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群馬県富岡市(1)、世界遺産富岡製糸場

観光地、ましてや世界遺産なんて行かないと思ってましたが、最近ちょっと考えが変わって来ました。去年まで北関東の産業遺産関連を巡って来ましたが、ならば富岡製糸場ぐらい一度は行っておかないとと思い富岡市にお邪魔しました。

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駅から南に歩いたところ、富岡製糸場の隣に建つ旧韮崎製糸場で富岡製糸場の入場券を購入します。駅からここまで小さなシャトルバスが走っていますが、徒歩10分なので散策しながら歩けばすぐ着いてしまいます。

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この韮崎製糸場は明治9年から明治12年まで、富岡製糸場をモデルに建てられた民間の製糸場です。操業期間は短いものの当時の構造がそのまま残っていたため、貴重な遺構として保存されております。

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さて、いよいよ超有名な富岡製糸場です。

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入り口左手に建つ検査人館からして素晴らしい明治建築なのですが、残念ながらこちらは立ち入り禁止。

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入ってすぐ横たわっているこの代表的な建物は東置繭所。いわゆる繭の保管倉庫ですが、入って正面の東棟と奥の西棟とがあります。幕末から明治初頭、それまでの生糸産業は手作業による物しか有りませんでしたが、それでは糸の太さが均一にならないと言う事情から機械化が欧米市場から求められました。

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明治維新によって日本が開国して行ったそんな時代背景の中、富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が設立した模範器械製糸場です。まずは官営で機械化された工場を造り、それを模した形で全国に民間製糸場が広がって行くわけです。

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こちらは奥に位置する西繭置所。西棟東棟ともに明治5年の開業当時の建造物です。とにかく巨大。二階建ての構造ですが倉庫だけあって1階層の天井がやたら高いです。ちなみに富岡製糸場開設の立役者としては大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一などが名を連ねています。まさに国家プロジェクト。

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富岡製糸場は初め官営で開業されました。しかし海外から呼び寄せた技術者たちの高額な人件費や女工たちの在勤期間の短さなどが原因で経営不振に。当初の模範や伝承と言った目的も果たしたと言う事で、明治26年には民営化されます。

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基礎や外壁こそは明治の物ですが何度も改修されているので、この扉などは昭和の物かも知れません。とは言え意匠は素晴らしい。

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エレベーターが設置されたのは戦後でしょうか。明治26年に民営化されましたが最初の入札では買い手が付かず、2回目の入札で買い取る事を決めたのは三井銀行部の理事をされていた中上川彦二郎氏。福沢諭吉の甥に当たり、資源の乏しい日本にとって今後外貨を獲得するには機械産業の発展しか無いと言う思いからだったとか。

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二階部分に登ってみます。赤煉瓦の外壁の中に、ブリキの内壁が二重構造という形となっています。これは昭和に入ってからの構造で、お茶の箱のように乾燥効率を上げるための工夫だとか。

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内部はこんな感じ。三井の時代は9年続きましたが明治35年、原合名会社を率いる原富太郎が富岡製糸場を含む4つの工場を買い受けます。ちなみに原富太郎は横浜の三渓園を造った実業家で、前身の原商店は先代(義父)が生糸問屋で財を成しています。

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赤煉瓦の外壁の内側に、当時の雑誌を貼り付けて修繕した跡が見て取れます。さすが女工さんで成り立つ工場だけあって主婦の友。広告のシボレーが1934年型と思われるので、昭和9年当時の印刷物かと。

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こちらは東置繭所に併設されている変電施設。残念ながら内部は見れません。

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そしてこちらがメインと呼べる繰糸所。開設当時の明治5年建造です。原合名会社による運営は長く昭和13年まで続きました。そして昭和14年、当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることとなります。

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こちらが繰糸所の内部。現在展示されている繰糸機は開業当時のフランス式繰糸機を復元された物ですが、当時は繰糸所の規模として世界最大だったそうです。

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蚕を煮て繭から糸を紡ぎ出す。その様子が一部の繰糸機に展示されていました。明治、大正、昭和と生糸産業を支えて来た富岡製糸場ですが、和服を着る機会の減少などに加え、昭和42年(1972年)の日中国交正常化による中国産の廉価な生糸の輸入増加などが原因で生産量は減少の一途を辿り、昭和62(1987年)に操業を停止、閉鎖となりました。

