埼玉県

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埼玉県深谷市(4)、熊谷市(2)、軍事工場跡地の戦争遺跡

あけましておめでとうございます。
毎年恒例の新春スペシャル企画なんかも考える間もなく年を越してしまいました。
新年一発目は去年深谷で撮り残した戦争遺跡関連を巡って行きます。今回も深谷駅前にあるレンタルサイクルのハローサイクルを利用しました。

深谷市(1)、旧中山道沿いの宿場町
深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡
深谷市(3)、渋沢栄一生家と関連史跡
熊谷市(1)、廃村新川集落跡と三島神社跡
熊谷市(2)、東武熊谷線廃線跡と未成線

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)10月、陸軍兵器廠の板橋火薬工場を度重なる空襲から疎開させるべく、ここ深谷一帯に東京第二陸軍造兵廠深谷製造所が設立されました。その本部となる建物が現在の深谷第一高等学校の敷地内に残っています。

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東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は深谷市内に原郷工場(深谷工場)、明戸工場(日本煉瓦製造株式会社上敷免工場)、櫛挽工場の3箇所。こちらは深谷駅の北東側、日本煉瓦製造専用線の沿線に建てられた原郷工場のために建てられた給水塔になります。この建物は昭和30年より個人の所有となり現在でも住居として再利用されています。

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こちらは深谷市街から南西方向に7キロ弱離れた所に造られた櫛引工場の弾薬庫跡。

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手前のコンクリート構造物も当時の物でしょうか。もしかしたら高射砲の台座かもしれません。

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内部はがらんどうです。火薬庫と言われている割には随分とこぢんまりしています。土塁なども無いしコンクリートの厚みも薄い方なので、むしろ高射砲の弾薬庫だったのかも知れませんね。

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階段が残っていたので2階に上がってみました。ちなみに十条にあった兵器工場、東京第一陸軍造兵廠は大宮、川越、春日部に疎開されました。

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2階部分の屋根は無く雨曝しとなっています。畑の中にこの建物だけが残されているのは、もしかしたら農機具の倉庫として使われていたのかもしれません。

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周辺は耕作地が広がり、工場跡の痕跡は全く見られません。ただこの深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦を迎えたそうです。

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深谷駅から南へ進むと工業団地がありますが、北西半分は深谷市で南東側は熊谷市となります。写真の広大な工場はJFE建材。

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市境を越えて熊谷市に入ると航空自衛隊熊谷基地があります。ただ航空自衛隊と言っても滑走路は無く、航空関連の学校などが入っているようです。

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こちらは隣接するJFE建材の敷地ですが、何やら古い木造建築がありました。この工業団地の敷地には、かつて熊谷陸軍飛行学校がありました。もしかしてですが、これは当時の建物である可能性が。

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熊谷陸軍飛行学校は昭和10年(1935年)設立。かつて滑走路だった敷地が現在の工業団地となっており、熊谷や深谷の市街地から見て高台の台地となります。そう言えば以前、熊谷陸軍航空学校桶川分教場跡なども訪れていました。

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この奥に見える給水塔もかなり怪しい。また、倉庫なども当時の物が使われてる場合もあります。これと全く同じ造りの給水塔が自衛隊基地内にもありますが、そちらは基地祭やさくら祭などで公開される時にしか確認出来ません。

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ただこの給水塔は工場の奥にあり、さらに背の高いフェンスが建っているため近付く事が出来ません。熊谷陸軍飛行学校は終戦後進駐軍に摂取されましたが昭和33年(1958年)に返還されました。

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航空基地跡地が米軍から返還された翌年の昭和34年(1959年)、南東の端部に秩父セメント(現・太平洋セメント)のプラントが建設されました。

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こちらはセメント工場からJR高崎線の熊谷貨物ターミナルに至る引き込み線の跡です。

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秩父鉄道の貨物専用線三ヶ尻線として秩父鉄道の武川駅からセメント工場(三ヶ尻駅)に入り、高崎線の熊谷貨物ターミナルまでを結んでいましたが、2020年にJR高崎線への接続線が廃止されました。現在出荷に関してはトラックのみとなっています。

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秩父の武甲山で採掘された石灰石を秩父鉄道経由でセメント工場まで輸送する貨物列車はいまだ現役。これは秩父鉄道と並走する国道140号線が、2車線道路であるなどの道路事情による所が大きいのかも知れません。


