前回深谷の宿場町を散策した翌日、続け様に深谷へ行ってしまいました。

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今回はレンタルサイクルのハローサイクルを利用して廃線跡を巡ります。ハローサイクルは都心部に集中して増殖中ですが、飛び地のように深谷駅前にもありました。観光用としてもっと地方都市にも増えて欲しいです。

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深谷駅の東側を東京方面に向かって高崎線と並走するように日本煉瓦製造専用線の廃線跡が始まります。

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まず最初に目につく遺構はつばき橋。煉瓦造りの橋台とガーター橋は当時のもので、上の歩道部分は後から付けたもの。

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廃線跡はほぼそっくりそのまま歩道及びサイクリングロードとして活用されています。

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途中には休憩出来るベンチが設置されており、このようにお昼寝も出来ます。

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途中、福川に掛かるあかね橋を渡ったところに、専用線当時のガーター橋が移設保存されています。これは明治28年(1895年)の建設当時の物で、現存する日本最古のポーナル型プレートガーター橋だそうです。

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こちらは福川の北側に広がる水田地帯に架けられていたボックスガーター橋。どちらも深谷市の指定文化財に登録されています。

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住宅街を抜ければ長閑な風景が続きます。日本煉瓦製造は当初船運による輸送を行なっていましたが明治28年(1895年)、高崎線深谷駅(明治17年延伸開業)まで日本初の民間専用線として開通しました。

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水田ではちょうど新米の収穫がされています。日本煉瓦製造が深谷に造られたのは周辺で煉瓦製造に適した土が採れたからと言います。その土も渋沢栄一が周辺の畑作農家に対して、水を引くための灌漑工事をこちらでやって稲作出来るようにするから土をタダでくれ、と言って材料である土を集めたそうです。当時は畑作より稲作のが儲かる事もあり、周辺農家とwin-winの関係を築いていたと言えます。

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その灌漑用水路の上を跨ぐ煉瓦造りのアーチ橋。アーチ橋と言えば碓氷峠の碓氷第三橋梁も日本煉瓦製造で造られた煉瓦を使用しております。

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アーチ橋の隣にある備前渠鉄橋。国指定重要文化財となっております。もうすぐ日本煉瓦製造の敷地に入ります。ちなみにこの日本煉瓦製造専用線は昭和50年(1975年)廃止となりました。

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サイクリングロードをそのまま進むと日本煉瓦製造の煉瓦塀が見えてきます。

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日本煉瓦製造株式会社はここ深谷出身の渋沢栄一らによって明治20年(1887年)に設立された、日本初の機械式煉瓦工場です。

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この旧・事務所棟は開業の翌年明治21年(1988年)に建造された瓦葺き木造平屋建て事務所。

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当初は煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導のために招き入れたネスチェンテス・チーゼ技師の住居として使われていましたが、その法外な報酬のため問題視され、明治22年には帰国しています。その辺、富岡製糸場と同じ轍を踏んでいます。ちなみに渋沢栄一は明治5年の富岡製糸場開設にも関わっています。

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内部は残念ながら非公開ですが、明治期の木造建築は超貴重なので無理もないです。

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旧・事務所棟の奥には変電室も残されております。こちらは明治39年(1906年)高崎水力電気株式会社より電線を敷設し、深谷でいち早く電気を導入した際に建てられたもの。ちなみに高崎水力電気は明治37年、榛名山南麓に上室田発電所を開設し電力供給を開始した会社。

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さて、こちらに保存されているのはホフマン輪窯6号窯。かつては煉瓦造りの煙突が聳えていましたが、関東大震災で倒壊。以後コンクリート造にされました。

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煉瓦を焼く窯ですが木造の屋根も付いていました。現在、極力手を加えないように耐震補強工事が進められています。ホフマン輪窯とは陸上トラックのような形でドーム状の窯が一周している物で、窯上部の穴から石炭を粉状にした粉炭を入れる事で徐々に温度を上げて行きます。それを時計回りに繰り返し、仕上がったらまた新しい煉瓦を焼き始める。いわゆる流れ作業で煉瓦を大量生産する窯です。

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ボランティアによる観光ガイドさんに案内され窯の中へ。煉瓦建築は東京駅をはじめ明治大正期の建造物に多く見られますが、関東大震災によって地震に対する脆弱性が指摘されるようになります。その後の震災復興建築をはじめとする昭和の建築物は鉄筋コンクリートが主流となり、煉瓦の需要は大幅に減少して行きました。

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日本煉瓦製造は後に秩父セメント(現・太平洋セメント) の子会社となり、2006年、株主総会において自主廃業を決定、清算されました。ちなみに秩父セメント(大正12年設立)の創業者である諸井恒平は日本煉瓦製造の創業メンバーとして渋沢栄一の推薦で入社し、支配人から取締役を経て明治40年には専務取締役にまで昇進した人物であります。

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かつてセメントの父と呼ばれる浅野総一郎は明治17年にセメントの官営模範工場を払い下げましたが、その際渋沢栄一に相談した所、煉瓦の接着などに使われていたセメント産業は儲からないから紡績をやりなさいと言われたそうです。しかし浅野総一郎はセメントの未来を信じて懇願し、役所に口利きしてもらいました。なんとも皮肉な結末に感じてしまいます。
さて、この後は渋沢栄一関連の史跡に立ち寄ります。