神社仏閣

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神奈川県厚木市、旧佐藤稲荷神社と旧伏見稲荷神社

すっかり寒くなりました。下草は枯れ藪の背も低くなりました。この季節になってから行こうと満を持していたスポットが幾つかあります。そう、冬は廃墟の季節www
緑に囲まれた廃墟も美しいのですが、基本藪漕ぎしたかありませんしね。

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と言うわけで訪れたのは神奈川県厚木市。小田急本厚木駅から半原方面行きのバスに乗ります。

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泉と言うバス停で降りて西へ。枯れ沢となっている荻野川を渡ります。

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清原地区と言う集落は長閑な農村風景。もっとも丹沢山地の麓で水田がないので、今では農業だけを生業としている家も少なさそうです。

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集落の細い道を歩いていると、途中諏訪神社という小さなお社が。こちらは今でもちゃんと管理されているようです。

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やがて道沿いに鉄柱製の鳥居が見えて来ました。

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鳥居を潜って脇道を進むと二つ目の鳥居が。銘板の文字はすでに判別出来なくなっていますが、ここは佐藤稲荷神社と言うそうです。

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廃神社です。廃神社と言う言い方自体、近年オカルト系で言われ始めた造語のようで、正確には管理されなくなった神社。

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右手には社務所の跡でしょうか、廃墟があります。この神社についての詳細は全く分かりません。それこそ管理されていた方を探し出さない限りは。

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左手には民家と思われる建物。しかしここも廃屋のようです。詳細は分からないものの厚木市の文化財獨案内と言うパンフレットに、この佐藤稲荷神社とこの後訪れる伏見稲荷神社の名前がマップ上に記載されている事から、厚木市からの認知度は高かった事が伺えます。

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参道入り口に狐の狛犬一対、拝殿の足元にもちっちゃい狐の狛犬が一対。本当は厚木市の市役所行ったりして調べる事も出来るかもしれませんが、そこまでガチじゃないんですよ。

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手水鉢も草に埋もれながら残っています。このような場所が心霊スポットみたいに紹介される事もありますが、そもそも神社と心霊って全く関係ありませんからね。

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さて、この佐藤稲荷神社の手前を右に入る畦道があります。
神社、例えば稲荷神社に於いては京都の伏見稲荷神社や茨城の笠間稲荷神社などの大社があり、全国のお稲荷さんって要はその出張窓口みたいなもの。こっちが呼ばなきゃ降りて来ません。

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その畦道の途中、竹藪に分け入る踏み跡のようなところが。
また神社が廃止となる場合は、合祀と言って近くの神社に吸収合併されます。観音像などが祀られている祠などの場合、観音様は近くのお寺に移されます。墓地にしたって基本ちゃんと魂抜きする。東京赤坂の豊川稲荷なんかに行くと、開発で消えて行った祠に祀られていたお狐様がたくさん集められています。

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踏み跡と言っても途中倒木などもあり、とても管理されているようには見えません。まぁ結局、根拠のない怖い話なんかを造り上げて、このような廃神社で肝試しなんかする連中が地元の方々に迷惑かけることがあるんですよね。

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竹林混じりの雑木林を登って行くと、途中右手に倒壊した祠のようなものが見えました。

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やがて視界が開けると、奥の方に社殿跡が。うーん、物語シリーズの北白蛇神社のようにはいかない。

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こちらが旧伏見稲荷神社跡です。ここも詳細は不明ですが、大正12年(1923年)建造とだけは分かりました。意外と新しいんですね。あるいはもしかしたら元々祠のようなものが存在し、大正時代に社殿が建立されたって事かもしれません。

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社務所が併設されていたのでしょうか、ヤカンやシンクなどが脇に散乱してました。あるいは宮司さんが住んでいたのでしょうか。

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電灯もあり、かつてはここまで電気が通っていたようです。

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裏から見たらこんな感じ。裏手には一升瓶が多く散乱していました。御神酒と言う事か。
ともあれ、雰囲気が不気味であるのは確か。私もビビりぃなので物音にビクビクしながら探索しました。

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帰り道の路すがら、こちらをガン見する猫に癒されてここを後にしました。

埼玉県東松山市(2)、巌殿山正法寺と門前町

日本セメント専用線を歩いた後、高本駅跡地からゴルフ場のある丘陵地を越えていきます。

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一応峠になります。すでに2時間近く歩いており、ちょっと無茶しました。

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峠を越えて小川沿いに田園を下って行くと集落が開けて来ます。火の見櫓も最近では随分少なくなってしまいました。

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大東文化大学のある丘陵地の手前の谷間に、巌殿山正法寺(巌殿観音)とその門前町が広がっています。

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今では普通の住宅街のようになっていますが、かつて門前町として栄えていた頃の歴史を残そうと、当時の屋号などが各お宅の前に掲げられています。目薬屋?

