成田市

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千葉県成田市(3)、成田闘争の痕跡を巡る

成田は2020年の夏と2021年の秋に訪れましたが、最初に訪れた際航空科学博物館が休館日だったと言う苦い思い出があります。
(1)空港シャトルシステムと成田駅周辺
(2)東成田駅(旧・成田空港駅)

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成田空港は出航と到着それぞれ1回ずつ利用していますが、LCCで一番端っこに着いてタラップで降り、バスに乗ってさらに歩かされてと良い思い出が無いので、飛行機に乗る際は専ら羽田利用となっています。埼玉の川口からだとスカイライナー利用すれば、所要時間は大差無いんですがね。

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まぁそんな成田空港に対する苦言はともかく空港の南、芝山千代田駅近くの「空の湯」に併設された「空輪」さんにてmont-bellのMTBを2000円でレンタル。今回で2回目です。

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まず訪れたのは以前休館日だった航空科学博物館。

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こちらはジャンボジェットことボーイング747に関する展示がメインとなります。昭和を代表する旅客機ですが、ついぞ乗った事無かったんですよね。

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1番の目的はこのYS-11だったんですが、この前ザ・ヒロサワシティで見て来ちゃいました。

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今回の本当の目的は航空科学博物館の奥にある空と大地の歴史館。成田闘争(三里塚芝山闘争)に関する資料館となります。ここには貴重な資料の数々が展示されており、また70年代に起きた成田闘争の歴史を解説してくれます。以前から訪れてみたかったのですが、最近限界ニュータウン探訪記さんの成田闘争に関する遺構を巡るYoutubeを紹介して頂き、それを観たら改めて訪れてみたい気持ちが強くなったと言うわけです。

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分かりづらいですが航空科学博物館の最上階にある食堂から蔦に覆われた鉄塔が見えます。これがまさしく成田闘争の痕跡なのです。
元々成田の地は8世紀頃から続く牧草地で、古くは源氏に軍馬を供給しており江戸期には佐倉牧と呼ばれる軍馬の生産地となっていました。明治8年には明治政府による下総牧羊場が設けられ、後の明治21年には宮内省下総御料牧場となります。

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航空科学博物館の南西、森の中にある廃墟。ここが当時の岩山団結小屋と言われています。

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御料牧場の規模は時代と共に縮小されて行き、大正12年には約千ヘクタールが、昭和21年には戦後開拓として約二千ヘクタールが農地へと転換されました。当初牧場跡地の農地開拓としては、明治期に職を失った下級武士や武家の奉公人、流浪の民などにより開拓が進められて行きます。

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開拓民の暮らしは困窮を極め東京窮民などと呼ばれました。また戦後は敗戦による占領地からの引揚者や帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などにより開拓されて行きましたが、こちらもまた貧困を極めて新窮民などと呼ばれました。左端に写るのが沖縄民の入植願書。

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岩山団結小屋の奥には岩山鉄塔と呼ばれる遺構があります。敷地には獄中死した活動家星野文昭氏の慰霊碑があり、献花されていました。
戦後成田で開拓が進むいっぽう1960年代、コンコルドの開発と共にこれからは超音速旅客機の時代が来ると思われていました(結局採算性の悪さから消えましたが)。同時に羽田空港は手狭となり、かと言って拡張するにも当時の土木技術では水深20mの海床を埋め立てする事が出来ず、よって航路の問題、騒音問題などから、第二国際空港の建設が叫ばれていました。

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鉄塔というのはつまり滑走路建設予定地に要塞として建て、そこに立てこもって工事を妨害するという物だそうです。塔の上から機動隊目掛けて火炎瓶を投げ、それに対して放水で応戦するという物。

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幾つかの候補地は上がったものの霞ヶ浦はボーリング調査の結果地盤に問題があり、富津岬沖などの東京湾上は船舶航路でパンク状態。そこで程よい丘陵地であり宅地開発も進んでいないと言う訳で成田、当時の富里村に白羽の矢が立ったわけです。

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しかしその決定に於いて政治的駆け引きに利用される事が多かったそうで、閣議決定も電撃的に決められ、地権者達にとってはまさに青天の霹靂に近い状態だったとか。

