産業遺産

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埼玉県行田市、忍城と足袋の街

荒川河川敷の廃村を巡った後、そのままレンタルサイクルで北東へ、秩父鉄道行田市駅周辺の市街地まで行きました。

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こちらが城下町行田の中心街であり、JR高崎線の行田駅は全然町外れに当たります。忍城と言えば映画「のぼうの城」で一躍有名になりましたが、私はあの映画大好きです。ちなみにこちらの御三階櫓は元々建っていた場所とは違う所に昭和63年(1988年)再建された物で、明治の廃城令で解体された御三階櫓も江戸時代に建てられた物。のぼうの城の成田氏とは関係ないんですけどね。

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まぁ観光地って言うのは往々にしてそう言う物でして、場所も建物も違っていても、のぼうの城ファンは押し掛けるわけです。

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そもそも一般的に定義される戦国時代、応仁の乱から信長上洛までの間に完成した天守閣は現存しておらず、三階櫓など天守閣と呼ばれるもの自体関ヶ原以降、豊臣秀吉の時代に全国的に造られました。現存天守と呼ばれる創建当時の建物でも江戸期に建てられたものが多く、戦国時代当時の遺構と言う物は大抵石垣ぐらいな物しか残っていません。特に明治政府の廃城令によって全国の城郭のほとんどが解体されてしまいました。

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城マニアでも戦国マニアでもないのであまり詳しくはないのですが、どうしても観光資源として天守閣と戦国時代を結びつけたがります。実際は平屋建てだったりするんですがね。とは言えこの写真のように演出すれば、それっぽい雰囲気が出ます。

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行田市は特に映画「のぼうの城」とドラマ「陸王」による経済効果にありつけたので、観光産業への力の入れ方に本気度が窺えます。街中の至る所には花手水が置かれ、散策に彩りを添えています。旅行系ブログとしてはそう言ったフォトジェニックな感じを全面に出した方が大衆ウケするんでしょうが、残念ながらここはマニアックな部分しかクローズアップしないので。

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忍城三階櫓のある行田市郷土博物館には忍城の歴代当主の家紋と鎧が展示されています。手前から成田氏、江戸期からの大河内松平氏、阿部氏、東條松平氏及び奥平松平氏。

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さて、忍城を出てここからは近代産業、足袋造りの街並みを巡って行きます。こちらは牧野本店。この店蔵は大正13年建造。右手の工場は大正11年建造です。

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工場裏手は足袋とくらしの博物館として足袋製造の実演を見学出来ます。ちょっと時間が遅かったのですでに閉館してました。

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こちらは明治28年創業の時田啓左衛門商店。建物は昭和16年建造。行田は荒川と利根川に挟まれた土地で、砂質土と豊富な水により綿や藍の栽培に適していました。その事から藍染の綿布生産が盛んになったそうです。

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右手に隣接する時田蔵は明治36年建造で、足袋蔵の街行田を代表する建物です。藍染の綿布生産とその縫製技術を活かし、江戸中期頃から足袋の生産が始まります。

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少し北へ歩いたところに建つ時田足袋専用倉庫は昭和4年建造。時田啓左衛門商店は山形、宮城、山梨などに販路を広げ成功をおさめたそうです。行田の足袋製造は明治期に入ってから足袋が大衆でも使われるようになった事、軍需用の足袋製造に携わった事などから一気に発展して行きます。

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こちらの小川忠次郎商店は足袋の原材料の商いをしていました。蔵造りの商店は昭和4年建造。日露戦争による好景気で足袋製造業者はさらに増え工場も乱立。生産量が一気に増えた事で足袋を保管するための蔵も多く建てられました。

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昭和15年創業の牧禎商店。事務所兼住宅は創業当時の物です。

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牧禎商店の工場棟。現在ではNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークによる藍染体験教室が開かれています。

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草生蔵。明治43年建造の金楽足袋株式会社の足袋蔵。市内で最も古い石造蔵と言われており、現在は草生家の倉庫として使われています。

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こちらは足袋とは関係ないのですが、近江商人の小川源右衛門が昭和2年に建てた大谷石造の蔵。現在はカネマル酒店の商品倉庫として使われています。

