戦争遺跡

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神奈川県横須賀市追浜(1)、第三海堡構造物(移築)

東京湾の入り口、浦賀水道には第一から第三まで、人工島による海上砲台が有りました。

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追浜駅から海岸へ、京急バスの追浜車庫や日産自動車の工場などが建つ夏島地区の公園に、その砲台が保存されています。

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明治時代、観音崎砲台に西洋式砲台を設置した事を皮切りに東京湾入り口の要塞化が進められました。もちろん黒船以降他国の艦隊が東京湾に攻め入るような事は無く、砲台が火を吹く事も無かったのですが。

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富津岬側から第一海堡(かいほう)が明治14年着工し明治23年竣工、第二海堡が明治22年着工し25年後の大正3年竣工、この第三海堡は明治25年着工したのですが、水深の深さや潮の速さなどから難工事が続き、完成したのは29年経った大正10年。しかし竣工から2年後の大正12年、関東大震災で甚大な被害を受けます。折しも大砲の技術は進歩し、浦賀水道を通る船舶に対し充分陸地の砲台からでも射程内に入るようになった事で必要性が無くなり、そのまま復旧せずに除籍となりました。

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ちなみに現在でも洋上に残る第二海堡へは、クラブツーリズムにて定期的に上陸ツアーが催されているので、コロナ騒動が収まり再開された折には、参加してみたいと思います。

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結果無用の長物となり、終戦後もただ邪魔なだけの存在となってしまい、平成12年から同19年にかけて撤去工事が行われました。しかし近代土木技術の貴重な資料として保存される事が決まり、この横須賀市追浜の夏島都市緑地に移築され、日本遺産の構成文化財、さらに神奈川県の重要文化財に指定されました。それにしてもこんな巨大なコンクリートの塊をよく運んで来れたなと思います。

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夏島都市緑地の手前右側に小高い丘があります。その山頂にあるコンクリート遺構は砲台跡の一部と言われます。この砲台についての詳細は不明。

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山頂へ続く道の途中に不自然な穴が。この貝山の地下には地下壕が張り巡らされているらしく、この穴は空気穴か何かでしょうか。地下壕の入り口は崖の斜面や藪の中にあるらしく、確認することは出来ませんでした。

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麓の貝山緑地入り口には予科練誕生の地の石碑が。海軍横須賀航空隊の飛行訓練を行う予科練習部が昭和5年、ここに設立されたそうです。予科練は昭和14年、手狭になった事を理由に以前訪れた土浦航空隊へと移転されて行きます。

世田谷区三軒茶屋(2)、世田谷韓国会館(旧・駒沢練兵場兵舎)

去年2019年の春頃に三軒茶屋はよく通っていたのですが、いつか行こうと思っていた世田谷韓国会館の存在をすっかり忘れ、スルーしていました。先日たまたま三軒茶屋に寄る機会が有ったので、改めて訪れてみます。

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246号線の南東側、三叉路辺りから路地裏へ入った所に、去年よく通っていた立ち飲み屋さんが一軒あります。ちょっとした飲み屋街の中にある、その名も「たちのみや」さん。

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生350円、サワー系300円~、小皿料理300円~。地価の高い東急沿線、しかも三茶にしてはなかなかリーズナブル。立ち飲みと名乗りながらも8割が椅子席で、なかなか意表を突いてきます。店内は地元の常連さん方が集まる賑やかな店で、好きな雰囲気。一発で気に入ってしまいました。

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飲み屋街の脇から南東方向には庶民的な商店街が続いており、その一番奥の方には逆Y字路をショートカットするような形で微妙なアーケードもあります。

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上馬1番街商店会。昼間だったのでシャッターが閉まっていましたが、どれくらい生き残っているのか。しかし商店街自体は人通りも多く賑わっていました。

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逆Y字路の先には弘善湯という銭湯があります。ひとっ風呂入りたかったのですが、残念ながら本日休業の札が。

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弘善湯の裏手の住宅街の中に、今回の目的地である世田谷韓国会館があります。

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この辺りから三宿に掛けての一帯はかつて旧帝国陸軍の駒沢練兵場であり、この建物も明治30年頃に野砲兵第一連隊の兵舎として建てられました。

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戦後、この建物は在日韓国民団東京世田谷支部の入る世田谷韓国会館として流用されています。

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それにしても物持ちがいいと言うか、世田谷一帯を焼け野原にした空襲にも焼け残った明治時代の木造建築を、未だに建て替えもせずに使い続けているのが驚きです。同時に歴史的価値のある建造物を残してくれている事に感謝の念すら抱きます。

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向かい側には都営下馬アパート。ここの四階共用廊下からなら韓国会館を俯瞰で撮れると思ったのですが、残念ながら建て替えに伴い閉鎖されていました。

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かつての練兵場跡地のほとんどが、世田谷公園や学校、都営団地として使われています。しかしどの棟も老朽化が激しく、こちらの棟も住民は退去し、二階への階段は封鎖されています。しかし一階部分の建て増し感は、かつて商店だったのでしょうか。

