横須賀市

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神奈川県横須賀市田浦(4)、再生される丘上のゴーストタウン

横須賀市田浦(1)、皆ヶ作のカフェー建築
横須賀市田浦(2)、海軍工廠造兵部跡
横須賀市田浦(3)、引き込み線跡と倉庫群

最近ネットニュースなどで話題に上がった、通称「天空の廃墟」こと市営月見台住宅跡を訪れて来ました。天空のとかいかにもキャッチーですが、標高約60mですwwww

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JR田浦駅から真っ直ぐ谷を登った辺り、崖地のため「のの字橋」と言うループ橋で標高を稼ぎます。

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丘陵地を登り切った辺り、旧横須賀市営月見台住宅が見えて来ます。

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団地は主に3列。東からコンクリート造の2〜5軒長屋が7棟、中央に木造2軒長屋が8棟、西も木造2軒長屋で7棟、合計58戸。かつては管理棟や北側奥にも数棟あったようですが、すでに解体されている様子。

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こちらはコンクリート造平屋建ての4軒長屋。この市営月見台住宅は昭和35年(1960年)に完成。2020年に廃止が決定し、2022年まで住人がおられたそうです。

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JR田浦駅から坂道を登りながら徒歩10分。海沿いからはこのような団地があったなど全く気づきませんでした。田浦といえば北西側、谷ひとつ越えた山中にあった 田浦4丁目のゴーストタウンを訪れようとした所、すでに完全封鎖され断念した事があります。ちなみにそのゴーストタウンはすでに全て解体されており、新たに造成が始まっているようです。

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そしてこの廃墟と化した団地が、去年の夏より再び売り出されているそうです。

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昭和レトロブームの延長と言うか、ここをリノベーションして住居または店舗として借りようとする人が殺到しているとか。

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今まさに改築工事の真っ只中。解体も考えられていたそうですが、エンジョイワークスと言う鎌倉のまちづくり会社が市と協力して団地を再生し、再利用すると言う事になりました。

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募集をかけたのは例えばカフェ、アトリエなどの創作、菓子工房など宅配専門の飲食店、アクセサリーや古着などの販売店など。ネット販売が定着した現代ならでは可能なライフスタイルの提案から始めたようです。

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家賃は6万~7万5000円、管理費は5000円で、あくまで市営住宅の住居として借りるので店舗として始めるよりも安価。リモートワークが普通となったコロナ後の現代、奥さんの起業や副業、脱サラされた方の好きな事を生業とする第二の人生など、需要は多岐に渡る。ただし子供が居たら手狭だし通学も大変なので、子供が独立した後のご夫婦とか多いのかも。

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床や天井はすでに撤去されていました。間取りは基本2DK。棟と棟の間は広く庭付き。賃貸でありながらDIYによる改装も可能とか。探せばまだまだこのような廃団地などもあると思われますが、これがモデルケースとして成功すれば、各自治体の抱える似たような問題も解決出来るのではないでしょうか。

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トイレは和式便器が撤去されており、これから洋式のちゃんとした物が設置されるのでしょう。ただ、横須賀だからこそ借り手が殺到しているのかも知れません。これがもし千葉県茂原市の真名団地のような場所だったらどうか。

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キッチンとその奥に浴室。結構広々しています。三浦半島は葉山や鎌倉など、元々高級な別荘地も多く、また街も栄えています。車があれば横浜にもすぐ出れるし、そもそもが人気のある土地。

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ふた間共に開放的な縁側があるので、全体的に明るいです。都心の狭いアパートに比べたら、よっぽど開放的で良いですね。交通の便を除いてなら。

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団地の中を走る道路は最終的にアスファルトの敷き直しもされるのでしょうか。奥に何棟か潰した跡地のような空き地がありそこが駐車場になる予定ですが、駐車場代は月10000円。ただ、第二期入居者募集が2/1で締め切りとなったので、すでに全戸契約成立しているかも知れません。
お問い合わせはENJYOY WORKS様まで。
古民家再生など中心に手掛けられていますが、他にもなかなか面白そうな事をやられています。