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国登録有形文化財の武蔵野銀行行田支店。忍貯金銀行として昭和9年に竣工。その後昭和19年行田元足袋販売株式会社に売却され、戦後は足袋会館として使われました。昭和44年に現在の武蔵野銀行となります。行田の産業の発展を見続けて来た建物です。

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「うまい!うますぎる!」テレビ埼玉で放送されているCMで有名な埼玉銘菓十万石饅頭の本店。行田だったんですね。あー、買えばよかった。

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最後にイサミ足袋本舗。明治40年に鈴木勝次郎商店として創業。

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ここはTBSドラマ「陸王」のロケ地として使われたノコギリ屋根の工場です。

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現在でも学生服の工場として稼働していますが、敷地の一部が公開されています。大正6年建造の工場が素晴らしい。そりゃロケ地になりますわ。

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このようなものもちゃんと残されています。

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モルタル造の足袋蔵は昭和13年(1938年)建造。現在内部が展示室となっております。

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内部の展示品。機械産業によるミシンありきの足袋製造業です。

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ドラマは見ていませんが、こう言った陸上競技用シューズを開発する話なんでしょうかね。

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入り口脇のガソリンポンプ置場。これも素晴らしい。観光地を巡って来ましたが、ここに来て巡って良かったと思いました。

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まだまだ行田の街を周りきってはいませんが、粗方メジャー処は巡った、と言う事で、レンタルサイクルを返しました。最後に今年3月に訪れた行田湯本温泉茂美の湯に立ち寄りました。

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相変わらずバカみたいな源泉湧出量で、バカみたいに全ての露天風呂浴槽へ源泉掛け流し。まったく贅沢な限りで素晴らしい日帰り温泉施設です。

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前回茂美の湯へ来た時に見かけて気になっていた造り酒屋が今回開いていたので、帰りがけについ立ち寄って日本酒買ってしまいました(真ん中の枡川)。この川端酒造は江戸末期の安政7年(1860年)から続く老舗で、今の店主は5代目に当たるそうです。
神田の行きつけの飲み屋にお土産として持って行きましたが、飲んで見たところ味はクセがあるけどスッキリ飲み易い。埼玉のお酒の特徴ですが、美味いです。
そうだ、行田名物ゼリーフライ食うの忘れた!結局ゼリーフライってなんなのか、謎は謎のまま。

群馬県伊勢崎市(3)、蚕種で栄えた島村集落と渡し船跡

利根川中流域の南は埼玉県、北は群馬県ですが、群馬県伊勢崎市の南端にあたる利根川の南岸に一部群馬県の飛び地があります。こう言うのを河川飛び地と言うそうです。

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その飛び地である島村集落の西南側に田島弥平旧宅があります。蚕の種を作る養蚕農家なのですが、ここが世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に含まれています。

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こちらが田島弥平旧宅の母屋。実際に今でも住まわれているので一般公開されるのは毎月第三日曜日のみ。普段から公開されているのは一つ上の写真に写る桑場、蚕の種を作る小屋のみです。

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桑場には当時の道具などが展示されています。島村集落は江戸中期より蚕の卵、いわゆる蚕種の製造が盛んでした。しかし蚕の飼育は難しく、年によって生産量の差が大きかったため、田島弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の風通しが重要であるとの考えから清涼育と言う方法を開発し、安定した蚕の生産に成功しました。

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養蚕農家は風通しを良くするために屋根の上にヤグラ(越屋根、天窓ともいう)が乗っておりますが、この養蚕農家の目印とも言える近代養蚕農家の建築様式は、ここが原点となったそうです。まさに明治からの近代養蚕業の父とも言えますね。

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田島弥平住宅の東側に田島達行住宅があります。この周辺には田島一族の養蚕農家が密集しており、しかも江戸末期の母屋や石垣が残されています。また各農家ごとに蚕種生産者としての屋号を持っており、こちらの農家は對青盧(たいせいろ)と言います。建物は慶応2年(1866年)竣工。

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こちらは桑麻館。どちらも重要文化財であると同時に普通に生活している民家のため、当然ながら勝手に敷地に入るわけにはいきません。時代とともに建て増しや多少の改築はありますが、母屋の基本的な部分は変わっていません。

