こうもん、かいへい、じつえん。
平仮名で書いちゃいけません。閘門、つまり端的に言えば規模は小さいけどパナマ運河みたいな物です。去る8月20日、見沼通船堀にて閘門の開閉実演が行われました。

JR武蔵野線東浦和駅から南東へ。見沼代用水東縁を渡ります。見沼代用水とは灌漑農業用水で、江戸中期の享保13年(1728年)に江戸幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために普請した用水路です。この見沼代用水は行田市の北で利根川から取水し、蓮田市で東西に分岐。この東縁は戸田競艇場にて荒川に合流し、西縁は足立区で荒川に合流します。

その東縁から真ん中を流れる芝川を介し西縁へと至る運河、見沼通船堀があります。通船堀は芝川を境に西縁と東縁に分かれており、こちらは西縁二の関の船溜まり跡。つまり水を堰き止めて水位を上げ下げする閘門があった場所で、船溜りがあったため幅が広くなっています。

水は見沼代用水西縁から芝川に向かって流れて行きます。しばらく歩くと西縁一の関の閘門が復元されています。

今年は特に水量が少ないらしいですが、かつてはここを和船が航行していました。見沼通船堀は見沼代用水完成の三年後、享保16年(1731年)に東西の見沼代用水と中央の芝川を結ぶ運河として造られました。

やがて芝川に合流。芝川は桶川や上尾の湧水地を源流として、かつて沼地だった見沼を通り川口市南東部で荒川へと注ぎます。

芝川の左岸(西側)には水神社があります。ここは通船堀開通の翌年に創建され、水難防止の神として祀られて来ました。現在の本殿は関東大震災で全壊した翌年の大正13年に建てられた物。

芝川の東側には鈴木家住宅があります。鈴木家は幕府から見沼通船堀の各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う差配役を命じられていました。文政年間に(1818年〜1830年)江戸から移住し、建物もその当時の物と考えられているそうです。

土日などは奥まで入られるようになっていますが、母屋は生活されているので公開されていません。裏手の蔵や小屋には昔の農機具や、見沼代用水に関するパネルなどが展示されています。

芝川から見沼代用水西縁へ向かって見沼通船堀西縁が分岐して行きます。この辺りにもかつては河岸(かし)があったそうです。

100メートルほどでしょうか、遡って行くと復元された一の関があります。

さらに100〜200メートルほどでしょうか、二の関があります。今回の閘門開閉実演では一の関のみ閘門を閉めます。

まず一の関で、角落(かくおとし)と呼ばれる板を放り投げます。実演は保存会の方々をはじめボランティアスタッフで行われており、保存のためのクラウドファンディングも募集しているとか。

水飛沫を上げて投げ込まれる角落。この閘門開閉実演は年に一回、8月に開催されて来ましたが、近年の気温上昇を鑑みて来年からは6月にしようと言う話になっています。

落とされた角落は流れに沿って関枠へと引き寄せられます。

一枚一枚角落が関枠に渡されて行き、これを10枚ほど重ねて運河を堰き止め、見沼代用水から流れて来る水によって水位を上げます。

このようにして標高の低い芝川から標高の高い見沼代用水へと船を航行させます。

逆に見沼代用水から船が来た場合、二の関を堰き止めて二の関の手前まで航行し閘門を解放。そのまま堰き止めてある一の関まで進み同じように閘門を解放して芝川まで下って行きます。

ちなみに復元されている和船は2分の1スケールなので実際はもっと大きい物となります。

船を二の関の上流へ引き入れたら、最後に角落を一枚づつ引き上げて水を解放し、水位を元に戻します。

通船堀西縁を西端まで遡ると見沼代用水西縁にぶつかります。見沼代用水は元々農業用水路として通された物なので、物資の運搬については秋分から春分にかけてとなります。

こちらが見沼代用水西縁。江戸時代は主に見沼代用水沿岸地域からの年貢米などが江戸へ運ばれ、帰りの船で塩や肥料などの物資が運ばれて来たそうです。

こちらは見沼代用水西縁を北へ遡った所。この見沼代用水は、芝川沿岸の平地の東西の際、丘陵の手前を流れますが、東縁は途中芝川の支流に沿って北上します。元々は見沼と言う沼を溜め池として利用していましたが、江戸時代に入り干拓し見沼田園と言う広大な穀倉地帯が広がるようになりました。

