埼玉県

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埼玉県熊谷市〜群馬県邑楽郡千代田町、赤岩渡船

更新が滞り過ぎてもはやお久しぶりです。この忙しさもそろそろ出口が見えて来そうです。ちなみに邑楽郡は「おうらぐん」と読みます。読めるかーい!

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午前中に終わる仕事があったので、ここぞとばかりに熊谷へと向かいました。

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県道83号線で熊谷市北東部、利根川沿いの河岸があった葛和田へ。道端になぜか250キロ爆弾が碑のように立っていましたが、これは爆撃を受けたとかではなく戦後の昭和25年、故障した米軍機が落としていった不発弾だとか。

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渡船の埼玉県側の葛和田は河岸として栄えましたが、宿場町は対岸の群馬県側にありました。この辺りは長閑な農村と言った雰囲気。利根川沿岸と言う事もあり地下水も豊富なのでしょう。

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県道83号線はそのまま利根川の堤防へ。そこから群馬県へ渡る赤岩渡船も県道83号線と言う事になっております。

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堤防から河川敷へと降りて行くと路線バスの終点、葛和田バス停が。ここも実は県道になります。

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船頭さんは群馬県側に詰めているので、渡船を利用するには船を呼ばなくてはなりません。そのために黄色い旗を揚げます。この携帯の時代なんともアナログな。

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岸からちょっと離れた所の低いポールに黄旗を掲げたところで対岸にちゃんと伝わるのかと不安も覚えましたが、船はすぐ動き出しました。船が動いたのを確認すると旗を下げなければなりません。やがて波一つない川面を渡し船がやって来ます。

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あくまでも県道なので利用は無料。群馬県より委託を受けた千代田町が運用をしています。ライフジャケットを着用して出航。葛和田と赤岩は江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資等の集積地であり、陸運と水運の物流拠点として栄えました。また明治以降は絹織物や生糸輸送の中継地点としても賑わいを見せます。

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以前、伊勢崎市島村の島村渡船に行ってみたら、2019年の台風被害ですでに廃止されていたと言う事がありましたが、この赤岩渡船は関東最後の渡船として生き延びています。

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しかし船が群馬県側へと近づくにつれ、みるみる水深が浅くなって行きます。これは近年の台風や豪雨によって上流から流されて来た土砂がカーブの外側に当たる群馬県側に堆積した物。水深50センチほどでしょうか全然立てる程に浅く、船底が擦るギリギリの所なんじゃないでしょうか。

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あっという間の渡河でした。渡船は県道と言う事もあり県がお金を出していますが、浚渫作業にも予算が掛かるので、現在存続の危機となっています。

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こちらは船頭さんの詰め所。ちなみにご高齢の方とまだ若い方、二人で船を運航されてました。

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ただここから対岸の旗が上がっているかどうか、よほど目が良くないと見えません。

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地元のお爺ちゃんが自転車乗せて埼玉県側へと渡って行きます。利用者は居られるようですが、葛和田に一体何の用事があるのか。あるいは赤岩で用事を済ませた帰りかも知れませんが。

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県道だからと言う理由で奇跡的に存続しておりますが、いつまでも残っていて欲しいものです。

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堤防の上には一応史跡と言う事で、常夜灯なんかも作られています。

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明治大正期の物流解説。位置関係がよく分かります。両毛線開通以前の桐生の絹織物製品は、陸路の場合ここで川を渡り熊谷から開通したばかりの鉄道で東京へ。富岡製糸場の生糸はここを経由して関宿より江戸川へ入り、東京湾から横浜港に入り輸出されてゆく。

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橋も鉄道も不充分だった時代が最も栄えたのでしょう。

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ここより6キロ上流の国道407号線には1886年(明治19年)に妻沼から古戸町に掛かる古戸橋(現在の刀水橋)が開通し、9キロ下流の国道122号線には1929年(昭和4年)に昭和橋が開通しました。さらに後の1968年、5キロ下流に見沼代用水の取水口である利根大堰が完成し、県道20号線が走る武蔵大橋が開通。赤岩渡船だけが取り残された形となりましたが、現在も橋の建設が求められています。

