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東京都小金井市、江戸東京たてもの園(後編)

さて、後編です。

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公園の東地区には都電が保存されています。都電は自動車の普及や地下鉄網の発展に伴い、昭和47年(1972年)までに現在の荒川線を残して廃止されました。

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上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部。いわゆる火の見櫓の上の部分ですが、当時の高さは約23.6m。都心の望楼は建造物の高層化や電話の普及とともに次第に役目を終えていったそうですが、この望楼は大正14年(1925年)に造られて昭和45年(1970年)まで使用され、昭和52に解体されたとか。

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こちらは台東区池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品店の村上精華堂。昭和3年(1928年)、関東大震災の復興の時期に建てられた建物って、なぜかモダンな造りが多い気がします。

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この辺りからは東京下町の狭い建物が多くなるため中に上がる事は出来ませんが、お茶の間の様子を窺う事は出来ます。

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と言う訳で、ここからは東京下町ゾーンとなります。オープンセットとは違いあくまでも建物の博物館と思わせるのは、電柱や街灯などがないからでしょう。

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コの字型に建ち並ぶ建物を左側から。こちらは中央区新富町に昭和2年(1927年)建設された植村邸。銅板葺きの看板建築で、このような建物は下町に行けば現在でも僅かに残っていますね。なおこの建物の壁面には空襲の際、爆弾の破片などによる傷が多数残っているそうですが、なんと見逃してしまいました。

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隣に建つのは乾物屋の大和屋本店。港区白金台4丁目に昭和3年(1928年)建てられました。

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店内は建設当初の乾物屋の様子を再現しており、干し鮑や昆布などが陳列されています。白金台4丁目と言えば東大医学部研究所附属病院とかありますね。白金台駅の辺りでドン・キホーテの向かい側。今ではオシャレな高級店が建ち並んでいます。

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レジも古い。と言うか当時はまだ算盤が多かったのかな。この辺りはアミューズメント感が高く外国人観光客以外にも女子の見学客が多くいます。逆に言えばこれまで回って来た日本家屋は地味と言うか人気ないと言うか。

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お風呂はこんな感じ。壁面から蛇口が出ています。

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裏に回るとちゃんと配管カバーがあったりする。どんな気遣いなのか。

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だって建物の裏手は私有地で誰にも見られなかったろうに。と、こんな所が気になってしまいました。建てた人とか、その時代の人々の感覚とか想像してみたり。

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こちらは江戸川区南小岩8丁目にあった和傘問屋の川野商店。

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大正15年(1926年)建設。当時小岩は和傘の産地だったそうです。和紙や糊、竹などの原材料を東日本各地から仕入れ、職人が傘を作っていたとか。

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こちらは裏の玄関。和傘問屋とは言え明治初期には洋傘が輸入され、明治11年より国産の洋傘が製造を開始。明治後期には日本製洋傘が輸出されるまでに至ったそうです。そう考えると和傘はすでに斜陽産業だったと思われます。

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港区白金5丁目にあった小寺醤油店。白金と言えば高級住宅街のイメージが強いですが、坂の下や川沿いには下町風情が残っています。

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昭和8年(1933年)建築。味噌や醤油、酒類を販売していたそうです。ちゃんと当時のラベルが貼られた瓶などがディスプレイされています。

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ちなみにこちらが現在の白金5丁目界隈。この並びに建っていたそうです。この辺は戦前の建物が今だに残っています。

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余談ですが以前、この並びの洋食ハチローで食事した事がありますが、リフォームして古民家カフェをやってる店なんかもあります。

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こちらは台東区下谷2丁目(入谷と鶯谷の間)、言問通り沿いにかつてあった居酒屋の鍵屋。建物は江戸末期の安政3年(1856年)に建てられた物だそうです。震災も戦災も免れたそう。

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左手に座敷、コの字カウンターにヤマサ醤油樽の椅子。最初は酒問屋から創業し小売店となり、昭和に入ってから角打ちを始め、昭和24年(1949年)より居酒屋となったそうです。

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店内は昭和45年頃の様子を再現。店は昭和49年に鶯谷寄り1本奥に入った路地に移転して、現在でも続いていると言う。

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こちらが現在の鍵屋。住所は根岸3丁目になりましたが建物は大正時代建造の建物をここに移築したそうです。一度開いてる時に入ってみたいのですが、入り辛いったらありゃしない。

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右隣にあるのが子宝湯。足立区千住元町に存在した銭湯で昭和4年(1929年)建造。