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畳屋さんは今でも畳屋としてやられているようです。他にも鍛冶屋、塗師屋など、坂の下の方には職人が集まっていたようです。

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坂を上りお寺さんに近づいて行くと宿坊などが増えて来ます。今は空き地になっていてもそこに何が有ったのかは必ず掲げられています。

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大黒屋さんは宿坊と言うより旅籠か何かだったのでしょうか。

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丁子屋と言う屋号は茶屋などに多く用いられています。山門の手前に建っているので、休憩所のような役割だったのかも知れません。

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山門から急な階段を登って行きます。巌殿山正法寺は西暦718年(奈良時代)に開山された真言密教のお寺で、坂東三十三ヶ所の第十番札所です。

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階段を登り切って振り返ると、門前町の全景が見下ろせます。

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磨崖仏ではありませんが、岩肌に穿たれた窪みに沢山の石仏が安置されています。

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元々はこのような巌窟に観音像が安置されていただけでしたが、この地を訪れ竜退治をした坂上田村麻呂が都に戻った際御利益を伝えた事から、桓武天皇によって796年に伽藍を建立されたそうです。

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想像以上に巨大な観音堂。鎌倉時代には東松山一帯を治めていた比企氏が帰依した事から源頼朝や北条政子の庇護も受けていましたが、後の戦国時代、東松山の松山城を奪った上杉憲勝に対して北条氏康が周辺の寺社を焼き払った際、ここも焼かれてしまいました。その後幾度か焼失しますが、現在の観音堂は明治時代に移築した建物だそうです。自分は古代から中世の歴史に弱いです。

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観音堂の脇には樹齢700年を超える大イチョウがあります。室町時代から江戸時代にかけて札所として栄えた巌殿観音ですが、明治初期の廃仏毀釈運動をきっかけに門前町共々衰退して行ったそうです。

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昭和に入り戦後巌殿山や物見山などがにわかに観光地として賑わった時期もありましたが、現在も札所巡りとして地味ながらも訪れる方はおられます。

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3時間以上歩き通したのは久しぶりです。と言うわけで、最後に東松山郊外の日帰り入浴施設、蔵の湯東松山店に立ち寄りました。

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地下1200mより汲み上げられる鉱泉は無色透明なナトリウム塩化物強塩泉。天然温泉浴槽は露天の1ヶ所のみで循環濾過。基本掛け流されず加水率50%未満の井戸水加水で、時々源泉が投入される感じです。毎分37.3Lの湧出量なので致し方ないでしょう。いや、先月行った行田の茂美の湯の400Lって言うのが異常なだけであって、普通はこんなものか。しかしオーバーフローさせずに循環濾過させると、人が多い時など水面に汚れが浮いてしまいますね。内湯だったらジェットバスでなんとなく誤魔化せますが。


大田区羽田、羽田煉瓦堤と五十間鼻無縁仏堂

蒲田の東、羽田空港の手前は糀谷などの住宅街が続き、ちょっとした下町の雰囲気が残っています。

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京急羽田線は穴守稲荷から地下に潜り、海老取川の下を通って羽田空港へ。通る電車のほとんどが都営浅草線の車両で、たまに北総鉄道。京急の車両が来るまで何本も見送りました。

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穴守稲荷の駅は小ぢんまりとしており、大成建設が寄贈した穴守稲荷神社の鳥居があります。

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駅前商店街はなかなかにして賑わっており、下町風情を残しています。ここでも京急の車両を待つのに何本も見送った。

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多摩川に向けて歩って行くと途中首都高の高架下に、銭湯の重の湯があります。

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実に味わいのある建物。浴室には見事な富士山が描かれてますが、だいぶペンキが剥がれかけています。しかしお客さんは多く、ひっきりなしに人が出入りしていました。

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多摩川まで出ると羽田の渡し跡に突き当たります。この渡し船は江戸時代以前よりあり、江戸末期には穴守稲荷から川崎大師への観光ルートとして非常に賑わっていたそうです。