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赤岩の街は宿場町の面影などほとんど残っておりません。

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昭和の頃は商店街としても賑わいを見せていたそうですが、その面影すら失われていました。

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昼時、どうせメシ屋なんて無かろうと思っていたら、町外れに一軒だけ蕎麦屋の「さらしな」さんが。

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うどんセット。モツ煮を切らしてしまったそうなので代わりにアジフライ。ちょっと食い過ぎてしまった。

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群馬県側へは一日5本程度しか走ってない路線バスで館林へ。バスは途中ホームセンターのジョイフルホンダの建物の中まで入って行ったりします。
蕎麦屋の女将さんと少し話し込みましたが、やはり少子高齢化と過疎化が酷く空き家も多くあるとか。それもまた致し方ないと話されていました。

埼玉県さいたま市、見沼通船堀閘門開閉実演

こうもん、かいへい、じつえん。
平仮名で書いちゃいけません。閘門、つまり端的に言えば規模は小さいけどパナマ運河みたいな物です。去る8月20日、見沼通船堀にて閘門の開閉実演が行われました。

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JR武蔵野線東浦和駅から南東へ。見沼代用水東縁を渡ります。見沼代用水とは灌漑農業用水で、江戸中期の享保13年(1728年)に江戸幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために普請した用水路です。この見沼代用水は行田市の北で利根川から取水し、蓮田市で東西に分岐。この東縁は戸田競艇場にて荒川に合流し、西縁は足立区で荒川に合流します。

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その東縁から真ん中を流れる芝川を介し西縁へと至る運河、見沼通船堀があります。通船堀は芝川を境に西縁と東縁に分かれており、こちらは西縁二の関の船溜まり跡。つまり水を堰き止めて水位を上げ下げする閘門があった場所で、船溜りがあったため幅が広くなっています。

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水は見沼代用水西縁から芝川に向かって流れて行きます。しばらく歩くと西縁一の関の閘門が復元されています。

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今年は特に水量が少ないらしいですが、かつてはここを和船が航行していました。見沼通船堀は見沼代用水完成の三年後、享保16年(1731年)に東西の見沼代用水と中央の芝川を結ぶ運河として造られました。

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やがて芝川に合流。芝川は桶川や上尾の湧水地を源流として、かつて沼地だった見沼を通り川口市南東部で荒川へと注ぎます。

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芝川の左岸(西側)には水神社があります。ここは通船堀開通の翌年に創建され、水難防止の神として祀られて来ました。現在の本殿は関東大震災で全壊した翌年の大正13年に建てられた物。

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芝川の東側には鈴木家住宅があります。鈴木家は幕府から見沼通船堀の各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う差配役を命じられていました。文政年間に(1818年〜1830年)江戸から移住し、建物もその当時の物と考えられているそうです。

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土日などは奥まで入られるようになっていますが、母屋は生活されているので公開されていません。裏手の蔵や小屋には昔の農機具や、見沼代用水に関するパネルなどが展示されています。

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芝川から見沼代用水西縁へ向かって見沼通船堀西縁が分岐して行きます。この辺りにもかつては河岸(かし)があったそうです。

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100メートルほどでしょうか、遡って行くと復元された一の関があります。

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さらに100〜200メートルほどでしょうか、二の関があります。今回の閘門開閉実演では一の関のみ閘門を閉めます。

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まず一の関で、角落(かくおとし)と呼ばれる板を放り投げます。実演は保存会の方々をはじめボランティアスタッフで行われており、保存のためのクラウドファンディングも募集しているとか。

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水飛沫を上げて投げ込まれる角落。この閘門開閉実演は年に一回、8月に開催されて来ましたが、近年の気温上昇を鑑みて来年からは6月にしようと言う話になっています。

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落とされた角落は流れに沿って関枠へと引き寄せられます。

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一枚一枚角落が関枠に渡されて行き、これを10枚ほど重ねて運河を堰き止め、見沼代用水から流れて来る水によって水位を上げます。

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このようにして標高の低い芝川から標高の高い見沼代用水へと船を航行させます。