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田島善一住宅主屋、屋号は進成館。慶応年間(1865〜1868年)に建てられた入母屋造りで、一階に住居、一階の一部に桑場、二階が蚕室となっています。

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こちらは田島平内住宅で屋号は有隣館。明治元年(1868年)竣工。この田島家一族は島村集落の蚕種を生産する生産者集団で会社を立ち上げ、海外への輸出も行っていたそうです。当時の集落はまさに栄華を誇っていたのでしょう。

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こちらは田島定吉住宅主屋で屋号は栄盛館。文久元年(1861年)竣工。上毛地域は伊勢崎や桐生など毛織物産業の一大拠点でしたが、ここで生産された蚕種が北関東一帯の養蚕農家に運ばれて行ったのでしょう。

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こちらは文化財に指定されていないためか、建物を説明する看板がありませんでした。とは言え、こちらも年代を感じる木造建築で、景観としても保存されているのが窺えます。

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もちろん田島一族の養蚕農家が密集している集落南東部以外にも養蚕農家が散在しています。文化財指定こそされてなくても瓦屋根の大棟とか鬼瓦とか見事。

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重要文化財にされていると言う事で見に行った板倉。私有地なので中に入れないし、ただの板で出来た倉です。歴史的価値はよく分かりませんが、観光パンフに載っていたので行って見ました。場所も分かりづらいし、ちょっと観光地として中途半端なところ。

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日本の絹産業にとって重要な役割を担った事も当然ですが、同時に景観としてこのような立派な日本家屋が多く残されている集落である事も、世界遺産に含まれた要素のひとつだったんだと思います。しかし、群馬県の河川飛び地の集落に世界遺産があると言うことを、一体どれだけの人が知っているでしょうか。かく言う私も今回初めて知りました。

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こちらは集落の南東部に建つ日本基督教団島村教会、めぐみ保育園。この本館の建物は明治30年(1897年)建造で国の登録有形文化財に指定されています。一応観光パンフの地図に施設名だけは載っていますが、詳しい解説は書かれていません。

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そして道路の向かい側には昭和28年建造の保育園の別館が建っていますが、こちらは県境を挟んで埼玉県深谷市に入ります。こちらも共に国指定登録有形文化財。教会の創立は明治20年(1887年)で昭和30年(1955年)より保育園が開設されました。

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島村集落の北側には利根川が流れています。河川敷の方へ歩くと島村渡船船着場の表示が。

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しかし河原にはすでに何も残っていません。実は2019年の台風被害により渡し船が運休。そのまま復活する事なく2022年の10月、正式に廃止となってしまいました。利根川の向こうは伊勢崎市境町。以前訪れた伊勢崎銘仙の織物工場で栄えた街があります。

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島村から下流側に3キロ行った所に掛かる上武大橋を渡り、島村渡船の境町側船着き場へと来ました。土手の上にポツンと残るほったて小屋が、かつての船頭の詰め所です。

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かつてこの渡し船は立派な「県道」と言う扱いになっており、その歴史は江戸中期からと伝えられているとか。船はFRP製の9人乗り(船頭含む)でモーターボートのエンジンを2機付けていたようです。

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島村集落の方々の足であるとともに、地味ながらも観光資源でもありました。しかし車社会になり年々利用者も減っていたのでしょう。現在では境町駅から上武大橋を迂回してコミュニティバスが運行されています。

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南岸の島村側からは黄色い旗を掲げて呼んでいたようです。台風の被害に遭った後、伊勢崎市は市内全域の市民にアンケートを取ったそうです。その結果、利用しない、または利用したいとは思わないとの回答が67%に達したため廃止が決定したそうです。まず、全域って言うのがおかしな話で、島村地区の方々を対象にアンケートを取るべきではなかったかと。

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こちらは廃止直前まで使われていた船とは違うようですが、恐らくは渡し船として使われていたと思われる船。せっかく世界遺産に含まれたと言うのに、観光資源としても上手く利用出来なかったと言う事です。境町の歴史的建造物を巡りつつ、木の船で利根川を渡って養蚕農家の家並みを巡ると言う、それだけで充分魅力があると思うのですが。あるいは島村集落の方々が観光地化に乗る気じゃなかったなんて事も考えられますが、あくまでも想像の域を出ません。

