集落

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

  ⬜ 温泉ブログトップページ(フルプラウザ版) ⬜

【日記】埼玉県秩父、小鹿野地方攻略その1

公共交通機関を利用し日帰りの旅をすると、周れる目的地がかなり絞られてしまいます。なので、何度か訪れて記事にしようと思います。そんな訳で下書き的な意味での日記です。
去年の12月は浦山地区の廃村群を巡りましたが、あそこのように見事な廃村が集中している場所って滅多に無いようで、と言うか、廃屋が解体されずにあれだけの数が残っている事自体奇跡に近いようです。過疎化、高齢化に伴い秩父の山には他にも多くの廃村が存在しているだろうという想像もしつつ、小鹿野地方の山村を巡って行きます。

IMG_0139

まずは西武秩父駅へ。スタートが遅れてバスに乗れなかったため、とりあえずGW直前にオープンしたばかりの日帰り入浴施設、祭の湯に浸かって策を練ります。こちらは駅直結の施設で地下2000mから汲み上げたナトリウム塩化物冷鉱泉を加水加温、循環濾過して提供されています。内湯、露天、共に広い浴槽がいくつも有りますが天然温泉は露天にひとつだけ。後は薬湯という名の入浴剤浴槽や、人工炭酸泉などでお茶を濁してます。唯一の温泉もあまり特徴を感じられないものですが、まぁ600円で駅直結で汗を流せるなら、と言ったところ。
しかし隣接するフードコートはGWの人出の多さに対応しきれておらず、名物の草鞋カツは開店1時間で売り切れ。他の店も午前中なのに40分近く待たされるという体たらくぶり。

※祭の湯はオープンして26日目にあたる2017年5月19日、規定値を上回るレジオネラ菌が検出されたため、営業を一時休止しております。
※6/8より営業再開されました。

IMG_2476

西武秩父駅から西武バスで小鹿野町へ。小鹿野からは町営バスを乗り継いで白井差口行きに乗り、途中の大谷橋で下車。小森川沿いの街道筋に伸びる大谷集落を散策。

IMG_2478

早速第一廃屋発見。いや、そうじゃない。廃屋探しに来た訳じゃないのに、なんか変な癖がついてしまっている。

IMG_2481

トイレはやはり別棟のようです。

IMG_2479

山道の途中から集落のあちこちに至るまで、多くの道祖神や祠などを見かけます。左端は馬頭観音。

IMG_2477

過疎化高齢化で寂れた限界集落を期待なんて言ったら不謹慎極まりないのですが、結構人が暮らしているようです。春風にそよぐ洗濯物。

IMG_2487

今回の目的地はここ、両神小学校大谷分校跡。斜面を少し登って俯瞰で撮ったのですが、背後には荒れた墓地が。墓石が倒れてたり石仏の首が無かったり、そう、荒れていたのです。

IMG_2488

昭和46年廃校。以後、林間学校として利用されており、校庭にはバーベキュー施設も完備されております。玄関前には真新しい靴なども置かれており、今でもちゃんと管理されている様子。

IMG_2490

裏手、つまり県道側に回ると、実は二階建てであったのだと分かります。

IMG_2489

隣にある民家は空き家になったのか、解体工事が進んでいました。

IMG_2495

県道に降りる手前に小さな祠。しかし中の木彫の仏像は無造作に立て掛けられている。なんか荒れてます。

IMG_2497

廃屋を見ると、ついつい撮ってしまいます。

IMG_0143

大谷集落を出て川沿いに歩いて行くと、双龍の巌という切り立った岩山が。室町時代からの伝説が残ることから、この谷には古くから人が住んでいたのだと分かります。

IMG_2501

やがて数軒の民家が残る堂上集落に。使われなくなった火の見櫓の周囲は平坦な草地が広がっております。かつてはもっと多くの民家があったのではないかと想像できます。

IMG_0146

拓けた里まで下りて来ると、小鹿野町市街地の外れに当たる薬師の湯という道の駅に出ました。ここからは西武秩父と三峰口、小鹿野町、それぞれに出るバスが出ています。
最後にこの薬師の湯でひとっ風呂。内風呂のみですが、そこそこ広い浴槽。24度の単純温泉を加温、循環濾過して使用しています。あまり特徴の感じられない浴感ですが、湯上りはさっぱりスベスベで気持ちのいいお湯でした。