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神社仏閣を思わせる大型の唐破風や脱衣所の折上格天井など、首都圏の銭湯建築は震災復興建築の特徴です。復興で大変な時期、せめてお風呂は贅沢な日本建築でと言う思いから。この銭湯建築は関西や北関東などでは見られません。

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ちなみに千住元町と言えば喫茶モカなどがありました。近くにタカラ湯と言う銭湯も現存してますが、そちらも立派な銭湯建築です。

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こちらは文京区向丘1丁目にあったと言う仕立屋。江戸からの町屋の造りが残る貴重な建物です。

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明治12(1879年)年建築。昭和初期にはテーラーとなり戦後は八百屋だったとか。内部は大正時代当時を再現。

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こちらは青梅市西分町の青梅街道沿いにあった万徳旅館。江戸時代末期~明治時代初期に建てられたそうです。

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元は旅籠で明治中期に2階部分を増築。なんと平成5年(1993年)まで旅館として営業していたそうです。

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こちらは千代田区神田須田町1丁目にあった武居三省堂。明治初期に創業した文具店で、この建物は昭和2年(1927年)に建てられた物。

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店内は昭和30年代を再現されていますが、まだ筆や硯がメインのようです。

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壁一面の引き出し。ジブリの「千と千尋の神隠し」に出てくる釜爺の部屋のモデルとなったと言われています。

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その神田須田町1丁目にあったのが、万世橋の南西側袂にあったと言う万世橋交番(須田町派出所)。明治後期建築と推定されてます。かつては万世橋駅の駅前交番の役目を果たしていましたが、昭和18年に万世橋駅が廃止された後は巡査の休憩所や交通課の詰所として利用されていたそうです。

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ちなみに現在の万世橋は昭和5年建造。当時の姿を今に残しています。昭和42年(1967年)までは万世橋にも都電が走っていました。

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こちらは昭和2年(1927年)、千代田区神田淡路町1丁目に建てられたと言う花市生花店。

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裏に回ると井戸や木製物干し台などがあります。

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最後に昭和初期、千代田区神田神保町3丁目に建てられた荒物屋(金物屋)の丸二商店。神保町駅と九段下駅の間辺りですね。

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店内は昭和10年代の様子を再現しているそうですが、本当にこんな風に鍋が積み上げられていたのでしょうか。

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裏手には長屋も移築し、それとともに路地の様子も再現されています。雑草や苔の生え具合がいい感じ。

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こちらで遅めの昼食。1階には自動販売機と休憩所があります。

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武蔵野うどん。麺にコシがあって美味かった。
ともあれたっぷり楽しめました。もっと細かい所まで見ていたら本当にキリがないです。移築だし現地を歩いた方がなんて思っていましたが、当時の姿に修復したり当時の小道具をディスプレイしたりと、博物館としての見応えは期待以上の物がありました。


東京都小金井市、江戸東京たてもの園(前編)

インスタなどで噂に聞いていた程度の江戸東京たてもの園。どうせ移築された建物がちょっと並ぶ「作られた昭和感」ぐらいだろうと思ってました。ところが、行ってみたら凄かった!

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JR中央線武蔵小金井駅の北、2キロ弱。小金井公園があります。バス停のある小金井公園西口から入ると保存車両のC57がありますが、こちらはたてもの園とは別で土日のみ公開。まぁ柵の外から見れますが。

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公園内を少し歩くと敷地内に江戸東京たてもの園があります。休館日は基本月曜日で9:30〜17:30、ただし10月〜3月は16:30まで。観覧料は一般400円。このビジターセンターも昭和15年(1940年) 皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿で、翌年にはこの場所に移築され光花殿と名付けられたそうです。

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後の昭和29年(1954年)、井の頭恩賜公園にあった武蔵野博物館をこの地に移転し、平成5年(1993年)両国の江戸東京博物館の開館に合わせて都内の様々な建造物を移築し、現在の江戸東京たてもの園となりました。

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思ったより広い敷地に29棟もの建造物が展示されていますが、東側から時計回りに見て行こうと思います。こちらは板橋区にあった常盤台写真場。ちなみに場内に入ってすぐの所に喫煙所と自動販売機があるのですが、自動販売機はここと東エリアの奥ぐらいにしか無いので、水分補給のための飲み物は買っておいた方がいいかと。

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2階が写真スタジオになっています。昭和12年に建てられた物ですが、スタジオの機材など当時を思わせる古い機材がディスプレイされています。

