事工場跡地の戦争遺跡

あけましておめでとうございます。
毎年恒例の新春スペシャル企画なんかも考える間もなく年を越してしまいました。
新年一発目は去年深谷で撮り残した戦争遺跡関連を巡って行きます。今回も深谷駅前にあるレンタルサイクルのハローサイクルを利用しました。

深谷市(1)、旧中山道沿いの宿場町
深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡
深谷市(3)、渋沢栄一生家と関連史跡
熊谷市(1)、廃村新川集落跡と三島神社跡
熊谷市(2)、東武熊谷線廃線跡と未成線

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)10月、陸軍兵器廠の板橋火薬工場を度重なる空襲から疎開させるべく、ここ深谷一帯に東京第二陸軍造兵廠深谷製造所が設立されました。その本部となる建物が現在の深谷第一高等学校の敷地内に残っています。

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東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は深谷市内に原郷工場(深谷工場)、明戸工場(日本煉瓦製造株式会社上敷免工場)、櫛挽工場の3箇所。こちらは深谷駅の北東側、日本煉瓦製造専用線の沿線に建てられた原郷工場のために建てられた給水塔になります。この建物は昭和30年より個人の所有となり現在でも住居として再利用されています。

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こちらは深谷市街から南西方向に7キロ弱離れた所に造られた櫛引工場の弾薬庫跡。

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手前のコンクリート構造物も当時の物でしょうか。もしかしたら高射砲の台座かもしれません。

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内部はがらんどうです。火薬庫と言われている割には随分とこぢんまりしています。土塁なども無いしコンクリートの厚みも薄い方なので、むしろ高射砲の弾薬庫だったのかも知れませんね。

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階段が残っていたので2階に上がってみました。ちなみに十条にあった兵器工場、東京第一陸軍造兵廠は大宮、川越、春日部に疎開されました。

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2階部分の屋根は無く雨曝しとなっています。畑の中にこの建物だけが残されているのは、もしかしたら農機具の倉庫として使われていたのかもしれません。

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周辺は耕作地が広がり、工場跡の痕跡は全く見られません。ただこの深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦を迎えたそうです。

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深谷駅から南へ進むと工業団地がありますが、北西半分は深谷市で南東側は熊谷市となります。写真の広大な工場はJFE建材。

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市境を越えて熊谷市に入ると航空自衛隊熊谷基地があります。ただ航空自衛隊と言っても滑走路は無く、航空関連の学校などが入っているようです。

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こちらは隣接するJFE建材の敷地ですが、何やら古い木造建築がありました。この工業団地の敷地には、かつて熊谷陸軍飛行学校がありました。もしかしてですが、これは当時の建物である可能性が。

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熊谷陸軍飛行学校は昭和10年(1935年)設立。かつて滑走路だった敷地が現在の工業団地となっており、熊谷や深谷の市街地から見て高台の台地となります。そう言えば以前、熊谷陸軍航空学校桶川分教場跡なども訪れていました。

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この奥に見える給水塔もかなり怪しい。また、倉庫なども当時の物が使われてる場合もあります。これと全く同じ造りの給水塔が自衛隊基地内にもありますが、そちらは基地祭やさくら祭などで公開される時にしか確認出来ません。

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ただこの給水塔は工場の奥にあり、さらに背の高いフェンスが建っているため近付く事が出来ません。熊谷陸軍飛行学校は終戦後進駐軍に摂取されましたが昭和33年(1958年)に返還されました。

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航空基地跡地が米軍から返還された翌年の昭和34年(1959年)、南東の端部に秩父セメント(現・太平洋セメント)のプラントが建設されました。

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こちらはセメント工場からJR高崎線の熊谷貨物ターミナルに至る引き込み線の跡です。

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秩父鉄道の貨物専用線三ヶ尻線として秩父鉄道の武川駅からセメント工場(三ヶ尻駅)に入り、高崎線の熊谷貨物ターミナルまでを結んでいましたが、2020年にJR高崎線への接続線が廃止されました。現在出荷に関してはトラックのみとなっています。

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秩父の武甲山で採掘された石灰石を秩父鉄道経由でセメント工場まで輸送する貨物列車はいまだ現役。これは秩父鉄道と並走する国道140号線が、2車線道路であるなどの道路事情による所が大きいのかも知れません。


