廃墟

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル

巨大廃ホテルやバラック飲み屋、スナック街がある事をインスタで知り、笠間に行って来ました。

茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

57BC2CA6-9246-466D-A466-8AD35056D234

以前、筑波海軍航空基地に訪れるため笠間市にある常磐線友部駅に降りました。しかし笠間市の中心街は友部から水戸線でふた駅乗った笠間駅。元々は城下町として発展した笠間ですが、町の中心には笠間稲荷神社があります。

1F6874E6-6261-449C-A91F-5C5C3C85B25D

しかし水戸線笠間駅は中心街である笠間稲荷周辺より1キロ以上南に位置しています。これは中心街に駅を設置すると線路を大きく北へ迂回させる必要が出て来ると言う地形的な理由からだと言われていますが、鉄道によって宿場が寂れるからと反対運動が起きたとも言われています。

653F60D9-F6A9-4208-BAA5-7AF5F78DD0E3

そのため笠間駅から笠間稲荷神社まで観光客を運ぶべく、笠間人車軌道が大正5年(1915)より営業されました。駅前から笠間稲荷神社の西側まで一直線に敷かれた線路は、路面電車のように道路に敷設されたため、廃線跡の痕跡は一切残っておりません。

DF5C2179-A5A3-49E5-9389-B33A74E20C8E

途中、当時の人車軌道を復元した車両が展示されています。

8EAE6158-022C-48B1-8B7E-0FBBF68BEE41

この車両は人車軌道が開業してから100年の節目である2015年に、クラウドファンディングで集めた資金によって再現されました。

81CD9F68-FD20-42F8-90C9-DE5A84D56719

当時、線路を順繰り順繰り前に持って行く形で走行させ、笠間駅から笠間稲荷神社停車場跡まで、実際走行させたそうです。もちろん人力で押しながら。

51E77137-3AF8-4518-A00F-63E0AB603EAD

こちらは復元車両試作1号機。ちなみに人車軌道は大正14年(1925)にガソリンカーを導入し人力では無くなりますが、競合する乗合バスに押されて昭和5年(1930)廃止となりました。

0B790AD5-6232-4960-8FFE-7C2CC4CCB216

こちらは終点の稲荷神社前停車場跡地。駅からの参拝客を笠間稲荷神社まで送迎する目的で走っていたので、停車場は笠間駅前と稲荷神社前の2箇所しかありませんでした。

00C5F3B9-9CFB-4103-BB97-8087ADB97099

折しもゴールデンウィーク、多くの観光客で賑わっていました。笠間稲荷神社は菊人形で有名です。茨城と言えば偕楽園の梅と笠間稲荷神社の菊人形。

6DD74DFA-2E75-404A-AF57-E7A975B44A69

門前のお土産屋さんも近年の観光地としては珍しく賑わっています。

4958E946-271F-4845-8368-101361EFCFB1

笠間稲荷神社自体知らなかったのですが、よくよく調べてみたら日本三大稲荷の一つに数えられているそうです。日本三大稲荷には諸説あり、自称も含めて14社寺もあるとか。しかし一般的には伏見稲荷大社(京都)、豊川稲荷(愛知)、笠間稲荷神社(茨城)、祐徳稲荷神社(佐賀)の4社寺が挙げられることが多いそうです。

54C36FAE-31E4-4686-97E0-363FCE56B6A2

門前にも多くの観光客。時代に合わせてカフェなんかもちゃんとあります。

3021A09E-0819-4427-997E-5C0E50CAC804

笠間稲荷神社の向かいに御神酒を造られている酒蔵、笹目宗兵衛商店があります。

DF313E87-3207-4DB9-A0C1-370BA795FD8E

この酒蔵は敷地内を通り抜けることが出来、中を見学することもできます。この酒蔵は当初笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年より現在の笹目宗兵衛商店へと経営が譲られました。

