ちょっと涼しくなって来たって事だし、横浜市保土ヶ谷区の山の中に残る火薬工場跡地に行って来ました。

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相鉄星川駅は久々に降りましたが、いつの間に高架化されていたようで。しかし広々とした駅前は閑散としていました。ここから新桜ヶ丘団地行きのバスに乗って行きます。

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県公社住宅前バス停で降り北へ少し歩くとたちばなの丘公園があり、ここが日本カーリット火薬工場跡地となります。

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工房は一つ一つが土塁で囲まれており、短いトンネルで中に入るようになっています。これはいざ爆発事故が起きた際、被害が最小限に防げるようにするための安全対策です。それでも昭和30年(1955年)、火薬の充填作業中に混入した異物の摩擦が原因で爆発。同じ作業場にあった約600キロの火薬が誘爆し、さらに作業所内を手押し車で搬送中だった400キロの火薬にも引火し爆発したと言う事故がありました。この事故により3名が死亡、重軽傷者19名を出したそうです。

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1箇所だけ搬入搬出用トロッコの軌道が残されていました。かつてトロッコは手前右手にあったトンネルを通り、東側の火薬庫及び出荷場まで延びていたとか。ちなみにそのトンネルは現在埋め戻されています。

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こちらは第四混和室入り口。カーリット爆薬の原材料となる過塩素酸アンモニウムや硝酸アンモニウムなどを混ぜ合わせる工室があったそうです。カーリットとは火薬類の国内自給をするために北欧スウェーデンから技術導入し、国産の鉱物から製造される爆薬の名称です。

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大正8年(1919年)、保土ヶ谷の丘陵地に浅野セメント及び浅野財閥創始者の浅野総一郎によって火薬工場が建設され、翌1920年に日本カーリット株式会社が設立されました。浅野総一郎と言えばセメント関連の記事でも触れましたが、セメント産業の父と言われる人物ですね。

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裏手に廻ると建物はすでに解体され竹林になっているのが分かります。これがもし戦争遺跡などであればボランティアなどにより綺麗に整備されていたかも知れませんが、市の予算だけでは限界があります。

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こちらは第九填薬工室。いわゆる爆薬を筒などに充填する所ですね。明治期に於ける火薬の需要は主に軍事目的だったため、火薬製造は官営工場に限られていました。しかし炭鉱や鉱山など民間にも需要が増えて行く中、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発。官営工場から民間への払い下げ中止や海外からのダイナマイト輸入禁止などに伴い産業用火薬が不足。大正6年より民間での火薬製造が許可されるようになりました。

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赤煉瓦の内壁は建設当時、関東大震災以前の物でしょうか。コンクリート造のトンネルは逆に震災復興建築ではないかと、これは想像の域を出ません。折しも第一次世界大戦終結後、日本で2番目の民間火薬工場である浅野同族株式会社保土ヶ谷工場として稼働を始めたそうです。当時の浅野総一郎はと言えば浅野財閥の主幹産業である浅野セメントが、日本のセメント産業に於いて全国の生産高の半分を占めた頃であります。

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第九填薬室左手のトンネル。一つの工房には必ず2箇所トンネルが設けられています。1920年に日本カーリット株式会社を設立したものの大正12年(1923年)、関東大震災による被災を受け、日本カーリットは浅野セメントに吸収合併。その後太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)には軍需工場となり、戦後のGHQによる財閥解体を経て昭和21年(1946年)、GHQが火薬製造の再開を許可。昭和26年(1951年)再び日本カーリットに社名を戻したとか。

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内部は右手への横穴が。先程の横穴と繋がっていると思われます。平成7年(1995年)、周辺の宅地化が進が進んだ事と火薬の販売量の低下もあり保土ヶ谷工場は閉鎖。群馬県の赤城工場へ移転となりました。

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包装収函工室。いわゆる製品を箱詰めする工室。工場跡地はたちばなの丘公園として遊歩道などが整備されました。ただ今の時期は蜘蛛の巣が多い。横浜市も少ない予算の中、年2回業者に委託して草刈りはしていますが、遊歩道を歩く人が少なければすぐ蜘蛛の巣が張られてしまいます。自分の場合、せっかく張った蜘蛛の巣を破壊するのが申し訳ないと思ってしまうんですよね。

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こちらも中を覗くと左手へ続くトンネルがあります。元々火薬工場はその危険性から周辺に緩衝地帯を設けなければならないと火薬取締法で定められています。そのため広大な敷地は原生林に囲まれており、ホタルも生息しているとか。ちょうどそのホタル生息地の方で草刈り作業が行われていました。

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包装収函工室のもう一方のトンネル。土手の向こうの工室跡地の裏手は丘になっており、その上も遊歩道が通っております。そこからは木々の合間から、辛うじてトンネルの向こう側を見下ろすことも出来ます。ただ、この工場跡地の公園は、公園としてはまだ半分も完成しておらず、手付かずの場所も多くあります。

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内部も見事に煉瓦の内壁が残っています。中に入れるようにしてくれたらとつくづく思いますが、崩落の危険性とか色々あるのでしょう。

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導爆線工室。導爆線とはロープ状の爆薬であり、大型の例えば飛行機や船舶などの解体作業に用いられる事が多いそうです。

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この工室は元々第三包装工室として使われていましたが、 昭和30年代後半に導爆線を製造する工室に転用されました。時代によって製造する製品が変わると工室の用途も変わって行きます。

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導爆線工室もう一方のトンネル。合計4つの工室、8箇所のトンネルが残されていました。

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建屋は一切残されていませんが、大正から近代までの産業遺産としては非常に貴重な遺構だと思います。もちろん軍事目的である爆弾の製造もされていましたが、それ以上に鉱山に於いて発破の存在は欠かせない物です。地味ながらも日本の産業を支えて来た事は確かだと思います。

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最後に1箇所だけ残されている工場の塀。危険区域、火気厳禁、の文字が辛うじて読み取れます。

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公園内に掲示されている閉鎖前の日本カーリット火薬工場の全景。現在保存されている土塁は最盛期に40箇所あった内の4箇所とごく一部に過ぎず、右下の火薬庫跡地などは現在介護施設やマンションが建てられています。とは言え自然豊かな遊歩道として、その敷地は有効に活用されていました。