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猛反発を受けた佐藤栄作内閣は空港の規模縮小と、昭和44年(1969年)に栃木県の那須へと移転された御料牧場の跡地へ計画地を移動し、幕府直轄領時代から続く古村を避けて、金で解決出来そうな東京窮民や新窮民の農地を選び、富里案から北東側の三里塚案への改訂案を示しました。豪農とは違い小作人なら金で簡単に解決出来ると勘繰っていた訳です。

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成田の丘陵地帯には幾つもの湧水地である湿地と川が流れています。そう言った川沿いには古村と呼ばれる、極端な話中世から住んで来た人々が稲作を営んで来ました。

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一方、丘の上では明治以降、特に戦後入植した人々が樹木を伐採し土を耕し、関東ローム層故の畑作農業を営んで来ました。
ここで問題だったのは当時、地元住民に対する意見聴取や相談が一切されていなかった事にあります。富里村に造られると思っていた三里塚、芝山地区の貧困部落民たちは、報道でその事実を知りました。戦争が起きたら爆撃対象となる、ジェット機の騒音で牛の乳が出なくなる、そう言って猛反発します。

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成田空港の東側を北上すると横堀地区。左手は成田空港建設センターの敷地ですが、監視塔とサーチライトがあり、物々しい雰囲気になって来ました。
基本計画が発表されたのは終戦から21年経った昭和41年(1966年)、やがて空港反対組織と革新政党、左翼団体、そして共産党や社会党らの後押しを受け、三里塚芝山地区に三里塚空港反対同盟が結成されます。特に戦後入植した人々は住宅資金や営農資金の返済が終わり、やっと農業が軌道に乗り始めた頃でした。

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成田航空建設センターの脇を入り右手の畦道を進むと、横堀農業研修センター跡があります。土地はすでに空港会社の所有となっていますが、今も尚反対同盟の集会に使われているそうです。
ちなみに成田航空建設計画の三里塚案では三里塚御用牧場が4割、残りは民有地で千数百人の住民と交渉する必要がありました。

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敷地に入ると左手にはトイレ。古い物と後に設置された仮設トイレがあります。
当時寄せ集めで結成された新東京国際空港公団で用地買収に奔走するわけですが、省庁より出向して来た職員の横柄な態度が不評を買います。もし民間企業に土地買収を委託していれば早く話が収まったという説もあるほど。

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敷地はほぼ廃墟にしか見えないのですが、この建物が今もなお使われているかどうかまでは分かりません。
戦後の開拓民は兵役でお国のために戦い、敗戦で満洲や台湾、中国、朝鮮半島から引き揚げ、行き場を失ってこの地で開拓を始め、貧困生活を乗り切りながらも戦後の東京の食糧不足を助け、やっと豊かな暮らしが出来ると思ったその矢先、勝手に閣議決定されて話が進められ、土地買収に来たのは高飛車に出てけと言う官僚上がり。その職員が例えば戦後育ちの東大出の若造だったりして、今まで国に尽くして来た人生を否定されたようで、そりゃキレますね。

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建物の玄関には横堀農業研修センターの看板が建っていますが、実際には反対運動の団結小屋として使われていました。
新空港建設が計画されるまで、行政は東山地区営農改善計画として養蚕用の桑の栽培を開拓農家に推進しており、それに応じて栽培を始めた矢先に改善計画は反故にされました。これも怒りを買う要因の一つ。

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廃墟の傍らには三里塚芝山連合空港反対同盟と書かれた廃車両が打ち捨てられています。
市民運動が激化する中、そこに目を着けて煽ったのが左翼団体でした。これは成田に限らず高度成長期に起こった負の連鎖と言えましょう。左翼や当時の共産党、社会党など様々な団体が関わり、結局反対同盟は周辺地域も巻き込んで1200世帯にも及びました。

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横堀農業研修センターからさらに滑走路へと近づいていきます。両側をフェンスに挟まれ、そのフェンスの上には警報用でしょうか、電線が走っています。
それでも地道に用地買収のため職員が奔走する中、千葉県、運輸省、新東京国際空港公団は破額の金銭的代償、移転先や廃農後の保証など、国費に物を言わせた好条件を提示し始めます。相場以上の土地買い取り価格などから、結果9割もの地権者が理解を示す事となります。今後の事、将来的な事を冷静かつ現実的に考えれば当然でしょう。兼業農家となり空港内での仕事を斡旋された者や、そのまま空港公団の職員となる者までいたそうです。