CFF78076-3019-45CC-A07C-F10BE4E25735

酒蔵の裏に出ました。むしろこちらが正面になるのかな。

A97C3957-81E3-4486-BA29-08A79D2CF298

稲荷神社から見て酒蔵を抜けた先、駅寄りになりますが、かつて花街だった一画があります。写真は今も残る芸妓組合。

19179348-E0AC-47CA-82EC-61E9EAFB0676

旧町名で喜楽町と呼ばれていたこの一画には、花街の名残りとして割烹や旅館などが点々とあります。

5905C4DB-8EBE-4E81-BEDB-1CFE27B78FDA

しかしながら数は少なく建物も新しく、花街として栄華を誇っていた時代の景色はほとんど残っていませんでした。強いて言えばこの屋号ぐらい。

60677341-28B6-44EC-A770-95F397FCB14F

門前右手の突き当たりには、かさま歴史交流館。かつてこの建物は、明治中期建造の木造三階建ての旅館、井筒屋本館でした。東日本大震災の被害を受け、それを契機にリノベーションされたそうです。

A6883A51-5BF9-4A13-81A0-197A82B01C10

旅館と言えば、笠間稲荷神社の東の丘陵に廃ホテル、ホテル山乃荘があります。

03F2735D-9CC8-459E-93A5-ACD89DE488D4

バブル期に増築なり改築なりされたのでしょうか、天守閣を模した建造物まで。市街を見下ろす眺望は、さぞ見事だったろうと想像できます。

D5156D6C-BAA6-4739-809A-063FF4898C52

廃墟の右手、東側の坂を登って行くと、建物の正面側に回り込めます。ここホテル山乃荘は昭和28年(1953)創業。しかし2011年の東日本大震災で被災し、以後復旧を試みていましたが、同年の5/10に廃業となりました。山乃荘女将のツイッター参照。ちなみに女将は現在伊香保で働いているとか。

28F75B3B-2572-4713-B1D9-382581669BBD

建物の西側に回り込み少し坂を下ると、正面玄関へのアプローチがあります。

AC224249-A932-4ACB-954D-1FE44F6BA948

震災を機に廃業となりましたが、笠間でこれだけの巨大施設は時代のニーズにも合っておらず、恐らくは経営自体も廃業寸前では無かったのかと想像できます。

A315A08F-F4E9-4C7E-84D4-5B8B3E1356EA

現に廃業後10年以上経った今でも解体出来ずに放置されています。崖地でこれだけの施設ですから解体費用も相当なものかと思われますがそんなお金はどこにも無く、ましてや税金で賄うわけにもいきません。

6C1D829F-6DA1-4912-A743-C2DB1C33A502

これは全国各地の温泉街などでも問題となっていますが、特に良質な温泉が出る訳でもなく観光地としての発展が見込めないのも事実であります。

と言う訳で笠間は奥が深いので、このまま続編へと続きます。

群馬県安中市、碓氷峠の旧信越本線旧線の廃線跡(後編)

前回の続き、碓氷第三橋梁より横川までの廃線跡を紹介します。

9C06BC06-BF12-4E7E-9A21-1FF7294DFA02

6号トンネルを出ると碓氷第三橋梁があります。1963年(昭和38年)に廃止されたアプト線区間は1996年(平成8年より遊歩道としての整備が始まり、2001年(平成13年)に完成しました。

F588B689-D263-4CEF-BA05-72190FE05DA0

国立公園内のため電柱が立てられないなどの問題もあったそうですが、2012年(平成24年)には碓氷第三橋梁から前編で紹介した熊の平信号場までの区間も遊歩道としての整備が完了しました。そしてこの碓氷第三橋梁こそが碓氷峠を代表する重要文化財です。

CD573BE1-472D-41F0-BD6B-AE137ACAA948

橋の上からは沢の奥の方に1963年(昭和38年)から1997年(平成9年)まで使われていた新線の廃線跡が見えます。

BA6E174B-3769-4AC3-AC49-278AC4D2A877

この第三橋梁には個人的な思い入れがあります。子供の頃、鉄道関連の本にこの碓氷第三橋梁とその奥の新線を走る特急あさまの写真が掲載されており、その写真を見た私は旅情に駆られました。霧の立ち込める渓谷のモノクロ写真だったのですが、その一枚の写真が後の私の嗜好に多くの影響を及ぼしています。今回実物を生まれて初めて見た訳ですが、感慨深いものがありました。