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鉄水溜と貯水槽。左手奥の鉄水溜は明治8年頃に造られた製糸に必要な水を溜めておくための巨大な水槽です。この鉄水溜の製造には軍艦の造船技術であるリベット止めが使われ、およそ400トンの水を溜めおくことが出来たそうです。

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それにしても操業停止から36年経っても廃墟化せず、当時のままで保存されていたのには片倉工業の努力があってこそです。解体せずそのままの姿で維持管理を続けるためには年間一億ものお金が掛かるとか。

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古い物、特に歴史的価値のあるものを大切に保存するという心意気には尊敬の念を抱きます。しかし一部の建物は重要文化財指定を受け、最終的には世界遺産に登録されたわけですから、その苦労も報われたんじゃないでしょうか。

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こちらは開業当時の動力として使われていた蒸気機関の復元モデル。これが実際蒸気で動いています。この徹底ぶりは感動します。現在片倉工業は保守管理の役目を終え富岡市に所有権を譲りました。

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東繭置所の向かい、入場ゲートに近い所にある女工館。こちらは開業時、全国に技術を伝える役目を担った伝習工女たちに、ヨーロッパの機械製糸の技術を教えた4人のフランス人女性教師のために建てられた建物。明治6年建造で実に贅沢な造りをしてますが、残念ながら内部は見れません。建物は後に役員宿舎や娯楽施設などに利用され、大正12年以降は従業員食堂として使い続けられていました。

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こちらは片倉時代の昭和15年に建造された診療所。しかし医師は開業当時からずっと常駐されていたそうです。福利厚生というか、明治初頭から労働者のことを考えられたシステムと言うのは、政府が雇用したフランス人のポール・ブリューナの指導があったからこそかも知れません。

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こちらがフランソワ・ポール・ブリューナが家族と暮らした首長館。ブリューナは官営製糸場の建設地選定から携わっており、契約期間を終えた明治9年に帰国しています。しかし当時の一般的な日本人職工の年俸が74円程度だったのに対し年俸9000円を支払われており、一時期大久保利通や伊藤博文らが問題視した事も。

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首長館の裏手には講堂が併設されております。明治維新後の日本はブリューナのような多くのお抱え外国人(通称)を雇っており、彼らは日本の近代化に大いに貢献されました。

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講堂の奥には大正7年(1917年)建造の寄宿舎(榛名寮)。20畳以上の大部屋が幾つもあり、地方から出てきた女工さんたちが共同生活されていたそうです。女性の社会進出と言えば高度成長期のイメージですが、地方の貧しい農家に産まれた女性が嫁入り以外の選択肢として、このような雇用が有ったと言う事です。

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こちらは昭和15年(1940年)建造の寄宿舎(妙義寮)。右手に同じ造りの浅間寮があります。一棟につき15畳の部屋が16室あり、一部屋に12人ほどが暮らしていたとか。室内にはアイドルのポスターや観光地のペナントなどが貼られているそうですが内部は非公開。見てみたい。

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最後に敷地内に建つ社宅を紹介します。敷地内と言う事は部長や専務など重要なポストに就いていた方々が暮らしていたのでしょう。

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下駄箱が古い。この建物の建設年代は見落としてしまいましたが、造りからして恐らく昭和初期と言ったところでしょうか。明治、大正、昭和と、それぞれの年代の建築物が混在している富岡製糸場を巡っていると、明治建築と戦後建築との違いとか、なんとなく分かるようになってきます。

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それにしても、よくぞ当時のままの形で残っていると感心するばかりです。これが昭和62年(1987年)まで現役で稼働していたと言うのですから。

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台所の雰囲気も昭和そのもの。閉業間際の頃にはすでに使われなくなり、廃墟化していた時期があったのかも知れませんね。置かれている魔法瓶や食器などは展示用にディスプレイされた物でしょう。

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ちょっと立派な社宅。役職によって社宅のグレードが変わって来るのは、以前足尾銅山の社宅で見ました。富岡製糸場の敷地内には多くの建築物が残っていますが、内部を公開しているのは極一部。それでも公開されている箇所にはそれぞれスタッフを配置し、監視カメラも多く設置されています。世界遺産故に多くの外国人観光客を受け入れなければならないので、案内と同時に監視もしなければならない。

