先月に引き続き館林へ再訪して来ました。

先月末、館林より帰ってから色々と調べるにつき、まず正田貞一郎を語らずして館林を語れないと知り、再訪の機会を伺っていました。しかし仕事が忙しく、早くも1か月が経ってしまった。

まずは館林駅の真横に有りながらその存在に全く気づいてなかった変電所跡。

この建物は伊勢崎線が全線電化された昭和2(1927)年当時の建築物です。旧貨物駅跡になりますが東武の敷地なので、奥までは入れません。

では前回歩いてなかった町の北側を東へと進みます。前回遠くから撮ったボーリング場跡と思われるような造りの晴明ビル。以前はパチンコ屋が入ってたようですが、現在はパブやキャバクラが入っています。

こちらは「Tatebayashi public space」と言う厨房付きシェアスペース。

意匠が見事ですが1930年代(戦前)建造で何かの事務所として使われていたそうです。

ポツンと建っていたのは国登録有形文化財の分福酒造店舗跡。推定江戸末期の建造だそうです。国の文化財で記念館にもなっているのに、観光パンフなどに紹介されていない。

前回見逃した木造建築物が、まだまだありました。

仲町の辺り、バス通りを館林城跡方面に歩きます。しかし木造建築と木造建築の間がスッポリ空き地となっています。かつてはどんな街並みが連なっていたのか、もはや想像も出来ません。

特に文化財などに指定されてないので詳細は分かりませんが、藍染の「ひろせ商店」と看板が出ています。

館林城跡は微妙に紅葉シーズン。

市役所の裏手、城跡の敷地に向井千秋記念こども科学館がありました。宇宙飛行士の向井千秋さんって館林出身だったんですね。

その向かいに今回の目的地の一つ、旧上毛モスリン事務所。前回スルーしてしまいました。

まずモスリンとは何ぞや。モスマンではなくモスリン。モスリンとは木綿や羊毛などを平織りにした薄地の織物の総称で、ヨーロッパでは薄手の綿織物を指しますが日本では毛織物全般を指すそうです。最初人物名かと思ってた。

この上毛モスリン事務所は明治43年建造。元々建っていた場所とは多少ズレますが、現在は館林市第二資料館として公開されています。

上毛モスリンは明治35(1902)年設立。当時仲町の辺りに工場を建てましたが、明治40(1907)年に東武鉄道が開通した事を受けてもっと近代的な大規模工場が必要と思い、明治43(1910)年にここ、旧館林城二の丸跡地に新工場を建設。当時の変電所の一部がモニュメントとして保存されています。

この事務所も明治43年当時の物だそうです。元々養蚕の盛んだった北関東ですが、ここ館林周辺でも伊勢崎や桐生と並んで機織業が盛んでした。荒井藤七、鈴木平三郎らは輸入に頼っていたモスリン生地の国産化に取り組み、明治28(1895)年におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられています。

金庫と倉庫の扉が一階の傍らに有ります。しかし大正12(1923)年、関東大震災で練馬の工場が倒壊した事などによる打撃から立ち直ることが出来ずに破綻。昭和2(1927)年、日本興業銀行や日本毛織などにより設立された共立モスリン株式会社に譲渡されました。

その金庫は事務所から張り出す形で赤煉瓦にて建てられています。これは恐らく火事になっても大事な物は焼けないようにと言う事でしょう。共立モスリンは昭和16(1941)年、神戸の日本毛織に合併。工場はその後戦時下だった昭和18(1943)年には軍の要請を受けて中島飛行機(現・スバル)に貸与されましたが、戦後はGHQに摂取され倉庫として使われました。

その後館林工場は神戸生絲に賃貸され再稼働しますが昭和53(1978)年、市庁舎建設に伴い規模を縮小。平成4(1992)年には館林市羽附旭町へ移転となって、城跡にあった繊維工場は解体されました。

旧館林モスリン事務所の隣には武家屋敷でもある作家田山花袋邸跡があります。これは昭和54年に城町より移築されたもの。

さらに東へ歩くと明治末期に建てられた旧秋元別邸があります。秋元興朝とその子春朝は旧館林藩主秋元家に係わりの深い人物で、東京駿河台にある秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