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暫く進むと道は滑走路の下を潜り、横堀鉄塔へと続きます。以前はこの道路の入り口付近に警備員が立ち来訪の目的を聞かれたそうですが、先日は空港敷地内の櫓の上から警備員が監視しているにとどまりました。
次々と土地が売られてゆく中、地権者と小作農民である反対派との亀裂が部落内での疑心暗鬼を呼び、軋轢が生じます。反対派からしてみれば土地を売った者は裏切り者であり、人間関係が殺伐となって行く。特に反対派の数が多い地域では賛成派の家への村八分や嫌がらせなどがエスカレートして行ったそうです。

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googleマップの画像を見た時は衝撃でした。その場所は、完全に滑走路の中に孤立しているのです。

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こちらが横堀鉄塔。竹林に覆われながら今なお空港敷地内に聳え立っているのですが、登記簿は加瀬勉さんの私有地となっており成田空港株式会社(旧・新東京国際空港公団)⁾が買い取れなかった土地となります。
昭和42年(1967年)10月、国と公団は初めて2000人の機動隊とともに外郭測量のための杭打ちを行いました。誰もが予想し得なかった実力行使に、陳情やデモだった運動から武力対決へと変貌して行きます。以後公団は必ず機動隊と共に現れ、小作農民はあの全学連や左翼団体と手を結ぶに至ります。同時に選挙の得票数獲得を目的に開拓農民に歩み寄っていた共産党及び社会党は、こりゃヤバいと思ったのか離れて行きました。

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竹林の中には廃墟化した建物が確認できます。以前はこの周辺に幾つもの団結小屋があったそうです。

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こちらが団結小屋の配置図。反対派及び左翼団体の中でも様々な派閥があるようです。後にこの左翼団体の中でも抗争が起き、俗に内ゲバと呼ばれる暴力抗争へと発展して行きます。
昭和43年(1968年)、ついに反対同盟と機動隊との間での衝突が始まり、多くの怪我人や逮捕者を出す事となりました。時代背景としてその翌年1969年1月には新左翼の全共闘により東大安田講堂事件が起こされます。

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昭和46年(1971年)9月16日、第二次行政代執行に於いて中核派などの新左翼及び同調する学生達と、機動隊などの警察隊とが衝突した東峰十字路事件が起こりました。その時に反対派のゲリラ部隊が警察隊を襲撃し、ついに神奈川県警の福島警部補、柏村巡査部長、森井巡査、計3名の死者を出す事となります。写真は福島誠一警視(二階級特進)の慰霊碑。

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こちらは空港敷地内に建つ東峰神社。以前空港会社が土地を取得しましたが境内の木の伐採を巡り裁判が起こされ、後に和解して現在では東峰地区と天神峰地区の住民複数名の共有となっています。

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木の伐採については空港建設予定地内の樹木一本一本を個人の所有物とし、建設を妨害すると言う手段も取られていました。
東峰十字路事件が起こる前までのメディアは反対派に同情的で行政を批判する報道がなされていました。しかし死者が出た事を受けて世論が一転する事となります。戦後、60年代から70年代にかけての左翼系デモに於いて死者が出たのはこれが初めてとなります。またこの事件後反対派農民の中でも「殺すとか引くわー」って言う意見が広がって行きます。農地を取り上げられた当事者と、ただ権力に反発したいだけの反政府勢力との間に溝が生まれて来るのです。

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東峰神社の向かい側では今でも農業が続けられています。土地はすでに成田空港側が買い上げていながらも、小作農家の方がいまだ農耕作業を行なっているため、ここを仮に小作地(1)と呼称します。
結果的に、1966年の基本計画にあった昭和47年(1972年)竣工予定は頓挫し、昭和53年(1978年)開港となりました。

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成田空港A滑走路とB滑走路の間に当たる、成田空港敷地内の東峰神社と小作地の位置。完全に空港を分断しています。
抗争は開港直前まで続きます。昭和53年(1978年)3月26日、3月30日の開港を控えた新東京国際空港の管制塔に日本革命的共産主義者同盟のゲリラが進入し、管制塔内の機器を破壊すると言う成田空港管制塔占拠事件が起きました。この時呼応するかのように、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家約300人が乱入し、騒乱状態となりました。このため、開港が3月30日から5月20日に延期となったそうです。

