旧日本海軍における飛行学校の中枢が以前訪れた土浦海軍航空隊予科練であるのに対し、旧日本陸軍における飛行学校が所沢陸軍飛行学校および熊谷陸軍飛行学校などになります。ちなみに予科練と言う言い方は海軍でしか使わないようです。
その熊谷陸軍飛行学校の分校が保存されていると言う事で桶川に降り立ちました。桶川の中心街は西側であり、駅前には巨大駐車場を併設した東武ストアが。
バスの時間までちょっとあったので裏口と言える東側を軽く歩きました。かつては商店街として多少栄えていたようですが、大半の建物は解体され駐車場や空き地になっています。
そんな中、商店街の面影を残す建物が。ただしとっくに閉業となっている様子。
こちらはパン屋さん跡の裏の玩具屋さん跡。ほんとにこう言った個人商店て生き残ってないです。
それはさておき本題に入ります。JR桶川駅から西へバスで10分。荒川の河川敷に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場があります。荒川の向こう岸にはかつて滑走路があったとか。
道すがら、周辺から集められた陸軍の境界石が何基も置かれています。
こちらが桶川分教場。飛行機は第一次世界大戦で初めて軍事利用が始まりましたが、日本に於いては大正9年(1920年)、陸軍所沢航空大隊に航空学校が開校しました。その跡地は後に航空自衛隊入間基地となります。
正門左手には守衛棟が残っています。陸軍が航空兵力の増強に本腰を入れ始めたのは満州事変からと言われてますが、昭和10年(1935年)、熊谷に陸軍熊谷飛行学校が開校し、その2年後の昭和12年(1937年)、ここ桶川分教場が開校しました。
守衛棟の内部。畳や電灯などが当時の姿に再現されています。
守衛棟の脇にはコンクリート造の弾薬庫が。小さいですが学校なので銃弾が多少あればいいんでしょう。
正門を入ると右手に車庫棟があります。ちなみに海軍の方では昭和4年(1929年)、横須賀海軍航空隊の中で予科練習制度が設けられ、14歳以上20歳未満が飛行技術を学ぶ事となります。
車庫棟の天井。これらの建物は一度解体し、腐った部分などを接木で再生させ、再度組み立てるという復元整備のための大改修工事を行いました。ちなみに改修前の状態は帝都を歩く様で詳しくレポートされています。比べて見ると本当に綺麗に復元された事が分かります。
こちらが兵舎棟。工事が終わった令和2年(2020年)、桶川飛行学校平和祈念館として再び一般公開される事となりました。終戦の年、昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校と並んで桶川分教場も閉校となり、以降終戦まで特攻隊の訓練場となりました。
内部は綺麗に磨かれており、戦前の建物とは思えないほど。この兵舎は戦後GHQに摂取され、その後戦地からの引揚げ者や戦災による生活困窮者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。
宿舎棟には貴重な写真や資料などが展示されています。当時の練習機と言えば複葉機の九五式I型中間練習機、通称赤とんぼと呼ばれていた機体。
寝室が再現されています。狭いので足と頭を交互にして寝る形に。太平洋戦争に於いては多くの少年や青年たちがここで寝食を共にしながら学び、戦地へと送られて行きました。
こちらは当時の教科書。改めて考えてみれば戦争以前までの日本語って、漢字とカタカナなんですよね。漢字と平仮名と言う現代の文章って、戦後の学校教育から一般化したと言った感じで100年も経っていない事になります。もちろん平仮名は平安時代から存在していましたが、あくまで私的文書や女性が使う文字とされていました。
宿舎棟の奥には便所棟があります。他にも幾つか棟がありましたが、GHQに摂取された際に取り壊されたそうです。
ここも当時の形に復元されています。