こちらは昭和初期に離れだった洋館を移築、増築したもの。

庭先には多くのツツジや桜なども植えられており、観光スポットとなっております。

訪れた10/25は暖かく、紅葉と一緒に勘違いした桜までもが咲いてしまっていました。紅葉と桜なんて、とんだ異常気象です。

城跡の先には城沼が広がっています。館林城はこの沼を濠として利用し造られました。ここで館林駅に戻るのですが、基本みんな車で移動するものだから館林駅から市役所のある館林城跡までの路線バスが1時間に1本あるかないか。そのため館林駅まで20分ほど歩かなくてはなりません。この辺は群馬県ならではと言えるかもしれない。

館林駅の反対側(西側)に、群馬県のご当地醤油である正田醤油が有ります。あまり聞き慣れない醤油メーカーですが、主に業務用として全国で使われているそうです。

正田醤油は三代目正田文右衛門が千葉県野田市の二代目茂木房五郎(野田醤油・後のキッコーマン)より醤油醸造業を勧められ、明治6(1873)年末に醤油醸造業を創業したのが初めで、当時はキッコウショウ(亀甲正)と言う屋号でした。

本社の脇に正田記念館が有りますが午後2時に閉館だったために入れず。キッコウショウはその後大正6(1917)年に正田醤油として会社設立。営業所が仙台、東京、名古屋、大阪にあるので、都内のスーパーでも見かける事があるかも知れません。

正田醤油の南隣には日清製粉があります。日清製粉の前身は明治33年(1900)創業の館林製粉で、後の明治40年に創業した横浜の日清製粉を翌41年に吸収合併し、社名も日清製粉と改名しました。

西口駅前には日清製粉グループ製粉ミュージアムがあります。入場料200円。群馬県東部及び栃木県南西部のいわゆるJR両毛線沿線は、古くから二毛作により稲作と共に小麦が栽培されており、日本屈指の小麦生産地として名を馳せて来ました。

こちらは展示されている昔の製粉機械。それ以前は水車と石臼により小麦が製粉されて来ましたが、いち早く機械化による製粉事業を興したのが館林製粉、後の日清製粉であります。ちなみにカップヌードルの日清食品やサラダ油の日清オイリオとは無関係。日清製粉(現・日清製粉ウェルナ)は小麦粉やマ・マースパゲッティの会社。

新館を抜けると創業当初から使われて来た本館が現れます。ちなみに国内で主に生産されている小麦は中間質小麦と言って、うどんなどに適した中力粉となります。パンに適しているのは硬質小麦によって出来る強力粉ですが日本には梅雨があるため熟成させることが出来ず、アメリカ産やカナダ産に頼っています。

館林製粉創業者の正田貞一郎は正田醤油の創業者、三代目正田文右衛門の孫であり、平成の明仁天皇の皇后、美智子妃殿下の祖父に当たります。そのため美智子妃殿下は当時、粉屋の娘などと揶揄されていたとか。

こちらは上毛モスリン事務所に展示されていた正田貞一郎の馬車。貞一郎は明治33年に館林製粉を創業した際、当初自らは専務取締役に就任。その後日清製粉の二代目社長や東武鉄道の会長、貴族院議員などを歴任されています。ちなみに館林製粉〜日清製粉の初代社長には明治30年創業の東武鉄道の初代社長(創立総会役員に代わって明治38年就任)も兼任した鉄道王の異名を持つ根津財閥創始者、根津嘉一郎を据えてます。東武との関係は切っても切れない。
スタッフに質問したのですが、小麦の穀倉地帯であり貞一郎の実家のある館林で製粉業を始めたものの、うどん以外は輸入小麦に頼らざるを得ない現状から結局港から館林に運んで製粉して各地に出荷すると言うのは、東武鉄道が開通したとは言え非効率だったのではと疑問を投げ掛けてみました。すると、苦労したのだと思いますとの答え。うーん。結局大正15年に鶴見工場が完成するわけですが。

アンケートに答えたらお土産にお好み焼き粉を貰いました。
ともあれ館林はとんでもない経歴の実業家のゆかりの地であり、北関東を代表する都市の一つである事がわかりました。