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こちらは上記Googleマップに示した小作地(2)です。
開港後も反対運動は細々と続いていましたが、平成4年(1992年)12月15日に反対同盟、千葉県、日本国政府、運輸省による第11回成田空港問題シンポジウムで、新東京国際空港建設時の強硬姿勢について日本国政府から正式に謝罪がありました。
そして平成6年(1994年)10月11日に開催された第12回成田空港問題円卓会議においては、警察官僚時代に事件の捜査の指揮を執っていた亀井静香運輸相(当時)と青年行動隊に所属していた元被告が握手を交わしました。その後、多数の地権者が移転に応じたことで上記Googleマップの北側、B滑走路の建設を含む空港の二期工事が進展したそうです。
だがしかし!
成田闘争はまだ終わっていなかった。



こちらの動画は去年、2023年2月22日の映像です。場所は上記の空港内小作地(1)、残っていた櫓を撤去しようとした所、このような騒ぎが起きました。動画の中には中核派の白メットも映っており、令和の現在でも昭和の左翼が現存すると言う現実に驚くばかりでした。

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成田空港第一ターミナルから南に位置する芝山千代田駅方面へ幹線道路が通っています。道路はA滑走路とB滑走路を結ぶ連絡路の下を通っており、歩道も並行してトンネルとなっています。

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一瞬トンネルを出た所で東側に入る道があり、木の根ペンションと言う看板が。しかしここはまだ空港の真っ只中になります。
空港が開港してもう46年が経ちます。空と大地の歴史館の展示の中では成田空港問題シンポジウムと円卓会議の段階で空港問題は解決したとされています。それは反対同盟に参加していた多くの農家が補償問題に於いて折り合いがついたと言う事です。

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地図で見るとこんな感じ。芝山鉄道と県道62号線が避けるように通っています。こちらも前出の横堀鉄塔と同じく加瀬勉さんの敷地ですが、空港会社に土地を取られるのを防ぐため、敷地内の名義を複数人で共有している一坪共有地と言う形を取っているそうです。
多くの農家が和解してもなお、空港内に土地を売らず残留する極一部の農家と、それを支援する左翼団体が存在します。反対運動の目的は何か。成田空港を廃止して農地にする事なのか。それとも保証金の問題なのか。

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こちらが木の根ペンション。今でも反対派の会合に利用されているそうです。空と大地の歴史館の方に聞いた話によると、普段は休業していますが、泊まろうと思えば泊まれなくも無いとの事。まぁ泊まるにはかなりの度胸が必要ですが。
現在でも周辺には警察車両が頻繁に巡回しています。元々この地で貧困に耐えながら開拓して来た農民たちは今や三世代前で、ご存命の方はもうほとんど居ないそうです。政府の横暴に怒り反対運動を続けていた農民と、言い方は悪いですがそれに便乗して反政府活動を続ける左翼団体。全く当事者ではない人々が騒ぎを起こしているようにすら映ります。それは学生運動等の「時代」と言う流れで結論づけようとしても、どうしても理解できない。私にとっては親の、いわゆる団塊世代の時代感覚なのかも知れません。

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目の前を飛行機が通り過ぎます。なんたって飛行場の中ですからね!
しかし歴史を俯瞰的に見ると、戦時下の日本に於いては国家防衛のための航空基地を造る際、御国のためという名目で農地を強制徴収された農家など沢山いました。今まで訪れて来た香取航空基地然り、茂原、土浦、調布、数え上げればキリが無いです。それが戦後の高度成長期、人権問題や市民運動が熱を増した時代。運輸省などの官僚の旧態然とした感覚と、戦後生まれの自由と理想を求めた世代の感覚との差異が、大きな社会問題へと発展して行ったと言う事でしょうか。
とは言え、世界の各途上国のような革命を起こす内戦状態にはならない。昭和45年(1970年)のよど号ハイジャック事件や、昭和47年(1972年)の浅間山荘事件などの日本のテロリズムは、多くの民意を動かすまでには至らないし、明治維新のような事は起きない。

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さて、レンタルMTBを返却して最後は空の湯の素晴らしい加温加水無し源泉掛け流し浴槽で疲れを取り、生ビールでリセット。やはりここのお湯はトップクラスですね。
ちょっと今回は昭和史に偏った記事になってしまいました。ともあれ様々な物を見るにつれ、まだまだ知らない事ばかりだと思うばかりです。


千葉県成田市(2)、東成田駅(旧・成田空港駅)

千葉県成田市(1)、空港シャトルシステムと成田駅周辺
成田空港はスカイアクセス線で随分と便利になりました。スカイライナーじゃない方の通勤型車両による特急に乗れば、標準軌の線路で長い直線区間を轟音を立てながら無理矢理飛ばしまくります。頑張れスカイアクセス特急!