【日記】暑中お見舞い申し上げます

あっつい。
仕事が忙しくてどこにも行けなかったのですが、たとえ時間が出来たとしても出かける気にならないんじゃないだろうか。
しかしブログの更新はしなければ!と言う義務感と危機感、そして強迫観念があります。

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そんな訳でブログのネタにもならないスナップショットなどを並べでお茶を濁します。まずは茅ヶ崎。
茅ヶ崎駅の海側はほとんど散策してなかったのですが、仕事でたまたま茅ヶ崎に行った際、いい感じの路地裏を見つけました。

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で、この「ふうさん」と言うのは写真右手(駅側)の居酒屋の店名であり、この路地裏飲食店街の正式名称は不明。

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非常に短い路地裏ですが、舗装がしっかりされてない所なんて神奈川らしい感じです。

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仕事帰りのちょい飲みは、過去に行った事のある所ばかり。最近ではあえて新規開拓しようと言う気力がなかなか湧かないのです。

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南武線溝の口駅の線路ぎわ、闇市発祥のバラック街で電車の音を聴きながら立ち飲み。「いろは」さんは9年前に行って以来、機会があれば立ち寄ります。

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現在、メインの仕事は五反田。五反田と言えば目黒川沿いの立ち飲み屋「へそ」五反田店が昔から行っている店。なのですが、西五反田の路地裏に角打ちを発見しました。

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桑原商店さんは酒屋の倉庫で飲めると言う素晴らしいシステム。特に日本酒のラインナップが充実しています。

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私がハマったのはこの小豆島のクラフトビール、レモンビール。サッパリした飲み口で、ついつい2本飲んでしまいました。酒のアテも酒、特に日本酒が進む物ばかりで美味いです。ただ、唯一タバコが吸えないと言う点からその後行っていませんが、女性なんかも入りやすく人気のお店になりそうです。

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何度か仕事で通った渋谷区大山町。小田急の代々木上原と東北沢の間ぐらいの北側になります。その交差点で見つけた渋い建物。

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もし営業してたら絶対入りたい所ですが、食べログの書き込みを見ると2018年が最後だったので、閉店されてからだいぶ経っている様子。



大山町の交差点から代々木上原に行く途中にあるモスク、東京ジャーミイ。イスラム教徒でなくとも見学自由との事なので、いつか中に入ってみたいです。トルコ系のモスクですが売店もあるので、イスラムグッズとか見るのも面白いかも。イスラム文化には興味もあります。



副都心線東新宿近く、知る人ぞ知る立ち飲み屋「山根商店」。およそ6年ぶりに行きましたが、やはり変わらずモツ煮が美味い。ただ現在、お母さんが腰を悪くしてしまったようで、息子さん(?)一人で切り盛りしており、スペースを若干狭くしての営業となっております。

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今年は横浜の日本大通り駅辺りでの仕事が続きました。こちらは昭和4年(1929)竣工の横浜貿易協会ビル。横浜はちょっと歩けば昭和の建築物に当たります。

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貿易協会の向かいに建つのは横浜開港資料館。昭和6年(1931年)に建設され英国領事館として使われていた建物です。

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内部には幕末から昭和にかけての様々な資料が展示されています。

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横浜港大さん橋の入り口に、横浜港湾飲食企業組合の大桟橋食堂があります。港湾労働者の食堂と言う事で、一度入って食べてみたいところ。

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初めて大さん橋(正式名称が「さん」を平仮名表記しているみたい)に行って見ました。ウッドデッキがとんでもない!