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こちらは三軒長屋の社宅。敷地外にも恐らく多くの社宅が存在していたと思われます。もっと多くの建築物を内部まで公開するには当然もっと多くのスタッフが必要となりますし、そうなってくると大赤字になってしまいます。

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まだ一部、乾燥所など復元作業が行われている棟もあります。土曜日に訪れましたが、観光客の数に対してスタッフの人数の多さを考えるとすでに赤字じゃ無いかと思われますし、かと言って人数を減らすのは外国人観光客受け入れの観点から言ってリスキー。税金で運営している分それに見合った経済効果がなければ今以上お金も掛けれないし難しいところですが、富岡市は充分頑張っていると思います。京都ぐらい観光客が来ればいくらでもお金掛けられるけど、なんだかんだ言ってマイナーだし、渋いし、バエないしwww

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以上となりますが、とにかく見応えありました。まぁ近代史などに興味が無い方はどうか分かりませんが、私は予想以上に行って良かったと思います。もっともっと多くの人に訪れて欲しいし、観光会社も近隣の温泉と併せたツアーなんかを組んで欲しい。
次回は富岡の市内散策を紹介します。

【日記】熱海花火大会2022年冬

去年に続き今年も熱海の冬花火に行って来ました。今後、毎年恒例になるかも知れません。去年の様子はこんな感じ
去年は伊東に1泊し2泊目熱海でしたが今回は1泊のみ。クリスマスイブの昼下がりに家を出て赤羽から上野東京ラインに乗り換えようとしたところ、大船駅で人身事故。上野東京ラインは上野止まりとなり、その先も運転見合わせが予想されるので埼京線で新宿に向かい、小田急ロマンスカーに乗りました。

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小田原駅に到着したのは17:55。次の東海道線下り熱海行きは18:20。これでは7時近くになってしまう。と、その時ふと、新幹線乗っちゃったり?なんて言う邪な思いが過りました。新幹線特急券、1290円で乗れちゃう。新幹線と言ったら1万円のイメージがあるため「安いじゃん!」なんて思ってしまいました。しかも在来線各駅停車で熱海まで23分かかるところ、7分で着くと言う。
早っ!
新幹線早っ!

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つい衝動的に新幹線に乗ってしまいましたが、今年3月に新幹線車内喫煙室が閉鎖された事にショックを覚えつつ無事熱海に到着。常宿の龍宮閣にチェックインします。もう10回近くお世話になっているこの宿、いつもは当日飛び込みって言うのが常なのですが流石に花火大会のある土曜の夜。それでも3日前に余裕で予約出来ました。大江戸温泉物語や伊藤園などはとっくに満室なのに。

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花火大会の会場である渚町(元々赤線地帯だった街)。過去の花火大会2回とも海沿いの菊川会館の飲み屋で待機。去年入ったカラオケ居酒屋の平ちゃんは満席だったので、海岸通りに面したロクスケの店頭テーブルを確保。寒いけど店内はどこも満席です。開始1時間前に着席。ましてやクリスマスイブ、少なくとも2時間以上前から飲み始めないと店内は確保出来なかったでしょう。もっと早めに出て来れば良かったんですがね。

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今回はドローンによる「前座」がありました。様々な文字やゆるキャラ、そしてMERY Xmasの文字。

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↑ 花火の映像はクライマックスをYouTube動画にて。
すいません、連れの声がwwww

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花火の後はロクスケの店内でちょっと飲んで、その後はマスターに紹介して頂いたカラオケ居酒屋「」で、隣に座ってた男女も巻き込んで飲み。熱海の夜は更けてゆく。

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翌朝、二日酔い気味のところをガツンと来る塩化物泉に浸かって、更に疲れるwwww

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相変わらず湯の華が舞ってます。パッと見カスとか汚れに見えて誤解される事が多いのですが、この黒い物体は温泉成分が結晶化したれっきとした湯の華で、源泉100%である証拠なのです。