A62B8758-7712-4DCC-9B33-0D5292B6D8AC

橋を渡った先には5号トンネルの軽井沢側出口があります。

0C6D72D9-7DD5-4FCA-9B64-82CC28421D7E

5号トンネル内部。1963年(昭和38年)にアプト線が廃止されて1996年に遊歩道として整備されるまでの33年間、これらのトンネル群は廃墟と化していました。なによりも驚かされるのは、完成してから今年でおよそ128年ものの歳月が流れていると言うのに、明治時代に造られた煉瓦トンネルがここまで完璧な形で残っていたと言う事。当時、よほど強固に造られていたんだと感心するばかりです。

ECB3517F-EF5F-4463-BC16-59A96C0089C5

5号トンネル横川側入口。出口から入って入口から出るためややこしい文章になりますがご了承下さい。

8FBCCAF0-03A1-47B1-AC32-BF40E6C0B8F5

4号トンネル軽井沢側出口。

51670DB2-56BF-488E-9E0C-ADDFC14C1FB2

4号トンネル横川側入口付近から3号トンネル。だいぶ標高を下りて来たためか、紅葉も良い具合に残っていました。

1D8A78EC-045A-4314-AEBA-4FC64C0DE457

4号トンネル横川側入口。遊歩道として整備されるまでは雑草に覆われていて、全体をはっきり見る事も出来なかったかもしれませんが、こうやって気軽に辿り着ける事も含めて有難い事です。

3FCB14A3-3079-48E1-B92F-81B7BDD36744

3号トンネル軽井沢側出口。

6A2D2D09-34F7-4D9C-8702-3193D9EFA284

3号トンネル横川側入口付近。紅葉の奥では国道(旧道)がオーバーラップしています。

84EE89B3-48C4-4EFF-9C20-087485378253

3号トンネル横川側入口から、4号5号トンネルを望む。望遠で撮るといかに短いトンネルが連続しているが伺えます。

E23B2C86-F4AB-4312-880B-4D0AE6470206

2号トンネル軽井沢側入口。この辺りまで来ると、やっと人里まで降りて来た感じがします。

261A7E66-6F26-41D9-B751-46B8D0C82273

2号トンネル横川側出口。

F1F7ADF1-D7AE-43DD-A23F-D614C0A7AB0E

2号トンネルを出た所に、当時の物と思われるレールが残っていました。

D255B99A-9F52-425A-A983-1F074CC1227D

いよいよ最後のトンネルです。1号トンネル軽井沢側入口。

17EDD47F-91DF-4417-89E6-EBA0A9EA3361

1号トンネル横川側出口。熊の平信号場から横川まで10ヶ所のトンネルを潜ってかましたが、熊の平から上の軽井沢までにも16のトンネルがあり、旧線時代には横川〜軽井沢間トータルで26ものトンネルと18の橋梁がありました。

396544B0-DADA-4764-B801-0F731DC14305

横川まで降りて来ました。日帰り入浴施設、峠の湯の辺りで、新線の廃線跡と合流します。

6C13A100-A4A6-4181-BFCC-DC77709C8024

遊歩道はそのまま新線の上り線跡に続きます。この辺りまで降りて来るとちょうど紅葉も見頃。

31128992-C109-4524-94C7-080E634D95BB

霧積川橋梁。信越本線は過去何度も列車で通りました。特に夜行急行「能登」なんかは北陸に行く際よく利用していました。

D20AD7EC-B734-4129-8D4C-1CBB96EA71C9

遊歩道を歩いて行くと途中に2棟からなる旧丸山変電所跡があります。

D32B5CC9-7B56-4261-A123-77046D0F4DF6

横川側の東棟は蓄電池室、西棟は機械室で回転変流器と変圧器が有ったそうです。

5CB6F84B-6E7B-4FC9-A078-5018659CBBF0

西棟内部。以前は公開されていた事もあったとか。

285DA014-67D2-45EC-A55D-024BAA07C76D

碓氷峠を列車で通るのはほとんど夜行列車だったため、沿線の景色を眺めることはありませんでした。だいたい夜中の横川駅構内で、補助機として連結されるEF63を見て興奮してたぐらいです。しかしその信越本線が新幹線開業に伴い廃止になるなんて想像もしていませんでした。幹線が分断されて各駅停車で長野に行く事が出来なくなると言う、かつて貧乏旅をして来た自分にとっては本当にショックでした。もちろんEF63など越境に掛かる維持管理費を考えると大赤字だって事も理解出来るし、軽井沢や長野までは格安な高速バスもありますが、昭和の鉄道旅の終焉を感じるほどの出来事でした。
次回は最後に碓氷峠鉄道文化むらをお送りします。