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オーシャンビューとまでは行きませんが、奥まで行けば僅かに長浦湾が望めます。そりゃオーシャンビューだったら別荘が建ってますな。

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団地の一番奥から尾根伝いに道が続いていたので歩いてみます。

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崖地の狭い歩道。Googleマップでは道が途切れてますが実際は続いてます。もしかしたら下まで降りられるかも知れない。

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途中、何軒か住まわれている民家が。しかしアクセスが歩道のみで車が入れず、一体どうやって建てたのか謎。こう言う物件、横須賀ではちょいちょい見かけます。

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結論から言って、下のバス通りまで降りられました。しかし急な階段には街灯が点々とあるだけで、夜は相当暗そうです。

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振り返ったらこんな感じ。右の階段を登れば団地に出られ、左の階段は一軒の廃屋へ続いています。土砂災害とか怖いですね。

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いやー仕事早上がりの後に歩いた歩いた、と言いながら追浜駅前の立ち飲み屋「波平」へ。ここは昼間しか来た事がなかったのですが、夕方は地元の常連さん方で賑わいほぼ満席。

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実に良い雰囲気です。こう言う所の近くに住みたい。ただ横浜には出やすいけど都心に出るには遠いんですよね。しかし追浜にはまだ気になる飲み屋なんかもあるし、また来たいですね。

神奈川県横須賀市、千代ヶ崎砲台跡

さて、走水砲台と川間ドックの後は観音崎の南の岬にある千代ヶ崎砲台跡に行ってみます。

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川間ドックの少し先、急な坂道を延々と登って行くと千代ヶ崎砲台に辿りつきます。こちらは走水砲台に比べると全然高い位置にあります。土曜日曜祝日のみの公開となりますが、ボランティアガイドによる親切な案内と説明もあります。いずれも無料ですが、ガイドをしてもらうと地下内部まで入らせてもらえます。

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千代ヶ崎砲台は明治28年(1895年)完成。こちらは塁道という通路。左手の盛り土された部分の向こう側が砲台となります。明治大正期の砲台は基本的には石積みで、ところどころに煉瓦が使われています。ちなみに東京湾の砲台に使われている石材は、対岸の富津市鋸山で産出された房州石と言われています。

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ここは終戦まで使われていましたが、戦後、昭和35年(1969年)より海上自衛隊の通信施設、千代ヶ崎送信所として利用されてました。左手のコンクリートの壁面は自衛隊施設時代の名残り。ちなみにコンクリートは幕末より日本に入って来ていましたが、一般的に建築で使われるようになったのは関東大震災後と言われています。

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塁道から各砲座までは地下通路で繋がっています。千代ヶ崎送信所は2013年に閉鎖され、2016年に横須賀市管轄となります。以降、埋め立てられた砲座を掘り返すなどの発掘作業や施設整備を経て、2021年に一般公開されるようになりました。

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濾過池(奥)と沈殿池(手前)。こちらでは雨水を集めて濾過し、飲料水としていました。

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明治20年代以降の建築なので、ここの煉瓦はオランダ積み(イギリス式)となります。入り口付近の色が黒っぽい煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と言って、焼き過ぎる事で撥水効果を出しているとか。

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雨水が当たる所は黒ずんだ焼き過ぎ煉瓦。煉瓦建築も知れば知るほど奥が深い。

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塁道に面しているのは兵員詰所や倉庫。火薬はその奥の地下部分になります。

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兵員詰所を内部から見たところ。当時の鉄扉や窓枠などの金属部品は、戦後の混乱期に悉く盗まれてしまったとか。左下の小さな穴は換気口。

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部屋の一番奥には排気口があります。

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排気口の地上部分はコンクリートで埋められてました。

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こちらが詰所の奥にある火薬庫。

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火気厳禁なのでランプは部屋の外にあり、明かり取りから採光する形。

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火薬庫の中には地上の砲座に火薬を揚げる縦穴が2箇所あります。