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しかし昭和14年に大師橋が完成した事で渡し船は廃止されました。その大師橋も現在真新しい吊り橋に架け替えられています。

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羽田の地は古くから洪水に悩まされて来ました。そこで内務省により多摩川改修計画が立案され、大正7年(1917年)から昭和8年(1933年)まで、16年の工期を経て堤防上に鉄筋煉瓦造りの塀が建設されました。

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かつて1632mもあったこの羽田煉瓦堤は、今でも道路沿いにずっと続いています。

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特にこの羽田第二水門の辺りには、当時の姿を残している場所があります。水門と煉瓦堤の間は船溜まりとなっており、屋形船や釣り船が停泊していました。

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右手の川側が堤外地となりますが、かつては桟橋、生簀、造船所、材木置き場、作業場などがあり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでいたそうです。

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また、戦後の昭和20年9月、進駐軍により鈴木新田(現在の羽田空港)に住んでた住民約三千人余りが48時間以内の強制退去を命じられ、その一部がこの堤外地に移り住んだりもしました。

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そして昭和48年、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成した事で、煉瓦堤はその役割を静かに終えました。

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煉瓦塀と煉瓦塀の間には板を差し込むような溝が。増水した時に塞ぐのでしょうが、外堤防が出来るまでは堤外地の家々は浸水します。

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羽田では中世より漁が続けられており、昭和30年代までは海苔の養殖も行われていたそうです。飛行機が飛んでますね。

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しかし高度成長期の水質汚染などにより衰退し、現在では細々と漁が続けられているものの、釣り船が主な生業となっているとか。

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多摩川沿いに海側へ。羽田空港との間を隔てる海老取川が多摩川と合流する地点、小さな祠が川に突き出しています。

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いわゆる洲に建つこの祠は五十間鼻無縁仏堂。ブロック塀や橋は平成16年に整備されたもので、それ以前は洲から階段を登って行ったと思われます。満潮時や増水の際にはお参り出来ません。意地でも飛行機を入れる。

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いつの時代から有ったかは不明だそうですが、かつてはここよりさらに海側の川面に角塔婆が一本建つのみだったとか。しかし昭和53年、護岸工事に伴い現在の位置に移設され祠も建てられました。

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無縁仏。つまり河口付近に漂着する水死体を供養するものです。関東大震災や太平洋戦争末期の空襲に際しては、かなりの数の水死体がここの洲に流れ着いて来たそうです。

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祠は今でも地元の方が花を供えたりして管理されています。どうしても飛行機を入れたがる。

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海老取川の向こうは羽田空港。右側は今年1月に全面オープンした住友不動産の複合型商業施設、羽田エアポートガーデン。中には日帰り温泉も有るのですが、料金がなんと4800円!インバウンド狙いにも程がある。行けるかそんなもん!

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川を渡れば羽田空港。移設された大鳥居があります。この、旧穴守稲荷神社大鳥居は移設する際に事故などが起き、よく祟りなんて言われました。

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鳥居の脇には、かつてこの地に存在した羽田鈴木町(鈴木新田)の事が書かれています。まぁ、飛行場と言えば強制退去の話はつきものですね。

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以上です。あぁ、飛行機で遠くに行きたい。

川崎市麻生区、現代に残る廃仏毀釈の残滓

前回、廃仏毀釈をテーマに取り上げようと秩父の山奥まで足を運んだのに空振りに終わり、消化不良だったので改めて調べ、その物証を求めて川崎市麻生区に来ました。

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小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。

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北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。

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その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。

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改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。

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仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。

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次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。

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神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。

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神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。

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次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。

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ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。

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取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。

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ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。

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鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。

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奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。

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最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。

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寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。

ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。

茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル

巨大廃ホテルやバラック飲み屋、スナック街がある事をインスタで知り、笠間に行って来ました。

茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

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以前、筑波海軍航空基地に訪れるため笠間市にある常磐線友部駅に降りました。しかし笠間市の中心街は友部から水戸線でふた駅乗った笠間駅。元々は城下町として発展した笠間ですが、町の中心には笠間稲荷神社があります。

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しかし水戸線笠間駅は中心街である笠間稲荷周辺より1キロ以上南に位置しています。これは中心街に駅を設置すると線路を大きく北へ迂回させる必要が出て来ると言う地形的な理由からだと言われていますが、鉄道によって宿場が寂れるからと反対運動が起きたとも言われています。