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駅前の喫茶店行ってお寿司食べて昼には帰宅。熱海駅でたまたま四季島が追い抜いて行きました。
熱海はもうすでに巡り尽くした感があるので、ちょっと飲みに行くぐらいの感覚です。
毎年恒例と言えば夏に隅田川の花火、年末は酉の市、年明けは万座温泉でスノボって言うのが続きましたが、隅田川はコロナで今年もコロナで中止、酉の市は行きつけの居酒屋屋台が去年やってなくて、万座温泉日進館は禁煙になってる可能性高い。来年からはまた新たな「定番」を考えなくては。

群馬県館林市(2)、ニ業地の街並みと史跡

駅の東、県道57号を越えた辺りに、かつての花街がありました。最盛期で150人居た芸妓さんも今では消えてしまいましたが、料亭や割烹はその名残りとして残っています。花街を求めて歩いて行くと、県道を渡る前から料亭などが目につくようになってきます。

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大正3年より昭和13年まで見番があった青梅天神裏、見事な3階建ての木造建築があります。料亭「福志マ」(?)。看板の書体が古過ぎてよく読めません。

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詳細は不明ですが、この辺りに見番があった時代から考えて恐らく大正時代の創業かと思われます。市内では町歩きのパンフレットなども配布されていますが、このような立派な建物が載ってないところ、ダメです。

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こちらは旅館跡。昭和初期建造のようですが、かつては割烹旅館か何かだったのでしょうか。

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県道を渡り一本奥の通りに出ると、そこはかつての花街であり今でも現役の料亭街。

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南へ向かって歩くと料亭第五があります。

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向かいは現在民家が建っていますが、かつてはこちら側に本店があったのでしょうか、潜り戸と行燈と松の木が残されています。

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第五で引き返して北へ向かって歩きます。こちらは現在お寿司屋さんですが、花街の面影を色濃く残しています。

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こちらも現在居酒屋ですが、かつては料亭か何かだったのでしょうか。館林にはこのような花街の面影が多く残されており、それを観光の目玉とする動きがあります。

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こちらは元酒屋さん。このような昭和遺産も残っています。

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現在は民家ですが屋根を見れば贅を尽くした建造物である事が伺えます。あとはこのような貴重な建物をリフォームしてカフェなどに再利用してもらえると、いつまでも残り続けるのですが。

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途中右手に現れるのが、旧館林ニ業見番組合事務所。車寄せにある唐破風屋根とその上にある二つの千鳥破風が見事。

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ちょうど祝日だったので内部が公開されていました。この建物は昭和13年(1938)建造で、国登録有形文化財です。

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玄関脇の増設された階段は、二段目まで豆タイル貼り。一般的には料亭、置屋、待ち合いで三業地と言いますが、埼玉と群馬は廃娼県だったので、料亭(甲種料理業)、芸妓置屋のみのニ業地となります。

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芸妓さんたちが芸を磨いていた舞台。館林の見番は明治42年に堅町に設置され、大正7年谷越町の青梅天神裏に移転。さらに昭和13年、現在の場所に新事務所が建設され、見番が移転しました。

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ただ建物はあちこちにガタが来ており、改修もままならないのが現状です。東京芝浦の三業地見番跡のような本格的な改修工事には相当な予算がかかりますし。ただ見番として使用された期間は短く、昭和19年には日清製粉の所有となり、昭和31年には当時の所有者の正田貞一郎が館林市に寄贈。以後、商工会議所の事務所、本町2丁目区民会館などに利用されて来ました。

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見番跡をさらに北へ進むと、突き当たりに外池商店と言うこれまた古い商家が。昭和4年(1929)建造で、以前は造り酒屋も経営していたそうですが現在は酒屋さんとなっております。

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外池商店のある通りは「歴史の小径」として館林駅から館林城跡までの散策路として整備されています。城跡方面へ歩いて行くとまた古い建物が目につくようになります。

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二階の壁の装飾がちょっと凝っている木造建築。館林は古くから城下町として栄えていましたが、特に発展したのは徳川家や松平家が城主となった江戸中期からとされています。

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こう言うカーブとか風情を感じます。

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鷹匠町長屋門。豪農の松沢家の長屋門を再利用、改築して武家屋敷の長屋門を再現したもの。館林の古い建物はもうだいぶ壊されており、観光のために作られた物も点在しております。

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移築されて来た武家屋敷。駅から城跡までの散歩コースである歴史の小径にわざわざ移築されています。