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常盤台には確か駅前に常盤台の歴史について書かれたパネルがありましたが、昭和10年に東武東上線が開通してから造成されていった住宅地です。これだけの木造モルタル構造物をどうやって移築したのかは謎ですが、一軒目からちょっと驚かされました。

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表にはボンネットバス、いすゞTSD43型が展示されています。こちらは1968年式北村製作所製のボディと1979年式のトラックのシャーシを組み合わせて福山時計自動車博物館にて復旧したもので、塗装は当時の都営バスの物。

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この車両は動態保存されており、月一回園内を実際走行させるそうです。ただ日程については公式サイトにも告知されておらず、直接問い合わせてみないと分かりません。

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こちらの建物は三井財閥の総領家、三井八郎右衞門の邸宅。港区今井町にあった本邸が戦災で焼失したため、昭和27年(1957年)麻布笄町(港区西麻布三丁目)に本邸を建築して移り住んだとか。その際、今井町で焼け残った棟や、京都、神奈川県の大磯、世田谷区の用賀、それぞれの屋敷から建築部材、石材、植物などがかき集められたそうです。

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門柱もしっかり移築されています。庭なども再現されており相当お金かかっていそうだし、その徹底ぶりには頭が下がります。

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キッチンがまた凄い。使用人が調理する厨房ってところですが、木製の吊り戸棚や食器棚の多さもさる事ながら、歴史的価値も相当な物。以前、野田の茂木一族邸の厨房なども見ましたが、比べるとさすが三井財閥と言った感じ。

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もう、秀吉かよってぐらいの金。まだ二軒目なのにこんな調子で写真撮ってたらキリがない。

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こちらは世田谷区岡本3丁目に建っていた江戸時代中期の農家、綱島家。よくまぁ残っていたと。

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軒先では梅干しが干されています。こう言うのは季節によって変えるとか。良い演出です。

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八王子追分町にあった八王子千人同心組頭の家。部材を再利用して日野市の農家が移築して使っていたそうです。

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元々江戸時代後期の建築物で、展示にあたり建設当時の姿を復元しているそうです。ここでふと、全ての建物と内部の写真を説明しながら紹介するのは公式サイト見れば良い事だし意味があるのかと疑問に思ってしまいましたが、感動を伝えたいから続けます。飽きたらすっ飛ばしちゃって結構。

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こちらは三鷹市野崎に建っていた吉野家住宅。江戸時代後期に建てられた農家だそうです。

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たてもの園がまだ武蔵野郷土館だった頃の昭和38に移築、復元されたため、建物の内部は昭和30年代頃の農家の様子を再現しているとのこと。

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ここでいきなりガチな洋館。新宿区信濃町にあったと言うデ・ラランデ邸。軽井沢とかのペンションなんかを思わせる。

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一階部分はカフェとして利用されています。元々は明治時代、気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計した木造平屋建てで、明治43年(1910年)頃、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが購入した際木造3階建てに大規模に増築されたそうです。

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階段には真鍮製の絨毯押さえ棒が。こう言う細部にいちいち引っ掛かっちゃいます。その後居住者が何度か変わりつつ、昭和31年(1956年)よりカルピスの発明者として知られる三島海雲氏が住んでいたそうです。海雲氏の死後は、三島食品工業株式会社の事務所として平成11年(1999年)まで使用されていました。建物や内装はデ・ラランデが暮らしていた大正時代初期頃を復元しているとか。

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こちらは文京区西片に建っていた小出邸。一見近代建築にも見えますが、これがなんと大正14年(1925年)に建てられ、平成8年(1996年)まで住まわれていたそうです。

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実に70年以上も生活されていた事になりますが、古さを感じさせないデザインや耐久性を考えると素晴らしい建物と言えますね。

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こちらは品川区上大崎に昭和17年(1942年)に建てられた前川國男邸。戦時中とは思えないデザイン性の高さ。

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前川國男は東京文化会館や東京都美術館などを設計した建築家。開放感溢れる吹き抜けの居間など、当時としては斬新なデザインだったのではないでしょうか。

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大正12年、関東大震災の1ヶ月後より田園調布の分譲が開始されました。この建物は大正14年(1925年)に建設された高級住宅の大川邸。

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ぶっちゃけ金持ちの家には全く興味無いのですが、内装とか見てるとさすがに興奮して来てスゲーとか言っちゃいます。