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逆に見沼代用水から船が来た場合、二の関を堰き止めて二の関の手前まで航行し閘門を解放。そのまま堰き止めてある一の関まで進み同じように閘門を解放して芝川まで下って行きます。

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ちなみに復元されている和船は2分の1スケールなので実際はもっと大きい物となります。

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船を二の関の上流へ引き入れたら、最後に角落を一枚づつ引き上げて水を解放し、水位を元に戻します。

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通船堀西縁を西端まで遡ると見沼代用水西縁にぶつかります。見沼代用水は元々農業用水路として通された物なので、物資の運搬については秋分から春分にかけてとなります。

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こちらが見沼代用水西縁。江戸時代は主に見沼代用水沿岸地域からの年貢米などが江戸へ運ばれ、帰りの船で塩や肥料などの物資が運ばれて来たそうです。

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こちらは見沼代用水西縁を北へ遡った所。この見沼代用水は、芝川沿岸の平地の東西の際、丘陵の手前を流れますが、東縁は途中芝川の支流に沿って北上します。元々は見沼と言う沼を溜め池として利用していましたが、江戸時代に入り干拓し見沼田園と言う広大な穀倉地帯が広がるようになりました。

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その見沼区北柳にある坂東家住宅見沼くらしっく館。デカい屋敷です。

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坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(和歌山)の出身で、1675年に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したそうです。

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しかし下流の村の反対に遭い1718年2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻します。その後、徳川吉宗が新田開発を推奨した事で3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り加田屋新田としたそうです。ちなみにこの囲炉裏には実際に火がくべられています。

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屋根の裏側が煙で燻されている事で防虫効果があります。この坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、江戸末期の安政4年(1885年)。

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つまりそれまでは江戸に住んでいたと言う事で、地元の地方豪族や庄屋とは違います。言うなれば江戸にある土地開発会社みたいな物でしょうか。

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見沼代用水西縁から灌漑用水路が東へと分岐して行きます。

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用水路は途中水道橋にて川を渡り、川向こうの田畑にも水を供給しています。上のパイプは上水道でしょうか。

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こちらは見沼代用水東縁を上流へと遡ったところ。東縁は芝川と付かず離れずの距離を並行して流れています。つまり芝川の右岸(東側)は丘陵地が間近まで迫っていると言う事。左手の桜並木が土手の役割を果たし、その左手はもう芝川の河川敷になります。

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そこにさいたま市立浦和博物館があります。この建物は埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学)の鳳翔閣(明治11年建造)を移築し玄関部分のみ復元した物。

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ここに当時の船に使われていた船箪笥や米櫃などが展示されています。

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こちらは水桶やロープなど。水運に関与していた家の蔵に眠っていたそうです。
基本、近代史には興味ありますが、江戸時代には疎いです。しかし調べてみれば、これはこれで面白いですね。

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最後に見沼天然温泉小春日和。ここの加温加水無しの源泉掛け流しのぬるいお湯が好きで、もう何回も通っています。

埼玉県羽生市、羽生駅周辺の街並み

何も考えずに南越谷から伊勢崎線。久喜から地方ローカル線の雰囲気に揺られながら羽生駅に降りました。

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一応秩父鉄道の起点駅なのですが、なんかパッとしません。駅前にはいきなり廃墟。

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駅近くの駐輪場に「カブ号」の文字。スーパーカブと言いたいのでしょう。

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埼玉方面では野田市とか、深谷とか行田とか館林とか、歴史を掘り下げて新発見な街を巡って来ましたが、羽生にはそう言うそそる歴史が残念ながらありませんでした。

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羽生は利根川が近く中川の分岐点でもある事から水運の要衝として発展して来ました。また米どころでもあり同時に綿花の栽培も盛んで足袋などの生産も盛んだったとか。しかし足袋と言えば行田のイメージだし、戦後から需要も無くなって行きましたので。

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割烹料理店「松楽」がありましたが、花街のような物も多少あったのでしょうか。ただ明治大正期を通して主な産業と言えば足袋ぐらいで、現在においても大きな産業としては近くにブレーキメーカーの工場があるのと、南の外れ羽生バイパス沿いに工業団地が広がる程度。

