廃校舎

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埼玉県飯能市、横瀬町、正丸峠周辺の廃校舎巡り

飯能市から秩父へ抜ける正丸峠、その周辺の廃校跡を巡りました。

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ここは先月、地下ベルトコンベアのYルートと併せて訪れました。高麗川の上流、西吾野駅の辺りで川は北川と南川に分かれます。北川流域は林業が盛んで、現在でもキャンプ用の薪を中心に杉材が出荷されております。

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まずは旧・飯能私立北川小学校。ツツジが咲く盛り土の向こうが校庭。

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この小学校は明治7年創立。現存する校舎は明治37年(19年)に建てられた非常に古い建物です。

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群馬県などもそうなのですが、埼玉県でも映画やCMなどのロケや地域コミュニティなどに木造校舎を再利用しております。やはり普通の木造建築と違って、多くの方々の思い出が詰まった建物なので、保存される事が多いのでしょう。

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内部の様子。覗いた感じでは机や椅子など残されていませんでした。校舎は現在「山の迎賓館」としてロケやイベント等に貸し出されています。

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正面玄関前に置かれている机。この北川小学校は平成5年(1993年)、吾野小学校と統合されて廃校となりました。もし自分がここに生まれていたら、余裕でこの校舎に通っていました。

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裏側はこんな感じ。ちなみにこの校舎の右手には大正10年に建てられた校舎がありました。音楽室、理科室、裁縫室などがありましたが、2016年に解体されてしまったそうです。

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西吾野駅から南川沿いに正丸駅方面へと歩いて行きます。途中、南に分かれる支流の先には子の権現。すでに廃業されていますが、かつて参拝者が利用していたであろう旅館の跡があります。

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その向かい、沢の合流地点の谷間の集落に、旧・南川小学校があります。

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この飯能市立南川小学校は明治7年(1874年)創立。校庭右手に建つこちらの旧校舎と高台の新校舎があります。

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現在は公民館としても利用されておりますが、この日校庭では地元のお爺ちゃんお婆ちゃん方がテーブルと椅子を並べて井戸端会議。

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この旧校舎は明治37年竣工。なんと北川小学校と同じ年に建てられております。思いもかけず2連続明治建築ですが、北川小学校共々もはや文化財指定されてもいいのに。

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校庭の正面、高台に建つ新校舎。新とは言っても昭和12年竣工。つまり戦前です。

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新校舎の正面玄関は漆喰仕上げ。凝った造りは石灰産業が盛んな秩父が近いためか。

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新校舎の内部を覗くとほぼ物置き状態でした。

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新校舎の左手にはトイレ棟があります。

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当然和式ですが、さすがに水洗設備は有ったかと思われます。

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男子トイレは衛生陶器など無く、壁に木板の簡素な衝立があるだけ。

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ここは現在ドラマのロケにも使われていますが、平成5年(1993年)に廃校となりました。

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続いては正丸峠を越えて横瀬町、芦ヶ久保駅の近くに旧・芦ヶ久保小学校があります。

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この芦ヶ久保小学校は明治22年(18年)芦ヶ久保尋常小学校として創立。当初は近くの竜源寺に仮校舎を建てていましたが、明治36年現在の場所に初代校舎が落成。

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現在の校舎は昭和10年(1935年)に完成し、昭和27年に増築された物です。戦後は小学校と中学校が併設されていました。

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1階内部に当時の机と椅子は残っていませんが、もしかしたら2階とかに残されているのかも知れませんね。イベントスペースとしても使われているので、例えばロケなどで使う場合、学校関連の小道具は別で用意するのかも知れません。ちなみに使用量は平日30000円、土日祝日45000円。

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二宮金次郎像。グランドで球技をやる際に窓ガラスを割らないようにと言うことでしょうが、ネットが邪魔ですね。

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木造校舎の裏手に建つこの体育館は昭和36年(1961年)に完成。ちなみにこの体育館だけは貸し出しされておりません。

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昭和42年(1967年)、体育館の右手に3階建の新校舎が完成し、こちらが小学校、木造校舎が中学校として使われました。

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しかし3年後の昭和45年に芦ヶ久保中学校は横瀬中学校に統合されます。新校舎を建てたはいいものの、すでに過疎化が始まっていたと言う事でしょうか。

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新校舎1階と旧校舎の2階とは渡り廊下で繋がっております。中学校統合後も旧校舎は使われていたかと思われます。

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そして平成21年(2009年)3月、芦ヶ久保小学校は閉校となりました。

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私は小学校2年生までと、中学校の3年間木造校舎に通っていました。廊下の軋む音や風が吹くとガタガタ煩い木枠窓など、少年時代の記憶として残っております。都心に於いて関東大震災以降の復興建築は全て鉄筋コンクリートでしたが、今現在40代〜50代の方で地方の田舎出身の方などは、木造校舎に通った記憶のある人も多いのではないでしょうか。
例えばですが、木造校舎で当時の机と椅子を並べて一般公開すれば、観光資源とかにもなるんじゃないでしょうかね。古民家のカフェが流行るくらいですし。

