廃線跡

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埼玉県児玉郡神川町、上武鉄道(日本ニッケル鉄道部)廃線跡

※学生時代のバイトの先輩で幾度か一緒に旅をした方が、上武鉄道廃止直後の廃線跡を訪れていました。その時代の貴重な写真をお借りする事が出来たので、記事に追記いたします。(6月6日)

日本ニッケル専用線(上武鉄道日丹線)廃線跡を訪れました。

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ここ最近、自分的にも何かと注目している八高線。セメント輸送で注目していましたが、戦前の軍需産業と言う側面に於いても昭和6(1931)年開通した国鉄(当時は鉄道省)八高線は重要な役割を担って行きます。

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起点は八高線丹荘駅。緑色のフェンスの向こう側に、かつて上武鉄道丹荘駅がありました。単線の八高線で貨物列車がすれ違うための線路が構内にありますが、現在は使われておりません。

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まずはバスで中間地点である神川中学校前まで。さすがに全線踏破するつもり(体力)はありません。まずは神川中学校前駅跡から。

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ちなみにこの神川中学校前駅跡は中学校が創立した昭和40年の翌年、昭和41(1966)年に開業しました。駅名標は廃止後、遊歩道が整備されてから建てられた物。

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こちらが廃止からおよそ2年後、昭和63(1988)年頃の神川中学校前駅。

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さて、上武鉄道日丹線(旧・日本ニッケル専用線)を歩いていきます。廃線跡の大部分は現在遊歩道として整備されています。

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この線路は昭和16(1941)年、当初神流川(かんながわ)対岸の群馬県多野郡にあった多野鉱山と精錬所、及び埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の日本ニッケルから八高線の丹荘駅まで、専用線(日本ニッケル鉄道部)として開通しました。

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沿線では麦が収穫時期を迎えていましたが、二毛作の場合6月に入ってから稲作へと切り替えられます。ちなみに日本ニッケルは昭和11(1936)年、軍需産業に必要とされるニッケルの精製、並びにクロム鉱石の産出のため設立されました。

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こちらは数少ない遺構のひとつ。戦後ニッケル鉱山の閉山により本来の役目を終えましたが、地元の要望もあって日本ニッケル鉄道部が昭和22(1947)年より旅客営業を開始しました。日本ニッケルは鉱山の閉山後も鉄工所として存続されたため、列車は貨車と客車の混合列車で走っていました。

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その日本ニッケルは昭和35(1960)年、朝日化学肥料に吸収合併され西武化学工業となり、その後西武流通(後のセゾン)グループの傘下へと入ります。それに伴い日本ニッケル鉄道部が独立、昭和37(1962)年上武鉄道が設立されました。ちなみに路線は電化されず前期は蒸気機関車、後期はディーゼル機関車による牽引で、貨物列車に客車が1両だけ連結される編成でした。

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廃線跡は途中、神流川(かんながわ)から取水される用水路と並走します。上武鉄道は貨物輸送がトラック輸送に変わって行った事や利用客の減少などから、昭和61(1986)年廃止となりました。会社自体は通運会社としてしばらく存続していましたが、平成10(1996)年事業を停止します。

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ちょうどこの辺りに青柳駅と言う駅があったそうです。現在その痕跡は残っていません。

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沿線には青柳古墳群と言って古墳が幾つも残っています。関東平野って本当に古墳が多いです。西武化学工業は1991年、朝日工業と社名を変えて1996年セゾングループからも独立し、今に至ります。

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遊歩道は途中、一般道となる区間もあります。ちなみに元来日本ではニッケルがほとんど採掘されません。たとえ埋蔵されていても0.3%のニッケルを含むニッケル粘土しか出て来ないうえ、採掘するための費用に対してその産出量が釣り合わず採算も全く取れません。

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こちらは恐らく沿線に並んでたであろう木造電信柱。ニッケル鉱石は本来出土しないため輸入に頼るしかないのですが第二次大戦前、開戦したら資源の輸入が困難になると分かっていたので、昭和8(1933)年発行の5銭と10銭硬貨をニッケル硬貨にして備蓄したりもしたそうです。ちなみに現在でもニッケル合金は50円玉と100円玉に使われています。

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鉄道の遺構として盛り土された路盤がそのまま残っています。現在ニッケルの用途は主にステンレスですが、ニッケル合金は錆びず粘り強く耐熱性も兼ね揃えています。そのため航空機や装甲など軍需産業には特に必要不可欠の素材でした。

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しかし当然備蓄だけでは全く足りず、戦時中はインドネシアからの輸入に頼る事になります。しかし戦局が悪化するとニッケルを積んだ貨物船が次々に沈められ、仕方なくニッケルを僅かに含んだ質の悪い鉱物を国内で採掘するしかありませんでした。終戦の翌日には日本のニッケル鉱山、特に大きかったのは京都と山口でしたが、全国で一斉に閉山となりました。それだけ国産のニッケル鉱物は酷かったのです。

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キジ!走るの速ええ!

