埼玉県

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埼玉県幸手市、宿場町と史跡など

幸手と言えば降りたことこそ有りませんが、その昔「サッテリア」なるハンバーガーショップが存在したと言う噂。

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東武日光線で南栗橋の一個手前、幸手駅に降り立ちました。サッテリア見てみたかった。

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この辺りには灌漑用水が非常に多く、また豊富な地下水に恵まれており、造り酒屋などもあります。建築物としても見事な酒蔵。

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この石井酒造は1840年(天保11年)より続く老舗。瓶を購入すればお酒の量り売りもやられております。

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幸手駅を東に進むと日光街道に出ます。この南北に延びる街道沿いに宿場町として栄えました。

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この幸手宿の古民家建築では唯一の国登録有形文化財がこの岸本家住宅母屋。かつて醤油醸造業を営んでいたそうですが、現在は古民家カフェとなっています。1830〜1867年建造。

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そんな国指定はさておき、まずは宿場町を堪能して行きます。こちらは旧小島商店。

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こちらは酒屋さんの永文商店。1903年(明治36年)創業。

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よく見ると珍しいことに、奥の倉庫から店頭まで軌道が走っています。奥に見えるのがトロッコ。

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詳細は分かりませんが、この平井家住宅もなかなか立派。

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こちらは幸手のボスキャラとも言える建築物。昭和初期の建物で、昭和23年より野口堂電気と言う電気屋さんを営んでいたとか。ちなみに現在その電気屋さんは移転されています。

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こちらは関薬局。店頭こそ改装していますが、建物自体は歴史あります。

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こちらは高濱商事。文化財登録や街並みの保全などは特になされておらず、自然と古い建物が多く残っていると言った印象です。普通の住居に建て替えられた所も多くありますが、空き地が少ないのでさほど寂れた印象はありません。

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また、幸手は豆腐屋さんが多く存在するそうです。豊富な地下水に恵まれているからでしょうか。

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宿場町の北端まで行った所で昼食とします。街道筋の東側に市街地を迂回する形で国道4号バイパスが走っており、幹線道路商業圏として多くのチェーン店系飲食店が軒を連ねていますが、あえて中心街の個人商店へ。

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肉玉丼、美味いです。付け合わせの豆腐は地元の物でしょうか、これも美味い。

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市街地の北側には権現堂公園があります。こちらは桜の名所で、旧権現堂川の土手沿いに桜並木が続いてます。権現堂川は江戸時代の利根川東遷以前までは渡良瀬川の川道で東京湾へ注いでいました。

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この公園の北側に煉瓦造りの樋管が保存されています。

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これは権現堂川用水新圦と言う用水路へ配水する煉瓦造りの樋管で1905年(明治38年)竣工。

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樋管の先の水路は権現堂川に繋がっています。現在の権現堂川は利根川から取水して中川に合流するまでの調整池となってしまいましたが、それでもいまだ一級河川とされています。

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こちらの樋管も用水路へ分岐させるもの。

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こちらは巡礼樋管と言い1933年(昭和8年)竣工のコンクリート樋管。

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桜の季節はさぞ見事な事でしょう。いずれも日本土木遺産に指定されています。

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この権現堂公園では紫陽花まつりが開催されており、多くの観光客で賑わっていました。

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ここで石井酒造さんで購入した日本酒、豊明の量り売りを試飲。お猪口買えば良かったと思いつつ瓶から直接試飲してみましたが、美味い。非常に飲み易くスッキリとした酸味で後味は辛口と言ったところでしょうか。

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こちらは権現堂河岸跡。小さな水神社の祠が残るのみとなってしまいましたが、利根川からの流路が塞がれた1927年(昭和2年)までは河岸として栄えていました。ここよりさらに北東へ進めば以前訪れた関宿に繋がります。

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権現堂公園から東へ進みます。こちらはマリア地蔵と呼ばれる隠れキリシタンのお地蔵様。

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最後に将門の首塚。大手町の首塚は有名ですが、この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。諸説ありますがどちらが本物の首塚であるかは謎のまま。

