2021年の夏に流山市のキッコーマンみりん工場を訪れましたが、そこはキッコーマンの前身である野田醤油株式会社設立時、野田醤油の出資によって万上味輪株式会社が設立されたのを発祥としております。そんな訳で今回、キッコーマン発祥の地である野田にやってまいりました。

東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。

東武野田線(アーバンパークライン)にも新型車両が登場したようです。この80000系は今年3月から投入された車両で、写真撮ってる人も幾人かいました。野田線は元々、野田の醤油を常磐線の柏駅まで運ぶ千葉県営鉄道野田線が明治43年(1910年)開通した事が始まりとなります。

でもやっぱり野田線と言えば8000系ですね。大正11年(1922年)には京成の初代社長である本多貞次郎が中心となり野田醤油醸造組合が県営鉄道を払い下げ北総鉄道を設立。本多貞次郎はそのまま初代社長に就任しました。昭和4年(1929年)大宮まで延伸した事から総武鉄道と社名変更。この頃から社長も茂木七郎右衛門(野田醤油初代社長)が就任。昭和19年(1944年)、東武鉄道に吸収合併され、東武野田線となりました。

いや、初っ端から野田線でそんな文字数割いてどうすんだいと思いつつ野田市駅に到着。駅舎は高架化され駅前も区画整理真っ最中って感じです。

そもそも野田市駅の東も西もキッコーマンの工場群に囲まれていますが、今回は西側の江戸川に向かって歩いて行きます。工場内にはキッコーマンもの知りしょうゆ館と言う醤油に関して学べる施設があるのですが、予約制との事だったので入れず。

工場の敷地内には昭和初期かと思われるような建物も幾つかありそうです。キッコーマン醤油は大正6年(1917年)、当時の有力醸造業者であった茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立した野田醤油が始まりであります。

野田駅の南西側、野田線開業当時から昭和4年まではこの辺りに終着駅である野田町駅がありました。清水公園駅まで延伸する際現在の野田市駅の位置に旅客駅が移転。以後ここは貨物駅として昭和60年(1985年)まで使われ続けたそうです。跡地は現在総武物流がありますが、この総武物流の前身となる野田運輸は元々舟運を主軸としていた会社です。大正13年創業で初代社長は茂木佐平次。

こちらは旧・野田醤油第一給水所。大正12年(1923年)野田醤油が工場や地域住民のために掘削した給水所で、昭和50年まで使われていたそうです。

さらに北へ歩くと春風館道場があります。こちらは大正6年(1917年)、野田醤油株式会社が設立された際に本店社屋として建設された建物。昭和2年(1927年)現在地へ移築され、以後剣道などの武道場として使われています。

さて、引き続き街並みを歩いて行きます。ここは野田市立中央小学校。校舎は昭和3年建築の震災復興建築ですが、装飾など凝っています。

こちらは大正15年(1926年)建築の旧・野田商誘銀行。ここ野田市は関東大震災での被害が大きかったようで震災後に建てられた建築物が目立ちます。この野田商誘銀行は明治33年(1900年)、茂木家を中心とした醤油醸造業者たちによって設立されました。そのため株主も歴代の頭取も茂木家や高梨家などが務めており、商誘と言う銀行名も「醤油」をもじったとか。戦時中の昭和19年、国の政策によって千葉銀行へと営業権を譲渡させられ、以後は千葉銀行野田支店となりました。

旧・中村商店。明治大正期から炭や肥料などを扱う商家として栄えました。現在はリフォームされカフェや小物などの店として再生されています。

茂木一族や高梨一族らが設立した興風会によって昭和4年(1929年)に建てられた興風会館。最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、市内の文化、体育関係の事務局がおかれています。まさに野田市のランドマーク的な存在。

こちらは旧・山西商店。昭和7年建築。野田市は関東大震災の被害こそ受けたものの、戦時中の空襲の被害は受けなかったようですね。

アド街などで有名になったご当地グルメのホワイト餃子。昼ご飯でもと思って行ってみたらお土産専門になっており、しかも朝8時開店で即完売だそうです。テレビで話題になるのも考えものですね。

仕方ないので中心街に戻り蕎麦屋「ななつや」さんに。

最近メニューにモツ煮定食があったら頼んでみる事にしています。各地でモツ煮の食べ比べ。ここはかなり美味かった。イカフライも柔らかく有難い。満足しました。

近くにあった松島屋商店。詳細は不明。

江戸川の近くまで歩いて来ました。こちらは茂木一族に次ぐ野田醤油の有力一族である高梨一族の本家、高梨兵右衛門家の邸宅跡。この門長屋は1766年建造、

建物の内部は公開されていませんが、500円で庭園と資料館は見る事が出来ます。

邸宅の裏手には1835年建造の船着場と構堀が残っていました。かつてはこの運河から江戸川に出ることが出来たそうです。まるで城郭のような石垣が見事です。

大正から昭和初期にかけての醤油造りの道具なども展示されています。

高梨邸の向かいには以前使われていたキッコーマンの煉瓦倉庫が保存されています。こちらは昭和7年建造。

倉庫の隣は広大な空き地となっていますが、こちらにもキッコーマンの工場がありました。現在は北側に移転されていますが、一棟だけ解体されていない工場が残っています。

江戸川の土手まで来ました。こちらは江戸時代からこの場所で河岸問屋を営んで来た桝田家住宅。建物は明治4年(1871年)建築。かつてこの辺りは河岸(船着場)などがあり賑わっていました。船着場から野田市駅付近までは人車鉄道が敷かれており、様々な物資が行き交っていましたが、舟運が鉄道へと変わりその役目を終える事となります。

江戸川は北東の関宿にて利根川より分岐して、東京湾へと流れて行きます。館林などから小麦が運び込まれ下流の行徳からは塩が運び込まれ、野田で造られた醤油が江戸の街、日本橋へと運ばれて行きます。

野田線を線路沿いに柏方面へ少し歩いた所、大谷石造りの倉庫があります。こちらは秦野精麦株式会社肥料工場の倉庫だった所。工場はもう無くなってしまい、倉庫は家具の修理や再生をしている現在唐木細工望月と言う会社の工房に使われているようです。
続きます。


















































戦時中の交通統合策で、同じ線路幅で貨車も直通している東武と統合するのが得策とされたのでしょうけど、京成としてはたまらないですよね。
戦後、鎌ヶ谷あたりでエリアのかぶる鉄道計画が再び出たとき、「絶対に他社に奪われないように!」という思いから、前記事にある「新京成電鉄」という名前にしたのかも?
一方の東武は、群馬栃木が主要エリアの鉄道だけに、野田線なんて再婚した相手の連れ子みたいな感じでネグレクトされてたイメージですね。
2013年に1つ前の新車60000系が入るまで、8000系も初期の古いのが多い印象でしたし、それより前の平成の初めくらいまでは、本線や東上線では明らかに使えないボロ電車が走ってました。
(その頃どんな電車だったかの解説。写真は模型ですが)
https://jagnoise.blog.jp/archives/33185254.html
この方、旅ブログもしてます(以前触れました)が、最新記事はバイクで自由気ままに宮脇俊三作品の舞台を訪問と、宮脇ファンとして思わず嫉妬心の炎が。
うなぎさんにこの気持ちを共有してもらえるよう、あえて1つ前の記事リンクを貼ります…って、こんなの見ちゃうと同じ廃校訪問して法外な撮影料取られたのが、馬鹿らしくなりませんか?
(記事最後の「続く」で飛ぶ次が、宮脇俊三「ローカルバスの終点へ」です)
https://jagnoise.livedoor.blog/archives/36551392.html