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こちらの建物は赤城屋本店跡。現在羽生バイパスにうどん蕎麦の赤城屋羽生バイパス店と言うのがありますが、その本店だった所でしょうか。

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商店街だったのか、しかし営業しているお店はほとんどありません。スナックも混在してますが、左手の「メルヘン」さんは現役だとか。

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これらもかつては商店だったと思われます。まぁ現在では工業団地のさらに南にイオンモールがあるので、買い物は車に乗ってイオンで済ますのでしょう。

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商店街も裏に回ればこの有り様。井戸の跡がありますが、地下水は豊富だったのか水路を暗渠化した路地が非常に多い。

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市街地は区画整理されておらず、とにかく狭い路地が網の目のように張り巡らされています。

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これは……一軒家でしょうか?

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こちらも何かの商店の跡ですね。羽生は東武伊勢崎線で久喜のさらに先であり、都心への直通運転は久喜始発となるので一度乗り換えなければなりません。そんな訳で都心への通勤圏外と言えます。

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こちらは教会かと思いましたが、かつて写真屋さんだったそうです。

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こちらはビジネス旅館の菊本旅館。ビジネスで羽生に来る事ってあるかなぁ……

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まとまったスナック街こそありませんが、スナック跡は街の至るところに散在しています。

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これも飲食店の跡と思われます。ただ、痕跡はよく目にするものの現役で営業されているであろう店はほとんど見つかりません。

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過疎化や後継者不足によりどの店も閉めてしまうのでしょう。

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歩き回って見ると廃屋や倒壊寸前の危険家屋が非常に多いのが印象的でした。

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だからって焼けた家屋は解体しましょうよ。

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駅からだいぶ東へ歩いて来ました。県道129号線、街のメインストリートであるプラザ通り。

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大正6年(1917年)創業の地元百貨店、和田百貨店が衣類や布団などの洋品店として生き残っています。脇にはシャディのサラダ館の看板も見られる。

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隣には羽生市民プラザ。この建物はかつて昭和58年(1983年)に開店したジャスコ(現在のイオン)でしたが、平成4年(1992年)に閉店。その後平成11年(1999年)より羽生市の市民プラザとして活用しています。

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最後に潰れたパチンコ屋。現在パブが入っています。
とにかく、潰れた商店や飲食店が目立ちました。同時に廃墟や廃屋も点在しています。特筆するような地場産業や大企業が無く宅地開発もされない街はこんなものかと言うのが正直な印象でした。
ただ、まだまだ回ってない商店街などもあるようなので、機会があればまた再訪してみようかと思います。

埼玉県さいたま市、北浦和で酒場巡り(東口編)

さて、今度は東口を探索していきます。

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こちらが東口。ちなみに駅前にはかつて昭和37年(1962年)開業のイトーヨーカドーがありましたが、ここが当時のヨーカ堂の全国3店目の店舗だったとか。特に工業地帯などがある訳でもなくあくまでベッドタウンとして発展して来たのですが、相当な人口の増加が見込まれていたのでしょうか。

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駅前左手には商店街が線路に並行する形で続きます。解体されて空き地になった土地も多くありますが、昔ながらの商店街の名残りが感じられます。

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商店街を右に入るとちょっと古そうなスーパーがあります。以前はこの辺りが買い物の中心街だったのでしょう。

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東口から東に真っ直ぐ進むと旧中山道と交差します。この駅前界隈は古いビルが多く、全く再開発されていない感じが地方都市感を醸し出す。

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その交差点から左手奥に、実に渋い路地裏飲み屋街を見つけました。

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入って右手にまずあるのが焼き鳥屋「一也」さん。もう23年になるそうで、その前は蕎麦屋さんだったとか。

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焼き鳥が美味いだけじゃなくメニューも豊富。店内も広く2階席もあるとか。しかも思ったより安かった。カウンターは3席しかないので、数人連れで行く際などお勧めです。つくねがデカくて美味い。