また何度か小鹿野町方面には訪れますが、そのうち小鹿野町や秩父の市街地をレンタルサイクルで巡って見たいとも思います。

埼玉県川越市、廃村、握津集落堤外地

 前回に引き続き荒川中流域の堤外地を訪れます。今回は塚本より上流、JR川越線を越えた左岸、握津(あくつ)集落です。

image

 さっそく民家跡を発見。ここは荒川の東側になりますが、住所的には川越市の飛び地となります。

image

 生け垣が農村風景の面影を残しています。ここ握津は他の堤外地同様、大正時代に始まった荒川改修工事によって、堤防の外側に取り残されてしまった集落です。その堤防も現在高さを上げるための工事がなされています。

image

 堤防の上から眺めると河川敷の水田地帯に雑木林が点在しているようにしか見えませんが、歩いて見ると生活道の痕跡があちらこちらに残っています。

image

 昭和の初め頃までは渡し舟の船着き場などもあり、およそ70世帯、500人もの人々が暮らしていたそうです。しかし堤防が内陸部に築かれて以降、昭和5〜6年に20〜30戸が強制移転。それ以降、平成15年までに26世帯が自費で移転。しかし平成11年の水害で全18世帯が床上浸水した事をきっかけに、平成16年には国から移転補償予算が出るようになったため、平成18年までには全世帯の移転が完了したそうです。

image

 廃村となった後、全ての家屋は解体され、現在このような空き地しか残っていません。荒川改修工事は東京を水害から守るためのものだったそうで、その際幾つもの集落が堤外地として犠牲になってしまいました。どこかダム湖に沈んだ村などを思い出します。

image

 左奥の高台にも住居跡があります。よくある農村風景から民家だけが消え去っています。

image

 僅かに残る遺構。確かにこの場所で人々は暮らしていました。

image

 木製の古い電柱。川沿いに長く広がる大宮カントリークラブのための送電線と所々僅かに掛かる電線以外は、昔のまま時が止まっています。

image

 しかしここも前回紹介した塚本集落同様、農地だけはそのほぼ全域が現役で使われていました。

image

 水田の所々に建つ小屋は水を汲み上げるポンプ小屋かと思われます。

image

 直進すると家々を繋ぐ生活道。左手は民家に上がる私道です。

image

 こちらも民家跡。かなり立派な家屋が多かったと想像出来ます。

image

 集落の中心にただ一軒、公民館の跡だけが解体されずに残っています。その入り口脇に庚申塔が残っていました。

image

 公民館はすでに使われておらず廃墟と化しています。

image

 公民館の左手前には集落の各所から集められて来たのでしょうか、馬頭観音やお地蔵さんなどが無造作に並べられています。しかしよく見るとお地蔵さんの首が!
 いかん、趣旨が変わってくる。急に怖くなって来ましたが大丈夫。少なくとも先日行った浦山地区みたいに熊は出ないから。

image

 公民館左手には防火水槽が残っています。

image

 そして裏手には雑草に覆われた廃神社が。どうもこの握津集落は、下流の塚本集落とどこか違った雰囲気が漂っているように感じてしまいます。

image

 集落を抜けて荒川まで出ると大宮カントリークラブ。急に近代的かつ現実的な世界へと解放されます。
 なんだこの雲は!wwwww

埼玉県さいたま市、廃村、塚本集落堤外地

 JR京浜東北線浦和駅からバスで西へ、荒川の河川敷にある廃村を訪れました。

image

 秋ヶ瀬公園の北に位置するこの場所は、サイクリングロードにもなっている荒川堤防の河川敷側にあります。私は20年ほど前、川口からサイクリングで来た際ちょうどこの辺りで引き返した記憶があり、その当時はまだ集落が存在していたのですが、まさか堤防の外側に村があるなど想像もしていませんでした。

