成田は2020年の夏と2021年の秋に訪れましたが、最初に訪れた際航空科学博物館が休館日だったと言う苦い思い出があります。
(1)空港シャトルシステムと成田駅周辺
(2)東成田駅(旧・成田空港駅)

成田空港は出航と到着それぞれ1回ずつ利用していますが、LCCで一番端っこに着いてタラップで降り、バスに乗ってさらに歩かされてと良い思い出が無いので、飛行機に乗る際は専ら羽田利用となっています。埼玉の川口からだとスカイライナー利用すれば、所要時間は大差無いんですがね。

まぁそんな成田空港に対する苦言はともかく空港の南、芝山千代田駅近くの「空の湯」に併設された「空輪」さんにてmont-bellのMTBを2000円でレンタル。今回で2回目です。

まず訪れたのは以前休館日だった航空科学博物館。

こちらはジャンボジェットことボーイング747に関する展示がメインとなります。昭和を代表する旅客機ですが、ついぞ乗った事無かったんですよね。

1番の目的はこのYS-11だったんですが、この前ザ・ヒロサワシティで見て来ちゃいました。

今回の本当の目的は航空科学博物館の奥にある空と大地の歴史館。成田闘争(三里塚芝山闘争)に関する資料館となります。ここには貴重な資料の数々が展示されており、また70年代に起きた成田闘争の歴史を解説してくれます。以前から訪れてみたかったのですが、最近限界ニュータウン探訪記さんの成田闘争に関する遺構を巡るYoutubeを紹介して頂き、それを観たら改めて訪れてみたい気持ちが強くなったと言うわけです。

分かりづらいですが航空科学博物館の最上階にある食堂から蔦に覆われた鉄塔が見えます。これがまさしく成田闘争の痕跡なのです。
元々成田の地は8世紀頃から続く牧草地で、古くは源氏に軍馬を供給しており江戸期には佐倉牧と呼ばれる軍馬の生産地となっていました。明治8年には明治政府による下総牧羊場が設けられ、後の明治21年には宮内省下総御料牧場となります。

航空科学博物館の南西、森の中にある廃墟。ここが当時の岩山団結小屋と言われています。

御料牧場の規模は時代と共に縮小されて行き、大正12年には約千ヘクタールが、昭和21年には戦後開拓として約二千ヘクタールが農地へと転換されました。当初牧場跡地の農地開拓としては、明治期に職を失った下級武士や武家の奉公人、流浪の民などにより開拓が進められて行きます。

開拓民の暮らしは困窮を極め東京窮民などと呼ばれました。また戦後は敗戦による占領地からの引揚者や帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などにより開拓されて行きましたが、こちらもまた貧困を極めて新窮民などと呼ばれました。左端に写るのが沖縄民の入植願書。

岩山団結小屋の奥には岩山鉄塔と呼ばれる遺構があります。敷地には獄中死した活動家星野文昭氏の慰霊碑があり、献花されていました。
戦後成田で開拓が進むいっぽう1960年代、コンコルドの開発と共にこれからは超音速旅客機の時代が来ると思われていました(結局採算性の悪さから消えましたが)。同時に羽田空港は手狭となり、かと言って拡張するにも当時の土木技術では水深20mの海床を埋め立てする事が出来ず、よって航路の問題、騒音問題などから、第二国際空港の建設が叫ばれていました。

鉄塔というのはつまり滑走路建設予定地に要塞として建て、そこに立てこもって工事を妨害するという物だそうです。塔の上から機動隊目掛けて火炎瓶を投げ、それに対して放水で応戦するという物。

幾つかの候補地は上がったものの霞ヶ浦はボーリング調査の結果地盤に問題があり、富津岬沖などの東京湾上は船舶航路でパンク状態。そこで程よい丘陵地であり宅地開発も進んでいないと言う訳で成田、当時の富里村に白羽の矢が立ったわけです。

しかしその決定に於いて政治的駆け引きに利用される事が多かったそうで、閣議決定も電撃的に決められ、地権者達にとってはまさに青天の霹靂に近い状態だったとか。

猛反発を受けた佐藤栄作内閣は空港の規模縮小と、昭和44年(1969年)に栃木県の那須へと移転された御料牧場の跡地へ計画地を移動し、幕府直轄領時代から続く古村を避けて、金で解決出来そうな東京窮民や新窮民の農地を選び、富里案から北東側の三里塚案への改訂案を示しました。豪農とは違い小作人なら金で簡単に解決出来ると勘繰っていた訳です。