埼玉県小鹿野町、両神小学校大谷分校跡

今から5年前の2017年、一度訪れた両神小学校大谷分校跡に再訪しました。

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小鹿野から白井差口行きの町営バスに揺られて小森川沿いを登り、前回訪れた時と同様大谷橋で下車。山間部は霧が立ち込め小雨が降り続いています。

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5年前のGWは清々しい天気でした。

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定点観測しても大して変わって無いのですが、ついつい同じ場所で撮ってしまう。

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秩父地方は山深いので、民家へのアプローチも強烈です。まぁ私の実家も似たようなものですが。

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石垣と階段が素晴らしい。足腰の弱くなった高齢者にとっては大変かも知れませんが、こう言った山村に暮らすご老人は大抵足腰が強靭に出来ているんですよね。

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大谷橋バス停は大谷橋を渡り上流に向かって右手(左岸)ですが、目的地の廃校跡があるのは下流の右岸。この辺りは大谷集落と言います。

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こちらは2017年5月に撮影した両神小学校大谷分校跡。昭和46年廃校。以後、林間学校などに利用されており、校庭にはバーベキュー施設も完備されております。

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こちらが現在、2022年7月の状態。いまだちゃんと利用されているようで、外壁のペンキが綺麗に塗り直されています。

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2017年5月、運動場から。傾斜地に建っているので、裏に回ると二階が玄関になっています。

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現在の様子。前回同様、玄関前には真新しい靴などが置かれており、今でもちゃんと管理されている様子。

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校庭を挟んだ反対側斜面からの俯瞰。2017年5月。

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こちらは2022年7月撮影。なぜ同じ場所をまた訪れたかと言うと、前回訪れてからずっと引っかかっていた事があるからなのですが……

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実はこの斜面は墓地になっております。小さな墓石が倒れていたりしていて荒れ果てていたんです。やはり以前来た時と変わらず、管理されていないように見受けられます。過疎化が進み戻ってくる人も減ってしまったからでしょうか。

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ただ以前来た時、首のないお地蔵さんや石仏などが幾つも放置されていたと思ったのですが、片付けられたのでしょうか、そう言った物は今回確認できませんでした。ずっと引っかかっていたのは前回その光景にゾッとしてスルーしてしまった事で、後から考えればあれは廃仏毀釈の爪痕だったのではないかと。

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2017年5月撮影した分校跡の下、道路沿いにあった祠。木像が無造作に立て掛けられています。

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その祠は崩壊。石垣の下に残骸が積み上げられています。しかし新たに小さな祠が建てられていました。

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簡素な造りですが、ちゃんとお祀りされていてホッとしました。木像は相変わらず立て掛けですが。

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廃仏毀釈とは簡単に言えば、明治政府の神仏分離政策が引き金となり、それまで蓄積されて来た檀家制度や葬式仏教に対する不満が爆発。神社、つまり鎮守の神様と仏教がはっきり区別された事によって、仏教に関する物に対する焼き討ちや破壊が全国的に広がった事件の事です。その痕跡が田舎などに行くとたまに残ってたりするのです。
今回その日本の黒歴史とも言える廃仏毀釈運動について掘り下げてみようと思ったのですが、結果的に片付けられていました。

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2017年当時、解体工事中だった廃屋。

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その跡地に廃材の山。予算の関係で廃材を処分出来なかったのでしょうか。

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今回目的の物は撮れませんでしたが、なにしろ両神地区はバスの本数が極めて少ないので、一度に一箇所しか巡れません。他に廃校跡が三箇所ほどあるのですが、また次回この辺りには来ようと思っています。

【日記】埼玉県秩父、小鹿野地方攻略その1

千葉県佐倉市、ユーカリが丘〜志津小学校青菅分校跡

千葉県佐倉市のニュータウン、ユーカリが丘に行ってきました。

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ユーカリが丘と言えば不動産会社の山万が運営する新交通システム。ニュータウン開発と共に公共交通機関まで自社でやってしまうと言う、唯一のケースですね。路線は「9」の字と言いますか、地下鉄大江戸線を逆さにしたような形で、反時計回りの一方通行。昼間は1時間3本ペースで朝夕は5本ぐらい運行されています。

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中央に集電を兼ねた軌条があり、タイヤで走行しています。このユーカリが丘線が開業したのは昭和57年(1982)。折しも神戸のポートピアや大阪の南港ポートタウンなどで日本初の新交通システムが誕生した翌年で、まさに未来の交通機関と言うやつです。ただ、こちらは運転手がちゃんと乗っていますが。