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一也さんの向かいのもつ焼き「丸新」さん。

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かなり年季が入った店内。戦後の頃からやってらっしゃるそうで、現在の焼き場は3代目。この雰囲気が好きな人も来られるようです。お店は比較的静かで落ち着いて飲める感じですね。焼き物が出るまで少々時間がかかる事も。

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一也さんの隣に駐輪場があるのですが、この建物がまた妖しい。

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この造りといい雰囲気といい、よくよく聞いてみたら「おしず」と言うキャバレーだったそうです。ただこの建物も6月いっぱいで解体されてしまうとか。

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駐輪場の奥の並びには立ち飲み屋「しゅらん弍」さんが。ここは浦和にある店の支店だそうで、8周年って言ってたっけな。

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串揚げがメインですが、最初の一杯目が半額だったりして、とにかく安いです。ただ、店員さんや常連さん方の年齢層が若くて、私なんかはちょっと落ち着かないかな。

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その向かい、バラック居酒屋発見!

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この「串一」さんは先代(父母)から20年続く店で、今のマスターは8年目。地元の常連さん方が集まる、非常に落ち着く店です。

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値段は安くも高くもなく。ただフレンドリーでとにかく話が楽しい。ここはハマりました。すでに常連ですし通います。

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て言うかまた一つ通わなければならないお店が増えてしまいました。ちゃんとボトルも入れたし。あと、この近くに深夜食堂があると言う噂が。地元じゃないし行く機会ないんですが、タクシー帰りになっちゃいますし。

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ちょっと奥にはラーメンと餃子の店「娘々」がありますが、ネットでバズったそうで行列が出来る店になってました。ただメディアの取材は断っているとかで、あくまでも口コミ。

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SNSの情報などは知らないので、とりあえずメニューの頭にあったスタミナラーメンと餃子を注文。ニラとひき肉の辛い餡掛けラーメンでしたが、確かに美味い。これは多少並んでもいいと思いました。餃子小っさって思ったけど、後から来るキャベツの甘みがクセになります。あとメニューにスタミナカレーと言うのがあるのですが、カレーって訳じゃなくてスタミナラーメンの餡がご飯に乗ってるだけとの事。

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こちらはスナック「サエ」。串一のマスターに紹介してもらいました。

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ママさん1人で切り盛りされています。なんと言うかこの地方都市感がたまらない。通いたくなります。元この店で働いてた姉さんがカラオケ上手すぎでやられました。

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旧中山道から県立浦和高校へ向かって行く途中、普通の住宅街の脇道を入ると「一番街」と書かれた街灯が一本だけポツリと残っています。商店街だったのか飲み屋街だったのか、痕跡が無さ過ぎて想像がつきません。

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しかし更に路地へと入って行くと、稲荷神社と飲み屋が住宅街の中に突如現れる。

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向かいの建物も現在では住宅となっていますが、角の入り口などどうみてもスナックの跡。

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今現在何軒のお店が生き残っているのか。

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「あやめ」と看板がありますが、恐らくは昔の店の名前。現在はカフェ兼カキ氷屋さんとなっています。

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真ん中をドブ板が通る路地。果たしてここは何なのか。北浦和に赤線や青線があったと言う記録は見当たらないのですが、これだけ駅から離れた場所にある飲み屋街とか、北浦和西口ふれあい通りの奥のスナック街もそうですが赤羽1丁目などを思い出します。
いやとにかく北浦和ヤバいです。近くの地方都市みたいな感じで、とにかく楽しい。あと、どうでもいいけど喫煙可能店がやたらと多い。チェーン店系喫茶のドトールでも喫煙「席」がある事に驚きました。飲みながら吸えるドトールなんて横浜限定かと思っていたのですが、実は南浦和駅東口のドトールにも喫煙席があります。さいたま市はみんなそうなのか、ちょっと調べてみたいところ。
最終的に何度も通っているのは、西口では「千忠」と「おばちゃん」、東口では「串一」と「サエ」って感じでした。北浦和の仕事は夏頃まで続くので、記事を公開した後から追記で色々書くかも知れません。