成田の丘陵地帯には幾つもの湧水地である湿地と川が流れています。そう言った川沿いには古村と呼ばれる、極端な話中世から住んで来た人々が稲作を営んで来ました。

一方、丘の上では明治以降、特に戦後入植した人々が樹木を伐採し土を耕し、関東ローム層故の畑作農業を営んで来ました。
ここで問題だったのは当時、地元住民に対する意見聴取や相談が一切されていなかった事にあります。富里村に造られると思っていた三里塚、芝山地区の貧困部落民たちは、報道でその事実を知りました。戦争が起きたら爆撃対象となる、ジェット機の騒音で牛の乳が出なくなる、そう言って猛反発します。

成田空港の東側を北上すると横堀地区。左手は成田空港建設センターの敷地ですが、監視塔とサーチライトがあり、物々しい雰囲気になって来ました。
基本計画が発表されたのは終戦から21年経った昭和41年(1966年)、やがて空港反対組織と革新政党、左翼団体、そして共産党や社会党らの後押しを受け、三里塚芝山地区に三里塚空港反対同盟が結成されます。特に戦後入植した人々は住宅資金や営農資金の返済が終わり、やっと農業が軌道に乗り始めた頃でした。

成田航空建設センターの脇を入り右手の畦道を進むと、横堀農業研修センター跡があります。土地はすでに空港会社の所有となっていますが、今も尚反対同盟の集会に使われているそうです。
ちなみに成田航空建設計画の三里塚案では三里塚御用牧場が4割、残りは民有地で千数百人の住民と交渉する必要がありました。

敷地に入ると左手にはトイレ。古い物と後に設置された仮設トイレがあります。
当時寄せ集めで結成された新東京国際空港公団で用地買収に奔走するわけですが、省庁より出向して来た職員の横柄な態度が不評を買います。もし民間企業に土地買収を委託していれば早く話が収まったという説もあるほど。

敷地はほぼ廃墟にしか見えないのですが、この建物が今もなお使われているかどうかまでは分かりません。
戦後の開拓民は兵役でお国のために戦い、敗戦で満洲や台湾、中国、朝鮮半島から引き揚げ、行き場を失ってこの地で開拓を始め、貧困生活を乗り切りながらも戦後の東京の食糧不足を助け、やっと豊かな暮らしが出来ると思ったその矢先、勝手に閣議決定されて話が進められ、土地買収に来たのは高飛車に出てけと言う官僚上がり。その職員が例えば戦後育ちの東大出の若造だったりして、今まで国に尽くして来た人生を否定されたようで、そりゃキレますね。

建物の玄関には横堀農業研修センターの看板が建っていますが、実際には反対運動の団結小屋として使われていました。
新空港建設が計画されるまで、行政は東山地区営農改善計画として養蚕用の桑の栽培を開拓農家に推進しており、それに応じて栽培を始めた矢先に改善計画は反故にされました。これも怒りを買う要因の一つ。

廃墟の傍らには三里塚芝山連合空港反対同盟と書かれた廃車両が打ち捨てられています。
市民運動が激化する中、そこに目を着けて煽ったのが左翼団体でした。これは成田に限らず高度成長期に起こった負の連鎖と言えましょう。左翼や当時の共産党、社会党など様々な団体が関わり、結局反対同盟は周辺地域も巻き込んで1200世帯にも及びました。

横堀農業研修センターからさらに滑走路へと近づいていきます。両側をフェンスに挟まれ、そのフェンスの上には警報用でしょうか、電線が走っています。
それでも地道に用地買収のため職員が奔走する中、千葉県、運輸省、新東京国際空港公団は破額の金銭的代償、移転先や廃農後の保証など、国費に物を言わせた好条件を提示し始めます。相場以上の土地買い取り価格などから、結果9割もの地権者が理解を示す事となります。今後の事、将来的な事を冷静かつ現実的に考えれば当然でしょう。兼業農家となり空港内での仕事を斡旋された者や、そのまま空港公団の職員となる者までいたそうです。