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キッチン対面カウンターが付いている食器棚。キッチンで作った料理を小窓から出せるようになってます。しかも扉付き。今では当たり前のようなダイニングの構造ですが、これが大正時代から有ったなんて。欧米の生活様式を、一般家庭にもどんどん取り入れた時代なんでしょうね。

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建物は1993年まで住まれていましたが、移築に際し内装や機器類は大正末期から昭和初期を再現しています。やべぇ、たてもの園楽しい。最近訪れた松戸市立博物館の団地生活の再現ほど生々しく変態的ではないにせよ、充分暮らしの様子は伺えます。大正時代の家具や器機類集めるのも大変だったろうに。

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北側に並ぶ建物の裏手には小道があり、そこにも展示物があります。これは武蔵野市御殿山で発掘された縄文時代後期の御殿山遺跡敷石住居址。古い建物って言ったって紀元前2000年頃て。こんな物まで移設されています。

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その……庚申塔とかって持って来ちゃっていいもんなんですかね。

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霊廟とかも持って来ちゃっていいものか。こちらは旧自証院霊廟。江戸幕府三代将軍家光の側室であったお振の方の霊廟で、1652年に市ヶ谷(今の富久町)の自証寺の中に建てられたそうです。建築には江戸城や日光東照宮の建設に携わっていた幕府作事方大棟梁甲良氏が関わっていたとか。しかし寄贈者が西武鉄道になっていたのですが、自証寺と関係があるのでしょうか。

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やっと半周回りました。こちらは立派な屋敷門を持つ農家の天明家。大田区鵜の木で村役人の年寄役を勤めていた名家だそうです。

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江戸後期の建築で、裏には枯山水の庭園も移築されています。

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向かい側に建つやたらデカいお屋敷は赤坂7丁目にあったと言う高橋是清邸。青山通り沿い、赤坂御所の向かい側に高橋是清翁記念公園があり、現在ではカナダ大使館が建っています。

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高橋是清は明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った人物。昭和11年(1936年)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒されたそうです。いわゆる2.26事件の事件現場となった建物。

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建物は明治35年(1902年)建造。 敷地と屋敷は事件後東京市に寄付され記念公園となりましたが、その後主屋が多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていたそうです。

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こちらは昭島市に建っていた西川家別邸。大正11年(1922年)建造。

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明治26年(1893年)昭島市で西川製糸を創業した西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた邸宅だそうです。明治大正から昭和初期まで多摩地域では養蚕が盛んでしたが、工場が昭和15年(1940年)軍需工場へ転換された事で終焉を迎えます。

前編は多摩地域や山手のお屋敷がほとんどでしたが、後編では下町での庶民の暮らしを中心とした公園東側を紹介して行きます。

東京都武蔵野市、中島飛行機武蔵製作所引き込み線跡

以前立川飛行機の関連遺構を巡った際、立川飛行機と時を同じくして空襲の標的となった中島飛行機武蔵製作所の存在を知りました。

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今回、戦前までは中島飛行機武蔵製作所の引き込み線で戦後に国鉄武蔵野競技場線となった線路の廃線跡を巡ります。起点は三鷹駅の西にある三鷹車両基地の北側、堀合児童公園から。
※写真は撮影時間の時系列が逆となります。

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三鷹(東)側からの線路は戦後、国鉄武蔵野競技場線として敷かれた物となります。廃線跡はその全線が緑道にされており、googlマップで見ると廃線跡の軌跡がはっきりと分かります。

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三鷹で分岐した線路は北へ向かってカーブを描いて行きます。

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境浄水場の手前で玉川上水を渡ります。ここに掛け直された橋にだけ、ここが廃線跡だと示すように線路が埋め込まれていました。

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ここに唯一の遺構である橋台跡が残っているのですが、夏草に覆われてほとんど見えません。

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それとは別に、武蔵境(西)側から分岐して北へカーブを描く廃線跡もあります。こちらは大正13年に建設された境町浄水場まで濾過用の砂の運搬のために敷かれました。しかし昭和13年、ここより北に中島飛行機武蔵製作所が建てられると、工場までの物資の運搬にも利用されます。

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分かりやすく説明するとこんな感じ。戦時中は武蔵境から中島飛行機までの専用線、戦後は三鷹から国鉄武蔵野競技場線の線路が繋がり、武蔵境からの線路は元の砂運搬の引き込み線へと戻ります。