埼玉県さいたま市、北浦和で酒場巡り(西口編)

浦和駅と与野駅の間のマイナー過ぎる駅、北浦和なんて完全にノーマークでした。3月末から仕事で北浦和にある現場へ通う事になり、降りた事すら無かった北浦和駅周辺で仕事帰りに飲める店を探します。通っているので以後の写真、天気や時間帯がまちまちです。

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東北本線開業当初北浦和に駅はなく、昭和7年京浜東北線の大宮駅までの延伸に伴い、昭和11(1936年)年住民の要望を受けて新設。西側にも出口が増設されたのが昭和22年で、西口駅前の発展は戦後からとなります。現在の駅舎は昭和43年(1968年)建造。

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と言うわけで駅の西側から探索して行きます。右手(北側)線路近くにいきなり渋い飲み屋の長屋が。

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まずは焼き鳥「裕㐂(ユウキ)」さんに入ってみます。

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創業18年、カウンター一本のみの小ぢんまりしたお店。マスターは以前与野のガード下で修行していたとか。年齢層は高齢者が多く古くからの常連さんって感じ。5時台にはみんなで相撲中継を見てたりします。ウーロン割りがやたら濃かった。ただ午後3時からやっているので年金生活の80代の先輩方が屯っているのでボトル入れました。

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そんな長屋の裏手、暗くて狭い路地の奥にポツンと灯る赤提灯。このシチュエーションたまらない。めっちゃ気になる。

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と言うわけで後日改めて居酒屋「千忠」さんです。入りづらいなぁ。

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ちょうど45年目になるとか。モツ煮500円。量多っ!でも美味っ!どろどろでほぼ飲める系のモツ煮で上野のタキオカに近い感じ。焼きトンがメインですが、焼き魚から麻婆豆腐(レトルトに生姜とネギを大量投入)やニラレバまで。このニラレバが生姜が効いててまた超美味い!白飯が欲しくなります。雰囲気もいいし、ここはちょいちょい通っています。

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線路沿いにも長屋形式の飲み屋街が多少残っています。すでに空き地になっていたり何棟ものマンションが建っていたりしますが、かつてはネオン街として賑わっていたのでしょうか。

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線路沿いから一本奥に入って行くと、いい感じの路地裏飲食店街が。この一帯は三州屋街と言うそうで、元々この一画に有った三州屋と言う旅館から来ているそうです。

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奥まで入って振り返るとこんな感じ。ちなみに左下のスナック「愛」と言う看板は裏側で、表は現在の店「ひさの」になってます。1番奥なので裏側は昔の店名のままと言う。
(追記)スナックひさのは2025年12月27日をもって閉店となったそうです。一回も入った事無いけど。

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道路を挟んだ向かい側にも路地が続いていたようですが、だいぶ解体されて駐車場になってたりするので、もはや路地の体をなしていません。原因は火事があったからだとか。しかしこれでも最盛期には38軒もの飲食店が有ったそうです。

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右手前の角、もはや孤立してしまった居酒屋「おばちゃん」。民家のような入り口は入り辛いったらありゃしない。意を決して突入。

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「おばちゃん」に入ったらカウンターの中にタバコ咥えた“おばあちゃん”。右手の座敷にワンコ(茶太郎)連れた“おばあちゃん”が食事中。途中入って来た“おじいちゃん”も普通に食事を始める。全員80代と言う。しかもカレイの煮付けにご飯、味噌汁、サラダ、漬け物など、普通に晩ごはん。そして何よりメニューってもんが無い!
なんだここ!www

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三州屋街が出来たばかりの頃からもう50年以上お店を続けてらっしゃるそうです。以前はもっと奥の長屋でやってたそうですが解体の話があって、ちょうど引退されるママさんが当時ここにいたので、引き継ぐ形で移転したとか。前の店はもうちょっと広く印刷工場や東電の方々で賑わっていたそうです。