群馬県安中市、碓氷峠の旧信越本線旧線の廃線跡(前編)

どうも最近有名どころばかり行ってますが、今回訪れた碓氷峠も以前より訪れてみたかった場所です。

DAFFC7CA-2B1D-4498-BD04-545C8841B4F7

群馬県と長野県の県境にあたる碓氷峠。その入り口とも言える横川駅に到着しました。峠を越えれば長野県の軽井沢に出ます。

E7E41E3E-CF4A-4E39-8C7B-D400DB8CEC5C

名物である峠の釜飯は、横川駅か開業した1885年に創業した荻野屋が1958年に発売した人気の駅弁です。うちの実家にも益子焼で作られた峠の釜飯の容器が有りました。使いもしないのにとっておいてしまいがち。

67A233B4-3B51-4FC8-B428-BC7D9F9F889C

まずはタクシーで熊の平信号場跡まで登りました。迎車での600円を含めて3500円程で到着。先週までは旧道経由の軽井沢行きバスも走っていたのですが、ちょうど秋の行楽シーズンも終わり冬季はバイパス経由のみとなってしまうため、タクシーに乗らざるを得ませんでした。

3184E712-5F9A-44CE-BE49-68FD9AE756E8

信越本線は1885年(明治18年)高崎〜横川間が開業し、碓氷峠の難工事の末1893年(明治26年)に横川〜軽井沢間が開業した事によって全線開通しました。中間地点にあたるこの熊ノ平信号場も当時、給水給炭所として開設されました。この熊ノ平変電所は1937年(昭和12年)に開設。

BC592ADD-B0B3-4210-84A8-E2B8B39FB4F2

横川〜軽井沢間は勾配が急過ぎるため、当初日本で初めてアプト式と言う歯車で登る方式が取られました。線路にこの様なラックレールと言う物が敷かれ、機関車は歯車をこのラックレールに噛ませて登るわけです。写真は横川の碓氷峠鉄道文化むらに展示されているもの。

0A8B186F-0AF2-4CE6-BAB2-AFE40CE17472

しかし時代は変わって1963年(昭和38年)、輸送量の増加や所要時間の短縮が求められる中、直流1500V(従来は600V)によって粘着運転と言う従来の走行に変更され、さらに複線化された事によりアプト式が廃止。北側の長大トンネルを経由する新線が開通しました。ちなみに新線が開通するまで信越本線は非電化(蒸気やディーゼルエンジン)でしたが、この時期に高崎から長野までの全区間が電化されました。写真は熊ノ平信号場から旧信越本線軽井沢方面を見た所。一番左のトンネルがアプト線跡で、中央と右側が新線。

6AE9AABF-BFDB-430C-9342-9D1C04946D89

こちらは旧信越本線新線の横川方面を見た所。しかしながらさらに時代は過ぎて1997年(平成9年)、北陸新幹線(当時長野新幹線)の開業に伴い、横川〜軽井沢間が廃止となりました。

7E756CE7-97A5-44F8-9785-817B7DF54133

今回は昭和38年に廃止となった信越本線旧線、アプト線跡を歩いて行きます。写真は熊ノ平信号場から一つ目のトンネル、10号トンネルの軽井沢側出口。

B9B9D348-C9A1-4A78-9C05-2552E4423240

アプト線は当時、地下鉄銀座線や丸の内線と同じく第三軌条集電方式が採られていました。第三軌条集電方式とは線路の脇に架線に代わるレールが敷かれている方式。写真は10号トンネル内部。

ED0DD419-FF19-435D-85B2-9BF016AB8B1D

10号トンネル横川側入口。アプト線には車輪に対するブレーキの他、駆動輪である歯車に、さらに集電するための第三軌条にもブレーキを設けて、三重の安全対策を採りました。

82741B4F-F0DA-4CCF-816E-95928E4A58FE

ここからはしばらく短いトンネルが連続します。写真は10号トンネル横川側入口付近から見た9号トンネル。

D9485C36-EE59-45E3-9B39-5C0308E9C334

トンネルは本来起点側、つまり信越本線では高崎側を入口、軽井沢側を出口と呼称します。今回の訪問では峠の途中から降りて来たので、軽井沢側出口から入り横川側入口へと出て行きます。ややこしいですが坂を登りたくないもので。写真は9号トンネル横川側入口。

