東京都立川市にある旧陸軍立川飛行場周辺の戦争遺跡を巡って来ました。

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JR中央線立川駅の北側。多摩モノレールの左手には立飛ホールディングスが2020年にオープンした複合施設、グリーンスプリングスが続いています。

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その裏手には国営昭和記念公園が広がっています。大正11年(1922年)開設された陸軍立川飛行場は終戦後GHQに摂取され米軍基地として利用されて来ましたが、跡地は現在の陸上自衛隊立川駐屯地ならびに昭和記念公園となっています。

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その不動産賃貸業などを営む立飛ホールディングスの前身が立川飛行機、後の立飛企業。大正13年(1924年)石川島造船所(後のIHI)を中心に出資して設立された石川島飛行機製作所を前身とする中堅航空機メーカーです。昭和5年(1930年)ここ立川へと移転し、昭和11年立川飛行機製作所と改名しました。

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立川飛行場の東側に隣接していたのが立川飛行機の軍事工場。非常に広大な敷地で現在も工業地帯として残っております。立川飛行機は戦時中、主に帝国陸軍の練習機などを生産しており、その代表格が九五式一型練習機、通称赤とんぼと親しまれていた複葉機です。

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立川飛行機の工場は空襲により大きな被害を受けましたが、多摩モノレールでひと駅行った高松駅から見えるこの建物などは、空襲を逃れた当時の建物と思われます。他にもノコギリ屋根の棟など軍事工場当時の建物が残っていると思われますが、その辺の判断は難しいです。

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立川飛行機は練習機や輸送機の開発及び生産を続けつつ、大手である中島飛行機(現在のスバル)が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産も行っていたそうです。

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昭和13年建設のこちらの給水塔も当時の面影を残しています。陸軍の航空機ばかり生産していた立川飛行機ですが、ちなみに海軍による赤とんぼ(練習機)は西宮市にある川西航空機(現・新明和)で開発、生産されていました。その後新明和は戦後初の国産旅客機YS11の開発に携わり、海軍の飛行艇を製作していた頃の技術を生かして自衛隊の飛行艇を開発するに至ります。

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隣の立飛駅周辺も立飛の工場に囲まれています。その工場敷地内にもうひとつ給水塔が。こちらも当時の建造物です。戦後も航空機メーカーとして復活する川西などに対比して、立川飛行機は1952年に戦後国産第一号機であるR-52型軽飛行機(練習機)を開発したものの、すでに時代遅れの技術であり量産には至らなかったそうです。その後不動産賃貸事業が中心となる立飛ですが、200名の社員で分離独立して立ち上げた「たま電気自動車」が後のプリンス自動車となり、スカイラインの開発へと続きます。スカイラインと言う名称がかつての航空機産業から来ているかどうかは、それは想像に過ぎませんが。

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多摩モノレールで更に北へ進み東大和市に入りました。玉川上水駅の北東、公園内に旧・日立航空機立川工場変電所跡があります。この日立航空機立川工場は、先に述べた立川飛行機に航空機エンジンを供給していた工場でした。母体はもちろんあの日立製作所です。日立は航空機開発には参加せず、あくまで下請けに専念していたんですね。尤も炭鉱やモーターなどの機械産業が主体でしたから。

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変電所は現在、水曜日と日曜日のみ内部が公開されています。ボランティアの方に解説して頂きながら廻って行きます。この日立航空機の前身は機械工業の先駆け的な存在である東京瓦斯(ガス)電気工業です。

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東京瓦斯電気工業は昭和14年に日立グループへ経営権を譲渡し終戦までエンジンを造り続けましたが、終戦後も鋳造分野の機械産業の場でゼノアなど社名を変えつつ存続しています。

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とにかくこの建物は機銃掃射による弾痕が生々しいです。こちらは階段脇の弾痕。機銃掃射は主に空母から飛来した戦闘機によるものも。それ以外にも、直撃は免れたものの爆撃による飛散物で抉られた跡もあるとか。

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裏に廻ると貫通した跡があります。右上の抉れている部分は鉄筋に当たって銃弾が貫通していないものの、その衝撃でコンクリートが剥がれた跡です。昭和13年(1938年)に完成した建物ですが、工場の敷地内の片隅で1993年まで稼働していたからこそ残っていたのかも知れません。