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お通しはモツとセリの酢味噌和え。鯛の刺身があると言うので頼んでみる。今までイチゲンで入った店で、ここまで渋い店はなかった。ママさんも話せば気さくな方で、ここはちょっと通っています。食事に来る人は基本月曜日だけで、以後5回ほど訪れてますが5回目でやっと他のお客さんを見ました。工場勤務の常連さんも工場の移転で来なくなったとか。

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「おばちゃん」は以前この建物の1番手前に入っていました。微かに看板の文字が残る。先に触れましたが結局解体されないまま残っており、逆に右手奥に新店舗が入ったりしている。路地は突き当たりから左手へL字に折れています。ちなみにこの界隈、武蔵野線から東北本線へと抜ける貨物線のトンネルが地下2mの所を通っているためにビルが建てられないと言う事情があるそうです。飲んでる最中にも足元から貨物列車の音や振動が伝わって来ました。

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ほぼほぼトンネルの真上になるのですが、武蔵野線の開業が1972年。工事に伴い三州屋旅館が立ち退きとなった訳ですが、正確な年代は分からないもののその跡地にこの飲食店街が出来たそうです。ただ武蔵野線開業前で、飲み屋街として始動した当時、地下2mで隧道工事がなされていたと言う話です。無茶な話ですが店をやってる時もダンプが頻繁に往来していた時期もあったとか。
※Googleマップなどでは線路が埼玉メディカルセンターの下を通っているように表示されますが、実際には市営駐輪場の下を通り三州屋街の真下に至っています。

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L字を曲がった所がコインパーキングになっており、通り抜けられなくなっていました。この辺りで生き残っている店はバーみたいな店が多いようです。

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通りに出るとその先にも長屋形式の飲食店があります。真ん中の「眞露」と言うスナックが安いとの噂なのですが、遅い時間に覗いたらカウンター満席で入れず。8時ぐらいでやっと入れました。ボトル一本入れて2人で散々歌って5千円ちょい。やっぱ安かった。その後も通っていますが、常連さん方でいつも満席。その常連さん方はほぼ朝鮮半島発祥の在日の方々。ここは通って皆さんと仲良くなろうと思います。

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眞露さんに入れなかった時はとりあえず左端の御食事処(カラオケ居酒屋)「樹」さんへ。

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焼きそばから揚げ物、刺身など、食事系メニューが豊富。地元密着型の居酒屋って雰囲気。7人掛けカウンターとテーブル二つ、片方のテーブルには60代の同窓会的な団体6名様が。

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今のお店はもう10年になるそうです。店構えはスナックの居抜きな感じですが、先代も居酒屋さんだったとか。ママさんと娘さんが切り盛り。おもむろに厨房に入ったのは息子さんで、完全な家族経営。最近は金曜日にしかお客さんが入らないそうです。眞露さんが満席だった日も隣のこちらには誰も入っておらずで、カラオケボックス状態でした。2人で散々飲んで歌って5700円とかだったから、こっちでも全然安いのに。

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今度は駅前から西へ伸びるメインストリートの北側に並走する、北浦和西口ふれあい通り(西口銀座商店街)を歩いて行きます。

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途中、お酒が飲める魚屋さん、いわゆる角打ちを発見。この「かね吉」さんは非常にそそられるし魚が美味いと聞きますが、禁煙かぁ。

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商店街を奥まで進んで行くと右手に銭湯「若松湯」があります。マンションに併設されている銭湯ですが、一度利用してみたいです。

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その銭湯の向かい側、団地や住宅ばかりになって来た所に突然路地裏飲食店街が。

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路地は突き当たりから左右に分かれます。左手に飲み屋長屋が。

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これは惹かれる。もう飲み屋なんて思ってなかった所での飲み屋街。その内行ってみたいです。

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と言うわけで、後編は東口界隈を巡ります。

追記。
6/30、北浦和西口に飲みに行こうと跨線橋を渡ろうとしたらカメラを構えている人がいっぱいいました。

IMG_5338

カシオペアのラストランでした。

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この後上野駅で展示して解体らしいです。カシオペアは乗った事ないし、あまり縁はないのですが、勿体無いと思いました。
まだまだツアー列車としての需要もあるかと思うのですが、車検とかの事情なんでしょうかね。
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都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

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