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武家屋敷の塀。その裏にはマンションが建設されています。奥には田中正造記念館もありますが休館中でした。どうも、観光地として城下町を売りにするのか明治大正期の街並みを売りにするのか、どちらも中途半端でコンセプトがしっかり決まって無いようにも感じられます。

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こちらは館林城の土橋門。建物のほとんどは明治7年の火事で焼失され、現在天守のあった敷地には市役所や美術館、文化会館などが建てられています。日本の城は明治政府の廃城令で全国から消えてしまいましたが、その跡地に市役所や県庁などを建てたいって言う気持ちは分からないでもない。

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城跡の手前の国道7号線沿いには、営業しているかどうか不明な旅館が。

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倉庫なのか住居だったのか、謎の廃墟も。

次回に続く。



埼玉県小鹿野町、小鹿野の街並み

小鹿野は秩父から北へひと山越えた奥、東西に横たわる宿場町です。西武鉄道の終点で東西に秩父鉄道が走る秩父市と比べてしまうと随分と田舎な印象を受けてしまいますが、北に接する上州にも抜けられる事から、かつては交通の要衝として発展し続けて来たそうです。特に明治大正の頃は絹織物を運ぶ重要なルートでもあり、商業都市として栄え生糸売買の市も立っていたとか。

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町役場前のバス停を降りればあいにくの雨。晴れた日であればレンタルサイクルでじっくり隅々まで回りたい所ですが。

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木造建築が点々と残る典型的な宿場町。ただ観光地としてはちょっと弱い。こちらは旅館ですが、あえてレトロな雰囲気にリニューアルしてる感があり、屋号も「旅籠越後屋」となっています。

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しかし現代では古い街並みやこのような路地裏が見直されているので、オシャレカフェでも作れば人が集まるポテンシャルはあります。

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木造建築だけでなく、昭和の雰囲気もプンプン漂っています。

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もちろんこう言った路地を巡るようなモデルコースも有るし観光マップだってありますが、どうにも目玉商品が肉の味噌漬けぐらいしか無くて。秩父市にしたってワラジカツぐらいですし。

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そう、別に江戸時代とか明治大正期を再現しなくてもいいんです。昭和の、しかも戦後の感じであっても、飾らない昔のままの状態で充分なんです。

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こちらは村上酒店。二階の窓ガラスが素敵。建物を大事に使われている事が伺えます。

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こちらは常盤屋(加藤家住宅)。明治13年築の土蔵造りで実は4階建だそうな。2階と3階では蚕が飼育されていたそうです。しかしこの格子戸や窓部分の格子、当時の物か後から復元された物か、そんな余計な事が気になってしまう。

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旧警備詰所。こう言うのが残っているのが凄いと思います。ここは消防団の詰所で、町内会による夜警の休憩所として使われていたそうです。もしかしたら隣りに消火ポンプなんかが置いてあったかもしれません。いわゆる青年団と言うやつで、地域の防火や自警なんかをやっていました。現代ではなかなかそう言うのも無くなって来てるんでしょうね。

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小鹿野は以前、第10回路地サミットが開かれた事もあり、路地巡りを売りにしています。ま、路地としてはそんなでもないと思うのですが……

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小鹿野キネマ跡。跡地って……
こう言う建物を壊してしまった時点で、観光レトロは終わっています。

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バス停の雰囲気がいい。雨って言う演出もありますが。

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何のお店だったのでしょうか、やはり演出された古い街並みよりも、こう言った生活感溢れる昭和感の方が好きなんですよね。これで店が開いていれば……


茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル

巨大廃ホテルやバラック飲み屋、スナック街がある事をインスタで知り、笠間に行って来ました。

茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

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以前、筑波海軍航空基地に訪れるため笠間市にある常磐線友部駅に降りました。しかし笠間市の中心街は友部から水戸線でふた駅乗った笠間駅。元々は城下町として発展した笠間ですが、町の中心には笠間稲荷神社があります。

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しかし水戸線笠間駅は中心街である笠間稲荷周辺より1キロ以上南に位置しています。これは中心街に駅を設置すると線路を大きく北へ迂回させる必要が出て来ると言う地形的な理由からだと言われていますが、鉄道によって宿場が寂れるからと反対運動が起きたとも言われています。