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外壁はまさに蜂の巣状態。戦争の激しさをここまで生々しく残す戦争遺跡も珍しいです。

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建物の脇には戦没者慰霊碑が建っています。立川の軍事施設群は3度の空襲を受け、110名が犠牲となりました。

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太平洋、つまり南側から米軍機が飛来して来たので、北側の壁には砲弾の跡がありません。

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戦前から戦後、高度経済成長など、様々な時代を生きてきた建物ですが、変電所故にでしょうか、改修工事とかそう言う物が為されて来なかったのでしょう。この扉にしても昭和初期の物と思われます。

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一部、塀も残されています。かつて建物を周回する塀によって、この戦争遺跡は隠され続けて来ました。

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さて、中に入って行きます。内部には貴重な資料や写真などが展示されており、戦争末期の度重なる空襲の事などが学べます。

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東洋陶器(TOTO)のロゴマークからこの洗面台は建設当時の物だと分かるそうです。変電所と言う利用のされ方も絶妙だったからこそ、あらゆる所が昔のままなんでしょう。

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銃弾によって抉られた階段の手摺りと二階スラブ。下から上に軌道を描いている事から跳弾による物と思われます。

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2階に上がってみると、変電設備が残っていました。昭和20年(1945年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機による最初の空襲がありました。これは大戦末期、帝国海軍が壊滅状態となっていた事で太平洋東沖まで空母の侵入を許してしまったためだそうです。16日に厚木海軍航空隊の最新鋭戦闘機、紫電改(川西飛行機)で迎撃するも、厚木飛行場や中島飛行機武蔵工場(武蔵野市)が爆撃されるとともに、17日ここ立川も機銃掃射を受けました。

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片隅には仮眠室が。畳一畳ほどの寝台があり、24時間人が詰めていたようです。建物内の建物で面白い造りをしています。2回目の空襲は同4月11日P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射。帝都防衛のために航空基地を造りまくり、工場を移転させる地下トンネルを堀りまくっていた時期ですが、成人男性の多くが戦地へと送られていた事で労働力不足に陥っていたため建設が間に合いませんでした。

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仮眠室の内部です。いつ頃どのくらいの頻度で使われていたのでしょうか。3回目の空襲は同4月24日、いよいよサイパンから硫黄島経由で101機のB-29が飛来します。

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この辺のロッカーには瓦斯電(ガスデン)のプレートが。つまり建設当時から使われていたと言う、なんて物持ちがいいと言うか、ロッカーぐらいスチール製にしてもいいのに!

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この消化器を示す木製パネルも相当な古さですね。こう言った物は例えば廃墟などでは腐敗して残っていない事が多いです。現役で使われ続けていたからこその奇跡。

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明電舎のプレートがありましたが、これもまた建設当時の物。使用されなくなって30年以上が経っている訳ですが、一般公開に向けて綺麗に掃除しただけで機器類はそのまま残っていたと言う事でしょう。

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ヒューズとかカッコいいって思ってしまいます。しかしここにも弾痕が。銃弾食らってんのに修理しながら55年もの間使い続いていたと言う事です。物持ち良すぎ!

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奥の部屋はこんな感じです。この建物は1階が事務所、2階が詰め所と変電設備と言った造りのようです。昔の変電設備がここまでしっかり残っているのも凄い。

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碍子とか配線とか、なんか興奮します。これは電気業界に於ける博物館とも言えるでしょう。これでも戦後の小松ゼノア(旧・富士自動車)時代に設備が更新されているそうですが、どこが更新されているのやら。

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かつてこの先には工場が広がっており、その先の空から米軍機が襲来して来ました。そんな光景を今でもどこかの国の人が目にしているのかも知れません。そんな訳で小さな建物でしたが、戦争の壮絶さを肌で感じる事が出来るような、非常に見応えのある建物でした。

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シメは立川駅南口東側の歓楽街にある立ち飲みえびす屋さん。

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しばらく立川で仕事があったので、何度か通いました。店内は電子タバコのみ可。紙タバコは店頭のカウンターのみ。いや、立川は紙タバコOKの店がほとんど無いです。

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そんな立川駅南口なのですが、商店街全域が宗教都市化していると言うね。