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武蔵境からの廃線跡にも玉川上水を渡る橋台が残っているのですが、いかんせん草木に覆われて水面すらも見えませんでした。冬になれば多少見えるかも知れませんが。写真右(北)側は境浄水場で左(南)側には玉川上水。

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かつての専用線はここから境浄水場の敷地に入り、濾過するための砂を集積していたそうです。

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少々話が逸れます。全体像こそ見えませんが浄水場は玉川上水に沿うような形で幅300m、長さ750mと言う広大な敷地に2列の水槽が連なっています。

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この境浄水場は大正13年(1924年)通水。緩速濾過方式の浄水場としては日本最大規模だそうです。

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浄水場の西端、村山貯水池(多摩湖)及び山口貯水池(狭山湖)から引き込まれて来る上水道には狭山・境緑道が続いています。またこの水は、ここから東へ井の頭通りの下を通って和田堀給水所にも流れて行きます。一度この一連の水の流れをまとめてみたい。

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また、境浄水場の南西角には玉川上水から千川上水が分岐する境水衛所跡があります。右(東)に流れて行くのが玉川上水、左(北)へ流れて行くのが千川上水。

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この境水衛所は江戸時代水番所と呼ばれ、玉川上水の水量の確認や流されて来る落ち葉の撤去などがされてました。

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こちらは千川上水への水量を調整する堰。境水衛所は昭和55年(1980年)新宿西口の淀橋浄水場が廃止された事に伴い玉川上水の利用が終了した事で廃止されました。

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ここより分岐して行く千川上水はかつて練馬を通り巣鴨まで至る上水道でした。現在では一部浄化された下水も流れ込みながら青梅街道沿いを流れて善福寺川へと流入しています。

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さて、話を廃線跡に戻し境浄水場東端から北へ歩いて行きます。ここから先は昭和13年(1938年)に完成した中島飛行機(現・スバル)武蔵製作所の引き込み線として開通しました。昭和13年と言えば立川飛行機製作所の完成と同じ年ですね。

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途中、関前高射砲陣地跡があります。米軍は昭和19年(1944年)7月のサイパン占領で、日本本土へ直接往復できるマリアナ諸島を確保してB29を配備。同年11月24日のB29による東京初空襲の際、中島飛行機武蔵製作所に対しても爆撃が行われました。

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廃線跡は現在グリーンパーク緑道として整備され、沿道には幾つもの小規模な公園が併設されています。ただ、少子化のためか子供が公園で遊ばなくなったためか、雑草が生い茂るままになっている所も。

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しばらく歩くと廃線跡は、戦時中に工場へと引き込まれて行った真っ直ぐ北へ進むルートと右へとカーブを描くルートに分岐します。

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こちらは戦後、国鉄武蔵野競技場線として敷かれたルート。昭和26年、工場跡地に建設された武蔵野競技場内の武蔵野グリーンパーク野球場への旅客輸送を目的として開通しました。

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グリーンパーク緑道は武蔵野中央公園で終点となります。この公園は中島飛行機武蔵製作所の跡地で、戦後より昭和48年(1973年)までアメリカ軍の住居として利用されていました。このグリーンパークと言う名前も当時進駐軍が使用していた地名に由来するとか。

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武蔵野中央公園の東側には都営住宅とUR団地が広がっており、この辺りが武蔵野グリーンパーク野球場の跡地と思われます。野球場は当初プロ野球チーム(一説には国鉄スワローズ本拠地のために元逓信省総裁松前重義の尽力で建設と言われているが秘密裏に進められていたため確証は無い)のホームグランドとして誘致していましたが、都心部からの遠さやスタジアム設備の悪さからプロ野球の本拠地招致に失敗。以降球場は単なる競技施設となり翌年からは列車も運行されることがなくなり1956年(昭和31年)に閉鎖。それを受けて国鉄武蔵野競技場線も昭和34年(1959年)廃線となりました。
ちなみに国鉄スワローズは昭和27年(1952年)よりフランチャイズ制が導入され、読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地としました。

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公園内にあるこの場所は、中島飛行機武蔵製作所があった当時、爆撃目標とされた地点だとか。ちなみに武蔵野中央公園には閉鎖された野球場の他に陸上競技場や体育館、市営サッカーグランドなどもあります。特にサッカーグランドは横河武蔵野フットボールクラブ(旧・横河電機実業団チーム)のホームでJ3を目指したが、2019年観客動員数が見込まれずに断念しています。