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以下余談ですが、そんなわけで東京に戻って来ました。南千住で降りたところ、素盞雄神社天王祭が行われていました。

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このお祭りの神輿は担ぎ棒が二本しか無く、神輿を左右に振る二天神輿振りが壮観です。

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2月より通い詰めてる山谷の飲み屋で飲んでると、店の前にも神輿がやって来ました。山谷の住人であるお店の常連さん方は、あまり興味なさそうでしたが。

埼玉県川口市、新郷地区の僻地飲食店街

基本的に自分が現在住んでいる川口市はネタにしないと言うのがありました。なんかあまり好きじゃないんですよね川口って。どちらかと言うと20代に住んでた大久保の方が愛着あったり、とまぁそんな話はどうでもいいんですが、生活圏は写真を撮る場所じゃないって感覚が昔からありました。

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ただ年末年始、連れが川口郊外の病院に入院したため、しばらくお見舞いで通っていました。路線バスで川口安行とか峯八幡宮とか見当もつかない行き先のバスに乗り、降りたら国際興業バスの車庫がありました。

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バス営業所の裏手には工場が広がっています。首都高川口線の新郷入り口も近いので物流的にも都合がいいのでしょう。川口と言えば鋳物産業と言われ、荒川沿いの鋳物工場はことごとく潰れて高層マンションなんかになったりしていますが、それでも郊外に出るとやはり川口って基本工業地帯なんですよね。

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それにしてもどこだここは、と思ったら見沼代用水東縁が流れているじゃありませんか。浦和ではしっかり灌漑用水の役目を果たしていましたが、この辺りではすでにドブ臭い。

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一応某救急病院としておきますが(モロ名前出てますが)、1982年(昭和57年)開業当時の建物はかなり古く、設備は露出配管だらけ。入院時の医師の説明も個室ではなく廊下のベンチに横並びで、目の前をストレッチャーが慌ただしく行き交う。なんて昭和な病院なんだ!と、半ば感動しておりました。
何せ今まで、川口済生会病院や帝京大学病院や多摩医療センターなど、最新設備の整った大病院ばかりだったし、建設の仕事でも新築の巨大総合病院なんかやってるものですから、この格差が衝撃過ぎて。
お薬の説明書類の写真も白黒で、こう言うのって薬の色とかで判断するのにカラーコピーも無いんかいって言ったらお金無くて、と。ここはお寺さんの土地で借地らしいのですが、どんだけ経営厳しいのか。ただ噂ではどんな患者も断らず受け入れるらしく、入院患者はその殆どが高齢者。連れは3階でしたが、上の方の階に昇るにつれ終末期患者が多く、病床の大半を占めてるとか。看護師さんも上層階の担当になると精神的にもキツいらしく、それでもスタッフの皆さんは明るく元気に仕事されていました。
設備は古いけど人材でカバーしている、そんな印象を受けましたが、なんか頑張ってる中小企業っぽくて応援したくなりました。

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国道122号から本郷方面へ繋がるあづま橋通りと、鳩ヶ谷から草加へ続くさいたま草加線が交差する辺り。病院の奥に当たりますが、飲み屋さんが軒を連ねています。

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交差点にはネオン管の残るパチンコ屋さん。

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看板のドラセナと言う店はすでに存在しておりませんが、キャバレーのような物だったのでしょうか。

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何よりも不思議なのが、なぜこんな鉄道も走っていない所に、これだけ多くの飲食店が集中しているのかと言う点。

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住宅密集地でもない片田舎なので、普通に考えて車でしか来れません。昭和の頃は当たり前のように車で飲みに来たかも知れませんが、今はそう言う時代じゃないですからね。

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地図を見ると近くに新郷城跡と言う史跡があるので、昔からこの辺りには人が住んでいたと思われます。ただ日光街道と日光御成街道の中間に位置し宿場町でもない。つまり発展は近代の道路が整備されてからとなります。

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お見舞いの帰り、芝川沿いに清掃工場のある朝日町で途中下車。少し西に歩いた所の一軒の銭湯。

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奥まってますが震災復興建築系の銭湯建築のようです。

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導線に小さなアーケード商店街の跡。地権者が一緒なのでしょうか。