先月末、館林より帰ってから色々と調べるにつき、まず正田貞一郎を語らずして館林を語れないと知り、再訪の機会を伺っていました。しかし仕事が忙しく、早くも1か月が経ってしまった。

まずは館林駅の真横に有りながらその存在に全く気づいてなかった変電所跡。

この建物は伊勢崎線が全線電化された昭和2(1927)年当時の建築物です。旧貨物駅跡になりますが東武の敷地なので、奥までは入れません。

では前回歩いてなかった町の北側を東へと進みます。前回遠くから撮ったボーリング場跡と思われるような造りの晴明ビル。以前はパチンコ屋が入ってたようですが、現在はパブやキャバクラが入っています。

こちらは「Tatebayashi public space」と言う厨房付きシェアスペース。

意匠が見事ですが1930年代(戦前)建造で何かの事務所として使われていたそうです。

ポツンと建っていたのは国登録有形文化財の分福酒造店舗跡。推定江戸末期の建造だそうです。国の文化財で記念館にもなっているのに、観光パンフなどに紹介されていない。

前回見逃した木造建築物が、まだまだありました。

仲町の辺り、バス通りを館林城跡方面に歩きます。しかし木造建築と木造建築の間がスッポリ空き地となっています。かつてはどんな街並みが連なっていたのか、もはや想像も出来ません。

特に文化財などに指定されてないので詳細は分かりませんが、藍染の「ひろせ商店」と看板が出ています。

館林城跡は微妙に紅葉シーズン。

市役所の裏手、城跡の敷地に向井千秋記念こども科学館がありました。宇宙飛行士の向井千秋さんって館林出身だったんですね。

その向かいに今回の目的地の一つ、旧上毛モスリン事務所。前回スルーしてしまいました。

まずモスリンとは何ぞや。モスマンではなくモスリン。モスリンとは木綿や羊毛などを平織りにした薄地の織物の総称で、ヨーロッパでは薄手の綿織物を指しますが日本では毛織物全般を指すそうです。最初人物名かと思ってた。

この上毛モスリン事務所は明治43年建造。元々建っていた場所とは多少ズレますが、現在は館林市第二資料館として公開されています。

上毛モスリンは明治35(1902)年設立。当時仲町の辺りに工場を建てましたが、明治40(1907)年に東武鉄道が開通した事を受けてもっと近代的な大規模工場が必要と思い、明治43(1910)年にここ、旧館林城二の丸跡地に新工場を建設。当時の変電所の一部がモニュメントとして保存されています。

この事務所も明治43年当時の物だそうです。元々養蚕の盛んだった北関東ですが、ここ館林周辺でも伊勢崎や桐生と並んで機織業が盛んでした。荒井藤七、鈴木平三郎らは輸入に頼っていたモスリン生地の国産化に取り組み、明治28(1895)年におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられています。

金庫と倉庫の扉が一階の傍らに有ります。しかし大正12(1923)年、関東大震災で練馬の工場が倒壊した事などによる打撃から立ち直ることが出来ずに破綻。昭和2(1927)年、日本興業銀行や日本毛織などにより設立された共立モスリン株式会社に譲渡されました。

その金庫は事務所から張り出す形で赤煉瓦にて建てられています。これは恐らく火事になっても大事な物は焼けないようにと言う事でしょう。共立モスリンは昭和16(1941)年、神戸の日本毛織に合併。工場はその後戦時下だった昭和18(1943)年には軍の要請を受けて中島飛行機(現・スバル)に貸与されましたが、戦後はGHQに摂取され倉庫として使われました。

その後館林工場は神戸生絲に賃貸され再稼働しますが昭和53(1978)年、市庁舎建設に伴い規模を縮小。平成4(1992)年には館林市羽附旭町へ移転となって、城跡にあった繊維工場は解体されました。

旧館林モスリン事務所の隣には武家屋敷でもある作家田山花袋邸跡があります。これは昭和54年に城町より移築されたもの。

さらに東へ歩くと明治末期に建てられた旧秋元別邸があります。秋元興朝とその子春朝は旧館林藩主秋元家に係わりの深い人物で、東京駿河台にある秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