埼玉県深谷市(3)、渋沢栄一生家と関連史跡

前回の続き。電動アシスト自転車は広範囲を周れるので便利です。

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さて、ネギ畑の中を疾走して渋沢栄一の生家に向かいます。

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途中、渋沢栄一記念館兼八基公民館があります。時間も無かったし、渋沢栄一を掘り下げたら本当にキリが無いのでスルー。

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とりあえず渋沢栄一の生家だけ見に行きました。

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立派なお屋敷です。渋沢家は元々藍玉(藍染めの原料)の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓でした。

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渋沢栄一は江戸末期の天保11年(1840年)に生まれ、百姓から一橋家家臣に取り立てられ武士となります。やがて徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、維新後明治政府で官吏となりました。年齢的には坂本龍馬の4つ年下で、幕末の志士世代なんですね。

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民部省を経て直属の上司である井上馨の下で造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となります。まさか自分が紙幣の顔になるとは思っていなかったでしょう。この頃、従兄の尾高惇忠を富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げ(明治5年)を託すなどして関わっています。

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渋沢栄一の本当の活躍は明治政府を退官して実業家になった後、明治6年、33歳になった頃からの事であります。

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ここからは日本初の銀行である第一銀行(後の第一勧銀・みずほ銀行)を創業し、その後も各銀行の顧問を受けてます。その他事業の面に於いては王子製紙や東京ガス、東京電力をはじめ造船、鉄道、保険会社、紡績、建設、製鉄、挙げたらキリが無いほど、ほぼ全ての業界に関わって行きます。

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まぁこの辺に関して興味がある方は、ここじゃ無くてWikipediaを参照してくださいwww

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渋沢栄一生家から深谷駅方面へと戻って行きます。途中、草ヒロってやつですか、古いトラックが廃車になってたりします。なかなか懐かしい日野のトラック。

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こちらは渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった尾高惇忠の生家です。惇忠は前出の通り富岡製糸場の初代場長を務めた人物です。

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母屋の裏手に残る煉瓦造りの蔵。渋沢栄一が23歳の頃、北辰一刀流の千葉道場で交友を結んだ勤皇志士たちの影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、尾高惇忠や同じく従兄弟の渋沢喜作らと高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち、長州藩と連携して幕府を倒すという計画をこの家で立てていたそうです。結局惇忠の弟である尾高長七郎の説得で中止したとか。やんちゃだったんですね。一橋家の家臣になる前の話。

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こちらの煉瓦建築は誠之堂と言って東京の世田谷区にあった第一銀行の保養・スポーツ施設、清和園の敷地内に建てられていたものを現在地に移築復元したものです。大正5年(1916年)、渋沢栄一の喜寿を祝って第一銀行の行員たちの出資により東京の世田谷区に建てられた物だそうです。

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多くの賓客を招くよう装飾の凝ったホールがあります。

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隣に建つ清風亭は、大正15年(1926)、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。

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こちらの内装も煌びやかです。

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国道17号を渡る手前、自転車で走っていると煉瓦煙突を発見。

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向かいの家の方に話を伺ったところ、元は土管を造る工場だったそうです。深谷の地は焼き物に適した粘土がよく採れ、昔から瓦などの焼き物が多く造られていたそうだです。そう言った焼き物の技術も煉瓦造りに応用されたそうです。ちなみに茶色い陶器製の土管は明治時代より下水管として塩ビ管が登場するまで広く使われていました。

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市街地に戻った所で深谷市で唯一生き残っている銭湯、中湯さんに入りました。建物は昭和31年建造ですが、銭湯としては200年もの歴史(江戸後期)があるとか。

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ロッカーは無く籐で編んだ籠があるタイプ。この古さと緩さがたまりません。ご主人曰く真ん中の蛇口は勢いが弱いから壁際の蛇口を使うようにと。入ると左手の壁際の蛇口は全て塞がれていたので、右手の3箇所しか使えないと言う。ただ、常連さん2人しか居なかったので問題無し。酒造りにも適した軟水の井戸水を使用したお湯は、柔らかい浴感でゆっくり寛げます。こう言う銭湯はいつまでも残ってて欲しいものですね。

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とまぁ渋沢栄一ゆかりの地を巡って来たわけですが、近代産業史を調べると大抵この人が顔を出します。振り向けば渋沢栄一みたいに。それでも10年かそれ以上前までは歴史上の偉人の中でも知名度的に結構マイナーなポジションだったと思います。そう考えると渋沢栄一は今でこそ近代経済の父とか資本主義の父とか言われていますが、むしろ裏で暗躍していた経済界のドン、と言った印象も受けます。