暫く進むと道は滑走路の下を潜り、横堀鉄塔へと続きます。以前はこの道路の入り口付近に警備員が立ち来訪の目的を聞かれたそうですが、先日は空港敷地内の櫓の上から警備員が監視しているにとどまりました。
次々と土地が売られてゆく中、地権者と小作農民である反対派との亀裂が部落内での疑心暗鬼を呼び、軋轢が生じます。反対派からしてみれば土地を売った者は裏切り者であり、人間関係が殺伐となって行く。特に反対派の数が多い地域では賛成派の家への村八分や嫌がらせなどがエスカレートして行ったそうです。

googleマップの画像を見た時は衝撃でした。その場所は、完全に滑走路の中に孤立しているのです。

こちらが横堀鉄塔。竹林に覆われながら今なお空港敷地内に聳え立っているのですが、登記簿は加瀬勉さんの私有地となっており成田空港株式会社(旧・新東京国際空港公団)⁾が買い取れなかった土地となります。
昭和42年(1967年)10月、国と公団は初めて2000人の機動隊とともに外郭測量のための杭打ちを行いました。誰もが予想し得なかった実力行使に、陳情やデモだった運動から武力対決へと変貌して行きます。以後公団は必ず機動隊と共に現れ、小作農民はあの全学連や左翼団体と手を結ぶに至ります。同時に選挙の得票数獲得を目的に開拓農民に歩み寄っていた共産党及び社会党は、こりゃヤバいと思ったのか離れて行きました。

竹林の中には廃墟化した建物が確認できます。以前はこの周辺に幾つもの団結小屋があったそうです。

こちらが団結小屋の配置図。反対派及び左翼団体の中でも様々な派閥があるようです。後にこの左翼団体の中でも抗争が起き、俗に内ゲバと呼ばれる暴力抗争へと発展して行きます。
昭和43年(1968年)、ついに反対同盟と機動隊との間での衝突が始まり、多くの怪我人や逮捕者を出す事となりました。時代背景としてその翌年1969年1月には新左翼の全共闘により東大安田講堂事件が起こされます。

昭和46年(1971年)9月16日、第二次行政代執行に於いて中核派などの新左翼及び同調する学生達と、機動隊などの警察隊とが衝突した東峰十字路事件が起こりました。その時に反対派のゲリラ部隊が警察隊を襲撃し、ついに神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査、計3名の死者を出す事となります。写真は福島誠一警視(二階級特進)の慰霊碑。

こちらは空港敷地内に建つ東峰神社。以前空港会社が土地を取得しましたが境内の木の伐採を巡り裁判が起こされ、後に和解して現在では東峰地区と天神峰地区の住民複数名の共有となっています。

木の伐採については空港建設予定地内の樹木一本一本を個人の所有物とし、建設を妨害すると言う手段も取られていました。
東峰十字路事件が起こる前までのメディアは反対派に同情的で行政を批判する報道がなされていました。しかし死者が出た事を受けて世論が一転する事となります。戦後、60年代から70年代にかけての左翼系デモに於いて死者が出たのはこれが初めてとなります。またこの事件後反対派農民の中でも「殺すとか引くわー」って言う意見が広がって行きます。農地を取り上げられた当事者と、ただ権力に反発したいだけの反政府勢力との間に溝が生まれて来るのです。

東峰神社の向かい側では今でも農業が続けられています。土地はすでに成田空港側が買い上げていながらも、小作農家の方がいまだ農耕作業を行なっているため、ここを仮に小作地(1)と呼称します。
結果的に、1966年の基本計画にあった昭和47年(1972年)竣工予定は頓挫し、昭和53年(1978年)開港となりました。

成田空港A滑走路とB滑走路の間に当たる、成田空港敷地内の東峰神社と小作地の位置。完全に空港を分断しています。
抗争は開港直前まで続きます。昭和53年(1978年)3月26日、3月30日の開港を控えた新東京国際空港の管制塔に日本革命的共産主義者同盟のゲリラが進入し、管制塔内の機器を破壊すると言う成田空港管制塔占拠事件が起きました。この時呼応するかのように、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家約300人が乱入し、騒乱状態となりました。このため、開港が3月30日から5月20日に延期となったそうです。