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近くの案内板には飛行機工場があった当時の写真プレートが幾つか展示されています。

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こちらは塞がれていますが、下には後に発掘された工場の地下通路跡が眠っているそうです。

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団地の南側には団地の住民たちが利用するためか、はたまたそれ以前よりあったのか、グリーンパーク商店街があります。
今回は廃線跡を中心にその周辺を散策しましたが、当時の遺構と呼べる物が非常に少なかったです。歩き回った割には収穫が少なかった。

東京都立川市、東大和市、立川飛行機と日立航空機変電所跡

東京都立川市にある旧陸軍立川飛行場周辺の戦争遺跡を巡って来ました。

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JR中央線立川駅の北側。多摩モノレールの左手には立飛ホールディングスが2020年にオープンした複合施設、グリーンスプリングスが続いています。

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その裏手には国営昭和記念公園が広がっています。大正11年(1922年)開設された陸軍立川飛行場は終戦後GHQに摂取され米軍基地として利用されて来ましたが、跡地は現在の陸上自衛隊立川駐屯地ならびに昭和記念公園となっています。

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その不動産賃貸業などを営む立飛ホールディングスの前身が立川飛行機、後の立飛企業。大正13年(1924年)石川島造船所(後のIHI)を中心に出資して設立された石川島飛行機製作所を前身とする中堅航空機メーカーです。昭和5年(1930年)ここ立川へと移転し、昭和11年立川飛行機製作所と改名しました。

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立川飛行場の東側に隣接していたのが立川飛行機の軍事工場。非常に広大な敷地で現在も工業地帯として残っております。立川飛行機は戦時中、主に帝国陸軍の練習機などを生産しており、その代表格が九五式一型練習機、通称赤とんぼと親しまれていた複葉機です。

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立川飛行機の工場は空襲により大きな被害を受けましたが、多摩モノレールでひと駅行った高松駅から見えるこの建物などは、空襲を逃れた当時の建物と思われます。他にもノコギリ屋根の棟など軍事工場当時の建物が残っていると思われますが、その辺の判断は難しいです。

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立川飛行機は練習機や輸送機の開発及び生産を続けつつ、大手である中島飛行機(現在のスバル)が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産も行っていたそうです。

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昭和13年建設のこちらの給水塔も当時の面影を残しています。陸軍の航空機ばかり生産していた立川飛行機ですが、ちなみに海軍による赤とんぼ(練習機)は西宮市にある川西航空機(現・新明和)で開発、生産されていました。その後新明和は戦後初の国産旅客機YS11の開発に携わり、海軍の飛行艇を製作していた頃の技術を生かして自衛隊の飛行艇を開発するに至ります。

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隣の立飛駅周辺も立飛の工場に囲まれています。その工場敷地内にもうひとつ給水塔が。こちらも当時の建造物です。戦後も航空機メーカーとして復活する川西などに対比して、立川飛行機は1952年に戦後国産第一号機であるR-52型軽飛行機(練習機)を開発したものの、すでに時代遅れの技術であり量産には至らなかったそうです。その後不動産賃貸事業が中心となる立飛ですが、200名の社員で分離独立して立ち上げた「たま電気自動車」が後のプリンス自動車となり、スカイラインの開発へと続きます。スカイラインと言う名称がかつての航空機産業から来ているかどうかは、それは想像に過ぎませんが。

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多摩モノレールで更に北へ進み東大和市に入りました。玉川上水駅の北東、公園内に旧・日立航空機立川工場変電所跡があります。この日立航空機立川工場は、先に述べた立川飛行機に航空機エンジンを供給していた工場でした。母体はもちろんあの日立製作所です。日立は航空機開発には参加せず、あくまで下請けに専念していたんですね。尤も炭鉱やモーターなどの機械産業が主体でしたから。

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変電所は現在、水曜日と日曜日のみ内部が公開されています。ボランティアの方に解説して頂きながら廻って行きます。この日立航空機の前身は機械工業の先駆け的な存在である東京瓦斯(ガス)電気工業です。

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東京瓦斯電気工業は昭和14年に日立グループへ経営権を譲渡し終戦までエンジンを造り続けましたが、終戦後も鋳造分野の機械産業の場でゼノアなど社名を変えつつ存続しています。

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とにかくこの建物は機銃掃射による弾痕が生々しいです。こちらは階段脇の弾痕。機銃掃射は主に空母から飛来した戦闘機によるものも。それ以外にも、直撃は免れたものの爆撃による飛散物で抉られた跡もあるとか。