埼玉県熊谷市(1)、廃村新川集落跡と三島神社跡

ちょっと更新に間が空きましたが、やっと仕事が落ち着いたので行田方面に行って参りました。

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行田駅の駅前のスカスカ感、高崎線のどの駅で降りても似たような雰囲気です。かつては駅前商店街も多少有ったのかも知れませんが。

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行田駅でレンタルサイクルを借り南西へ。堤防の上には決壊跡の碑があります。特に昭和22年のカスリーン台風の被害は酷く、沿岸から東京にかけて大規模な浸水被害があったとか。

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度重なる洪水を経て築かれた堤防から荒川河川敷へと降りて行きます。ちなみに市街地は行田市でしたが、元荒川と言う小川を渡って荒川河川敷に入ると熊谷市になります。

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広大な農地となっている河川敷を進むと墓地があります。この墓地がかつて存在した新川集落の痕跡です。

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以前、さいたま市と川越市の荒川河川敷に存在した農村の跡地である塚本堤外地握津堤外地に訪れましたが、ここは町としても栄えていたようです。

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始まりは江戸初期、堤防の内陸側を流れる元荒川から現在の荒川へと流れを移した江戸初期の瀬替工事が新川村の発祥となります。

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江戸時代、地下水が豊富だったことから桑が良く育ち、養蚕業が盛んになりました。川の下流側、南東側より上流側へと進んで行きます。

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廃村としてはあまりにも古すぎて、かつての家はこのように雑木林になっております。

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小さな祠はいつの時代の物か。奥の竹林も屋敷の跡地です。

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農地の至る所に地下水を汲み上げるポンプがあり、そのために電線が張り巡らされています。

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農地のほとんどが水田で、二毛作によって麦も作られているとか。土壌は本当に良いそうです。

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こちらは数少ない遺構のひとつ、大正時代の屋敷の石垣。最盛期がいつ頃なのか分かりませんが、明治20年(1887年)の時点で94戸532人の人が住み、49艘の船があったそうです。

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村の跡を進んでいくと新川村についての説明が。この村には江戸初期より500人ほどの人々が暮らし、戦後間もなく廃村となったそうです。

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かつての村の地図。廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋などが軒を連ねています。秩父で伐採された材木が荒川を下り、この地で筏に組み上げられて江戸は木場まで下って行ったと言う。同時に船運としての交通の要衝でもあったようです。

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かつての屋敷への入り口。中には基礎となる束石ぐらいは残っているかも知れませんが、とても入れる状態ではありません。

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村の上流側の端辺りまで来ました。ここにも墓地があります。村は度重なる洪水の被害に遭いながらも300年もの歴史を重ねて来ました。

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こちらは3箇所目の墓地。大正時代には現在の堤防が村の内陸側に出来た事により取り残される形となります。折しも鉄道の開通によって船運は廃れ、養蚕業もナイロンの登場によって廃れて行き、人口も減り続けていました。

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最後に三島神社跡を探します。ゴルフ練習場の脇を進んで行くと行き止まり。戻って練習場の方に尋ねると、行き止まりの先の畑の奥にあるとの事。もう一度行き止まりまで進み畑へと降りて脇を進む。

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目的地はこの藪の中。Googleで調べた時とはえらい違う様子。

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あ、ありましたwww
崩れかけた鳥居。奥の藪は増水によって薙ぎ倒されています。いや、増水の度に幾度となく浸水しているだろう場所に、鳥居が残っているだけでも凄いです。
思えば墓地でも幾つかの墓石が倒れていました。その度に一族の方が直し、管理され続けているのでしょう。

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先祖が暮らした土地と言う事で村の痕跡はほぼ消滅したものの、今でも農地は使われ続け、村の存在は語り継がれていきます。

埼玉県熊谷市(2)、東武熊谷線廃線跡と未成線

東武熊谷線はかつて旧国鉄熊谷駅から北上し、利根川の手前の妻沼(めぬま)まで走っていたローカル線です。昭和18年開業、昭和58年廃止。

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始発の熊谷駅と次の上熊谷までは秩父鉄道と高崎線に挟まれるように走っており、駅及び線路は秩父鉄道に借用していました。プラットホームも秩父鉄道と共用していたため、当時の痕跡はほとんど残っておりません。