E704E28C-232E-4045-82B0-155B22E0099F

アプト式を採用する際にラックレールを施設するため強固な道床が必要とされました。そのため鉄橋は造らず煉瓦造りによるアーチ橋が採用されたとか。写真は9号トンネルと8号トンネルの間にあるアーチ橋。

10CEF170-5BC4-4297-ADA7-FDE827551744

明治中期の技術で難工事の末(すえ)完成したアプト線ですが、前途のような輸送力強化が求められるとともにトンネル掘削技術の進歩もあり、新線の開業へと繋がった訳です。こちらは8号トンネル軽井沢側出口。

F35D67AE-6D49-48F1-AC09-ABF4F0B66CD2

そう言ったわけで開業から70年、アプト式の旧線はその役目を終えました。こちらは 8号トンネル横川側入口。

3B16696E-CD3A-4A86-BDCA-C5836D189885

8号トンネルを出てすぐに架かるアーチ橋。日本に於けるアーチ橋は古くは江戸時代の石橋からありますが、明治中期に竣工した煉瓦造のアーチ橋が現存するのは貴重な事例のため、重要文化財に指定されています。

447A2C2E-AEAF-4348-9486-609CC03E67AF

トンネルの坑門や内壁はことごとく明治期の煉瓦造りが残されています。コンクリート建築が本格的になる前の時代の構造物がこれだけ残っているのは、やはり貴重です。写真は7号トンネル横川側入口。

5A83D9B6-83BB-415D-A816-F5CF5260A024

開通した1893年(明治26年)より電化される1912年(大正元年)までの間は蒸気機関でした。急勾配のため大量の煙を排出する上トンネルが連続するこの区間では、機関士の窒息事故なども起きていたそうです。写真は8号トンネル内部から7号トンネルを望む。

40D19C33-A097-45F3-BD18-72F737A706F2

一応全ての坑門を撮って来たので写真の枚数が多くなりすぎてしまい、対して文章を書くネタが無くなって来ました。 6号トンネル軽井沢側出口。

CFE32DBD-A62B-48C5-A361-78FB32FC1AD0

6号トンネル内部。途中、三つの穴から外の光が差し込みます。不意に外光に照らし出される煉瓦の内壁。

BE129F85-A199-49CC-B8A8-C7234D85A796

横川側から軽井沢方面を振り返った所。元々は蒸気機関車の煙を逃す役目があったそうで、天井部にも穴が空いてます。

FAFCB807-EFD0-43C0-84C5-A102F91C7022

その少し先には五つの横穴が。

10AD7C7F-34DC-477D-8C36-98DF8A074EF2

こちらは天井に空いている排煙用の穴。

D6F83655-F6F7-494F-A5DE-F6FB77347C3A

外に出て見たら、やはり見事な煉瓦建築。

BE9FA2C1-4371-4C03-A6D5-4A9DCCC2A827

横川側から軽井沢方面を振り返った所。なんと言うか、その美しさに息を呑みました。

0DCD3B89-622A-44CC-9443-56D73F225E88

こちらは結構長かった6号トンネル横川側入口。6号トンネルを抜けるといよいよ有名な碓氷第三橋梁に出ますが、写真の枚数が多いため続きは後編で。

栃木県日光市鬼怒川温泉、寂れた温泉街の廃墟群

鬼怒川温泉は言わずと知れた、関東圏に於ける有名温泉地です。

9CA0B345-2ABD-401F-AE6D-16BD0DB8D98F

昭和の時代から小田急で行く箱根、国鉄で行く熱海や草津、東武で行く鬼怒川と、鉄道旅行全盛期の旅先の一つに数えられて来ました。

7DD9F344-C136-477A-9B78-BEBC344FB50D

現在でもホテル三日月やニュー岡部(大江戸温泉物語が買収)などの有名巨大ホテルが林立しています。

0A381249-6488-453A-BDF3-C1740FBE6292

こちらは代表格とも言えるあさやホテル。ただ、沿線に富裕層の多く住む小田急に比べて、東武は東京の下町を起点にしていると言う点が、決定的に違います。

FEE64A21-4E83-4410-9DAE-4F90B5634528

私は箱根出身なのでどうしても比べてしまうのですが、箱根には廃墟ホテルなどありません。対して鬼怒川温泉にはこの様な廃墟群が存在します。個人的な考えですが、東や北は発展しない、と言う事でしょうか。