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裏に廻ると貫通した跡があります。右上の抉れている部分は鉄筋に当たって銃弾が貫通していないものの、その衝撃でコンクリートが剥がれた跡です。昭和13年(1938年)に完成した建物ですが、工場の敷地内の片隅で1993年まで稼働していたからこそ残っていたのかも知れません。

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外壁はまさに蜂の巣状態。戦争の激しさをここまで生々しく残す戦争遺跡も珍しいです。

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建物の脇には戦没者慰霊碑が建っています。立川の軍事施設群は3度の空襲を受け、110名が犠牲となりました。

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太平洋、つまり南側から米軍機が飛来して来たので、北側の壁には砲弾の跡がありません。

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戦前から戦後、高度経済成長など、様々な時代を生きてきた建物ですが、変電所故にでしょうか、改修工事とかそう言う物が為されて来なかったのでしょう。この扉にしても昭和初期の物と思われます。

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一部、塀も残されています。かつて建物を周回する塀によって、この戦争遺跡は隠され続けて来ました。

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さて、中に入って行きます。内部には貴重な資料や写真などが展示されており、戦争末期の度重なる空襲の事などが学べます。

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東洋陶器(TOTO)のロゴマークからこの洗面台は建設当時の物だと分かるそうです。変電所と言う利用のされ方も絶妙だったからこそ、あらゆる所が昔のままなんでしょう。

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銃弾によって抉られた階段の手摺りと二階スラブ。下から上に軌道を描いている事から跳弾による物と思われます。

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2階に上がってみると、変電設備が残っていました。昭和20年(1945年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機による最初の空襲がありました。これは大戦末期、帝国海軍が壊滅状態となっていた事で太平洋東沖まで空母の侵入を許してしまったためだそうです。16日に厚木海軍航空隊の最新鋭戦闘機、紫電改(川西飛行機)で迎撃するも、厚木飛行場や中島飛行機武蔵工場(武蔵野市)が爆撃されるとともに、17日ここ立川も機銃掃射を受けました。

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片隅には仮眠室が。畳一畳ほどの寝台があり、24時間人が詰めていたようです。建物内の建物で面白い造りをしています。2回目の空襲は同4月11日P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射。帝都防衛のために航空基地を造りまくり、工場を移転させる地下トンネルを堀りまくっていた時期ですが、成人男性の多くが戦地へと送られていた事で労働力不足に陥っていたため建設が間に合いませんでした。

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仮眠室の内部です。いつ頃どのくらいの頻度で使われていたのでしょうか。3回目の空襲は同4月24日、いよいよサイパンから硫黄島経由で101機のB-29が飛来します。

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この辺のロッカーには瓦斯電(ガスデン)のプレートが。つまり建設当時から使われていたと言う、なんて物持ちがいいと言うか、ロッカーぐらいスチール製にしてもいいのに!

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この消化器を示す木製パネルも相当な古さですね。こう言った物は例えば廃墟などでは腐敗して残っていない事が多いです。現役で使われ続けていたからこその奇跡。

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明電舎のプレートがありましたが、これもまた建設当時の物。使用されなくなって30年以上が経っている訳ですが、一般公開に向けて綺麗に掃除しただけで機器類はそのまま残っていたと言う事でしょう。

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ヒューズとかカッコいいって思ってしまいます。しかしここにも弾痕が。銃弾食らってんのに修理しながら55年もの間使い続いていたと言う事です。物持ち良すぎ!

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奥の部屋はこんな感じです。この建物は1階が事務所、2階が詰め所と変電設備と言った造りのようです。昔の変電設備がここまでしっかり残っているのも凄い。

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碍子とか配線とか、なんか興奮します。これは電気業界に於ける博物館とも言えるでしょう。これでも戦後の小松ゼノア(旧・富士自動車)時代に設備が更新されているそうですが、どこが更新されているのやら。

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かつてこの先には工場が広がっており、その先の空から米軍機が襲来して来ました。そんな光景を今でもどこかの国の人が目にしているのかも知れません。そんな訳で小さな建物でしたが、戦争の壮絶さを肌で感じる事が出来るような、非常に見応えのある建物でした。

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シメは立川駅南口東側の歓楽街にある立ち飲みえびす屋さん。

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しばらく立川で仕事があったので、何度か通いました。店内は電子タバコのみ可。紙タバコは店頭のカウンターのみ。いや、立川は紙タバコOKの店がほとんど無いです。