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表に廻ればまだ営業中の店舗も残っているようです。しかし周辺では着々と建て替え工事が進められていました。

千葉県館山市、洲崎第二砲台跡と震洋特攻基地跡

館山航空隊跡から東へ。房総半島の南東端である洲崎方面に行った所に洲崎第二砲台跡があります。

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こちらは砲台へ向かう所の門柱。特に何も刻まれて無いので木の表札でも掛かっていたのでしょう。

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住宅の中にコンクリート造の遺構が。砲弾に火薬を装填する炸薬填実所だそうです。危険なので半地下にしてドーム状で分厚いコンクリートに覆われています。このコンクリートが堅すぎたと言う事で民家はその上に建てられていました。地元の方曰く、ついこの前も写真撮り来てたけど、飛行機の格納庫とか言ってたなぁ。いや、掩体壕はこんなに小さくないし山の中腹だし、そんなわけないでしょうが。

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住宅地の最奥部、この先は人が足を踏み入れてない事が分かります。マジか。ここを行くのか⁉︎

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雑木林の中に、砲台の基部が残っていました。

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この洲崎第二砲台は昭和2年、30センチ榴弾砲4門が完成。しかしその後砲門を満州軍に出したためしばらく砲座は破棄されていました。しかし昭和13年、本土決戦に備えて再開され、12センチ速射カノン砲2門と10センチカノン砲4門があったそうです。ちなみにこれは唯一現存する第四の砲台。

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奥には砲弾などをしまっておく砲側庫があります。

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さらに奥には隧道が。陸軍の迷彩が残っていますが、内部は戦後何かに再利用されたのかコンクリートとタイルで補強されています。また内部には横穴があり弾薬庫としても使われていました。

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砲台のあった坂田海岸から岬一つ手前の波左間海岸。のどかな漁村って感じです。

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しかしここには大戦末期、特攻船「震洋」の基地があったそうです。

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元々ここ波左間海岸には前出の洲崎第二砲台への資材搬入波止場がありました。この階段は当時のものだろうか、いかんせん波の侵食を受けているので、海岸部には当時の遺構は殆ど残っていないと考えた方がいいかも知れない。

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波左間の「震洋」特攻基地跡。干潮時にはもう少し遺構が顔を出すようですが、正午過ぎだったので水没していました。

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付近には数多くの防空壕があります。震洋の訓練施設は長崎と鹿児島にあり、訓練を終えた兵士たちはフィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸各所の基地へと配属されて行きました。

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昭和20年初頭よりフィリピンや沖縄戦線において陸軍の特攻船「マルレ」と共に戦果を挙げて行く中、ここ波左間の震洋基地の建設は昭和20年3月下旬から開始されました。

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このような小さな入り口は燃料や食料などの倉庫だったかも知れません。

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すっかり草に覆われていますが、大きめの防空壕は震洋の格納壕だった可能性があります。

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先週、霞ヶ浦の予科練平和記念館雄翔館に立ち寄った際に撮った震洋の模型。昭和20年7月、第59震洋隊として176名の若き志願兵が完成した波左間基地に配備されましたが、6隻の震洋が基地に到着したのは8月13日になってから。すぐに爆薬を装備し出撃態勢をとっていたなかで敗戦を迎えたそうです。

千葉県館山市、館山海軍航空隊赤山地下壕跡他

アクアラインのお陰で南房総がだいぶ近くなりました。東京から二時間掛からずに行けます。

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昭和5年、館山飛行場が完成すると横須賀海軍航空隊の作戦部隊を移転させ、館山海軍航空隊が設立されました。その跡地は現在、海上自衛隊館山駐屯地として使われています。

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現在自衛隊敷地で入れないのですが、この左手奥に水上機が進水するスリップ(傾斜)が残っています。またそのスリップは敗戦後、アメリカ軍が初上陸した地でもあります。

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軍需部第二航空廠倉庫。昭和7年に航空廠(軍需工場)が併設されています。赤煉瓦が当時の面影を色濃く残しています。

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航空基地の近くに、赤山地下壕跡があります。こちらは一般公開されており、入場料200円。

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太平洋戦争当時は木更津海軍航空隊が設立されていたため、館山海軍航空隊は主に哨戒、偵察任務を主とし、敵潜水艦への攻撃を行っていました。しかし終戦が近づくにつれ、上陸に対する首都防衛が主な任務となって来ます。

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そんな中、この赤山地下壕が造られたのは諸説ありますが、本土爆撃が始まった昭和19年以降と考えられています。

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壁面は丁寧に掘られ、房総半島特有の地層がはっきり見られます。

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内部は非常に広く、司令部を始め発電施設や病院まであったそうです。

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こちらは裏手の入り口。立入禁止ですが、入り口は多く造られています。

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搬入口でしょうか、大きな入り口もあります。

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こちらは赤山地下壕の裏手に残る掩体壕。滑走路は浜辺に造られているため、かなり距離が離れていました。