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日本は粗悪な鉱物からどうにかニッケルを精製しようと努力を重ねた訳ですが、その精錬技術が戦後役にたつ事となります。現在日本は、原材料の鉱石を一切産出しないのにも関わらず、ニッケルの生産量が世界第3位となっています。これは東南アジアで採掘されたニッケル鉱石を、日本(住友金属鉱山とJFEミネラル)が戦時中に培った製錬技術によって精製し、世界へと輸出すると言う構図に他なりません。

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終点の日本ニッケル(現在の朝日工業)の手前に残る寄島駅跡。

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ニッケルについて色々語って来ましたが、現在の朝日工業埼玉工場(旧・日本ニッケル)では鉄スクラップを溶かして再利用し、建材としての鉄筋を製造しているのみ。

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こちらが廃止からおよそ2年後の寄島駅。

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寄島駅跡の先にある、唯一残された軌道跡。かつての踏み切りですが、奇跡的に残っていたようです。

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踏み切り跡の先で遊歩道は終了となります。廃線跡の散策はここまで。

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今ではすっかり見えなくなってしまいましたが、この先に鉄橋があります。

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こちらがその鉄橋。沢を渡る鉄橋で、奥に見えるのは神流川。

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当時はちゃんと見えていたようです。

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こちらが日本ニッケルを前身とし、西武化学工業を経て朝日工業となった工場。鉄鉱石からコークスを使って溶かす高炉のある製鉄所とは違い、ここは鉄屑を電気炉で溶かし建設用の鉄筋などに再利用する工場となります。

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廃止当時は西武化学工業で、貨物駅の駅名も西武化学前駅でした。

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鉄屑が搬入され、鉄筋材が出荷されて行きます。要はリサイクルですが、金属製品によっては鉄屑リサイクルの方が多い物もあります。もちろんただ鉄屑を溶かして鉄筋にするだけでなく、錆びない、つまり酸化しないように高アルカリ性の皮膜でコーティングします。

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そんな訳で廃線跡を歩きながらニッケルについても調べて見ましたが、もうひとつの目的はここ、7年前に訪れた日帰り入浴施設白寿の湯

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こちらは公式サイトからお借りしました。この鉄分豊富な鉱泉による澱出物で鍾乳洞状態となった床。加温循環濾過しながらも源泉も掛け流されています。露天はぬる湯ですが、ゆっくり浸かれば至福の時間。埼玉県内の入浴施設では最高と謳われております。鉄工所の隣で酸化鉄まみれと言うね。

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以上。余談ですが帰りの八高線で、群馬藤岡駅に停車した際検査車両、キヤE-193系とすれ違いました。

埼玉県秩父市、武甲山周辺のセメント貨物専用線

久しぶりに秩父まで行って来ました。ここのところ追いかけて来たセメント産業のシリーズもそろそろラスト。

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まず西武秩父駅から見えるこの山が、石灰石の一大産地である武甲山です。元々は漆喰などの原料として石灰が産出されて来ましたが、大正時代よりセメントの原料として本格的な採掘が始まりました。特に関東大震災後はコンクリート建築が見直され、秩父のセメント産業が震災の復興、そして戦後の復興と高度経済成長を支えて来ました。

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武甲山の北側、秩父鉄道の影森駅はセメント列車の貨物ターミナルでした。今でも多くの留置線が残っています。秩父鉄道(旧・上武鉄道)は明治32年(1899年)創業ですが、秩父〜影森間は大正6年(1917年)開通。

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その影森駅から武甲山の採石場に向かって引き込み線が伸びています。1番左は三輪線と言って太平洋セメント(旧・秩父セメント)の積み込み場の三輪鉱業所へ向かう線路。中央はかつて秩父鉱業(旧・日本セメント)の積み込み場である武甲駅まで走っていた廃線跡で武甲線と言います。右は三峰口へ向かう秩父鉄道本線。