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こう言う所に早めにオープンする居酒屋なんてあったら絶対入っちゃいますが。

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左が「サウナひろい」で右が「広の湯」となります。看板の昭和感がたまりません。

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開放感溢れる高い天井と柱時計。浴室も壁は板張りに分厚い水色ペンキ。奥の壁には渓流をイメージしたタイル画。この銭湯、地元の方がひっきりなしに出入りしており、まさに地元に愛される銭湯と言った感じでした。

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広の湯から西へちょっと歩いた所に、スーパー銭湯の「極楽湯」があります。日曜日の夕方と言う時間帯もありますが、施設の前の道路が駐車場待ちの渋滞となっていました。こちらは近所の方と言うより周辺から車で来られる方がほとんど。

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浴室は公式サイトからお借りします。来訪者数に対して施設のキャパがちょっと狭い感じ。案の定浴槽は子供たちで芋洗い状態。タイミングが悪かったです。お湯は一般的な黒湯で、そんなに深く掘ってないのかも知れません。食事処もメニューが充実しており大繁盛していました。

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さらに西へ歩いて国道122号沿い、昔ながらの健康ランド的な雰囲気の「湯パークラジウム」。よくもまぁこんな近所に三者三様のお風呂が揃っていると。
この湯パークラジウムは近い内に行きたいのですが、もし行けたら何かしら加筆するかも知れません。


埼玉県熊谷市〜群馬県邑楽郡千代田町、赤岩渡船

更新が滞り過ぎてもはやお久しぶりです。この忙しさもそろそろ出口が見えて来そうです。ちなみに邑楽郡は「おうらぐん」と読みます。読めるかーい!

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午前中に終わる仕事があったので、ここぞとばかりに熊谷へと向かいました。

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県道83号線で熊谷市北東部、利根川沿いの河岸があった葛和田へ。道端になぜか250キロ爆弾が碑のように立っていましたが、これは爆撃を受けたとかではなく戦後の昭和25年、故障した米軍機が落としていった不発弾だとか。

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渡船の埼玉県側の葛和田は河岸として栄えましたが、宿場町は対岸の群馬県側にありました。この辺りは長閑な農村と言った雰囲気。利根川沿岸と言う事もあり地下水も豊富なのでしょう。

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県道83号線はそのまま利根川の堤防へ。そこから群馬県へ渡る赤岩渡船も県道83号線と言う事になっております。

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堤防から河川敷へと降りて行くと路線バスの終点、葛和田バス停が。ここも実は県道になります。

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船頭さんは群馬県側に詰めているので、渡船を利用するには船を呼ばなくてはなりません。そのために黄色い旗を揚げます。この携帯の時代なんともアナログな。

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岸からちょっと離れた所の低いポールに黄旗を掲げたところで対岸にちゃんと伝わるのかと不安も覚えましたが、船はすぐ動き出しました。船が動いたのを確認すると旗を下げなければなりません。やがて波一つない川面を渡し船がやって来ます。

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あくまでも県道なので利用は無料。群馬県より委託を受けた千代田町が運用をしています。ライフジャケットを着用して出航。葛和田と赤岩は江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資等の集積地であり、陸運と水運の物流拠点として栄えました。また明治以降は絹織物や生糸輸送の中継地点としても賑わいを見せます。

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以前、伊勢崎市島村の島村渡船に行ってみたら、2019年の台風被害ですでに廃止されていたと言う事がありましたが、この赤岩渡船は関東最後の渡船として生き延びています。

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しかし船が群馬県側へと近づくにつれ、みるみる水深が浅くなって行きます。これは近年の台風や豪雨によって上流から流されて来た土砂がカーブの外側に当たる群馬県側に堆積した物。水深50センチほどでしょうか全然立てる程に浅く、船底が擦るギリギリの所なんじゃないでしょうか。

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あっという間の渡河でした。渡船は県道と言う事もあり県がお金を出していますが、浚渫作業にも予算が掛かるので、現在存続の危機となっています。

