廃村

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埼玉県川越市、廃村、握津集落堤外地

 前回に引き続き荒川中流域の堤外地を訪れます。今回は塚本より上流、JR川越線を越えた左岸、握津(あくつ)集落です。

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 さっそく民家跡を発見。ここは荒川の東側になりますが、住所的には川越市の飛び地となります。

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 生け垣が農村風景の面影を残しています。ここ握津は他の堤外地同様、大正時代に始まった荒川改修工事によって、堤防の外側に取り残されてしまった集落です。その堤防も現在高さを上げるための工事がなされています。

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 堤防の上から眺めると河川敷の水田地帯に雑木林が点在しているようにしか見えませんが、歩いて見ると生活道の痕跡があちらこちらに残っています。

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 昭和の初め頃までは渡し舟の船着き場などもあり、およそ70世帯、500人もの人々が暮らしていたそうです。しかし堤防が内陸部に築かれて以降、昭和5〜6年に20〜30戸が強制移転。それ以降、平成15年までに26世帯が自費で移転。しかし平成11年の水害で全18世帯が床上浸水した事をきっかけに、平成16年には国から移転補償予算が出るようになったため、平成18年までには全世帯の移転が完了したそうです。

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 廃村となった後、全ての家屋は解体され、現在このような空き地しか残っていません。荒川改修工事は東京を水害から守るためのものだったそうで、その際幾つもの集落が堤外地として犠牲になってしまいました。どこかダム湖に沈んだ村などを思い出します。

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 左奥の高台にも住居跡があります。よくある農村風景から民家だけが消え去っています。

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 僅かに残る遺構。確かにこの場所で人々は暮らしていました。

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 木製の古い電柱。川沿いに長く広がる大宮カントリークラブのための送電線と所々僅かに掛かる電線以外は、昔のまま時が止まっています。

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 しかしここも前回紹介した塚本集落同様、農地だけはそのほぼ全域が現役で使われていました。

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 水田の所々に建つ小屋は水を汲み上げるポンプ小屋かと思われます。

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 直進すると家々を繋ぐ生活道。左手は民家に上がる私道です。

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 こちらも民家跡。かなり立派な家屋が多かったと想像出来ます。

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 集落の中心にただ一軒、公民館の跡だけが解体されずに残っています。その入り口脇に庚申塔が残っていました。

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 公民館はすでに使われておらず廃墟と化しています。

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 公民館の左手前には集落の各所から集められて来たのでしょうか、馬頭観音やお地蔵さんなどが無造作に並べられています。しかしよく見るとお地蔵さんの首が! これは恐らく明治初期全国的に広がった廃仏毀釈運動の名残りだと思われます。
 急に怖くなって来ましたが大丈夫。少なくとも先日行った浦山地区みたいに熊は出ないから。

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 公民館左手には防火水槽が残っています。

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 そして裏手には雑草に覆われた廃神社が。どうもこの握津集落は、下流の塚本集落とどこか違った雰囲気が漂っているように感じてしまいます。

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 集落を抜けて荒川まで出ると大宮カントリークラブ。急に近代的かつ現実的な世界へと解放されます。
 なんだこの雲は!wwwww

埼玉県さいたま市、廃村、塚本集落堤外地

 JR京浜東北線浦和駅からバスで西へ、荒川の河川敷にある廃村を訪れました。

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 秋ヶ瀬公園の北に位置するこの場所は、サイクリングロードにもなっている荒川堤防の河川敷側にあります。私は20年ほど前、川口からサイクリングで来た際ちょうどこの辺りで引き返した記憶があり、その当時はまだ集落が存在していたのですが、まさか堤防の外側に村があるなど想像もしていませんでした。

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 堤防の東側には塚本の本集落が存在します。だいぶ宅地造成も進んでいますが、かつて堤外に住んでいた人々もこちら側に引っ越されました。

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 集落は上流側の外東地区に二軒、下流側の外西地区に十数軒あったとされます。まずは外東地区から。

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 家屋は全て解体され、跡地だけが散在します。

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 水田の真ん中に昔使われていた電柱と石碑のようなもの。どうしょうも無いくらいの逆光。

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 水田に水を引くポンプ小屋と昔の電柱。この堤外地は民家こそ消滅しましたが、耕地は今でも使われています。

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 次に外西地区へ入って見ましょう。廃村の奥、川べりには浦和軟式少年野球連盟専用グランドや大宮カントリークラブのゴルフコースなどのあるので、電線が張られています。

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 所々に残る集落で使われていた電柱は、時代を感じさせます。

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 もう使われなくなってしまった自治会の掲示板。

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 耕地のほとんどが現役で使われており、この日も軽トラなどの車4台、6人ほどの方が作業などをしており、廃村の雰囲気は正直有りません。

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 集落の移転は昭和59年から始まりますが、平成11年の水害がきっかけとなり平成14年には全世帯が補償を受けた上で堤防の内側への移転を完了しました。

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 もともとこの集落は大正時代に始まった荒川改修以降堤防の外側に取り残されてしまった形となり、以降も頻繁に水害に遭っていたそうです。