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火薬庫の奥の階段を昇り砲座に出て来ました。

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千代ヶ崎砲台には3箇所の砲台があり、それぞれに28ミリ榴弾砲が2門づつ、計6門の大砲がありました。

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砲台は土塁に囲まれたすり鉢状となっています。これは敵艦に発見されないためで、逆に砲撃する際は観測所から角度やタイミングが指示されます。

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昔の潜水艦映画などで見るような、通信するための管。これで観測所からの指示が届きます。ガイドさんの説明を聞きながら巡ると砲台の構造が良く理解出来て面白いです。

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これが砲座の一つを上から見たところ。東京湾要塞の砲台は、その大部分が三浦半島に集中しています。それはひとつに東京湾の入り口である浦賀水道が、最も対岸との距離が近い事。もうひとつは千葉県側は遠浅で水深が浅いため、艦船はどうしても三浦半島の東海岸に沿って航行しなければならない事。

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一度埋まっていたこれらの砲座を掘り出したと言うのだから、ほぼ発掘作業ですね。また当時の大砲は飛距離も無く命中率も低いため、浦賀周辺以外に造る意味があまり無かったそうです。

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こちらは先程まで歩いていた塁道を土塁の上から見たところ。この千代ヶ崎砲台は他の各砲台と同様、結局火を噴く事はありませんでした。それもそのはず、大艦隊で東京湾に押し寄せたところで、浦賀水道を抜けるには一直線に並ぶしか無く、いい標的となってしまうのでわざわざ東京湾から上陸しようとは思いません。実際、太平洋戦争末期、アメリカが計画した首都制圧作戦(コロネット作戦)では相模湾と九十九里浜に上陸する予定でした。

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もちろん抑止力としての役目は果たしましたが、それ以前に徳川家康が幕府を開く地に江戸を選んだ時点で、天然の要塞は出来上がっていたとも言えます。

神奈川県横須賀市、走水砲台跡と川間ドック

横須賀市の南、以前訪れた観音崎砲台跡の近くにある走水砲台跡と川間ドック、千代ヶ崎砲台跡に行ってまいりました。

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JR横須賀駅より観音崎行きのバスに乗って行きます。横須賀の海上自衛隊基地には輸送艇くにさきが停泊中でした。

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観音崎の手前、西側の入江は走水漁港。乗り合いの釣り船宿が多く、釣り師たちで賑わっています。

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走水砲台跡は漁港の横須賀寄り、西側の小高い岬に造られています。当時の階段が急過ぎるため、坂道を迂回して登ります。

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砲台は全部で四基。右翼側(海に向かって右)より第一から第四まで並んでいます。こちらは第一砲座。

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こちらが当初設置されていた27cm 加農(カノン)砲です。

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第一砲座と第二砲座の間には地下火薬庫があります。この走水砲台は明治18年(1886年)、陸軍によって建造されました。時に明治政府が内閣制度を創設し、伊藤弘文が初代首相に選ばれた年です。

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火薬庫の中は煉瓦壁に除湿のための漆喰が塗られています。この火薬庫の左右に縦穴があり、第一、第二、それぞれの砲台へと砲弾と火薬が吊り上げられていきます。これよりちょっと歴史のおさらいをして行きます。

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火薬庫の上には司令官が指揮する台があります。東京湾の要塞化は幕末の文化7年(1810年)、会津藩が相州側の江戸湾警備を命ぜられた辺りから始まります。会津藩の駐屯は10年ほどで終了し、文政4年(1821年)からは浦賀奉行所の管理となります。

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こちらが右翼側から二番目の第二砲座。会津藩はまず観音崎、久里浜、城ヶ島に砲台と陣屋を築きました。この時代の砲台は対外国船と言うより薩長を警戒していたのかもしれません。

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右翼側の第一第二砲座と、左翼側の第三第四砲座の間には、兵士の詰所があります。嘉永6年(1853年)ペリー来航。これを契機に品川台場が建設され、以降東京湾の要塞化は加速して行きます。