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こちらは船頭さんの詰め所。ちなみにご高齢の方とまだ若い方、二人で船を運航されてました。

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ただここから対岸の旗が上がっているかどうか、よほど目が良くないと見えません。

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地元のお爺ちゃんが自転車乗せて埼玉県側へと渡って行きます。利用者は居られるようですが、葛和田に一体何の用事があるのか。あるいは赤岩で用事を済ませた帰りかも知れませんが。

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県道だからと言う理由で奇跡的に存続しておりますが、いつまでも残っていて欲しいものです。

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堤防の上には一応史跡と言う事で、常夜灯なんかも作られています。

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明治大正期の物流解説。位置関係がよく分かります。両毛線開通以前の桐生の絹織物製品は、陸路の場合ここで川を渡り熊谷から開通したばかりの鉄道で東京へ。富岡製糸場の生糸はここを経由して関宿より江戸川へ入り、東京湾から横浜港に入り輸出されてゆく。

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橋も鉄道も不充分だった時代が最も栄えたのでしょう。

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ここより6キロ上流の国道407号線には1886年(明治19年)に妻沼から古戸町に掛かる古戸橋(現在の刀水橋)が開通し、9キロ下流の国道122号線には1929年(昭和4年)に昭和橋が開通しました。さらに後の1968年、5キロ下流に見沼代用水の取水口である利根大堰が完成し、県道20号線が走る武蔵大橋が開通。赤岩渡船だけが取り残された形となりましたが、現在も橋の建設が求められています。

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赤岩の街は宿場町の面影などほとんど残っておりません。

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昭和の頃は商店街としても賑わいを見せていたそうですが、その面影すら失われていました。

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昼時、どうせメシ屋なんて無かろうと思っていたら、町外れに一軒だけ蕎麦屋の「さらしな」さんが。

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うどんセット。モツ煮を切らしてしまったそうなので代わりにアジフライ。ちょっと食い過ぎてしまった。

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群馬県側へは一日5本程度しか走ってない路線バスで館林へ。バスは途中ホームセンターのジョイフルホンダの建物の中まで入って行ったりします。
蕎麦屋の女将さんと少し話し込みましたが、やはり少子高齢化と過疎化が酷く空き家も多くあるとか。それもまた致し方ないと話されていました。

埼玉県さいたま市、見沼通船堀閘門開閉実演

こうもん、かいへい、じつえん。
平仮名で書いちゃいけません。閘門、つまり端的に言えば規模は小さいけどパナマ運河みたいな物です。去る8月20日、見沼通船堀にて閘門の開閉実演が行われました。

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JR武蔵野線東浦和駅から南東へ。見沼代用水東縁を渡ります。見沼代用水とは灌漑農業用水で、江戸中期の享保13年(1728年)に江戸幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために普請した用水路です。この見沼代用水は行田市の北で利根川から取水し、蓮田市で東西に分岐。この東縁は戸田競艇場にて荒川に合流し、西縁は足立区で荒川に合流します。

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その東縁から真ん中を流れる芝川を介し西縁へと至る運河、見沼通船堀があります。通船堀は芝川を境に西縁と東縁に分かれており、こちらは西縁二の関の船溜まり跡。つまり水を堰き止めて水位を上げ下げする閘門があった場所で、船溜りがあったため幅が広くなっています。

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水は見沼代用水西縁から芝川に向かって流れて行きます。しばらく歩くと西縁一の関の閘門が復元されています。

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今年は特に水量が少ないらしいですが、かつてはここを和船が航行していました。見沼通船堀は見沼代用水完成の三年後、享保16年(1731年)に東西の見沼代用水と中央の芝川を結ぶ運河として造られました。

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やがて芝川に合流。芝川は桶川や上尾の湧水地を源流として、かつて沼地だった見沼を通り川口市南東部で荒川へと注ぎます。

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芝川の左岸(西側)には水神社があります。ここは通船堀開通の翌年に創建され、水難防止の神として祀られて来ました。現在の本殿は関東大震災で全壊した翌年の大正13年に建てられた物。