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 野生化した竹藪や雑木林の中に、幾つもの民家跡が残っています。

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 外西地区の中心には薬師堂と墓地が残されており、ここの「薬師堂のマキ」は市の天然記念物に指定されています。

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 この日、二人のご老人が堂内で茶飲話をされていましたが、このあとまだ何人か集まることになっているようです。元住民による集会などは、まだこの地で行われているみたいで、住居こそ無くなったものの、暮らしはいまだこの地で続けられている事が伺えます。

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 またこの辺りには野良猫が多く住み着いています。先祖代々暮らし続けている猫かどうか分かりませんが、元住民の方々が世話されているのかも知れません。

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 道端の小さな石祠のようなものが残されています。

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 薬師堂の右手の竹藪を抜け奥の道を荒川の流れる左手に歩いて行くと、八幡社の鳥居が残っています。この鳥居は平成元年に建て替えられた物で、当時はまだこの地で暮らし続けるという思いがあったのだと想像出来ます。

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 鳥居の奥、雑木林のトンネルを抜けると、拝殿こそ無くなってしまったものの、八幡社の小さな祠が残されています。奥は御玉霊神社で右は恐らく水神宮。ただこちらは参拝される人がもう居ないのか、あまり管理されている様子が伺えませんでした。

埼玉県秩父市浦山地区(6)、廃村、山掴集落

 栗山集落から浦山川に戻り、上流にかかる橋を渡って対岸、東側斜面の旧道を少し下ります。その途中、ちょうど栗山集落の向かい側あたりに山掴集落へと登る狭い生活道があります。

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 山掴集落は他の廃集落群とどこか雰囲気が違います。杉しか生えて無い日当たりの悪い斜面は平坦な土地がまるで無く、ひたすら石垣を積んで無理矢理集落を築いたといった感じです。

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 理由は簡単で、栗山や嶽、茶平が農業を主幹としていたのに対して、ここ山掴は林業のために造られた集落であるということ。

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 日当たりが悪い事から全体的にジメジメしており、シダ植物が多く群生しております。

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 そのため土は柔らかく崩れ易いため、石積みで基礎を造成する際も、さぞかし苦労したんだろうなと思います。山を掴むように建つ集落という意味で山掴という地名になったのも頷けます。

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 この倒木の向こうの木のうろにマネキンの首が置かれてます。どこぞの輩の作為的な悪戯でしょうけど、ほんっっとうにやめて欲しいですこう言うの。マジビビるから!

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 生活道の奥まで登って行くと山に向かって左手に道が分かれており、先の倒木を潜った先に五軒ほどの廃屋が連なっています。

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 どの廃屋もかなり古く、人が住まなくなってからも随分と年月が経ったようで半壊しております。

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 それでもこのような土地に残り続けている事が凄い。

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 この集落は前回訪れた嶽集落と共にゲーム『サイレン』の舞台のモデルとされていたため、廃墟好きの間でもそこそこ有名らしく、多くの人が訪れているようです。

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 長屋のように連なった軒を進むと、途中倒壊した小屋と崩れた石垣に阻まれているため、これ以上奥に進むのが困難となり、引き返しました。建物の中を迂回すれば行けなくもないですが、中は床も抜けており危険と判断しました。

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 家屋は一本の生活道から上へ下へと幾つも分かれた道の奥にあります。こちらは既に全壊した家屋。ここ山掴は昭和51年に地滑りがあり、それが離村の大きな理由に繋がったとか。

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 全壊家屋の奥に辛うじて残っていたのは斜面にせり出した厠と思われる小屋。山村地域に於いて下水道が完備されていない時代、排泄物や下水は基本崖下。あとは知らない。

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 全壊した家屋の奥にもう一軒、小さな廃屋が残っています。最初ただの小屋かとも思いましたが、冷蔵庫など生活の跡が残されています。

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 生活道の脇には幾つもこのような小屋がありますが、薪などを貯蔵していたと思われます。また斜面に幾つかのお墓が残されていますが、栗山集落と違いここの墓地は墓石が残されたままとなっています。中の骨壷はちゃんと玉抜きされて引っ越されたのか、あるいは今でもお参りに来られ管理されているのか、はたまたもうお参りされる方も居なくなり放置されてしまっているのか。

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 最後にほぼ全壊に近い廃屋。しかし先程栗山で発見した熊の糞がここにも。
 ウソでしょ!こっち側の斜面にも熊さんが!
 もし訪れる方がいたら、くれぐれも熊鈴などの対策を忘れないように。私の実家にもこのような杉林の斜面が多く子供の頃よく遊んでいましたが、とにかく前回訪れた嶽や茶平に比べ、今回の栗山と山掴は足場が悪く上級者向けと言った感じです。

埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(2)、廃村、茶平集落
埼玉県秩父市浦山地区(3)、廃村、嶽集落
埼玉県秩父市浦山地区(4)、廃村、栗山集落(前編)
埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)
埼玉県秩父市浦山地区(7)、浦山中学校跡と川俣小学校跡

埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)

 旧栗山集落には最盛期で10軒のお宅が生活を営んでいたそうですが、今回の訪問では9軒(内1カ所は更地)が確認出来ました。段階的に過疎化が進んで行ったので、廃屋になってからの年数は様々。当然傷み方も様々です。

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 さて、唯一林道沿いに建つ一軒目の廃屋の少し上、杉林の斜面を登ってゆく生活道跡に分け入って行きます。溶けた雪で落ち葉が敷き詰まった斜面が濡れ、ぬかるんでいるため非常に滑りやすいです。

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 最初に見えて来たのは通算五軒目のお宅。トタンを外壁に貼っているだけで近代的に見えてしまうのは、私の感覚が麻痺して来た証拠。

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 ウィスキーの瓶、食器、お膳、テレビはダイヤル式チャンネル。生活の痕跡が有りまくりです。

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 五軒目の脇をすり抜けて行けば六軒目の廃屋。

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 布で出来た簡易式クローゼット。来訪者が開けたのでしょうか。開けたくなる気持ちは分かります。

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 洗濯機は外。

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 母屋の向かいの小屋はトイレ。雪が積もった夜中などには行きたくないですね。

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 六軒目の裏手を登って行くと七軒目の廃屋が有るのですが、右手の沢が鉄砲水で崩落しており、生活道が崩れています。

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 左手に迂回して石垣をよじ登るしか無く、暫し覚悟を決めてからアタック。思わずよろけてipadが土に刺さった!

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 なんとか登って七軒目。奥の方は崖崩れを起こしてます。治山工事もするわけです。

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 懐かしい子供用ギア付き自転車。しかし自由に乗り回す平地が無いと言う、ウチの実家もそうでした。

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 集落を巡る生活道のそこかしこに祠が祀られていますが、当然中身は空っぽです。

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 さらに奥へと登って行くと、恐らくは一番高い場所に建っているであろうと思われる八軒目の廃屋。天井が高く非常に立派な木造建築です。

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 向かいのトイレ小屋もしっかりと残っていました。
 さて、そろそろ下山します。今まで登って来た生活道の反対側にまた別の生活道があったので、そこを降りて行きました。すると途中、杉林が途切れ草が生えた場所に巨大な糞が。これ、冬眠を前にして秋の味覚を堪能している熊さんしかないでしょ。だって太いんだもの!しかも出来たて!
 マジか! やっぱ熊鈴買わなきゃダメか!

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 ちょっとビビりながら斜面を降りて行くと林道へ戻る直前、広い空き地を発見。ここに九軒目の家屋が建っていたのかもしれません。


埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(2)、廃村、茶平集落
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埼玉県秩父市浦山地区(7)、浦山中学校跡と川俣小学校跡

埼玉県秩父市浦山地区(4)、廃村、栗山集落(前編)

 前回訪れた嶽、茶平集落から浦山川を挟んだ対岸、西側斜面に残る栗山集落を訪れました。

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 開けた南向きの斜面には石垣で造られた段々畑が広がっており、かぼすでしょうか、野生化した柑橘類が収穫される事のないままたわわに実らせていました。

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 そのまま舗装された林道を登ってゆくと一軒の廃屋が姿を現します。

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 中は雑然としていますが、恐らくは訪問者が勝手に開いたアルバムがそのままにされています。

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 林道から崖下に降りてゆく生活道の跡を入って行きます。紅葉はもう終わりかけで、林の中は先日積った雪が溶けて雨のように降り注ぎます。

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 崩れやすい斜面を慎重に降りた先に二軒目の廃屋。

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 アプローチの悪さに驚くばかりです。実際人が住んでいた当時でも、急で狭い石段には当然手摺りも無く、滑り落ちたらそのまま崖です。

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 お風呂と洗濯場。このような斜面に家を建てた事も驚きですが、洗濯機を運び込んだ事も驚き。

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 台所。鍋やヤカンが出されたままなのも謎。

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 今まで巡ってきた集落同様、トイレは決まって外に造られています。

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 正面玄関に廻って見ましたが、玄関出たら即崖です。

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 さらに奥へ進むと三軒目の廃屋が。手前の小屋やトイレはすでに崩落しています。

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 斜面を登り林道に出る手前には四軒目の廃屋。

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 来訪者が引っ張り出して来たのか、新聞紙の日付けはなんと昭和54年とあります。

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 一旦林道に戻ります。相変わらず梢からは雪の塊が落ちてきます。林道の奥は治山工事のため通行止めとなっていますが、この栗山集落の奥は栗山と言う山で、林業のための道路でしょうか特に集落はありません。

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 林道の脇を登って行くとお墓の跡がありました。墓石は引っ越した様子。

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 舗装路に出ると生きた心地がして、思わず苔生した石垣なんか撮っちゃいます。後半では林道の山側斜面を登って行きます。


埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(2)、廃村、茶平集落
埼玉県秩父市浦山地区(3)、廃村、嶽集落
埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)
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