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こちらが詰所内部。地下になるので当然薄暗いです。ペリー来航から14年後の慶応3年(1968年)、明治新政府の樹立により東京湾要塞は明治新政府による管轄となりました。

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鉄筋が残っている何かの台座。こちらも遺構になるので、ちゃんと残されています。東に隣接する観音崎砲台は、明治13年から20年代にかけ、江戸末期の台場跡に新たに砲台基地を随時建設。ちょうどこの走水砲台と同時期になります。ちなみに横須賀沖の猿島砲台は前年の明治17年竣工。

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こちらは第三砲座。周辺の窪みは砲弾置き場です。走水砲台はその後関東大震災の被害を受け復旧工事を受けたものの昭和9年除籍。しかしその後横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として9cm速射加農砲4門が移設され、終戦時まで残っていたそうです。

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第三砲座と第四砲座の間にある火薬庫。こちらは閉まっていました。

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最後に第四砲座。最近まで走水砲台跡は非公開でしたが、現在条件付きで公開されています。土・日・祝 はガイドなしで自由に見学可能ですが平日はガイドを予約する必要があります。

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一旦浦賀へ。浦賀ドックも一度見学したいのですが、定員予約制で第二第四日曜日しか見学出来ません。こちらは浦賀ドックに水を供給するための水道トンネル。明治33年建造。

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浦賀ドックの南にある川間ドック。こちらは当時、東京石川島造船所の取締役会長だった渋沢栄一氏によって、明治31年(1898年)に完成した煉瓦積みドライドックです。

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川間ドックは現在マリーナの敷地内となっております。浦賀ドック(明治32年建造)は海水を抜いた状態で保存されているので底部まで見ることができますが、こちらは水面上の部分のみが遠目に見えるのみとなっております。
次回、千代ヶ崎砲台に続きます。

神奈川県横須賀市追浜(4)、旧第一海軍技術廠周辺の遺構

神奈川県横須賀市追浜(1)、第三海堡構造物(移築)
神奈川県横須賀市追浜(2)、追浜周辺の立ち飲み屋
神奈川県横須賀市追浜(3)、追浜駅前の水上商店街

追浜駅より日産自動車のある海岸方面へ。以前訪れた第三海堡や貝山砲台の手前の丘陵地にも戦争遺跡が存在します。

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まずはこちら。旧第一海軍技術廠第一研究場です。現在では青木製作所様が建物をそのまま利用されています。

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裏に回るとこんな感じ。結構当時の姿をとどめています。日産自動車追浜工場は元々横須賀海軍航空隊の跡地で、それに隣接するこの場所に航空機関連の研究施設が存在しました。

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一部表層のモルタルが剥がれた箇所から赤煉瓦が顔を覗かせています。コンクリート建築ではなく、あくまで煉瓦建築。

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隣に建つのが旧第一海軍技術廠第四風洞場。ここ浦郷町には大正3年に飛行機工場が置かれ、その後大正14年に海軍技術研究所航空研究部となりました。

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裏手側はこんな感じ。昭和に入ってからと思われますが、文字通り風洞実験などが行われていたのでしょう。ちなみに第一海軍技術廠は海軍の航空機の技術開発、設計を担っており、全国の工場で生産すると言った流れがありました。

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その並びで奥に進むと高圧風洞場跡の建物。いずれも現在では東邦化学様の工場として使われています。当時この研究所で開発された航空機の代表的なものとして、彗星、銀河、震電、桜花、秋水、橘花などがあります。いずれも大戦後期の流線型の機体ですが、ここで風洞実験を繰り返されていたのでしょう。

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ちなみにこの丘陵は北に航空基地、南に深浦湾、さらに南の田浦には以前訪れた機銃工場などがある海軍工廠造兵部があります。

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裏に回るとこんな感じ。ここで国産ロケット機である「桜花」や「秋水」、ジェット戦闘機「橘花」(エンジン開発のみ胴体は中島飛行機)などが開発されていた訳です。あの丸い穴は何だ?