こちらは上記Googleマップに示した小作地(2)です。
開港後も反対運動は細々と続いていましたが、平成4年(1992年)12月15日に反対同盟、千葉県、日本国政府、運輸省による第11回成田空港問題シンポジウムで、新東京国際空港建設時の強硬姿勢について日本国政府から正式に謝罪がありました。
そして平成6年(1994年)10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議においては、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸相(当時)と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わしました。その後、多数の地権者が移転に応じたことで上記Googleマップの北側、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展したそうです。
だがしかし!
成田闘争はまだ終わっていなかった。
こちらの動画は去年、2023年2月22日の映像です。場所は上記の空港内小作地(1)、残っていた櫓を撤去しようとした所、このような騒ぎが起きました。動画の中には中核派の白メットも映っており、令和の現在でも昭和の左翼が現存すると言う現実に驚くばかりでした。

成田空港第一ターミナルから南に位置する芝山千代田駅方面へ幹線道路が通っています。道路はA滑走路とB滑走路を結ぶ連絡路の下を通っており、歩道も並行してトンネルとなっています。

一瞬トンネルを出た所で東側に入る道があり、木の根ペンションと言う看板が。しかしここはまだ空港の真っ只中になります。
空港が開港してもう46年が経ちます。空と大地の歴史館の展示の中では成田空港問題シンポジウムと円卓会議の段階で空港問題は解決したとされています。それは反対同盟に参加していた多くの農家が補償問題に於いて折り合いがついたと言う事です。

地図で見るとこんな感じ。芝山鉄道と県道62号線が避けるように通っています。こちらも前出の横堀鉄塔と同じく加瀬勉さんの敷地ですが、空港会社に土地を取られるのを防ぐため、敷地内の名義を複数人で共有している一坪共有地と言う形を取っているそうです。
多くの農家が和解してもなお、空港内に土地を売らず残留する極一部の農家と、それを支援する左翼団体が存在します。反対運動の目的は何か。成田空港を廃止して農地にする事なのか。それとも保証金の問題なのか。

こちらが木の根ペンション。今でも反対派の会合に利用されているそうです。空と大地の歴史館の方に聞いた話によると、普段は休業していますが、泊まろうと思えば泊まれなくも無いとの事。まぁ泊まるにはかなりの度胸が必要ですが。
現在でも周辺には警察車両が頻繁に巡回しています。元々この地で貧困に耐えながら開拓して来た農民たちは今や三世代前で、ご存命の方はもうほとんど居ないそうです。政府の横暴に怒り反対運動を続けていた農民と、言い方は悪いですがそれに便乗して反政府活動を続ける左翼団体。全く当事者ではない人々が騒ぎを起こしているようにすら映ります。それは学生運動等の「時代」と言う流れで結論づけようとしても、どうしても理解できない。私にとっては親の、いわゆる団塊世代の時代感覚なのかも知れません。

目の前を飛行機が通り過ぎます。なんたって飛行場の中ですからね!
しかし歴史を俯瞰的に見ると、戦時下の日本に於いては国家防衛のための航空基地を造る際、御国のためという名目で農地を強制徴収された農家など沢山いました。今まで訪れて来た香取航空基地然り、茂原、土浦、調布、数え上げればキリが無いです。それが戦後の高度成長期、人権問題や市民運動が熱を増した時代。運輸省などの官僚の旧態然とした感覚と、戦後生まれの自由と理想を求めた世代の感覚との差異が、大きな社会問題へと発展して行ったと言う事でしょうか。
とは言え、世界の各途上国のような革命を起こす内戦状態にはならない。昭和45年(1970年)のよど号ハイジャック事件や、昭和47年(1972年)の浅間山荘事件などの日本のテロリズムは、多くの民意を動かすまでには至らないし、明治維新のような事は起きない。

さて、レンタルMTBを返却して最後は空の湯の素晴らしい加温加水無し源泉掛け流し浴槽で疲れを取り、生ビールでリセット。やはりここのお湯はトップクラスですね。
ちょっと今回は昭和史に偏った記事になってしまいました。ともあれ様々な物を見るにつれ、まだまだ知らない事ばかりだと思うばかりです。
(1)空港シャトルシステムと成田駅周辺
(2)東成田駅(旧・成田空港駅)