こちらは昭和初期に離れだった洋館を移築、増築したもの。

庭先には多くのツツジや桜なども植えられており、観光スポットとなっております。

訪れた10/25は暖かく、紅葉と一緒に勘違いした桜までもが咲いてしまっていました。紅葉と桜なんて、とんだ異常気象です。

城跡の先には城沼が広がっています。館林城はこの沼を濠として利用し造られました。ここで館林駅に戻るのですが、基本みんな車で移動するものだから館林駅から市役所のある館林城跡までの路線バスが1時間に1本あるかないか。そのため館林駅まで20分ほど歩かなくてはなりません。この辺は群馬県ならではと言えるかもしれない。

館林駅の反対側(西側)に、群馬県のご当地醤油である正田醤油が有ります。あまり聞き慣れない醤油メーカーですが、主に業務用として全国で使われているそうです。

正田醤油は三代目正田文右衛門が千葉県野田市の二代目茂木房五郎(野田醤油・後のキッコーマン)より醤油醸造業を勧められ、明治6(1873)年末に醤油醸造業を創業したのが初めで、当時はキッコウショウ(亀甲正)と言う屋号でした。

本社の脇に正田記念館が有りますが午後2時に閉館だったために入れず。キッコウショウはその後大正6(1917)年に正田醤油として会社設立。営業所が仙台、東京、名古屋、大阪にあるので、都内のスーパーでも見かける事があるかも知れません。

正田醤油の南隣には日清製粉があります。日清製粉の前身は明治33年(1900)創業の館林製粉で、後の明治40年に創業した横浜の日清製粉を翌41年に吸収合併し、社名も日清製粉と改名しました。

西口駅前には日清製粉グループ製粉ミュージアムがあります。入場料200円。群馬県東部及び栃木県南西部のいわゆるJR両毛線沿線は、古くから二毛作により稲作と共に小麦が栽培されており、日本屈指の小麦生産地として名を馳せて来ました。

こちらは展示されている昔の製粉機械。それ以前は水車と石臼により小麦が製粉されて来ましたが、いち早く機械化による製粉事業を興したのが館林製粉、後の日清製粉であります。ちなみにカップヌードルの日清食品やサラダ油の日清オイリオとは無関係。日清製粉(現・日清製粉ウェルナ)は小麦粉やマ・マースパゲッティの会社。

新館を抜けると創業当初から使われて来た本館が現れます。ちなみに国内で主に生産されている小麦は中間質小麦と言って、うどんなどに適した中力粉となります。パンに適しているのは硬質小麦によって出来る強力粉ですが日本には梅雨があるため熟成させることが出来ず、アメリカ産やカナダ産に頼っています。

館林製粉創業者の正田貞一郎は正田醤油の創業者、三代目正田文右衛門の孫であり、平成の明仁天皇の皇后、美智子妃殿下の祖父に当たります。そのため美智子妃殿下は当時、粉屋の娘などと揶揄されていたとか。

こちらは上毛モスリン事務所に展示されていた正田貞一郎の馬車。貞一郎は明治33年に館林製粉を創業した際、当初自らは専務取締役に就任。その後日清製粉の二代目社長や東武鉄道の会長、貴族院議員などを歴任されています。ちなみに館林製粉〜日清製粉の初代社長には明治30年創業の東武鉄道の初代社長(創立総会役員に代わって明治38年就任)も兼任した鉄道王の異名を持つ根津財閥創始者、根津嘉一郎を据えてます。東武との関係は切っても切れない。
スタッフに質問したのですが、小麦の穀倉地帯であり貞一郎の実家のある館林で製粉業を始めたものの、うどん以外は輸入小麦に頼らざるを得ない現状から結局港から館林に運んで製粉して各地に出荷すると言うのは、東武鉄道が開通したとは言え非効率だったのではと疑問を投げ掛けてみました。すると、苦労したのだと思いますとの答え。うーん。結局大正15年に鶴見工場が完成するわけですが。

アンケートに答えたらお土産にお好み焼き粉を貰いました。
ともあれ館林はとんでもない経歴の実業家のゆかりの地であり、北関東を代表する都市の一つである事がわかりました。
























































