その見沼区北柳にある坂東家住宅見沼くらしっく館。デカい屋敷です。

坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(和歌山)の出身で、1675年に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したそうです。

しかし下流の村の反対に遭い1718年2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻します。その後、徳川吉宗が新田開発を推奨した事で3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り加田屋新田としたそうです。ちなみにこの囲炉裏には実際に火がくべられています。

屋根の裏側が煙で燻されている事で防虫効果があります。この坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、江戸末期の安政4年(1885年)。

つまりそれまでは江戸に住んでいたと言う事で、地元の地方豪族や庄屋とは違います。言うなれば江戸にある土地開発会社みたいな物でしょうか。

見沼代用水西縁から灌漑用水路が東へと分岐して行きます。

用水路は途中水道橋にて川を渡り、川向こうの田畑にも水を供給しています。上のパイプは上水道でしょうか。

こちらは見沼代用水東縁を上流へと遡ったところ。東縁は芝川と付かず離れずの距離を並行して流れています。つまり芝川の右岸(東側)は丘陵地が間近まで迫っていると言う事。左手の桜並木が土手の役割を果たし、その左手はもう芝川の河川敷になります。

そこにさいたま市立浦和博物館があります。この建物は埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学)の鳳翔閣(明治11年建造)を移築し玄関部分のみ復元した物。

ここに当時の船に使われていた船箪笥や米櫃などが展示されています。

こちらは水桶やロープなど。水運に関与していた家の蔵に眠っていたそうです。
基本、近代史には興味ありますが、江戸時代には疎いです。しかし調べてみれば、これはこれで面白いですね。

最後に見沼天然温泉小春日和。ここの加温加水無しの源泉掛け流しのぬるいお湯が好きで、もう何回も通っています。
平仮名で書いちゃいけません。閘門、つまり端的に言えば規模は小さいけどパナマ運河みたいな物です。去る8月20日、見沼通船堀にて閘門の開閉実演が行われました。

JR武蔵野線東浦和駅から南東へ。見沼代用水東縁を渡ります。見沼代用水とは灌漑農業用水で、江戸中期の享保13年(1728年)に江戸幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために普請した用水路です。この見沼代用水は行田市の北で利根川から取水し、蓮田市で東西に分岐。この東縁は戸田競艇場にて荒川に合流し、西縁は足立区で荒川に合流します。

その東縁から真ん中を流れる芝川を介し西縁へと至る運河、見沼通船堀があります。通船堀は芝川を境に西縁と東縁に分かれており、こちらは西縁二の関の船溜まり跡。つまり水を堰き止めて水位を上げ下げする閘門があった場所で、船溜りがあったため幅が広くなっています。

水は見沼代用水西縁から芝川に向かって流れて行きます。しばらく歩くと西縁一の関の閘門が復元されています。

今年は特に水量が少ないらしいですが、かつてはここを和船が航行していました。見沼通船堀は見沼代用水完成の三年後、享保16年(1731年)に東西の見沼代用水と中央の芝川を結ぶ運河として造られました。

やがて芝川に合流。芝川は桶川や上尾の湧水地を源流として、かつて沼地だった見沼を通り川口市南東部で荒川へと注ぎます。

芝川の左岸(西側)には水神社があります。ここは通船堀開通の翌年に創建され、水難防止の神として祀られて来ました。現在の本殿は関東大震災で全壊した翌年の大正13年に建てられた物。

芝川の東側には鈴木家住宅があります。鈴木家は幕府から見沼通船堀の各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う差配役を命じられていました。文政年間に(1818年〜1830年)江戸から移住し、建物もその当時の物と考えられているそうです。

土日などは奥まで入られるようになっていますが、母屋は生活されているので公開されていません。裏手の蔵や小屋には昔の農機具や、見沼代用水に関するパネルなどが展示されています。