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これ、設計した人も大概ですが、貼った職人も相当です。どれだけの人数と日数が掛かったのか、とにかくいい仕事をしています。ちょうどこの頃自分も合同庁舎のテラスのベンチにウッドデッキ材を貼っていましたが、この面積を見ると気が遠くなります。

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たまたま練習船の日本丸が停泊しておりました。昭和5年に建造され昭和59年まで活躍していた初代日本丸は現在桜木町の石造りドックに保存されていますが、こちらは初代が引退した年に完成した二代目となります。

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先週3年ぶりに訪れた横浜橋商店街。横浜はいつも寿町へ飲みに行くのですが、行きつけの優子さんが開いて無かったので、永楽湯で汗を流して横浜橋まで。

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コロナ禍になった2020年以来の立ち飲み屋「まいめり」さんで、風呂上がりの一杯。ここも以前と変わらず常連さん方で賑わっておりました。

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その流れで三吉橋を渡り、3年前よく通ってた「フライ屋」さんへ。店内を改装されていましたが、こちらも以前と変わらない雰囲気でほっとしました。相変わらず安くて美味い!

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そして先日は寿町のカラオケスナック優子で飲んでいました。やはりここが落ち着く。

仕事はそろそろ落ち着いて来たので、近いうちにどっか写真撮りに行く機会があるかも知れませんが、この暑さなので資料館や博物館など、涼しい所がいいな。

埼玉県秩父市秩父市街(3)、ちちぶ銘仙館

今年は月3回以上の更新を目指していましたが忙しい時は忙しく、なかなか出かけられないので5月に秩父へ行った際に立ち寄った秩父銘仙を記事にします。2018年10月に秩父銘仙に関連する史跡を訪れたのに、なぜ当時「ちちぶ銘仙館」に行かなかったのか!

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ちちぶ銘仙館は西武秩父駅から歩いて5分ほどのところにあります。建物は昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場跡で、国の登録有形文化財です。

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入るとすぐに秩父銘仙が展示されています。秩父地方は江戸期から養蚕(ようさん)が盛んで、絹織物産業が発展して来ました。

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ちちぶ銘仙館のエントランス脇の部屋は元々事務所のような物だったのでしょうか、受け付け窓口のような凝った造りの小窓があります。
江戸期の絹織物は農家が副業として、各農家ごとに養蚕から製糸、機織りまで一貫して生産していました。

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奥はノコギリ屋根の工場となっています。
しかし明治に入ると欧米の機械産業による織物が輸入されるようになり、逆に欧米には大量の絹糸を求められるようになります。以来日本の絹織物産業は養蚕と製糸に集中される事となります。

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ノコギリ屋根の内部に展示されているのは撚糸機。糸を撚る(よる)ための機械だそうです。以上のような時代の流れから富岡製糸場が生まれ製糸の機械化が進み、農家では養蚕だけが続けられる事となります。

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ちなみに銘仙とは元々、上物の絹織物には不向きな屑繭や、2匹以上の蚕が1つの繭を作った玉繭から引いた太めの絹糸を緯糸(たていと)に使って密に織ったもので、絹としては丈夫で安価でもあったそうです。

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こちらが、各農家ごとに機織りをしていた時代の機織り機。
関東の主な銘仙と言えば伊勢崎、足利、桐生、秩父、八王子。この銘仙と言う言葉も明治に銀座三越で販売される際、銘「選」の着物として売り出された事からだそうです。

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その機織り製品も工場で生産されるように。結局のところ上質な生糸は外貨を稼ぐために輸出され、あぶれた生糸で国内向けの着物を織った物が銘仙と言う事になります。とは言え丈夫で安くデザイン性にも優れている事から、庶民の間では人気を博していました。

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こちらは蚕(かいこ)から糸を取り出すところ。リアルな蚕が見れます。蚕って結局、蛾の幼虫がサナギになった物なんですよね。
実際製糸工場では富岡製糸場に展示されていたような長大な繰糸機で一度に大量な蚕から糸が繰り取られます。

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こちらは糸を染色する甕。地中に埋まっているのも意味があると思いますが、ちょっと駆け足で見てしまいました。また行く機会があれば色々質問もしてみたいところ。実際ここは蚕から着物が出来るまでの工程を、全て勉強出来、また体験も出来る施設となっております。
ちなみに日本ならびに中国(清国)に機械式製糸工場が広まった事により、欧米諸国に於ける生糸の相場が大暴落して、欧米の製糸工場や紡績工場が大打撃を受けたなんて事もあったとか。