成田空港は出航と到着それぞれ1回ずつ利用していますが、LCCで一番端っこに着いてタラップで降り、バスに乗ってさらに歩かされてと良い思い出が無いので、飛行機に乗る際は専ら羽田利用となっています。埼玉の川口からだとスカイライナー利用すれば、所要時間は大差無いんですがね。

まぁそんな成田空港に対する苦言はともかく空港の南、芝山千代田駅近くの「空の湯」に併設された「空輪」さんにてmont-bellのMTBを2000円でレンタル。今回で2回目です。

まず訪れたのは以前休館日だった航空科学博物館。

こちらはジャンボジェットことボーイング747に関する展示がメインとなります。昭和を代表する旅客機ですが、ついぞ乗った事無かったんですよね。

1番の目的はこのYS-11だったんですが、この前ザ・ヒロサワシティで見て来ちゃいました。

今回の本当の目的は航空科学博物館の奥にある空と大地の歴史館。成田闘争(三里塚芝山闘争)に関する資料館となります。ここには貴重な資料の数々が展示されており、また70年代に起きた成田闘争の歴史を解説してくれます。以前から訪れてみたかったのですが、最近限界ニュータウン探訪記さんの成田闘争に関する遺構を巡るYoutubeを紹介して頂き、それを観たら改めて訪れてみたい気持ちが強くなったと言うわけです。

分かりづらいですが航空科学博物館の最上階にある食堂から蔦に覆われた鉄塔が見えます。これがまさしく成田闘争の痕跡なのです。
元々成田の地は8世紀頃から続く牧草地で、古くは源氏に軍馬を供給しており江戸期には佐倉牧と呼ばれる軍馬の生産地となっていました。明治8年には明治政府による下総牧羊場が設けられ、後の明治21年には宮内省下総御料牧場となります。

航空科学博物館の南西、森の中にある廃墟。ここが当時の岩山団結小屋と言われています。

御料牧場の規模は時代と共に縮小されて行き、大正12年には約千ヘクタールが、昭和21年には戦後開拓として約二千ヘクタールが農地へと転換されました。当初牧場跡地の農地開拓としては、明治期に職を失った下級武士や武家の奉公人、流浪の民などにより開拓が進められて行きます。

開拓民の暮らしは困窮を極め東京窮民などと呼ばれました。また戦後は敗戦による占領地からの引揚者や帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などにより開拓されて行きましたが、こちらもまた貧困を極めて新窮民などと呼ばれました。左端に写るのが沖縄民の入植願書。

岩山団結小屋の奥には岩山鉄塔と呼ばれる遺構があります。敷地には獄中死した活動家星野文昭氏の慰霊碑があり、献花されていました。
戦後成田で開拓が進むいっぽう1960年代、コンコルドの開発と共にこれからは超音速旅客機の時代が来ると思われていました(結局採算性の悪さから消えましたが)。同時に羽田空港は手狭となり、かと言って拡張するにも当時の土木技術では水深20mの海床を埋め立てする事が出来ず、よって航路の問題、騒音問題などから、第二国際空港の建設が叫ばれていました。

鉄塔というのはつまり滑走路建設予定地に要塞として建て、そこに立てこもって工事を妨害するという物だそうです。塔の上から機動隊目掛けて火炎瓶を投げ、それに対して放水で応戦するという物。

幾つかの候補地は上がったものの霞ヶ浦はボーリング調査の結果地盤に問題があり、富津岬沖などの東京湾上は船舶航路でパンク状態。そこで程よい丘陵地であり宅地開発も進んでいないと言う訳で成田、当時の富里村に白羽の矢が立ったわけです。

しかしその決定に於いて政治的駆け引きに利用される事が多かったそうで、閣議決定も電撃的に決められ、地権者達にとってはまさに青天の霹靂に近い状態だったとか。

猛反発を受けた佐藤栄作内閣は空港の規模縮小と、昭和44年(1969年)に栃木県の那須へと移転された御料牧場の跡地へ計画地を移動し、幕府直轄領時代から続く古村を避けて、金で解決出来そうな東京窮民や新窮民の農地を選び、富里案から北東側の三里塚案への改訂案を示しました。豪農とは違い小作人なら金で簡単に解決出来ると勘繰っていた訳です。