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三輪線から影森方面を見たところ。線路はこの後方で左に大きくカーブを描き、すぐ三輪鉱業所に着きます。武甲山で採掘された石灰石をベルトコンベアで麓まで降ろし、セメント列車へと積み込む。ゴールデンウィークなのでさすがに休業日でしたが、秩父鉄道ではいまだにセメント列車が現役だそうです。石灰石は現在、熊谷の太平洋セメント(旧・秩父セメント)の工場や、秩父市東部の大野原にある太平洋セメントの工場(旧・秩父セメント第二工場)まで運ばれて行きます。

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線路の先には鉱石を積み込むホッパーが。ちなみにこの三輪鉱業所と三輪線が開業したのは、かつて秩父駅の南側にあった秩父セメント第一工場が建設された大正14年(1925年)。この段階で秩父鉄道の売り上げが5倍に跳ね上がったそうです。そう考えるとこの線路はすでに98年使われ続いていると言う事。さらに現在の太平洋セメント(旧・秩父セメント)は秩父鉄道の筆頭株主でもあります。

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三輪線と秩父鉄道本線の間に秩父鉱業の積み込み場への廃線跡、武甲線跡。秩父鉱業(旧・日本セメント)は太平洋セメント(旧・秩父セメント)の少し奥、西側にあります。

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こちらが武甲線の廃線跡。ちなみに現在の秩父鉱業は昭和26年に日本セメントから分離独立しました。

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そしてこの武甲線は秩父セメントへの三輪線よりも前、大正7年((1918年)に開業しております。ただ電化されたのは大正11年なので、最初の4年間は蒸気機関車による運行だったかと。

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こちらも鉄道関連の遺構でしょうか。ちなみに秩父鉱業の鉱床は採掘し尽くしてしまったため、現在では粉砕や精製、加工などが主な業務となっております。

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開けた谷間に出たところでレールと枕木。高度成長期の武甲山は、ひとつにこの武甲線から秩父鉄道の寄居駅、八高線経由で日高市の日本セメント(当時)埼玉工場へ搬出するルート(現在は地下ベルトコンベアのYルート)、後は三輪線で秩父鉄道を経由し大野原や熊谷にある秩父セメント(当時)の工場へ搬出するルート。もう一つ、武甲山の東側の西武秩父線の横瀬駅にある三菱鉱業(現・UBE三菱セメント)の工場に搬出し、西武線で国分寺まで運んで行くルートなどがありました。

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この武甲線は昭和54年(1984年)廃止となりました。Yルートの完成が昭和58年だから、それ以前からトラック輸送に切り替えられていたのでしょう。

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工場はいまだ現役で稼働中なので、積み出しは現在もトラックによります。

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会社の前には浅野総一郎の像が。浅野総一郎は浅野セメント及び浅野財閥の創始者であり、セメント産業の父ともいえます。浅野セメントは後の日本セメント、その日本セメントから分離独立したのが秩父鉱業です。

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近くに浦山歴史民俗資料館があります。ここは昔訪れた浦山ダム周辺の歴史やお祭り、行事などについて勉強できます。以前は浦山地区の廃村などを巡りましたが、獅子舞などの行事も見に行きたいところ。

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影森から現在終点の三峰口までは昭和5年に開業。現在では西武秩父駅から秩父鉄道の御花畑駅まで歩かなくても、直通で三峰口まで行けるようになっております。ただ、観光客は皆西武秩父駅から三峰神社までの急行バスを利用しているので、鉄道の利用者は相変わらず少ないようです。

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ちなみに終点の三峰口にも鉱山があり、過去には引き込み線もあったようです。

埼玉県日高市、日本セメント埼玉工場専用線跡(後編)

さて、セメント列車専用線の廃線跡、後編です。

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前回に引き続き太平洋セメント埼玉工場よりスタート。

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工場の西側はJR八高線高麗川駅までの貨物専用線がありました。こちら側は遊歩道として整備されています。

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踏み切りなど当時の設備が残されています。日本セメント(現・太平洋セメント)埼玉工場専用線の高麗川〜埼玉工場間は昭和30年(1955年)、工場の稼働と同じ年に開通しました。

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開通当初は蒸気機関車による運行でしたが、昭和45年(1970年)よりディーゼル機関車(DD51)に変わります。

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この路線は秩父の武甲山で産出されたセメントの原材料である石灰石を、秩父鉄道の寄居駅を経由して八高線で高麗川駅まで至り、工場へと運び込んでいました。同時に作り出されたセメントを、高麗川駅から山梨県の石和、東京の隅田川、群馬県の倉賀野などに出荷して行きます。