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最後は駅前の居酒屋、一番星さんで。

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モツ煮込みが超美味い!なんだこれ!
行田で食べたモツ煮も美味かったけど、意外と埼玉ってモツ煮込みが美味い土地なのか?
あとこの店、焼き鳥も超美味かった。

埼玉県深谷市(2)、日本煉瓦製造工場跡と専用線跡

前回深谷の宿場町を散策した翌日、続け様に深谷へ行ってしまいました。

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今回はレンタルサイクルのハローサイクルを利用して廃線跡を巡ります。ハローサイクルは都心部に集中して増殖中ですが、飛び地のように深谷駅前にもありました。観光用としてもっと地方都市にも増えて欲しいです。

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深谷駅の東側を東京方面に向かって高崎線と並走するように日本煉瓦製造専用線の廃線跡が始まります。

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まず最初に目につく遺構はつばき橋。煉瓦造りの橋台とガーター橋は当時のもので、上の歩道部分は後から付けたもの。

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廃線跡はほぼそっくりそのまま歩道及びサイクリングロードとして活用されています。

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途中には休憩出来るベンチが設置されており、このようにお昼寝も出来ます。

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途中、福川に掛かるあかね橋を渡ったところに、専用線当時のガーター橋が移設保存されています。これは明治28年(1895年)の建設当時の物で、現存する日本最古のポーナル型プレートガーター橋だそうです。

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こちらは福川の北側に広がる水田地帯に架けられていたボックスガーター橋。どちらも深谷市の指定文化財に登録されています。

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住宅街を抜ければ長閑な風景が続きます。日本煉瓦製造は当初船運による輸送を行なっていましたが明治28年(1895年)、高崎線深谷駅(明治17年延伸開業)まで日本初の民間専用線として開通しました。

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水田ではちょうど新米の収穫がされています。日本煉瓦製造が深谷に造られたのは周辺で煉瓦製造に適した土が採れたからと言います。その土も渋沢栄一が周辺の畑作農家に対して、水を引くための灌漑工事をこちらでやって稲作出来るようにするから土をタダでくれ、と言って材料である土を集めたそうです。当時は畑作より稲作のが儲かる事もあり、周辺農家とwin-winの関係を築いていたと言えます。

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その灌漑用水路の上を跨ぐ煉瓦造りのアーチ橋。アーチ橋と言えば碓氷峠の碓氷第三橋梁も日本煉瓦製造で造られた煉瓦を使用しております。

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アーチ橋の隣にある備前渠鉄橋。国指定重要文化財となっております。もうすぐ日本煉瓦製造の敷地に入ります。ちなみにこの日本煉瓦製造専用線は昭和50年(1975年)廃止となりました。

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サイクリングロードをそのまま進むと日本煉瓦製造の煉瓦塀が見えてきます。

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日本煉瓦製造株式会社はここ深谷出身の渋沢栄一らによって明治20年(1887年)に設立された、日本初の機械式煉瓦工場です。

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この旧・事務所棟は開業の翌年明治21年(1988年)に建造された瓦葺き木造平屋建て事務所。

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当初は煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導のために招き入れたネスチェンテス・チーゼ技師の住居として使われていましたが、その法外な報酬のため問題視され、明治22年には帰国しています。その辺、富岡製糸場と同じ轍を踏んでいます。ちなみに渋沢栄一は明治5年の富岡製糸場開設にも関わっています。

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内部は残念ながら非公開ですが、明治期の木造建築は超貴重なので無理もないです。

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旧・事務所棟の奥には変電室も残されております。こちらは明治39年(1906年)高崎水力電気株式会社より電線を敷設し、深谷でいち早く電気を導入した際に建てられたもの。ちなみに高崎水力電気は明治37年、榛名山南麓に上室田発電所を開設し電力供給を開始した会社。

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さて、こちらに保存されているのはホフマン輪窯6号窯。かつては煉瓦造りの煙突が聳えていましたが、関東大震災で倒壊。以後コンクリート造にされました。

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煉瓦を焼く窯ですが木造の屋根も付いていました。現在、極力手を加えないように耐震補強工事が進められています。ホフマン輪窯とは陸上トラックのような形でドーム状の窯が一周している物で、窯上部の穴から石炭を粉状にした粉炭を入れる事で徐々に温度を上げて行きます。それを時計回りに繰り返し、仕上がったらまた新しい煉瓦を焼き始める。いわゆる流れ作業で煉瓦を大量生産する窯です。