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中学校駅で降ります。駅は全線で6駅、14分で一周します。駅名も女子大や公園などシンプルなものが多い。

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山万は元々大阪の繊維問屋でしたが、不動産業で関東に進出。昭和46年(1971)よりユーカリが丘のニュータウン開発を始め、昭和54年(1979)より分譲が開始されました。ユーカリが丘線の駅前にはマンションが建ちその周辺には一戸建て住宅が広がっています。このニュータウンは売りっぱなしではなく、高齢化に対応して路線バスの運営を始めるなど環境整備を継続的に行っています。

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一軒の不動産会社が街を作ると言っても、当然公共施設の整備も必要となります。新交通システムや保育所、老人ホーム、娯楽施設などは山万自らが運営していますが、当然小中学校や消防署、警察署などの公共施設は佐倉市に建ててもらうしかありません。この佐倉市立青菅小学校は昭和61年(1986年)に創立。少子化問題があっても極端に生徒数が減る事も無く、ニュータウン開発に於いては成功例と言っても過言ではないでしょう。

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さて、ここからはニュータウンの外側を歩いて行きます。周囲は山林の多い丘陵地に囲まれており、とても自然豊か。

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坂を下ると、いきなり千葉の里山風景が広がります。まるで別世界。

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茅葺き屋根!
いきなりそれは極端だろうwwww
ベッドタウンとの温度差にクラクラします。

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そんな農村地帯に残っているのがこの旧佐倉市立志津小学校青菅分校跡。

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こちらが入り口ですが内部は公開されてません。つい最近、2021年10月に国指定有形文化財に登録されました。

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窓から覗くと非常に綺麗な保存状態です。

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机や椅子が並べられていたらた、ロケ地なんかにも使われそう。

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この青菅分校は明治36年(1903)、志津北尋常小学校青菅分教場として設立され、昭和30年(1955)に現在の校舎が完成しました。その後、ユーカリが丘ニュータウンが完成間近となった昭和52年(1977)、ひっそりと廃校となったそうです。敷地内には桜の木々が植えられており、桜の季節にまた訪れてみたいですね。(3月4日撮影)

千葉県香取郡多古町、里山サイクリング

前回訪れた成田空港近くの日帰り入浴施設、空の湯。そこに併設されているレンタル自転車空輪さんでマウンテンバイクを借りてサイクリングに行きました。
空輪さんではマウンテンバイクかロードバイクかを選択出来ますが、私は乗り慣れたマウンテンバイクをチョイス。4時間1200円、1日2000円で、しっかり整備された本格的なマウンテンバイクを借りれます。しかもメットやグローブなどもレンタル無料。

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成田空港周辺は台地の上になっており、広大な畑が広がっています。関東ローム層特有の粒子が細かく水捌けが良すぎる土壌では畑作となります。

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台地の至るところに水源があり、谷に沿って水田が広がって行きます(谷津と言う)。日本に多く見られる山と川の風景とは少し違う、北総台地特有の低い起伏に満ちた地形。

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そんな農村地帯の集落のひとつに残る廃校舎。

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この旧・興新小学校は1881年(明治14年)開校、1993年3月に他校と統合されて閉校しました。

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この廃校舎は映画「永遠の0」を始め数々のロケ地に使われています。そのために机と椅子が並べられているのでしょうか。

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もちろん鍵が掛かっていて中には入れませんが、窓から中の様子は伺えます。中はちゃんと手入れされており、廃墟化せずに保存されていました。

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校門跡。門柱が残されています。校舎は高台の上にあり、校門前からは石畳の坂道が続いてます。

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小学校の下には集落が広がっています。屋敷門のある立派な農家が多い。

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次に訪れたのは北東に位置する久賀小学校跡。校舎はすでに解体されており、跡地に集会所のような建物が建てられています。

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この小学校跡は栗山川沿いの水田地帯の外れの丘陵の上、次浦地区にあります。校庭の片隅に残る鉄棒。

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猫が日向ぼっこしてました。

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門柱も撤去され、そのまま放置されています。

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久賀小学校跡の近くの屋敷。土地の有力者でしょうか、見事なお屋敷です。

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その屋敷の右手に、明治42年創立の米本図書館があります。

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栗山川沿いの水田地帯を南側の下流域、多古町の中心街へと向かいます。途中、崩れかけた廃橋などが幾つか。

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多古町の中心街に建つ木内家住宅は大谷石を使った見事な屋敷で史跡にもなっています。多古町は小さな城下町ですが、近在にも多くの城跡が散在しています。

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ひとまず渋い大衆食堂で昼食。

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カツカレーを注文。さりげなく柿が付いてきて、食後にはコーヒーも頂きました。

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多古郵便局。千葉県で最初に開局された郵便局3軒の内の1軒で、なんと明治3年開業と言う古さ。この点を見ると多古町が千葉県内に於いて、いかに栄えていたかが窺えます。多古町と言う町名自体つい最近知った自分としては意外過ぎる事実。