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専用線の全長は1.4km。1983年に武甲山からの鉄道貨物輸送が廃止され、1999年工場から製品を出荷する貨物列車も廃止。この引き込み線も廃線となりました。

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高麗川駅の近くまで行くと、右手に八高線の線路が見え始めて来ます。ちなみにここより北の小川町から西の山岳部に向かい、東武根小屋線と言う貨物線が走りセメントなどに使う珪石を運搬していました。ただそこは昭和元年(1926年)から昭和42年(1967年)までしか走ってなかったので日本セメント埼玉工場とは関係無く、小川町から先は八高線で運ばれていたと思われます。

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こちらがJRとの合流地点。踏み切りから線路が見えます。高麗川駅を背にして、右手は川越線で左手に八高線。

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高麗川駅構内には貨物操車場跡があります。八高線は昭和6年(1931年)軍事用として開通しました。そのため旅客と言うより貨物線としての意味合いが強かったとか。

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秩父鉄道寄居駅及び八高線経由で石灰石を搬入していた列車が廃止となった理由はここにあります。この地面から出てきたパイプのような物、これは石灰石を運ぶベルトコンベアなのです。

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なんと驚いたことにこのコンベア、秩父の武甲山から正丸峠や秩父山地の山々の地下を抜け、日高市の埼玉工場まで繋がっております。名称は「Yルート」。

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昭和58年(1983年)に完成したこのベルトコンベアは全長23.4km、その97%がトンネルです。今でこそ新幹線のトンネルなどで20km超えはありますが、三国峠を越える関越トンネルでさえ約10km強。もちろん公共ではないので距離だけでは何とも言えませんが、しかし西武線で言えば飯能から西武秩父までトンネル掘るような物です。(直線ではないので実際の営業キロは33km)

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工場からすぐ地下に潜ったコンベアは、高麗川を渡る際地上に顔を出します。自動車道や鉄道のトンネルとは訳が違いますが、山脈の地下をぶち抜こうって言う発想が凄い。

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トンネルとベルトコンベアは全て繋がっている訳ではなくて、途中4箇所の地上積み換え所が設けられてられいます。

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私はこのコンベアに興味を持ちまして、正丸峠の手前、飯能市北川の地上に顔を出すポイントに行ってしまいました。石灰石は露天掘りが多いですが、かつての炭鉱などでは何十キロものトンネルを掘りまくっていた訳で、鉱山会社的にはそんな大袈裟な話でも無いのか?

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ここは谷を渡るための橋で、トンネルから出て橋を渡ったら再びすぐトンネルに入ってしまいます。幅は見た感じで4m無い感じか。池上に出ている時はもちろん屋根や壁で覆われており中は見えませんが、内部は一本のベルトコンベアと管理用の道があります。さすがにバイクか何かで走ると思われますが。

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こちらが石灰石を産出する武甲山です。古くは漆喰の材料として採掘が続けられて来ましたが、明治よりセメントの原材料としての採掘が開始されます。特に昭和15年、横瀬町に秩父石灰工業武甲工場が創業すると武甲山東麓が一気に削られ、山容が今のような形になったそうです。

埼玉県日高市、日本セメント埼玉工場専用線跡(前編)

先日、東松山市の日本セメント泥土採掘場跡地とその専用線廃線跡を巡りました。では、採掘された泥土は東武東上線に入線しどこへ運ばれて行くのか。

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そんな疑問を持ちましたが、その答えが鶴ヶ島市及び日高市にありました。坂戸駅から東武越生線に入り西大家駅の手前、専用線への分岐があります。現在奥に写る変電所の辺りから、かつて線路が走っていました。

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それでは日本セメント専用線の廃線跡を辿って行きたいと思います。この専用線は東松山の専用線と同じく昭和38年(1963年)に開業されました。ちなみにこの辺りは鶴ヶ島市。

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廃線跡は現在ほとんどが空き地ですが、ゲートボール場として利用されている所もあります。
東上線の貨物列車は、東松山の日本セメント葛袋採掘場及び秩父鉱業高本採掘場で採掘されたセメント用泥土を日高市のセメント工場へ運び込み、出来た製品の一部を下板橋セメント梱包場に輸送する役目を担っていました。

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こちらが当時東上線で活躍していた電気機関車。墨田区の東武博物館に展示されています。

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撤去された枕木は柵などに再利用されています。
昭和59年(1984年)、泥土の運搬がダンプに切り替わった事により東武東上線での貨物輸送が廃止。東松山線と同時にこの専用線も廃止となりました。

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こちらには、いつか何かの役に立つかもと枕木が保管されています。

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レールも保管されています。廃止から39年、線路を撤去した時期は分かりませんが、長い間放置されているように見えます。

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日高市に入ったところで踏み切りと思われる路盤を発見。周囲は畑に囲まれているので、踏み切りと言っても農道には遮断機などは無かったでしょう。この時草むらの中にキジがいました。デジカメ持って来てたら望遠で撮れたのに。また最近この近くの八高線高麗川〜毛呂間で鹿が出たとか。なんて自然豊かな土地か!