茨城県稲敷郡、鹿島海軍航空隊基地跡

霞ヶ浦には2回に渡り訪れました。1度目は先々週バスで予科練平和記念館へ。2度目は昨日、土浦駅前からレンタルサイクルを借りて。目的地である美浦村の遺構までの交通手段が無く、バスで江戸崎まで行きタクシーなんてのも考えましたが、土浦駅のレンタルサイクルがロードバイクやクロスバイクなども借りれると言う事で、思い切って長距離サイクリングにしました。
Hellocycleと言う物なんですが、これが登録すれば首都圏を中心とした一部地方都市の基地で、早朝から自由に借りれると言う優れ物。アプリで手続きするとオンラインで繋がっている自転車の鍵が外れ、1日2000円の利用料はカード又はdocomo払いという。地方公共交通機関が衰退した現代、これは無免トラベラーとしては非常にありがたいですし、どんどん広げて行って欲しいです。

と、余談はここまでにして本題。

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土浦から霞ヶ浦南岸を東に走って行きます。予科練平和記念館を越えた辺り、以前より気になっていた場所へ。ここは、霞ヶ浦湖底の土砂や泥を浚渫船で汲み上げ、沖合いの浮島に停泊する船から陸地へと揚げるという物。ポンプによってパイプを伝い大量な土砂が運ばれています。浮島までの軌道とトロッコは、浚渫船まで機材等を運び込むための物でしょうか。

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陸地では土砂を大量の水で洗い、かつ選別しています。干拓事業として利用され、水田や蓮根畑などが広げられて行きます。

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さらに東へ行った所に、同様の施設の廃墟が有りました。

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こちらはもう使われていない選別場です。

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沖合いには既に使われなくなった廃船が打ち捨てられています。

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そんな物を見ながら、かつ向かい風に体力を奪われながら到着したのが、美浦村の湖岸(東側)。かつてこの浜より水上機が進水し、訓練を重ねて行ったそうです。当時のコンクリートは東日本大震災で破損したため新たなコンクリートで埋められてしまいました。現在はモーターボートやマリンスポーツの基地となっています。

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基地の建設は霞ヶ浦海軍航空隊の水上班が土浦航空基地より移転して来た昭和13年。この水上班、霞ケ浦航空隊安中水上隊は昭和20年5月、練習航空隊の指定を解除され鹿島北浦派遣隊となったため、この遺構は鹿島海軍航空隊跡と呼ばれています。航空隊の庁舎跡は戦後、東京医科歯科大学附属病院霞ヶ浦分院として再利用されていましたが、その病院も平成9年に閉鎖されてしまい廃墟化。

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つまりこれは廃病院という事になり、有名な心霊スポットにもなっていました。現在では厳重な柵に囲まれています。

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立入禁止&藪に阻まれ近づけませんでしたが、教練所跡の奥に見えるのはボイラー室。これらの建物も病院の施設として使われたとの事です。またかつてここには兵舎跡を利用した木造の病棟があり、スピッツ「空も飛べるはず」のPVのロケ地にもなっていましたが、その病棟は残念ながら取り壊されてしまいました。カラオケ歌う時にその映像が流れ、ここ行ってみたいと常々思っていたのですが、非常に残念です。

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格納庫跡の隣には発電施設跡も残っています。土浦から二時間近くペダルを漕ぎ続けて来たので藪を漕ぐ体力なんて残ってません。

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こちらは便所の跡と言われていますが、貯水槽に建つポンプ室という説も。

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ふんどしを干していた所と言う説が。

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庁舎(病院)跡の向かいには倉庫が有りますが、こちらの詳細は不明。

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倉庫からさらに湖寄りに入った所にある遺構には、記念碑か有ります。

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記念碑のある建物は燃料庫跡。火気厳禁だからコンクリート造なのでしょう。

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沿岸には当時使われていた船着場も残っています。

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基地の跡地は岬のようになっており、東と南を霞ヶ浦に面しています。なので東と南それぞれにコンクリートで固めた傾斜(スリップという)があります。こちらは南面のスリップ。水上機とはつまり(主に)複葉機の車輪部分にデカい浮きを付けたもので、偵察や哨戒が主な任務とされていました。ちなみに飛行艇も配備されていたかどうかは定かではありません。

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南東の突端部にはカタパルトの台座跡が残っています。

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トラス構造のクレーンみたいな物が、湖に向かって伸びていました。子供の頃、戦艦大和のプラモデルを作っていた時、艦尾にこのカタパルトを付けた記憶が有りますが、アレです。プラモ作った人しか分からないかも知れませんが、大和には偵察機や観測機など6機の水上機が搭載されていました。ここでカタパルト発進の練習をしていたのですね。

この後、前の記事に載せた霞ヶ浦海軍航空隊基地跡に向かう訳ですが、追い風で快調に飛ばすも雨に降られるという不幸が。
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