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そんな立川駅南口なのですが、商店街全域が宗教都市化していると言うね。

東京都小平市、テルメ小川と小平市ふれあい下水館

西武新宿線小平駅から小平営業所行きのバスに乗り、小川寺前バス停で下車。ここにスーパー銭湯の小平天然温泉テルメ小川があります。

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テルメ、つまりテルマエって事ですね。2000年末にオープンしたこの施設は、西洋チックな外観からなかなか訪れようって気になれずにいました。しかし入ってみたら思いの外素晴らしいお湯でした。

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※浴場の画像は公式サイトよりお借りします。(女湯は西洋風な造り)
泉質はナトリウム―塩化物炭酸水素塩泉(弱アルカリ性低張性温泉)、いわゆる関東でよく見る黒湯系なのですが、とにかく色が濃く透明度が少ないコーヒー色。他のスーパー銭湯とは一線を画しており、どちらかと言うと蒲田温泉のような浅い深度から湧出する温泉銭湯の黒湯に近い印象。そのはずでここのお風呂は、加水無しの源泉100%なのです。露天には34.8度の源泉が加温無しで掛け流されています。超ぬる湯ですが、その分じっくり浸かっていられる。掛け流し浴槽の隣には加温循環濾過浴槽。しかしこちらにも源泉が常に投入されており、全く遜色ないです。

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※公式サイトより
内風呂も加温循環濾過ですが、全く加水されておらず濃いままで、多少のヌメり感、芒硝泉のような匂い。これだけ広い浴槽でこのクオリティー、源泉の湧出量が毎分210リットルと言う多さゆえと言ったところ。

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湯上がりは肌がスベスベ。美肌の湯としても非常に評価が高いとか。ただ一つだけ注意点。お会計の時に使用するICチップによって脱衣室ロッカーの電子キーを開錠するのですが、使用したロッカーの場所と番号をしっかり覚えていなければなりません。ともあれここはスーパー銭湯としては久々のヒット。実に満足出来る施設でした。

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テルメ小川から武蔵野美術大学まで歩き、そこから国分寺行きのバスで旭ヶ丘住宅バス停まで。玉川上水沿いに小平市ふれあい下水道館があります。余談ですがこのバス路線、沿道が学校だらけで、武蔵野美大から白梅学園高校、朝鮮大学、創価中学・高等学校、小平第十五小学校、津田塾大学と、ちょっと特殊な学校も含めて学校銀座となっていました。

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入口にはシールド工法の掘進機が展示されています。地中深くに下水道を通す場合はもはやトンネル工事になるんですね。訪れたのが3月頭だったので、隣の公園の梅が満開です。

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建物の外観は2階建ですが地下5階まで下に伸びてます。各フロアには下水に生きる微生物や下水の歴史など、様々な事が学べるようになっています。興味をそそる展示物ばかりで、なかなか下に進めませんでした。

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こちらは現在の塩ビ管と昭和初期まで使われていた陶器の下水管。今年の初めに深谷市を訪れた際、この陶器製下水管を造っていた窯元の跡を見つけましたね。

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そしていよいよ最下層、地下20mを走る下水道に辿り着きます。下水道と言えば埼玉県八潮市の下水道陥没事件が記憶に新しいですが、ここまで深ければそんな心配無さそうです。

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ゲリラ豪雨などで下水が噴出することを防ぐため、潜水艦みたいな厳重なハッチが二重に設置されています。

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いよいよ現役の下水道の中へと入って行きます。下水道に入れるのはここが日本唯一。ドブ臭いですが貴重な体験です。

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延々と続く深い闇。こちらの下水道は小川幹線と言って約2万世帯の生活排水が集約されているそうです。先にスーパー銭湯寄ってしまいましたが、ここを観た後でテルメ小川に行く方がおすすめ。

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地上に戻りました。こちらは上水道として使われていた玉川上水。そう言えば去年の春、羽村市にある玉川上水の取水口を訪れました。

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並行して周辺の農地に水を送るべく明治3年に造られた新堀用水が流れています。西武国分寺線の橋台のレンガが気になる。
そんなわけで、上下水道関連を巡るのも、なかなか面白いです。


※お知らせ

3/30(日)放送の「ポツンと一軒家」にて、茅葺き屋根の葺き替えのイメージ画像として過去に撮った写真が使用される事になりました。一瞬とは思いますが、ご視聴下さい。


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