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この東武熊谷線、戦時中に国鉄高崎線の熊谷駅と中島飛行機(現・スバル)小泉製作所のある仙石河岸までを繋ぎ、さらには太田市の工場までを繋ぐ目的で軍の命令によって建設されました。開通が急務だった上に資材も不足していたため、駅と線路の一部を秩父鉄道から借用する形となった訳です。

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昭和18(1943)年、熊谷から妻沼までが開通。しかし第二期工事の妻沼から利根川を越えて新小泉までの区間が開通する前に終戦を迎え、工事は凍結されてしまいました。廃線跡の大部分は現在一般道路となっております。

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結果、東武熊谷線は離れ小島の状態のまま旅客営業を始めます。当初は蒸気機関車による運行でしたが、昭和29(1954)年、東急車輌製の気動車キハ2000形が導入され一両編成のディーゼルカーによる運行となります。

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しかし元々軍の貨物輸送用に施設された路線。直線的な線路は散在する集落を無視するように走ります。上熊谷で秩父鉄道から分岐し北上し、妻沼に着くまでのおよそ9キロの間で大幡駅があるのみ。旅客営業としては利用者も少なく開業当初から赤字が続きます。

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この車両は昭和58(1983)年の廃止までの約29年間活躍しました。結局総延長10キロの間に始発終着含めて4駅しか無かった熊谷線に対して、現在熊谷から妻沼まで朝日交通の路線バスに乗れば、25ものバス停があります。この利便性の違いも廃止の要因と言えましょう。

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旧妻沼駅近くにある町中華。やっていたら入りたかったのですがすでに廃業。妻沼駅の痕跡は残っておりませんが、この辺りが駅前通りだったのかも知れません。

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熊谷線の西側を走る旧道は県道太田熊谷線。かつての日光街道の脇往還でした。利根川を渡る河岸としても古くから賑わいを見せ、現在でも刀水橋が熊谷と太田市を結ぶ幹線道路となっています。

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また妻沼は妻沼聖天山の門前町としても栄えていました。

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利根川の北岸(群馬県)から対岸の妻沼を望む。かつてここから正面に向かって真っ直ぐ橋脚が並んでいました。熊谷線が利根川を渡るべくトランス橋も全国から掻き集める算段も立ち、開通する直前まで工事が進んでいたとか。

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ここからは群馬県大泉町になります。妻沼から仙石河岸までの未成線区間唯一の遺構。利根川上の橋脚たちは昭和54(1979)年に解体されましたが、この一本だけが残されました。

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もし小泉まで開通していたら状況は変わっていたかも知れません。電化されたかも知れませんし、スバルを始めとする周辺の工場から熊谷までの貨物輸送も発展したかも知れません。

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しかし結局熊谷線は東武鉄道の飛び地のまま。また旅客区間で唯一の非電化区間だったため、熊谷線だけのために気動車のメンテナンス設備や技術を必要とし、それでいて赤字路線だったために採算が合わず、廃止となったのは当然とも言えます。

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昭和15(1940)年、現在の西小泉駅に中島飛行機の組み立て工場である中島飛行機小泉製作所が建設されました。それに伴い昭和16年、太田から東小泉までが開通し、館林から利根川の手前の仙石河岸駅まで走っていた既存の小泉線と合流。これが利根川を越えて東武熊谷線と繋がる予定でした。

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東武小泉線の東小泉から盲腸線のように伸びた終着駅、西小泉。熊谷線とは繋がらなかったものの、戦後小泉製作所の跡地に建った三洋電機の工場(現在は買収されパナソニックの工場)があり、西小泉駅は旅客、貨物共に大きな役割を果たして来ました。また当時は15000人が働く冷蔵庫生産の一大拠点でした。
熊谷線は戦後、西小泉までの延伸計画の他、熊谷から南下し東武東上線の東松山までの延伸も検討されていたとか。もし実現していたら、太田や足利、伊勢崎、あるいは館林や佐野から池袋まで一本で行けるなんて事になっていたかも知れません。


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