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一番奥の階段を降りると旧第一海軍技術廠の深浦門の門柱が残っています。

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日産自動車へ戻る追濱隧道の手前、高圧風洞場跡から続く等速実験のための水路があります。

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どのような実験が行われていたのか、調べても難しすぎてよくわかりません。

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水路の跡を辿って行くと、地下へと続く穴が。水路のための穴か地下壕の入り口か定かではない。

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追濱隧道の上の小道を歩いてゆくと、途中に史跡の官修墓地があります。これは明治10年、西南戦争での戦傷病者が船で帰って来た時にコレラが発生。そのご遺体の中で身元が分からなかった方々が第一海軍技術廠の南の黒崎海岸で火葬され埋葬されたそうです。その後明治45年に黒崎海岸が海軍に接収された際にこの地にお墓が移設されたとか。横須賀の軍港としての歴史の古さを感じます。

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追濱隧道の北側に降りると、左手の斜面に地下壕の入り口がありました。

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大戦末期、爆撃機が飛来するようになると、航空基地や研究施設の設備や機能の殆どが地下施設へと移設されます。

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更に奥に進むと日産の手前にある神明社。その参道の途中にも地下壕の入り口を発見。東側の貝山砲台跡の貝山地下壕と同様、丘陵地の下には地下壕が張り巡らされました。

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中に入る勇気は無い。入った所で真っ暗だし。

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神明社の階段を登り切ると、更に奥へと進む小道がありました。

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戦争遺跡を求めて分け行ってみれば、何やら右手に廃屋が。

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まさかの生活道でした。とは言え既に使われていないのか。いや、街灯が点いてるしまだ住われているのか。

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まさかの住宅地。廃屋を含めて3軒確認できましたが、もちろん裏に道路が走っている訳じゃなく、これが唯一のアプローチという。横須賀の傾斜地には結構こう言った家屋があるようです。建てるのも引っ越すのも大変そう。

神奈川県横須賀市追浜(3)、追浜駅前の水上商店街

神奈川県横須賀市追浜(1)、第三海堡構造物(移築)
神奈川県横須賀市追浜(2)、追浜周辺の立ち飲み屋
神奈川県横須賀市追浜(4)、旧第一海軍技術廠周辺の遺構

日産のお膝元、企業城下町でもある追浜は奥が深い。と言う事で、やっと仕事も暇になって来た事だし追浜再訪して来ました。

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追浜駅東口前通りの左手、一本裏の路地。駅前通りと並行して流れる鷹取川は、まず暗渠から始まります。

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更に一本裏の通りには、渋い商店街が。歴史がありそうなお豆腐屋さん。

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こちらは消防団。昭和の時代、消防団の詰所と言えば地元の子供会が集まるコミュニティでした。

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渋い街中華のもあります。

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はびき野さん。店内に入ると更に激渋な空間が。お婆ちゃんと息子さんらしき方が切り盛りされています。

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サンマーメンを頼みましたが、正直普通のラーメンを頼めばよかったと後悔。もちろんサンマーメンも美味いのですが、それ以上に細めの縮れ麺とスープが美味くて、シンプルなラーメンでも味わいたいと思ってしまいました。まさに懐かしい中華そばってやつです。

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通りを奥、東に進んでゆくと、廃墟然とした団地があります。まだ数軒住われている棟もあるみたいですが、解体は時間の問題。

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さて、こちらが目的地。建物が暗渠から地上に顔を出したばかりの鷹取川に張り出しています。

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いや、これは張り出していると言ったレベルじゃありません。建物丸々川の上に建っています。

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表側に回れば駅前通りである夏島貝山通りの商店街。

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行きたいと思っている所で北九州市の旦過市場ってのがありますが、そんな感じか。

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およそ100メートルちょっとって所でしょうか。全体像はこんな感じです。

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元々鷹取川は西の鷹取山で採取された鷹取石を水運で追浜まで運んでいたそうです。しかし関東大震災に際し川底が隆起して運搬船の航行ができなくなったとか。その後昭和に入ってからの宅地化などで暗渠となり、川が塞がれて行ったそうです。
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