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この建物は昭和17年に建て替えられた物で昭和40年、3軒左手に移転するまで営業していました。

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窓から覗いた様子。歴史的価値から言えば内部も公開して欲しいところ。ちなみに2階は電話交換所だったそうです。後から知ったのですが多古町にはかつて花街があり、戦前には成田から八日市場までの成田鉄道多古線も走っていたとか。

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最後に訪れたのは多古中心街より南、田園地帯の中で島のように浮かぶその名も島集落。

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僅かな丘陵に広がる集落ですが、ここにも志摩城跡と言う城跡があります。志摩城については多古城の出城だと推定されるものの詳細は不明。しかし1455年に起きた享徳の乱に於いて千葉氏の滅亡とともに廃城となったそうです。

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この多古町一帯は鎌倉時代千田荘と言う、いわゆる千葉氏一族の地方豪族円城寺氏らの治める荘園でした。つまり田園としての歴史も古い上、さらに古墳も幾つか残っています。ちなみに台地の上の畑作地帯は主に明治以降の入植者たちによって開墾されて来ました。

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志摩城の廃城後、城址とその周辺に日蓮宗不受布施派の信徒による集落がつくられました。しかしその排他的な教義から江戸時代には禁教とされ、激しく弾圧されてしまいます。 信徒達は幕府からの監視探索を避けるために家々を高い槇塀で囲い、十字路のない迷路のような町並を造ったそうで、その名残りが今も残っています。

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垣根に囲まれた路地は時にカーブを描き時に分岐して、本当に迷います。集落の形としては非常に興味深い。

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島集落近くにある昭和34年竣工の円筒分水工。水争いを避けるため農業用水を公平に分配するものです。

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空の湯から多古町までは片道40分ぐらいなのですが、色々回ってなんだかんだでレンタル時間の4時間一杯掛かってしまいました。むしろ1日レンタルで余裕を持っても良かったかも知れません。
それにしても久しぶりにいい汗かきました。天気も良かったし起伏もなだらかだし空を見上げれば旅客機が通り過ぎる。サイクリングには最適でした。
運動の後は源泉掛け流しの温泉に浸かり、からの生ビール。もう言う事ありません。

東京都奥多摩町、駅周辺及び小河内小・中学校跡

奥多摩駅を降りるのは17年ぶりになります。
東京都奥多摩町、水根線廃線跡

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奥多摩町は暫く来ない間にメディアやSNS等で取り上げられるなどして、すっかり観光地としての復活を遂げていました。

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奥多摩工業氷川工場のプラントもまだ現役で操業しております。

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駅から細い飲み屋路地を入って行きます。真新しい建物やカフェなどが目立ちますが、17年前はどうだったか。当時訪れてみればよかったと後悔します。

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もちろん古い建物も多く残っています。こちらは現役の八百屋さん。

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橋を渡った先の渋い建物。なかなかそそります。

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廃業した民宿。都心から日帰りで来れる距離なので、特に安い民宿などはなかなか今の時代では厳しいのかも。

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お土産屋さんだったのでしょうか。駅の対岸は宿泊街だったようで、寂れた雰囲気が漂います。

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崖にへばり付くように建物が建っており、狭い土地ながらも栄えていた事が伺えます。

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多摩川を遡り、小河内ダムのダム湖、奥多摩湖に掛かる峰谷橋でバスを降りる。なかなかかっこいい橋です。小河内ダムは昭和13年から起工するも途中太平洋戦争により工事が中断。完成したのは昭和32年11月となります。

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旧・小河内小学校、中学校跡は支流の峰谷川に入って行った所にあります。

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小・中学校の周辺に大きな集落はありませんが、現在でも学校の下を路線バスが走っています。

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斜面の上に建てられた旧・小河内小学校校舎。裏手の一段上がった所には、旧・小河内中学校校舎があります。

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この小河内小学校、創立は明治27年。しかし小河内ダム建設で旧校舎が水没することから、現在の峰谷川沿いに移転されました。詳細は不明ですが、小河内ダムの起工式が昭和13年である事から、その前後に現在の木造校舎が建てられたと思います。

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小河内ダムの完成に伴い945世帯が移転させられたとの事ですから、この時点で生徒数は激減した事でしょう。残った集落は山中に散在する山間部落ばかりで、生徒数の減少から各集落の分校も廃校となって行き、子供たちは主に路線バスで通学していたと思われます。

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少子化と過疎化により生徒数が減少した事から、小河内小学校及び中学校は2004年(平成16年)に閉校されました。その後レンタルスペースの奥多摩フィールドとして再利用され、映画のロケや研修などに利用されています。

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一段上がった所にある旧・小河内中学校校舎。現在では奥多摩フィールドの事務所などが入っています。
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