成田の丘陵地帯には幾つもの湧水地である湿地と川が流れています。そう言った川沿いには古村と呼ばれる、極端な話中世から住んで来た人々が稲作を営んで来ました。

一方、丘の上では明治以降、特に戦後入植した人々が樹木を伐採し土を耕し、関東ローム層故の畑作農業を営んで来ました。
ここで問題だったのは当時、地元住民に対する意見聴取や相談が一切されていなかった事にあります。富里村に造られると思っていた三里塚、芝山地区の貧困部落民たちは、報道でその事実を知りました。戦争が起きたら爆撃対象となる、ジェット機の騒音で牛の乳が出なくなる、そう言って猛反発します。

成田空港の東側を北上すると横堀地区。左手は成田空港建設センターの敷地ですが、監視塔とサーチライトがあり、物々しい雰囲気になって来ました。
基本計画が発表されたのは終戦から21年経った昭和41年(1966年)、やがて空港反対組織と革新政党、左翼団体、そして共産党や社会党らの後押しを受け、三里塚芝山地区に三里塚空港反対同盟が結成されます。特に戦後入植した人々は住宅資金や営農資金の返済が終わり、やっと農業が軌道に乗り始めた頃でした。

成田航空建設センターの脇を入り右手の畦道を進むと、横堀農業研修センター跡があります。土地はすでに空港会社の所有となっていますが、今も尚反対同盟の集会に使われているそうです。
ちなみに成田航空建設計画の三里塚案では三里塚御用牧場が4割、残りは民有地で千数百人の住民と交渉する必要がありました。

敷地に入ると左手にはトイレ。古い物と後に設置された仮設トイレがあります。
当時寄せ集めで結成された新東京国際空港公団で用地買収に奔走するわけですが、省庁より出向して来た職員の横柄な態度が不評を買います。もし民間企業に土地買収を委託していれば早く話が収まったという説もあるほど。

敷地はほぼ廃墟にしか見えないのですが、この建物が今もなお使われているかどうかまでは分かりません。
戦後の開拓民は兵役でお国のために戦い、敗戦で満洲や台湾、中国、朝鮮半島から引き揚げ、行き場を失ってこの地で開拓を始め、貧困生活を乗り切りながらも戦後の東京の食糧不足を助け、やっと豊かな暮らしが出来ると思ったその矢先、勝手に閣議決定されて話が進められ、土地買収に来たのは高飛車に出てけと言う官僚上がり。その職員が例えば戦後育ちの東大出の若造だったりして、今まで国に尽くして来た人生を否定されたようで、そりゃキレますね。

建物の玄関には横堀農業研修センターの看板が建っていますが、実際には反対運動の団結小屋として使われていました。
新空港建設が計画されるまで、行政は東山地区営農改善計画として養蚕用の桑の栽培を開拓農家に推進しており、それに応じて栽培を始めた矢先に改善計画は反故にされました。これも怒りを買う要因の一つ。

廃墟の傍らには三里塚芝山連合空港反対同盟と書かれた廃車両が打ち捨てられています。
市民運動が激化する中、そこに目を着けて煽ったのが左翼団体でした。これは成田に限らず高度成長期に起こった負の連鎖と言えましょう。左翼や当時の共産党、社会党など様々な団体が関わり、結局反対同盟は周辺地域も巻き込んで1200世帯にも及びました。

横堀農業研修センターからさらに滑走路へと近づいていきます。両側をフェンスに挟まれ、そのフェンスの上には警報用でしょうか、電線が走っています。
それでも地道に用地買収のため職員が奔走する中、千葉県、運輸省、新東京国際空港公団は破額の金銭的代償、移転先や廃農後の保証など、国費に物を言わせた好条件を提示し始めます。相場以上の土地買い取り価格などから、結果9割もの地権者が理解を示す事となります。今後の事、将来的な事を冷静かつ現実的に考えれば当然でしょう。兼業農家となり空港内での仕事を斡旋された者や、そのまま空港公団の職員となる者までいたそうです。