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「踏み切り注意」の立て看板でも立っていたのでしょうか。

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それにしても遺構が残ってないです。Googleマップの空撮で線路が有った場所は明らかなんですが。

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途中、高圧線が交差すると言う珍しい物を目にしました。一旦電線をグンっと下げて交差の高低差を稼ぐ。交差する高圧線同士が近いと磁気が干渉し合うとかあるんですかね。

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下げた電線は再び元の高さへ。これだけ低い鉄塔も珍しいですが、なんか怖い。

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ここから廃線跡は工場まで広い道路となります。
ちなみに日本セメント(現・太平洋セメント)埼玉工場は昭和30年(1955年)に稼働しました。

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工場の手前から線路は盛り土の上を走るようになります。ここまで来てはっきりと廃線跡と分かるようになる。
埼玉工場は1970年より産業廃棄物の資源化に取り組み、2002年からは近隣の家庭ゴミの資源化も始めているそうです。

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向かい側は住宅地でしたが人目を忍んで登ってみました。しかし線路は撤去されています。

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盛り土の下を私道が潜っています。
ちなみに昭和34年(1959年)には秩父セメント(現・太平洋セメント)熊谷工場が開設され、武甲山の石灰石を原材料としたセメント工場ではこの2箇所がしのぎを削っていました。その熊谷工場へは現在でも秩父鉄道による貨物輸送が行われています。

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ここでも線路は発見出来ず。Googleマップの空撮ではこの辺りから線路が残っているように見えたのですが。あるいはもしかしたら、雑草に覆われているだけで線路は存在していたかも知れませんが、何しろめっちゃ不審者だったので早々に降りてしまった。

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反対側は民家の私有地のような雰囲気でした。
余談ですが以前訪れた佐野市葛生では、昭和13年に大阪住友セメントの大規模工場が建設されています。これらの工場が関東甲信越の高度経済成長を支えていました。

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セメント工場の手前、鉄工所などの工場がいくつも集まっています。

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登って見ましたが、ここでも線路は発見出来ず。
日本セメントがここ日高市に工場を建設する以前は、東京の深川にセメント工場がありました。

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高架を潜った先に鉄道の施設らしき物を発見。
ここでちょっとセメント産業の歴史に触れます。その日本セメント深川工場は元々明治6年に建設された、日本初の官営セメント工場だったそうです。その工場を払い下げられたのが浅野セメント。日本セメントの前身で、戦後日本セメントと改名しました。

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最後に3箇所目の高架に向かいます。この高架の向こう側は現在雑木林で、ここを潜る人はもう居ないようです。めっちゃ不審者。
東日本は深川の浅野セメント、西日本は明治14年創業の小野田セメントと、セメント業界はこの2社が支えていました。

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ここで盛り土を登ったところ、ついに線路を発見!秋から冬にかけて来ていれば、もっと見えたかもしれません。
平成6年(1994年)関西の小野田セメントと熊谷にプラントを持つ秩父セメント(大正12年設立)が合併し秩父小野田株式会社が発足。後の平成10年(1998年)秩父小野田セメントと日本セメントが合併し、現在の太平洋セメントとなりました。結果、セメント業界は太平洋セメントが売上高4559億のダントツで、後を1226億の大阪住友セメントと、1132億のUBE三菱セメントが追う形となっています。

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ついに太平洋セメント(旧・日本セメント)埼玉工場の敷地です。ここからは後編、埼玉工場からJR八高線高麗川駅までの廃線跡を歩きます。

埼玉県東松山市(1)、日本セメント専用線廃線跡

立て続けに東武東上線高坂駅まで参りました。

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かつてこの高坂駅から北西に向かい貨物専用線が延びていました。構内の引込み線は当時の名残り。

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専用線はしばらく東松山方面へと並走し、やがて西に分かれて行きます。この辺りより先の廃線跡は「まなびのみち」と言う遊歩道として整備されています。