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芝川の東側には鈴木家住宅があります。鈴木家は幕府から見沼通船堀の各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う差配役を命じられていました。文政年間に(1818年〜1830年)江戸から移住し、建物もその当時の物と考えられているそうです。

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土日などは奥まで入られるようになっていますが、母屋は生活されているので公開されていません。裏手の蔵や小屋には昔の農機具や、見沼代用水に関するパネルなどが展示されています。

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芝川から見沼代用水西縁へ向かって見沼通船堀西縁が分岐して行きます。この辺りにもかつては河岸(かし)があったそうです。

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100メートルほどでしょうか、遡って行くと復元された一の関があります。

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さらに100〜200メートルほどでしょうか、二の関があります。今回の閘門開閉実演では一の関のみ閘門を閉めます。

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まず一の関で、角落(かくおとし)と呼ばれる板を放り投げます。実演は保存会の方々をはじめボランティアスタッフで行われており、保存のためのクラウドファンディングも募集しているとか。

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水飛沫を上げて投げ込まれる角落。この閘門開閉実演は年に一回、8月に開催されて来ましたが、近年の気温上昇を鑑みて来年からは6月にしようと言う話になっています。

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落とされた角落は流れに沿って関枠へと引き寄せられます。

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一枚一枚角落が関枠に渡されて行き、これを10枚ほど重ねて運河を堰き止め、見沼代用水から流れて来る水によって水位を上げます。

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このようにして標高の低い芝川から標高の高い見沼代用水へと船を航行させます。

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逆に見沼代用水から船が来た場合、二の関を堰き止めて二の関の手前まで航行し閘門を解放。そのまま堰き止めてある一の関まで進み同じように閘門を解放して芝川まで下って行きます。

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ちなみに復元されている和船は2分の1スケールなので実際はもっと大きい物となります。

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船を二の関の上流へ引き入れたら、最後に角落を一枚づつ引き上げて水を解放し、水位を元に戻します。

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通船堀西縁を西端まで遡ると見沼代用水西縁にぶつかります。見沼代用水は元々農業用水路として通された物なので、物資の運搬については秋分から春分にかけてとなります。

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こちらが見沼代用水西縁。江戸時代は主に見沼代用水沿岸地域からの年貢米などが江戸へ運ばれ、帰りの船で塩や肥料などの物資が運ばれて来たそうです。

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こちらは見沼代用水西縁を北へ遡った所。この見沼代用水は、芝川沿岸の平地の東西の際、丘陵の手前を流れますが、東縁は途中芝川の支流に沿って北上します。元々は見沼と言う沼を溜め池として利用していましたが、江戸時代に入り干拓し見沼田園と言う広大な穀倉地帯が広がるようになりました。

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その見沼区北柳にある坂東家住宅見沼くらしっく館。デカい屋敷です。

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坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(和歌山)の出身で、1675年に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したそうです。

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しかし下流の村の反対に遭い1718年2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻します。その後、徳川吉宗が新田開発を推奨した事で3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り加田屋新田としたそうです。ちなみにこの囲炉裏には実際に火がくべられています。

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屋根の裏側が煙で燻されている事で防虫効果があります。この坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、江戸末期の安政4年(1885年)。

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つまりそれまでは江戸に住んでいたと言う事で、地元の地方豪族や庄屋とは違います。言うなれば江戸にある土地開発会社みたいな物でしょうか。

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見沼代用水西縁から灌漑用水路が東へと分岐して行きます。

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用水路は途中水道橋にて川を渡り、川向こうの田畑にも水を供給しています。上のパイプは上水道でしょうか。

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こちらは見沼代用水東縁を上流へと遡ったところ。東縁は芝川と付かず離れずの距離を並行して流れています。つまり芝川の右岸(東側)は丘陵地が間近まで迫っていると言う事。左手の桜並木が土手の役割を果たし、その左手はもう芝川の河川敷になります。

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そこにさいたま市立浦和博物館があります。この建物は埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学)の鳳翔閣(明治11年建造)を移築し玄関部分のみ復元した物。

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ここに当時の船に使われていた船箪笥や米櫃などが展示されています。