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かくして製糸、紡績産業は明治大正から昭和初期にかけて、日本の主要産業のひとつとなり、日清紡や東洋紡、カネボウなどの巨大企業を生み出しました。私もまだまだ勉強不足なのですが、蚕(カイコ)から糸を紡ぐのを長繊維(製糸場)と言い、綿花や羊毛、麻などから糸を紡ぐのを短繊維(紡績工場)と言うそうです。

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しかしながら昭和後期、日中国交正常化以来安い製品が入って来るようになったり、東南アジアなどの途上国の発展やら貿易の規制緩和やらで、国内生産による紡績業界は衰退して行く事となります。特に現代は長繊維から織られる着物は着られなくなり、短繊維から織られる洋服の時代です。今や養蚕自体が過去の遺物とも言えます。

埼玉県児玉郡神川町、上武鉄道(日本ニッケル鉄道部)廃線跡

※学生時代のバイトの先輩で幾度か一緒に旅をした方が、上武鉄道廃止直後の廃線跡を訪れていました。その時代の貴重な写真をお借りする事が出来たので、記事に追記いたします。(6月6日)

日本ニッケル専用線(上武鉄道日丹線)廃線跡を訪れました。

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ここ最近、自分的にも何かと注目している八高線。セメント輸送で注目していましたが、戦前の軍需産業と言う側面に於いても昭和6(1931)年開通した国鉄(当時は鉄道省)八高線は重要な役割を担って行きます。

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起点は八高線丹荘駅。緑色のフェンスの向こう側に、かつて上武鉄道丹荘駅がありました。単線の八高線で貨物列車がすれ違うための線路が構内にありますが、現在は使われておりません。

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まずはバスで中間地点である神川中学校前まで。さすがに全線踏破するつもり(体力)はありません。まずは神川中学校前駅跡から。

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ちなみにこの神川中学校前駅跡は中学校が創立した昭和40年の翌年、昭和41(1966)年に開業しました。駅名標は廃止後、遊歩道が整備されてから建てられた物。

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こちらが廃止からおよそ2年後、昭和63(1988)年頃の神川中学校前駅。

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さて、上武鉄道日丹線(旧・日本ニッケル専用線)を歩いていきます。廃線跡の大部分は現在遊歩道として整備されています。

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この線路は昭和16(1941)年、当初神流川(かんながわ)対岸の群馬県多野郡にあった多野鉱山と精錬所、及び埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の日本ニッケルから八高線の丹荘駅まで、専用線(日本ニッケル鉄道部)として開通しました。

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沿線では麦が収穫時期を迎えていましたが、二毛作の場合6月に入ってから稲作へと切り替えられます。ちなみに日本ニッケルは昭和11(1936)年、軍需産業に必要とされるニッケルの精製、並びにクロム鉱石の産出のため設立されました。

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こちらは数少ない遺構のひとつ。戦後ニッケル鉱山の閉山により本来の役目を終えましたが、地元の要望もあって日本ニッケル鉄道部が昭和22(1947)年より旅客営業を開始しました。日本ニッケルは鉱山の閉山後も鉄工所として存続されたため、列車は貨車と客車の混合列車で走っていました。

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その日本ニッケルは昭和35(1960)年、朝日化学肥料に吸収合併され西武化学工業となり、その後西武流通(後のセゾン)グループの傘下へと入ります。それに伴い日本ニッケル鉄道部が独立、昭和37(1962)年上武鉄道が設立されました。ちなみに路線は電化されず前期は蒸気機関車、後期はディーゼル機関車による牽引で、貨物列車に客車が1両だけ連結される編成でした。

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廃線跡は途中、神流川(かんながわ)から取水される用水路と並走します。上武鉄道は貨物輸送がトラック輸送に変わって行った事や利用客の減少などから、昭和61(1986)年廃止となりました。会社自体は通運会社としてしばらく存続していましたが、平成10(1996)年事業を停止します。

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ちょうどこの辺りに青柳駅と言う駅があったそうです。現在その痕跡は残っていません。

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沿線には青柳古墳群と言って古墳が幾つも残っています。関東平野って本当に古墳が多いです。西武化学工業は1991年、朝日工業と社名を変えて1996年セゾングループからも独立し、今に至ります。