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到着したのが成田空港第1ターミナル。飛行機の利用以外で訪れたのは2回目となります。

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今回の目的地はここ、東成田駅。空港第1ターミナルと第2ターミナルの中間辺りで無茶苦茶空港敷地内になります。東成田駅までは空港手前で京成本線から分岐する京成電鉄。ひと駅先の芝山千代田駅までが第三セクターにより1992年末開業した芝山鉄道。相互乗り入れはしてますが、鉄道会社としてはひと駅しかない、日本一短い鉄道です。

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最近テレビでも紹介されたのでご存知の方も多いかと思われますが、この駅はかつての京成成田空港駅だった場所。

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京成電鉄は成田空港建設当初、現在の第1ターミナルおよび第2ターミナル直下に駅を建設する予定でした。しかし当時、成田新幹線の建設計画が有ったためターミナル直下へのアクセスを新東京国際空港公団が渋り、その結果運輸省が施工認可を保留したそうです。

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結果、京成電鉄はどちらのターミナルからも離れている中間地点に駅を建設せざるを得なかったのです。

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東成田駅は1978年5月、京成電鉄成田空港駅として開業しました。そして1987年の国鉄分割民営化に伴い計画が消滅した成田新幹線計画用地に1991年、第1ターミナル直結の現・成田空港駅、1992年同用地に第2ターミナル直結の空港第2ビル駅が開業(JR東日本も同時に開業・成田エクスプレス運行開始)したため、空港駅としての役目を終えました。ちなみに現在JR成田空港支線と京成本線から成田空港の敷地内に入る線路に関しては、第三セクターの成田空港高速鉄道が所有しています。とても複雑。

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パーティションで隠された中に、当時空港駅だった頃の名残りが見受けられます。

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武富士のポスター!しかも1989年ルマンの武富士ポルシェ!

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当時営業していた喫茶店の跡も廃墟となって残っております。

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この旧・成田空港駅から当時使われていた、第2ターミナルまでの地下通路が残っています。

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まずは150m歩いてこの突き当たりを左へ。

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そこから350m。合計500m歩きます。

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望遠レンズで撮ればこんな感じ、誰も歩いていない地下空間。途中至るところに監視カメラが設置されています。

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第2ターミナルに到着。普通に人々で賑わう、と言っても現在は閑散としていますが、成田空港国際線ターミナルです。

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さて、東成田駅(旧・成田空港駅)に戻って来ました。写真は改札内のコンコース。

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駅構内には成田空港駅の歴史を語るポスターが展示されています。

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現在の京成電鉄及び芝山鉄道東成田駅ホームの向かい側には、今では使われなくなり立入禁止となっている、当時終着駅だった頃のホームが残っています。駅名標は当時の成田空港駅のまま。

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ついでと言ってはなんですがお隣の終着駅、芝山鉄道芝山千代田駅まで足を伸ばしました。空港敷地の南東端になりますが、東成田駅、芝山千代田駅、共に駅周辺には空港の関連施設が多くあるため、働いている方々の通勤の足として機能しています。ただ、芝山鉄道の区間である終点の芝山千代田駅だけ交通系ICが使えません。何気に罠です。
ちなみにこの芝山鉄道の開業は、成田空港の東側に住む住民達が成田空港を突っ切って成田市に出れるようにと建設されました。その経緯には成田空港建設当時の反対運動なども絡んでいて、つくづく成田空港を取り巻く歴史は複雑極まりない。