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途中見かけたこの物体は、各地で見られるフセギ行事と言うもの。集落の入り口や辻などに藁などで作ったこのような物を設置し、疫病や厄災などを防ぐと言う民族行事だそうです。いわゆる呪術的な結界を張る魔除けのような物で、地方によっては道切り、辻切りなどとも呼ばれ、形を変えつつ全国各地に存在するそうです。この土着の風習であるフセギについては今度掘り下げて行きたいと思います。

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さて、今回は廃線跡を辿って行きます。折しも桜吹雪と新緑の気持ちいい季節。

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廃線跡らしからぬ整備の整った遊歩道ですが、レンタルサイクルでもあれば人気のサイクリングコースになりそうな感じです。

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この専用線は昭和30年(1955年)より昭和59年(1984年)まで運行されていた、日本セメント東松山線と言う全長5.5kmの路線でした。

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線路は小高い丘を取り巻くように北から西へとカーブして行きます。沿線には菜の花の咲く長閑な農村風景が続く。

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途中幾つかのポイントには休憩するためのベンチも設置されております。この遊歩道は2015年より整備されており、その際に多くの遺構も撤去されてしまったようです。

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踏み切り脇に残る数少ない遺構。

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しばらく行くと建設会社の敷地に遮られます。遊歩道は前半と後半の2箇所に分かれており、ここからしばらく迂回して行かなければなりません。

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その建設会社の敷地の裏手を入って行くと、関越自動車道に当たります。そこにコンクリートの遺構が。畦道が線路の下を潜り、そのまま線路と並んで関越自動車道を越えて行きます。

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ここにはかつて葛袋3号橋と言う鉄橋がありました。しかし平成25年(2013年)6月に撤去されていました。この3号橋、思えば関越自動車道を走る高速バスから見ていて、ずっと気にはなっていました。Wikipediaには2013年撤去と書かれていましたが、自分の記憶では5〜6年前まであったような気がするのですが。

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関越自動車道を越えた辺り、北に突き出した丘の日本セメント葛袋採掘場の跡地は現在工場や佐川急便の流通センター、しまむらの倉庫などがあるので、さらに北へと迂回して行きます。春ですねぇ。

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この葛袋集落の農家は屋敷門があるくらい、どこも立派なお屋敷ばかりです。

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右端に首の無いお地蔵様が。廃仏毀釈の残滓でしょうか。

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田園地帯が広がります。奥に見える丘陵の際に廃線跡が続いています。

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葛袋採掘場跡はすっかり開発されています。写真は終点側から葛袋駅を望んだところですが、写真中央を真っ直ぐ線路が走っていました。ちなみにここにあった日本セメント埼玉工場粘土採掘場は昭和29年10月より稼働。同時にこの日本セメントによって専用線が開通されました。管理運用は東武鉄道。

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振り返ると再び廃線跡の遊歩道が始まります。上を一車線道路が越えて行く。最盛期は一日6往復運転されていましたが、粘土の採掘量の減少に伴い昭和59年には鉄道輸送からダンプによる輸送に切り替えられました。

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さて、竹林の中を進んでいきます。ちなみに葛袋採掘場はセメント用粘土原料の使用量減退から平成20年(2008年)に閉鎖され、跡地は葛袋産業団地となっております。

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踏み切り跡が残っています。数少ない遺構の一つです。竹が随分と覆い被さっていますが、昭和34年には東上線と時同じくして電化されたので、架線が張られていました。

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こちらはその架線柱の基礎と思われます。

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こちらの写真は観光案内図などに使われている当時の貨物列車の画像です。線路の管理は東武鉄道が行っており、路線名は東武鉄道高坂構外側線と呼称されていました。

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現在の様子。竹の侵蝕はエグいですね。貨物列車運行当時は上板橋にあった日本セメントの工場まで粘土が運ばれていたそうです。

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コンクリート橋の跡。こう言うのを見ると廃線跡を歩いている感じがしますが、駅などが無いためちょっと飽きて来た。

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やがて終点の高本駅。秩父鉱業東松山鉱業所になります。秩父鉱業は昭和26年(1951年)に日本セメントから分離独立した会社ですが、日本セメント(現・太平洋セメント)100%出資の会社。昭和30年に泥土採掘のために高本地区に採掘場を開設しました。跡地は現在は清澄ゴルフクラブ(太平洋セメント系列)のクラブハウスとなっております。
今回、廃線跡としてはちょっと地味な感じでしたが、小春日和の散歩としては気持ちよかったです。てくてく歩いて2時間弱。この後、峠を越えて行きます。次回へ続く。

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