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遊歩道は途中、一般道となる区間もあります。ちなみに元来日本ではニッケルがほとんど採掘されません。たとえ埋蔵されていても0.3%のニッケルを含むニッケル粘土しか出て来ないうえ、採掘するための費用に対してその産出量が釣り合わず採算も全く取れません。

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こちらは恐らく沿線に並んでたであろう木造電信柱。ニッケル鉱石は本来出土しないため輸入に頼るしかないのですが第二次大戦前、開戦したら資源の輸入が困難になると分かっていたので、昭和8(1933)年発行の5銭と10銭硬貨をニッケル硬貨にして備蓄したりもしたそうです。ちなみに現在でもニッケル合金は50円玉と100円玉に使われています。

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鉄道の遺構として盛り土された路盤がそのまま残っています。現在ニッケルの用途は主にステンレスですが、ニッケル合金は錆びず粘り強く耐熱性も兼ね揃えています。そのため航空機や装甲など軍需産業には特に必要不可欠の素材でした。

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しかし当然備蓄だけでは全く足りず、戦時中はインドネシアからの輸入に頼る事になります。しかし戦局が悪化するとニッケルを積んだ貨物船が次々に沈められ、仕方なくニッケルを僅かに含んだ質の悪い鉱物を国内で採掘するしかありませんでした。終戦の翌日には日本のニッケル鉱山、特に大きかったのは京都と山口でしたが、全国で一斉に閉山となりました。それだけ国産のニッケル鉱物は酷かったのです。

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キジ!走るの速ええ!

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日本は粗悪な鉱物からどうにかニッケルを精製しようと努力を重ねた訳ですが、その精錬技術が戦後役にたつ事となります。現在日本は、原材料の鉱石を一切産出しないのにも関わらず、ニッケルの生産量が世界第3位となっています。これは東南アジアで採掘されたニッケル鉱石を、日本(住友金属鉱山とJFEミネラル)が戦時中に培った製錬技術によって精製し、世界へと輸出すると言う構図に他なりません。

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終点の日本ニッケル(現在の朝日工業)の手前に残る寄島駅跡。

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ニッケルについて色々語って来ましたが、現在の朝日工業埼玉工場(旧・日本ニッケル)では鉄スクラップを溶かして再利用し、建材としての鉄筋を製造しているのみ。

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こちらが廃止からおよそ2年後の寄島駅。

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寄島駅跡の先にある、唯一残された軌道跡。かつての踏み切りですが、奇跡的に残っていたようです。

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踏み切り跡の先で遊歩道は終了となります。廃線跡の散策はここまで。

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今ではすっかり見えなくなってしまいましたが、この先に鉄橋があります。

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こちらがその鉄橋。沢を渡る鉄橋で、奥に見えるのは神流川。

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当時はちゃんと見えていたようです。

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こちらが日本ニッケルを前身とし、西武化学工業を経て朝日工業となった工場。鉄鉱石からコークスを使って溶かす高炉のある製鉄所とは違い、ここは鉄屑を電気炉で溶かし建設用の鉄筋などに再利用する工場となります。

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廃止当時は西武化学工業で、貨物駅の駅名も西武化学前駅でした。

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鉄屑が搬入され、鉄筋材が出荷されて行きます。要はリサイクルですが、金属製品によっては鉄屑リサイクルの方が多い物もあります。もちろんただ鉄屑を溶かして鉄筋にするだけでなく、錆びない、つまり酸化しないように高アルカリ性の皮膜でコーティングします。

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そんな訳で廃線跡を歩きながらニッケルについても調べて見ましたが、もうひとつの目的はここ、7年前に訪れた日帰り入浴施設白寿の湯

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こちらは公式サイトからお借りしました。この鉄分豊富な鉱泉による澱出物で鍾乳洞状態となった床。加温循環濾過しながらも源泉も掛け流されています。露天はぬる湯ですが、ゆっくり浸かれば至福の時間。埼玉県内の入浴施設では最高と謳われております。鉄工所の隣で酸化鉄まみれと言うね。

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以上。余談ですが帰りの八高線で、群馬藤岡駅に停車した際検査車両、キヤE-193系とすれ違いました。
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