芝川から見沼代用水西縁へ向かって見沼通船堀西縁が分岐して行きます。この辺りにもかつては河岸(かし)があったそうです。

100メートルほどでしょうか、遡って行くと復元された一の関があります。

さらに100〜200メートルほどでしょうか、二の関があります。今回の閘門開閉実演では一の関のみ閘門を閉めます。

まず一の関で、角落(かくおとし)と呼ばれる板を放り投げます。実演は保存会の方々をはじめボランティアスタッフで行われており、保存のためのクラウドファンディングも募集しているとか。

水飛沫を上げて投げ込まれる角落。この閘門開閉実演は年に一回、8月に開催されて来ましたが、近年の気温上昇を鑑みて来年からは6月にしようと言う話になっています。

落とされた角落は流れに沿って関枠へと引き寄せられます。

一枚一枚角落が関枠に渡されて行き、これを10枚ほど重ねて運河を堰き止め、見沼代用水から流れて来る水によって水位を上げます。

このようにして標高の低い芝川から標高の高い見沼代用水へと船を航行させます。

逆に見沼代用水から船が来た場合、二の関を堰き止めて二の関の手前まで航行し閘門を解放。そのまま堰き止めてある一の関まで進み同じように閘門を解放して芝川まで下って行きます。

ちなみに復元されている和船は2分の1スケールなので実際はもっと大きい物となります。

船を二の関の上流へ引き入れたら、最後に角落を一枚づつ引き上げて水を解放し、水位を元に戻します。

通船堀西縁を西端まで遡ると見沼代用水西縁にぶつかります。見沼代用水は元々農業用水路として通された物なので、物資の運搬については秋分から春分にかけてとなります。

こちらが見沼代用水西縁。江戸時代は主に見沼代用水沿岸地域からの年貢米などが江戸へ運ばれ、帰りの船で塩や肥料などの物資が運ばれて来たそうです。

こちらは見沼代用水西縁を北へ遡った所。この見沼代用水は、芝川沿岸の平地の東西の際、丘陵の手前を流れますが、東縁は途中芝川の支流に沿って北上します。元々は見沼と言う沼を溜め池として利用していましたが、江戸時代に入り干拓し見沼田園と言う広大な穀倉地帯が広がるようになりました。

その見沼区北柳にある坂東家住宅見沼くらしっく館。デカい屋敷です。

坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(和歌山)の出身で、1675年に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したそうです。

しかし下流の村の反対に遭い1718年2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻します。その後、徳川吉宗が新田開発を推奨した事で3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り加田屋新田としたそうです。ちなみにこの囲炉裏には実際に火がくべられています。

屋根の裏側が煙で燻されている事で防虫効果があります。この坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、江戸末期の安政4年(1885年)。

つまりそれまでは江戸に住んでいたと言う事で、地元の地方豪族や庄屋とは違います。言うなれば江戸にある土地開発会社みたいな物でしょうか。

見沼代用水西縁から灌漑用水路が東へと分岐して行きます。

用水路は途中水道橋にて川を渡り、川向こうの田畑にも水を供給しています。上のパイプは上水道でしょうか。

こちらは見沼代用水東縁を上流へと遡ったところ。東縁は芝川と付かず離れずの距離を並行して流れています。つまり芝川の右岸(東側)は丘陵地が間近まで迫っていると言う事。左手の桜並木が土手の役割を果たし、その左手はもう芝川の河川敷になります。

そこにさいたま市立浦和博物館があります。この建物は埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学)の鳳翔閣(明治11年建造)を移築し玄関部分のみ復元した物。

ここに当時の船に使われていた船箪笥や米櫃などが展示されています。

こちらは水桶やロープなど。水運に関与していた家の蔵に眠っていたそうです。
基本、近代史には興味ありますが、江戸時代には疎いです。しかし調べてみれば、これはこれで面白いですね。

最後に見沼天然温泉小春日和。ここの加温加水無しの源泉掛け流しのぬるいお湯が好きで、もう何回も通っています。












































































































