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空港敷地の外側に日帰り入浴施設、空の湯があります。時間があったので何気なく寄ってみました。いわゆる大深度から掘削したモール泉で最近よく見るやつだろう、と思ったら、予想を上回る素晴らしいお湯に驚かされました。
内湯は人工温泉と人工炭酸泉。温泉は露天のみとなりますが、なんと源泉加温掛け流し。六畳ほどの狭い湯船が掛け流しで、隣の広い浴槽は加水循環濾過。壺湯や寝湯もありますが、それらは全て普通のお湯。つまり、少ない湧出量の中で100%源泉掛け流しを実現するためにあらゆる犠牲を惜しまないと言う、湯使いに対するこだわりが窺える施設なのです。
さらに隣の建物にはレンタルサイクルでマウンテンバイクやロードバイクが用意されていました。ここで自転車を借りれば近隣でバスが通ってない場所にある廃校跡も巡れる。しかも帰りに温泉に浸かれると言う。航空科学博物館や三里塚の防空壕など以前休館日で入れなかった場所もあるし、ここはまた来たいと思います。

千葉県成田市(1)、空港シャトルシステムと成田駅周辺

成田空港は何度か利用したことがありますが、とにかく広すぎて歩かされまくって、二度と使うもんかと毎回思います。スカイライナー新線も開通したので埼玉方面からだと所要時間こそ羽田と大差無いですが、成田空港内でバス移動したり歩いたりで結局時間ばかり掛かって不便。

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そんな飛行機に乗る以外用事のない成田空港に来ました。第一ターミナルのバス停も関東一円大抵の所に直行便が出てるため、バス停の数がやたら多く無駄に広い。三里塚方面へ向かう路線バスの停留所は一番奥にあり、やはり歩かされる。

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今回の目的地の一つ、航空科学博物館。
が、しかし、なんと月曜日は休館日!
ちゃんと調べてから来れば良かった。また日を改めて来ます。

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付近は分水領であるため大きな川は無く、水源のある湿地帯や沼などが点在しております。

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元は宮内庁御料牧場の跡地を中心に成田空港の建設が建設されたのですが、その際周辺の農村地帯も買収されました。いわゆる三里塚闘争の始まりです。

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飛行機の離陸でも撮ってやろうかと思いましたが、新型コロナの影響で欠航だらけ。特に第一ターミナル発着が多い国際線は、ただでさえ羽田に取られて便数が減ったところに欠航続きで、いくら待っても飛行機が飛びません。確かに、JALやANAの機体がやたら停まってます。

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第二の目的地、成田空港シャトルシステムで使用されていた車両が保存されているバーベキュー場へ。

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このシャトルシステム、空気圧で車体を0.1mm浮上させてワイヤーで引っ張るという空気浮上方式新交通システムでした。リニアでは無く、ゆりかもめ的な物でも無く、とにかくワイヤーで引っ張る!www

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この新交通システムは成田空港第二ターミナル開業の平成4年12月から平成25年9月まで運行されていました。当時飛行機に乗った事の無かった私は全く知りませんでした。現在は空の駅風和里BBQガーデンという施設で保存されています。

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第三の目的地、三里塚御料牧場跡。
が、しかし、ここも月曜日が休館日!

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開いてたら皇室専用防空壕の内部も見学出来たのに。やはり成田はもう一度訪れる必要があります。

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結局シャトルシステムだけで終わるのもなんなんで、成田駅周辺を軽く散策。少し歩くとすぐ廃墟。しかし右下をよく見てみれば……。

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猫が!

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成田山新勝寺には正月ぐらいしか人が来ないでしょう。私は一度も行った事がありません。京成成田駅から参道への道、お土産屋さんでも有ったのでしょうか。

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JR成田駅から続く参道は綺麗に整備され、電線も地中埋設になっていました。近年メディアで参道の名物である鰻屋さんなどが紹介され、観光地として盛り上がりを見せています。

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一本裏の通りに入ると老舗の料理屋が。成田山詣での団体客が二階の座敷で食事をする、そんな時代を想像できます。

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その食事処東洋さんの左下には、パブ・スナック東洋が。これは渋い!まだ営業されているんでしょうか。やっているなら夜入ってみたい。

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正月ぐらいにしか行かないとは言え、寺社の参拝客数は明治神宮に次ぐ全国第二位。参道沿いは門前町として栄えています。

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こちらはホテルか何かの廃墟でしょうか。成田山は外国人観光客にも人気があり、土用の丑の日に鰻目当てに多少観光客が来るようになったとは言え、正月しか稼ぎ時がない門前町はこの先どのように生き残りをかけて行くのか。もし来年の正月にコロナが収まっていたら、初詣に来てみてもいいかなって、ちょっと思いました。

千葉県成田市(2)、東成田駅(旧・成田空港駅)
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都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

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