暫く進むと道は滑走路の下を潜り、横堀鉄塔へと続きます。以前はこの道路の入り口付近に警備員が立ち来訪の目的を聞かれたそうですが、先日は空港敷地内の櫓の上から警備員が監視しているにとどまりました。
次々と土地が売られてゆく中、地権者と小作農民である反対派との亀裂が部落内での疑心暗鬼を呼び、軋轢が生じます。反対派からしてみれば土地を売った者は裏切り者であり、人間関係が殺伐となって行く。特に反対派の数が多い地域では賛成派の家への村八分や嫌がらせなどがエスカレートして行ったそうです。

googleマップの画像を見た時は衝撃でした。その場所は、完全に滑走路の中に孤立しているのです。

こちらが横堀鉄塔。竹林に覆われながら今なお空港敷地内に聳え立っているのですが、登記簿は加瀬勉さんの私有地となっており成田空港株式会社(旧・新東京国際空港公団)⁾が買い取れなかった土地となります。
昭和42年(1967年)10月、国と公団は初めて2000人の機動隊とともに外郭測量のための杭打ちを行いました。誰もが予想し得なかった実力行使に、陳情やデモだった運動から武力対決へと変貌して行きます。以後公団は必ず機動隊と共に現れ、小作農民はあの全学連や左翼団体と手を結ぶに至ります。同時に選挙の得票数獲得を目的に開拓農民に歩み寄っていた共産党及び社会党は、こりゃヤバいと思ったのか離れて行きました。

竹林の中には廃墟化した建物が確認できます。以前はこの周辺に幾つもの団結小屋があったそうです。

こちらが団結小屋の配置図。反対派及び左翼団体の中でも様々な派閥があるようです。後にこの左翼団体の中でも抗争が起き、俗に内ゲバと呼ばれる暴力抗争へと発展して行きます。
昭和43年(1968年)、ついに反対同盟と機動隊との間での衝突が始まり、多くの怪我人や逮捕者を出す事となりました。時代背景としてその翌年1969年1月には新左翼の全共闘により東大安田講堂事件が起こされます。

昭和46年(1971年)9月16日、第二次行政代執行に於いて中核派などの新左翼及び同調する学生達と、機動隊などの警察隊とが衝突した東峰十字路事件が起こりました。その時に反対派のゲリラ部隊が警察隊を襲撃し、ついに神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査、計3名の死者を出す事となります。写真は福島誠一警視(二階級特進)の慰霊碑。

こちらは空港敷地内に建つ東峰神社。以前空港会社が土地を取得しましたが境内の木の伐採を巡り裁判が起こされ、後に和解して現在では東峰地区と天神峰地区の住民複数名の共有となっています。

木の伐採については空港建設予定地内の樹木一本一本を個人の所有物とし、建設を妨害すると言う手段も取られていました。
東峰十字路事件が起こる前までのメディアは反対派に同情的で行政を批判する報道がなされていました。しかし死者が出た事を受けて世論が一転する事となります。戦後、60年代から70年代にかけての左翼系デモに於いて死者が出たのはこれが初めてとなります。またこの事件後反対派農民の中でも「殺すとか引くわー」って言う意見が広がって行きます。農地を取り上げられた当事者と、ただ権力に反発したいだけの反政府勢力との間に溝が生まれて来るのです。

東峰神社の向かい側では今でも農業が続けられています。土地はすでに成田空港側が買い上げていながらも、小作農家の方がいまだ農耕作業を行なっているため、ここを仮に小作地(1)と呼称します。
結果的に、1966年の基本計画にあった昭和47年(1972年)竣工予定は頓挫し、昭和53年(1978年)開港となりました。

成田空港A滑走路とB滑走路の間に当たる、成田空港敷地内の東峰神社と小作地の位置。完全に空港を分断しています。
抗争は開港直前まで続きます。昭和53年(1978年)3月26日、3月30日の開港を控えた新東京国際空港の管制塔に日本革命的共産主義者同盟のゲリラが進入し、管制塔内の機器を破壊すると言う成田空港管制塔占拠事件が起きました。この時呼応するかのように、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家約300人が乱入し、騒乱状態となりました。このため、開港が3月30日から5月20日に延期となったそうです。