内部は学校当時の内装に復元されていますが、2006年まで市営住宅として人が住んでいたそうです。
改修工事がされたとは言え、ここまで当時の姿を残していたと言うのが奇跡的と言えましょう。今後ロケ地などにも活用出来そうですね。
その熊谷陸軍飛行学校の分校が保存されていると言う事で桶川に降り立ちました。桶川の中心街は西側であり、駅前には巨大駐車場を併設した東武ストアが。
バスの時間までちょっとあったので裏口と言える東側を軽く歩きました。かつては商店街として多少栄えていたようですが、大半の建物は解体され駐車場や空き地になっています。
そんな中、商店街の面影を残す建物が。ただしとっくに閉業となっている様子。
こちらはパン屋さん跡の裏の玩具屋さん跡。ほんとにこう言った個人商店て生き残ってないです。
それはさておき本題に入ります。JR桶川駅から西へバスで10分。荒川の河川敷に熊谷陸軍飛行学校桶川分教場があります。荒川の向こう岸にはかつて滑走路があったとか。
道すがら、周辺から集められた陸軍の境界石が何基も置かれています。
こちらが桶川分教場。飛行機は第一次世界大戦で初めて軍事利用が始まりましたが、日本に於いては大正9年(1920年)、陸軍所沢航空大隊に航空学校が開校しました。その跡地は後に航空自衛隊入間基地となります。
正門左手には守衛棟が残っています。陸軍が航空兵力の増強に本腰を入れ始めたのは満州事変からと言われてますが、昭和10年(1935年)、熊谷に陸軍熊谷飛行学校が開校し、その2年後の昭和12年(1937年)、ここ桶川分教場が開校しました。
守衛棟の内部。畳や電灯などが当時の姿に再現されています。
守衛棟の脇にはコンクリート造の弾薬庫が。小さいですが学校なので銃弾が多少あればいいんでしょう。
正門を入ると右手に車庫棟があります。ちなみに海軍の方では昭和4年(1929年)、横須賀海軍航空隊の中で予科練習制度が設けられ、14歳以上20歳未満が飛行技術を学ぶ事となります。
車庫棟の天井。これらの建物は一度解体し、腐った部分などを接木で再生させ、再度組み立てるという復元整備のための大改修工事を行いました。ちなみに改修前の状態は帝都を歩く様で詳しくレポートされています。比べて見ると本当に綺麗に復元された事が分かります。
こちらが兵舎棟。工事が終わった令和2年(2020年)、桶川飛行学校平和祈念館として再び一般公開される事となりました。終戦の年、昭和20年(1945年)2月、熊谷陸軍飛行学校と並んで桶川分教場も閉校となり、以降終戦まで特攻隊の訓練場となりました。
内部は綺麗に磨かれており、戦前の建物とは思えないほど。この兵舎は戦後GHQに摂取され、その後戦地からの引揚げ者や戦災による生活困窮者のための市営住宅「若宮寮」として使用されました。
宿舎棟には貴重な写真や資料などが展示されています。当時の練習機と言えば複葉機の九五式I型中間練習機、通称赤とんぼと呼ばれていた機体。
寝室が再現されています。狭いので足と頭を交互にして寝る形に。太平洋戦争に於いては多くの少年や青年たちがここで寝食を共にしながら学び、戦地へと送られて行きました。
こちらは当時の教科書。改めて考えてみれば戦争以前までの日本語って、漢字とカタカナなんですよね。漢字と平仮名と言う現代の文章って、戦後の学校教育から一般化したと言った感じで100年も経っていない事になります。もちろん平仮名は平安時代から存在していましたが、あくまで私的文書や女性が使う文字とされていました。
宿舎棟の奥には便所棟があります。他にも幾つか棟がありましたが、GHQに摂取された際に取り壊されたそうです。
ここも当時の形に復元されています。
内部は学校当時の内装に復元されていますが、2006年まで市営住宅として人が住んでいたそうです。
改修工事がされたとは言え、ここまで当時の姿を残していたと言うのが奇跡的と言えましょう。今後ロケ地などにも活用出来そうですね。