image

 堤防の東側には塚本の本集落が存在します。だいぶ宅地造成も進んでいますが、かつて堤外に住んでいた人々もこちら側に引っ越されました。

image

 集落は上流側の外東地区に二軒、下流側の外西地区に十数軒あったとされます。まずは外東地区から。

image

 家屋は全て解体され、跡地だけが散在します。

image

 水田の真ん中に昔使われていた電柱と石碑のようなもの。どうしょうも無いくらいの逆光。

image

 水田に水を引くポンプ小屋と昔の電柱。この堤外地は民家こそ消滅しましたが、耕地は今でも使われています。

image

 次に外西地区へ入って見ましょう。廃村の奥、川べりには浦和軟式少年野球連盟専用グランドや大宮カントリークラブのゴルフコースなどのあるので、電線が張られています。

image

 所々に残る集落で使われていた電柱は、時代を感じさせます。

image

 もう使われなくなってしまった自治会の掲示板。

image

 耕地のほとんどが現役で使われており、この日も軽トラなどの車4台、6人ほどの方が作業などをしており、廃村の雰囲気は正直有りません。

image

 集落の移転は昭和59年から始まりますが、平成11年の水害がきっかけとなり平成14年には全世帯が補償を受けた上で堤防の内側への移転を完了しました。

image

 もともとこの集落は大正時代に始まった荒川改修以降堤防の外側に取り残されてしまった形となり、以降も頻繁に水害に遭っていたそうです。

image

 野生化した竹藪や雑木林の中に、幾つもの民家跡が残っています。

image

 外西地区の中心には薬師堂と墓地が残されており、ここの「薬師堂のマキ」は市の天然記念物に指定されています。

image

 この日、二人のご老人が堂内で茶飲話をされていましたが、このあとまだ何人か集まることになっているようです。元住民による集会などは、まだこの地で行われているみたいで、住居こそ無くなったものの、暮らしはいまだこの地で続けられている事が伺えます。

image

 またこの辺りには野良猫が多く住み着いています。先祖代々暮らし続けている猫かどうか分かりませんが、元住民の方々が世話されているのかも知れません。

image

 道端の小さな石祠のようなものが残されています。

image

 薬師堂の右手の竹藪を抜け奥の道を荒川の流れる左手に歩いて行くと、八幡社の鳥居が残っています。この鳥居は平成元年に建て替えられた物で、当時はまだこの地で暮らし続けるという思いがあったのだと想像出来ます。

image

 鳥居の奥、雑木林のトンネルを抜けると、拝殿こそ無くなってしまったものの、八幡社の小さな祠が残されています。奥は御玉霊神社で右は恐らく水神宮。ただこちらは参拝される人がもう居ないのか、あまり管理されている様子が伺えませんでした。

埼玉県秩父市浦山地区(7)、浦山中学校跡と川俣小学校跡

 浦山地区はおよそ600年以上の歴史がある平家の落人集落があるくらい古くから人々が暮らして来た土地ですが、以前書いた通り江戸中期には17集落に180戸、ここ近年の人口の推移としては昭和30年に1244人(262戸)いた人口が昭和60年には494人(164戸)、平成12年には212人(89戸)まで減少しております。

image

 栗山集落の入り口がある西斜面の県道と、山掴集落の入り口がある東斜面の旧道が交わる南側、つまり上流側に掛かる橋の袂に旧浦山中学校跡があります。昭和22年に開校され、昭和60年にはダムの下流の影森中学校に統合されました。翌年の昭和61年には日向集落にあった浦山小学校も影森小学校と統合されてしまいます。

image

 校庭の隅には百葉箱と、既に使われなくなった廃道があります。この中学校の周辺には特に集落などなく、浦山川沿いに散在する集落群の中間地点にポツリと建っています。

image

 帰りのバスまで時間があったので、浦山川沿いに上流まで歩いて行きます。この先の三叉路を左手に登って行けば、沢伝いに大神楽、武士平と二つの廃村があり、日向集落へと出るうわごう道へと繋がります。そちらはまた次の機会にという事で。
 熊出没注意って、分かってます。知ってます。

image

 途中、毛附集落対岸の崖地に建つ民家。ちゃんと住んでらっしゃる家ですが、浦山地区がいかに急峻な土地に暮らしているかがよく分かります。

image

 毛附集落。舗装路があると安心しますが、だからこそこの集落には廃屋が殆ど無く、多くの方が暮らしています。驚いた事にこの集落には、一軒だけ民宿も営業中。

image

 人が住んでいるというだけでここまで雰囲気が違うものかと、廃村を巡って来た後だけにつくづく思います。ただ、商店というものは一切ありません。ばかりか、自動販売機というものも私が確認した限りにおいては、浦山ダム湖湖畔の大谷集落に一台有った限り、それ以上奥では一切見かけてません。なので飲料などはダムを越える前に用意しておくか、水筒を持参しなければなりません。特に夏場などでは水分補給する手段を準備しておく必要があります。

image

 毛附集落のすぐ上に川俣集落があります。7年ほど前に訪れた際は、何の収穫も無いままここで引き返してしまいました。

image

 カーブする県道の外側には狭い旧道が残っており、そこからかなり急な階段が始まっています。

image

 登って見ると大きな岩肌を背に丹生大明神が祀られていました。

image

 人の住む集落としては最奥部となる川俣集落。県道と並行して走る旧道沿いに民家が立ち並んでいます。

image

 その集落の高台に建つ、旧川俣小学校跡。こちらは明治31年に開校し、平成4年に廃校という長い歴史があります。

image

 川俣集落最奥部にある浦山大日堂。路線バスの終点もこことなります。この大日堂では8月16日と10月の第4土曜日に催される獅子舞が有名だそうです。
 廃村巡りは正直言って二か所が体力的に限界です。なので、次回また浦山地区を訪れる機会があればその時は、大神楽、武士平、細久保などの廃村を訪れたいと思います。もちろん熊鈴持参で!


埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(2)、廃村、茶山集落
埼玉県秩父市浦山地区(3)、廃村、嶽集落
埼玉県秩父市浦山地区(4)、廃村、栗山集落(前編)
埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)
埼玉県秩父市浦山地区(6)、廃村、山掴集落

埼玉県秩父市浦山地区(6)、廃村、山掴集落

 栗山集落から浦山川に戻り、上流にかかる橋を渡って対岸、東側斜面の旧道を少し下ります。その途中、ちょうど栗山集落の向かい側あたりに山掴集落へと登る狭い生活道があります。

image

 山掴集落は他の廃集落群とどこか雰囲気が違います。杉しか生えて無い日当たりの悪い斜面は平坦な土地がまるで無く、ひたすら石垣を積んで無理矢理集落を築いたといった感じです。

image

 理由は簡単で、栗山や嶽、茶山が農業を主幹としていたのに対して、ここ山掴は林業のために造られた集落であるということ。

image

 日当たりが悪い事から全体的にジメジメしており、シダ植物が多く群生しております。

image

 そのため土は柔らかく崩れ易いため、石積みで基礎を造成する際も、さぞかし苦労したんだろうなと思います。山を掴むように建つ集落という意味で山掴という地名になったのも頷けます。

image

 この倒木の向こうの木のうろにマネキンの首が置かれてます。どこぞの輩の作為的な悪戯でしょうけど、ほんっっとうにやめて欲しいですこう言うの。マジビビるから!

image

 生活道の奥まで登って行くと山に向かって左手に道が分かれており、先の倒木を潜った先に五軒ほどの廃屋が連なっています。

image

 どの廃屋もかなり古く、人が住まなくなってからも随分と年月が経ったようで半壊しております。

image

 それでもこのような土地に残り続けている事が凄い。

image

 この集落は前回訪れた嶽集落と共にゲーム『サイレン』の舞台のモデルとされていたため、廃墟好きの間でもそこそこ有名らしく、多くの人が訪れているようです。

image

 長屋のように連なった軒を進むと、途中倒壊した小屋と崩れた石垣に阻まれているため、これ以上奥に進むのが困難となり、引き返しました。建物の中を迂回すれば行けなくもないですが、中は床も抜けており危険と判断しました。

image

 家屋は一本の生活道から上へ下へと幾つも分かれた道の奥にあります。こちらは既に全壊した家屋。ここ山掴は昭和51年に地滑りがあり、それが離村の大きな理由に繋がったとか。

image

 全壊家屋の奥に辛うじて残っていたのは斜面にせり出した浴室か何かでしょうか。

image

 全壊した家屋の奥にもう一軒、小さな廃屋が残っています。最初ただの小屋かとも思いましたが、冷蔵庫など生活の跡が残されています。

image

 生活道の脇には幾つもこのような小屋がありますが、薪などを貯蔵していたと思われます。また斜面に幾つかのお墓が残されていますが、栗山集落と違いここの墓地は墓石が残されたままとなっています。中の骨壷はちゃんと玉抜きされて引っ越されたのか、あるいは今でもお参りに来られ管理されているのか、はたまたもうお参りされる方も居なくなり放置されてしまっているのか。

image

 最後にほぼ全壊に近い廃屋。しかし先程栗山で発見した熊の糞がここにも。
 ウソでしょ!こっち側の斜面にも熊さんが!
 もし訪れる方がいたら、くれぐれも熊鈴などの対策を忘れないように。私の実家にもこのような杉林の斜面が多く子供の頃よく遊んでいましたが、とにかく前回訪れた嶽や茶山に比べ、今回の栗山と山掴は足場が悪く上級者向けと言った感じです。

埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(2)、廃村、茶山集落
埼玉県秩父市浦山地区(3)、廃村、嶽集落
埼玉県秩父市浦山地区(4)、廃村、栗山集落(前編)
埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)
埼玉県秩父市浦山地区(7)、浦山中学校跡と川俣小学校跡
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを主に載せています。また、国内の寂れた観光地や地方都市、マニアックな温泉スポットや廃墟などもご紹介。
記事検索
最新記事
  • ライブドアブログ