こちらは上記Googleマップに示した小作地(2)です。
開港後も反対運動は細々と続いていましたが、平成4年(1992年)12月15日に反対同盟、千葉県、日本国政府、運輸省による第11回成田空港問題シンポジウムで、新東京国際空港建設時の強硬姿勢について日本国政府から正式に謝罪がありました。
そして平成6年(1994年)10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議においては、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸相(当時)と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わしました。その後、多数の地権者が移転に応じたことで上記Googleマップの北側、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展したそうです。
だがしかし!
成田闘争はまだ終わっていなかった。
こちらの動画は去年、2023年2月22日の映像です。場所は上記の空港内小作地(1)、残っていた櫓を撤去しようとした所、このような騒ぎが起きました。動画の中には中核派の白メットも映っており、令和の現在でも昭和の左翼が現存すると言う現実に驚くばかりでした。

成田空港第一ターミナルから南に位置する芝山千代田駅方面へ幹線道路が通っています。道路はA滑走路とB滑走路を結ぶ連絡路の下を通っており、歩道も並行してトンネルとなっています。

一瞬トンネルを出た所で東側に入る道があり、木の根ペンションと言う看板が。しかしここはまだ空港の真っ只中になります。
空港が開港してもう46年が経ちます。空と大地の歴史館の展示の中では成田空港問題シンポジウムと円卓会議の段階で空港問題は解決したとされています。それは反対同盟に参加していた多くの農家が補償問題に於いて折り合いがついたと言う事です。

地図で見るとこんな感じ。芝山鉄道と県道62号線が避けるように通っています。こちらも前出の横堀鉄塔と同じく加瀬勉さんの敷地ですが、空港会社に土地を取られるのを防ぐため、敷地内の名義を複数人で共有している一坪共有地と言う形を取っているそうです。
多くの農家が和解してもなお、空港内に土地を売らず残留する極一部の農家と、それを支援する左翼団体が存在します。反対運動の目的は何か。成田空港を廃止して農地にする事なのか。それとも保証金の問題なのか。

こちらが木の根ペンション。今でも反対派の会合に利用されているそうです。空と大地の歴史館の方に聞いた話によると、普段は休業していますが、泊まろうと思えば泊まれなくも無いとの事。まぁ泊まるにはかなりの度胸が必要ですが。
現在でも周辺には警察車両が頻繁に巡回しています。元々この地で貧困に耐えながら開拓して来た農民たちは今や三世代前で、ご存命の方はもうほとんど居ないそうです。政府の横暴に怒り反対運動を続けていた農民と、言い方は悪いですがそれに便乗して反政府活動を続ける左翼団体。全く当事者ではない人々が騒ぎを起こしているようにすら映ります。それは学生運動等の「時代」と言う流れで結論づけようとしても、どうしても理解できない。私にとっては親の、いわゆる団塊世代の時代感覚なのかも知れません。

目の前を飛行機が通り過ぎます。なんたって飛行場の中ですからね!
しかし歴史を俯瞰的に見ると、戦時下の日本に於いては国家防衛のための航空基地を造る際、御国のためという名目で農地を強制徴収された農家など沢山いました。今まで訪れて来た香取航空基地然り、茂原、土浦、調布、数え上げればキリが無いです。それが戦後の高度成長期、人権問題や市民運動が熱を増した時代。運輸省などの官僚の旧態然とした感覚と、戦後生まれの自由と理想を求めた世代の感覚との差異が、大きな社会問題へと発展して行ったと言う事でしょうか。
とは言え、世界の各途上国のような革命を起こす内戦状態にはならない。昭和45年(1970年)のよど号ハイジャック事件や、昭和47年(1972年)の浅間山荘事件などの日本のテロリズムは、多くの民意を動かすまでには至らないし、明治維新のような事は起きない。

さて、レンタルMTBを返却して最後は空の湯の素晴らしい加温加水無し源泉掛け流し浴槽で疲れを取り、生ビールでリセット。やはりここのお湯はトップクラスですね。
ちょっと今回は昭和史に偏った記事になってしまいました。ともあれ様々な物を見るにつれ、まだまだ知らない事ばかりだと思うばかりです。






















































