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そのため笠間駅から笠間稲荷神社まで観光客を運ぶべく、笠間人車軌道が大正5年(1915)より営業されました。駅前から笠間稲荷神社の西側まで一直線に敷かれた線路は、路面電車のように道路に敷設されたため、廃線跡の痕跡は一切残っておりません。

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途中、当時の人車軌道を復元した車両が展示されています。

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この車両は人車軌道が開業してから100年の節目である2015年に、クラウドファンディングで集めた資金によって再現されました。

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当時、線路を順繰り順繰り前に持って行く形で走行させ、笠間駅から笠間稲荷神社停車場跡まで、実際走行させたそうです。もちろん人力で押しながら。

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こちらは復元車両試作1号機。ちなみに人車軌道は大正14年(1925)にガソリンカーを導入し人力では無くなりますが、競合する乗合バスに押されて昭和5年(1930)廃止となりました。

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こちらは終点の稲荷神社前停車場跡地。駅からの参拝客を笠間稲荷神社まで送迎する目的で走っていたので、停車場は笠間駅前と稲荷神社前の2箇所しかありませんでした。

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折しもゴールデンウィーク、多くの観光客で賑わっていました。笠間稲荷神社は菊人形で有名です。茨城と言えば偕楽園の梅と笠間稲荷神社の菊人形。

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門前のお土産屋さんも近年の観光地としては珍しく賑わっています。

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笠間稲荷神社自体知らなかったのですが、よくよく調べてみたら日本三大稲荷の一つに数えられているそうです。日本三大稲荷には諸説あり、自称も含めて14社寺もあるとか。しかし一般的には伏見稲荷大社(京都)、豊川稲荷(愛知)、笠間稲荷神社(茨城)、祐徳稲荷神社(佐賀)の4社寺が挙げられることが多いそうです。

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門前にも多くの観光客。時代に合わせてカフェなんかもちゃんとあります。

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笠間稲荷神社の向かいに御神酒を造られている酒蔵、笹目宗兵衛商店があります。

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この酒蔵は敷地内を通り抜けることが出来、中を見学することもできます。この酒蔵は当初笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年より現在の笹目宗兵衛商店へと経営が譲られました。

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酒蔵の裏に出ました。むしろこちらが正面になるのかな。

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稲荷神社から見て酒蔵を抜けた先、駅寄りになりますが、かつて花街だった一画があります。写真は今も残る芸妓組合。

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旧町名で喜楽町と呼ばれていたこの一画には、花街の名残りとして割烹や旅館などが点々とあります。

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しかしながら数は少なく建物も新しく、花街として栄華を誇っていた時代の景色はほとんど残っていませんでした。強いて言えばこの屋号ぐらい。

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門前右手の突き当たりには、かさま歴史交流館。かつてこの建物は、明治中期建造の木造三階建ての旅館、井筒屋本館でした。東日本大震災の被害を受け、それを契機にリノベーションされたそうです。

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旅館と言えば、笠間稲荷神社の東の丘陵に廃ホテル、ホテル山乃荘があります。

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バブル期に増築なり改築なりされたのでしょうか、天守閣を模した建造物まで。市街を見下ろす眺望は、さぞ見事だったろうと想像できます。

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廃墟の右手、東側の坂を登って行くと、建物の正面側に回り込めます。ここホテル山乃荘は昭和28年(1953)創業。しかし2011年の東日本大震災で被災し、以後復旧を試みていましたが、同年の5/10に廃業となりました。山乃荘女将のツイッター参照。ちなみに女将は現在伊香保で働いているとか。

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建物の西側に回り込み少し坂を下ると、正面玄関へのアプローチがあります。

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震災を機に廃業となりましたが、笠間でこれだけの巨大施設は時代のニーズにも合っておらず、恐らくは経営自体も廃業寸前では無かったのかと想像できます。

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現に廃業後10年以上経った今でも解体出来ずに放置されています。崖地でこれだけの施設ですから解体費用も相当なものかと思われますがそんなお金はどこにも無く、ましてや税金で賄うわけにもいきません。

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これは全国各地の温泉街などでも問題となっていますが、特に良質な温泉が出る訳でもなく観光地としての発展が見込めないのも事実であります。

と言う訳で笠間は奥が深いので、このまま続編へと続きます。
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