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こちらは水桶やロープなど。水運に関与していた家の蔵に眠っていたそうです。
基本、近代史には興味ありますが、江戸時代には疎いです。しかし調べてみれば、これはこれで面白いですね。

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最後に見沼天然温泉小春日和。ここの加温加水無しの源泉掛け流しのぬるいお湯が好きで、もう何回も通っています。

埼玉県羽生市、羽生駅周辺の街並み

何も考えずに南越谷から伊勢崎線。久喜から地方ローカル線の雰囲気に揺られながら羽生駅に降りました。

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一応秩父鉄道の起点駅なのですが、なんかパッとしません。駅前にはいきなり廃墟。

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駅近くの駐輪場に「カブ号」の文字。スーパーカブと言いたいのでしょう。

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埼玉方面では野田市とか、深谷とか行田とか館林とか、歴史を掘り下げて新発見な街を巡って来ましたが、羽生にはそう言うそそる歴史が残念ながらありませんでした。

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羽生は利根川が近く中川の分岐点でもある事から水運の要衝として発展して来ました。また米どころでもあり同時に綿花の栽培も盛んで足袋などの生産も盛んだったとか。しかし足袋と言えば行田のイメージだし、戦後から需要も無くなって行きましたので。

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割烹料理店「松楽」がありましたが、花街のような物も多少あったのでしょうか。ただ明治大正期を通して主な産業と言えば足袋ぐらいで、現在においても大きな産業としては近くにブレーキメーカーの工場があるのと、南の外れ羽生バイパス沿いに工業団地が広がる程度。

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こちらの建物は赤城屋本店跡。現在羽生バイパスにうどん蕎麦の赤城屋羽生バイパス店と言うのがありますが、その本店だった所でしょうか。

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商店街だったのか、しかし営業しているお店はほとんどありません。スナックも混在してますが、左手の「メルヘン」さんは現役だとか。

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これらもかつては商店だったと思われます。まぁ現在では工業団地のさらに南にイオンモールがあるので、買い物は車に乗ってイオンで済ますのでしょう。

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商店街も裏に回ればこの有り様。井戸の跡がありますが、地下水は豊富だったのか水路を暗渠化した路地が非常に多い。

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市街地は区画整理されておらず、とにかく狭い路地が網の目のように張り巡らされています。

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これは……一軒家でしょうか?

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こちらも何かの商店の跡ですね。羽生は東武伊勢崎線で久喜のさらに先であり、都心への直通運転は久喜始発となるので一度乗り換えなければなりません。そんな訳で都心への通勤圏外と言えます。

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こちらは教会かと思いましたが、かつて写真屋さんだったそうです。

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こちらはビジネス旅館の菊本旅館。ビジネスで羽生に来る事ってあるかなぁ……

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まとまったスナック街こそありませんが、スナック跡は街の至るところに散在しています。

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これも飲食店の跡と思われます。ただ、痕跡はよく目にするものの現役で営業されているであろう店はほとんど見つかりません。

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過疎化や後継者不足によりどの店も閉めてしまうのでしょう。

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歩き回って見ると廃屋や倒壊寸前の危険家屋が非常に多いのが印象的でした。

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だからって焼けた家屋は解体しましょうよ。

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駅からだいぶ東へ歩いて来ました。県道129号線、街のメインストリートであるプラザ通り。

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大正6年(1917年)創業の地元百貨店、和田百貨店が衣類や布団などの洋品店として生き残っています。脇にはシャディのサラダ館の看板も見られる。

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隣には羽生市民プラザ。この建物はかつて昭和58年(1983年)に開店したジャスコ(現在のイオン)でしたが、平成4年(1992年)に閉店。その後平成11年(1999年)より羽生市の市民プラザとして活用しています。

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最後に潰れたパチンコ屋。現在パブが入っています。
とにかく、潰れた商店や飲食店が目立ちました。同時に廃墟や廃屋も点在しています。特筆するような地場産業や大企業が無く宅地開発もされない街はこんなものかと言うのが正直な印象でした。
ただ、まだまだ回ってない商店街などもあるようなので、機会があればまた再訪してみようかと思います。
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