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ボランティアによる観光ガイドさんに案内され窯の中へ。煉瓦建築は東京駅をはじめ明治大正期の建造物に多く見られますが、関東大震災によって地震に対する脆弱性が指摘されるようになります。その後の震災復興建築をはじめとする昭和の建築物は鉄筋コンクリートが主流となり、煉瓦の需要は大幅に減少して行きました。

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日本煉瓦製造は後に秩父セメント(現・太平洋セメント) の子会社となり、2006年、株主総会において自主廃業を決定、清算されました。ちなみに秩父セメント(大正12年設立)の創業者である諸井恒平は日本煉瓦製造の創業メンバーとして渋沢栄一の推薦で入社し、支配人から取締役を経て明治40年には専務取締役にまで昇進した人物であります。

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かつてセメントの父と呼ばれる浅野総一郎は明治17年にセメントの官営模範工場を払い下げましたが、その際渋沢栄一に相談した所、煉瓦の接着などに使われていたセメント産業は儲からないから紡績をやりなさいと言われたそうです。しかし浅野総一郎はセメントの未来を信じて懇願し、役所に口利きしてもらいました。なんとも皮肉な結末に感じてしまいます。
さて、この後は渋沢栄一関連の史跡に立ち寄ります。

埼玉県深谷市(1)、旧中山道沿いの宿場町

深谷と言えばネギしかない。そんなイメージの街が新紙幣の肖像となった渋沢栄一生誕の地として大フィーバーです。

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東京駅駅舎の赤煉瓦がここ深谷の地で造られた、と言う事で東京駅を模した深谷駅舎。実際の煉瓦ではなく煉瓦色のタイル張りですが。

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駅前にやたら広い空き地が広がっています。再開発計画推進中との事ですが、閑散とした駅前の雰囲気を助長していますね。

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駅から東へ。旧中山道まで出ると旧道沿いにスペースが。これは道路拡張計画に伴い、沿道の古い建物を一掃した痕跡。こう言う道路拡張工事って、土地取得に手間取って何十年も掛かったりするんですよね。そんな絵に描いた餅みたいな再開発のために、どれだけ多く貴重な建物が解体された事か。

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さて、旧中山道の深谷宿を日本橋寄りから北へ歩いて行く事にしましょう。こちらの建物はお米屋さんの「だいまさ」。江戸末期の創業だそうです。

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倒壊寸前の建築物もあります。いわゆる倒壊の危険性がある空き家で、まず市町村による調査、指導が入り、所有者がそのまま解体しなければ勧告や命令が入ります。それでも所有者の高齢化やそれに伴う解体費用の問題などで放置が続いたら行政代執行となります。

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なぜか伊香保温泉の観光ホテル「古久家」の看板。古久家は現存しているみたいです。近くに看板屋さんがあり、伊香保にお得意さんが多かったようで。

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向かい側は看板建築のように見えて実は昔ながらの商家と言う。古い建物が次々と解体され歯抜け状態になると、以前隠されていた建物の奥が見えちゃうんですよね。

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こちらは旧街道沿いの街並みでボスクラスの建物、塚本商店さん。元は燃料屋として日本煉瓦製造株式会社に石炭を納めていたそうです。大正元年(1912年)建造でウダツのような赤煉瓦の防火壁が迫力あります。

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深谷宿は前回の記事、鴻巣宿同様江戸期に中山道の宿場町として栄え、街道でも最大規模の町だったそうです。

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街道を歩いて行くと見世蔵なども残っています。詳細は不明。

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こちらの建物は小林商店。赤煉瓦倉庫は大正元年(1912年)建造で砂糖や乾物などを貯蔵していたそうです。木造3階建の洋館は昭和2年(1927年)建造。

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こちらは江戸末期の嘉永元年(1848年)創業の造り酒屋、藤橋藤三郎商店(藤橋酒造)。煉瓦煙突は大正時代に建造された物。深谷には何軒か酒造会社がありますが、軟水の井戸水が酒造りに適しているそうです。

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こちらは大正10年頃建造の福島邸。煉瓦造りのウダツが洒落ています。

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裏手には見事な煉瓦建築が続いていますが、これはこんにゃく原料倉庫兼製造工場だそうです。

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こちらは田中藤左衛門商店(七ツ梅酒造)跡。現在ではもう酒造りをやめてしまいましたが、当時の建物がそのまま保存されており、中を見学できるようになっています。

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入り口ではこの建物の修繕維持費のため、入場料100円を寄付の形で納めます。中には古書店やカフェなどになっており、多くの観光客が訪れていました。