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そのため笠間駅から笠間稲荷神社まで観光客を運ぶべく、笠間人車軌道が大正5年(1915)より営業されました。駅前から笠間稲荷神社の西側まで一直線に敷かれた線路は、路面電車のように道路に敷設されたため、廃線跡の痕跡は一切残っておりません。

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途中、当時の人車軌道を復元した車両が展示されています。

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この車両は人車軌道が開業してから100年の節目である2015年に、クラウドファンディングで集めた資金によって再現されました。

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当時、線路を順繰り順繰り前に持って行く形で走行させ、笠間駅から笠間稲荷神社停車場跡まで、実際走行させたそうです。もちろん人力で押しながら。

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こちらは復元車両試作1号機。ちなみに人車軌道は大正14年(1925)にガソリンカーを導入し人力では無くなりますが、競合する乗合バスに押されて昭和5年(1930)廃止となりました。

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こちらは終点の稲荷神社前停車場跡地。駅からの参拝客を笠間稲荷神社まで送迎する目的で走っていたので、停車場は笠間駅前と稲荷神社前の2箇所しかありませんでした。

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折しもゴールデンウィーク、多くの観光客で賑わっていました。笠間稲荷神社は菊人形で有名です。茨城と言えば偕楽園の梅と笠間稲荷神社の菊人形。

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門前のお土産屋さんも近年の観光地としては珍しく賑わっています。

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笠間稲荷神社自体知らなかったのですが、よくよく調べてみたら日本三大稲荷の一つに数えられているそうです。日本三大稲荷には諸説あり、自称も含めて14社寺もあるとか。しかし一般的には伏見稲荷大社(京都)、豊川稲荷(愛知)、笠間稲荷神社(茨城)、祐徳稲荷神社(佐賀)の4社寺が挙げられることが多いそうです。

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門前にも多くの観光客。時代に合わせてカフェなんかもちゃんとあります。

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笠間稲荷神社の向かいに御神酒を造られている酒蔵、笹目宗兵衛商店があります。

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この酒蔵は敷地内を通り抜けることが出来、中を見学することもできます。この酒蔵は当初笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年より現在の笹目宗兵衛商店へと経営が譲られました。

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酒蔵の裏に出ました。むしろこちらが正面になるのかな。

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稲荷神社から見て酒蔵を抜けた先、駅寄りになりますが、かつて花街だった一画があります。写真は今も残る芸妓組合。

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旧町名で喜楽町と呼ばれていたこの一画には、花街の名残りとして割烹や旅館などが点々とあります。

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しかしながら数は少なく建物も新しく、花街として栄華を誇っていた時代の景色はほとんど残っていませんでした。強いて言えばこの屋号ぐらい。

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門前右手の突き当たりには、かさま歴史交流館。かつてこの建物は、明治中期建造の木造三階建ての旅館、井筒屋本館でした。東日本大震災の被害を受け、それを契機にリノベーションされたそうです。

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旅館と言えば、笠間稲荷神社の東の丘陵に廃ホテル、ホテル山乃荘があります。

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バブル期に増築なり改築なりされたのでしょうか、天守閣を模した建造物まで。市街を見下ろす眺望は、さぞ見事だったろうと想像できます。

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廃墟の右手、東側の坂を登って行くと、建物の正面側に回り込めます。ここホテル山乃荘は昭和28年(1953)創業。しかし2011年の東日本大震災で被災し、以後復旧を試みていましたが、同年の5/10に廃業となりました。山乃荘女将のツイッター参照。ちなみに女将は現在伊香保で働いているとか。

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建物の西側に回り込み少し坂を下ると、正面玄関へのアプローチがあります。

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震災を機に廃業となりましたが、笠間でこれだけの巨大施設は時代のニーズにも合っておらず、恐らくは経営自体も廃業寸前では無かったのかと想像できます。

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現に廃業後10年以上経った今でも解体出来ずに放置されています。崖地でこれだけの施設ですから解体費用も相当なものかと思われますがそんなお金はどこにも無く、ましてや税金で賄うわけにもいきません。

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これは全国各地の温泉街などでも問題となっていますが、特に良質な温泉が出る訳でもなく観光地としての発展が見込めないのも事実であります。

と言う訳で笠間は奥が深いので、このまま続編へと続きます。
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