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またこの建物はネットフリックスのドラマのロケ地に使われており、撮影当時の小道具などがそのまま残されていて、独特な雰囲気が醸し出されています。

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この田中藤左衛門商店は元禄7年(1694年)創業で平成16年(2004年)廃業。以降、一般社団法人「まち遺し深谷」が跡地の管理を行っているとか。

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巨大な蔵はイベントや映画の上映などに活用されています。

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こちらは明治末期創業の糸屋製菓店。店頭には最中や羊羹などが並べられていました。

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間口が狭く奥に長い鰻の寝床なので、建物の奥が見どころだったりもします。

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こちらは関根弁之助商店。詳しくは分かりませんが肥料関連の会社のようです。ただこの関根弁之助と言う人物は大正8年に現在の深谷倉庫を設立しており、埼玉県倉庫協会長や深谷町議を歴任されていたそうです。

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こちらは春山邸。詳細は不明ですが敷地内の蔵は江戸末期の物と明治期の物が残っているとか。

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随分北へと歩いて来ました。こちらは現役の造り酒屋、瀧沢酒造。

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脇道を入ると見事な煉瓦塀が続きます。埼玉県小川町にて文久三年(1863年)に創業。明治30年(1897年)良質な水を求めてこの地に移転したそうです。

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ちょっと覗いて見ました。事前予約すれば見学可能だそうなので、一度ちゃんと見学してみたいですね。

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昭和5年(1930年)建造の煉瓦煙突がどこよりも高く、しかも円筒型で立派です。コンクリート煙突は円筒型ですが煉瓦煙突はその殆どが四角柱の形状を成しています。

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レンタルサイクル借りればよかった、と思うほどに足がガタガタになりました。と言う事で深谷市街南の外れ、17号線にあるスーパー銭湯「国済寺天然温泉美肌の湯」。関東のスーパー銭湯には珍しく無色透明な単純温泉。循環濾過ですが加水してないのか、滑り感もあるしっかりとした浴感。期待以上に良いお湯でした。

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さて、次回は日本煉瓦製造専用線跡を巡ります。

埼玉県鴻巣市、旧中山道沿いの宿場町

メンテナンスの仕事で鴻巣を訪れ午前10時に仕事終了。て事で鴻巣の街並みを散策しました。

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鴻巣は今年5月、横浜で飲んだ帰りに乗り過ごし、気づいたら鴻巣で終電終わって絶望した事があります。唯一のネットカフェが国道17号線沿いで20分以上歩かされた記憶も。

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その道すがら旧街道沿いの古い木造建築を見て、今度改めて来てみたいなどと考え現実逃避してました。

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まさか本当に来る機会が生まれるとは。まぁこれも何かの縁。

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鴻巣は江戸時代に整備された中山道の宿場町として発展しました。基本的に鴻巣と言えば免許センターしかないってイメージが強い。

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街並みとしての保存は特にされておらず、ポツリポツリと木造建築が残っていると言った所です。

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観光案内所の方によれば建物を維持する後継者不足が一番の問題で、重要文化財登録をするには原型を留めている建物が少ない上に、登録するとリフォームも好きに出来なくなるなどの問題から住民の理解も得られず、古民家を巡るツアーを企画しても内部を見せてくれる家も少ない。そのため観光地化を進められない現状があります。

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宿場町としての魅力以外に、ここは人形の街としての顔もあります。江戸中期、農閑期に農家が雛人形造りを始め、江戸では鴻巣雛として多く流通されていたとか。

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こちらは街道の日本橋寄りにある鴻巣市産業観光館「ひなの里」。伝統工芸である雛人形造りの資料が展示されています。

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中には明治大正期の貴重な雛飾りが展示されています。

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特に古い物は江戸末期作の物もあり、一般家庭の蔵に眠っていた物が寄贈されています。よく残っていたと思いますね。

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またこの敷地は元々雛人形工房だった所で、脇の蔵だけが当時の建物として保存されています。元々は一番右手(街道沿い)の蔵しかなかったのを左手へ建て増して行きました。そのため一番右手の建物のみ有形文化財として登録されています。ただ文化財登録したために耐震補強工事が出来ず、その観点から内部を一般公開する事が出来ず倉庫としてしか活用出来ていません。

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現在でも雛人形の工房は幾つか残っております。かつてはさいたま市岩槻区と双璧を成す人形の特産地でしたが、岩槻と比べると現存する工房がだいぶ少なく思えます。逆に言えば、岩槻は東武野田線と言う不便な土地ゆえに宅地化が進まず、結果的に伝統工芸が多く残ったのかもしれません。
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