37B23A25-824A-4F8C-B951-B7B1407E03C2

と言うわけで今回は廃墟系サイトなどでは有名な、鬼怒川温泉の廃墟群を巡っていきます。こちらは鬼怒川観光ホテル東館跡。1970年代後半に建てられたもので、2013年頃に使われなくなったと言います。

685D3DF4-72BA-4993-9A8A-03BAAD374A22

鬼怒川観光ホテルは現在、本館を残し大江戸温泉物語に買収されております。この東館は団体旅行全盛期に、その団体客を受け入れるべく巨大ホテルが乱立された当時の名残りであります。

70D0E413-B177-4A9F-A054-9B67E45C06FA

廃墟群は主に鬼怒川の東岸に集中しています。なぜここに集中しているかと言うと、国道と鬼怒川に挟まれた崖地に建てられているため、その狭い敷地から解体工事が大掛かりな物となり、工事費が嵩むため解体が遅れているとも言われています。尤も建物によっては倒産などにより権利者がもう居ないと言う事も多くあります。

21E720C9-865A-46A6-902A-6B7095AC1EFA

この鬼怒川第一ホテルは対岸に建つあさやホテルの支店として、昭和31年に開業しました。手前側のオレンジ色の建物は1990年代に増築されたものです。

3076B5D8-4115-4B2C-918E-ACFE1A35E6BB

しかし2008年11月30日に閉館。当時、あさやホテル社長一族による経営だったとか。

3A81F072-AB3C-4C2D-B717-834EA2A5905D

第一ホテルの右隣、上流側に建つのは昭和17年12月に開業したきぬ川館本館。

16872F9A-A47F-4675-83BC-64DD91FCCE5E

かっぱ風呂は廃墟系サイトなどでも有名です。

E26419B5-E805-4AB4-9AB3-09144E96BFA5

しかしバブル崩壊で経営が悪化し、1999年に閉館したそうです。

85C1944A-4139-41A7-B008-513823EB4099

こちらはきぬ川館の浴室でしょうか。これらの廃墟の対岸にはあさやホテルが建っており、正面から見る事は出来ませんが、さらに上流に架かる吊り橋から眺めることができます。

6A161333-7C99-4489-99D1-FD153D33391C

こちらは大正14年創業と言う老舗旅館の星のや。もちろん星野リゾートの星のやとは全く別物です。

DA72B33E-C480-4F91-AC6A-F8A6F3CE1ABC

2010年に閉館してしまった星のやですが、温泉ブログなど見ると素晴らしいサービスと湯使いをされていたそうで、ぜひ現役時代に泊まってみたかったところです。元湯と名乗る辺り、星野リゾートを意識していたのかも、いなかったのかもしれません。

449F0676-1441-4D70-A024-0B1F6F5F7DE8

星のやを鬼怒川から見た様子。温泉街の廃墟群といえば水上温泉を思い出しますが、これらの廃墟は2003年に起こった足利銀行の経営破綻の影響を少なからず受けたと思われます。

5163045C-4825-4E87-BD3B-77FED171B01B

こちらは復興御宿富双江葉大馬鬼怒川秘極の湯「風」、と言うなんとも長ったらしい名前の宿。元々はおおるりグループホテル沢風だったそうですが、東日本大震災以降に復興御宿富双江葉大馬グループとなったそうです。しかしながらこの復興御宿グループ、那須湯本や塩原、奥日光、川俣などにも有りましたが今年に入ってことごとく閉館しているそうです。恐らくはコロナ禍の影響かと思われます。
ちなみに富双江葉大馬とは、震災時に福島県浜通地区の特に被害の大きかった富岡町、双葉町、浪江町、楢葉町、大熊町、南相馬市の6市町より一文字ずつ引用した富双江葉大馬(ふそうこうようおおま)と読むそうです。


75DED55D-AD6B-4128-A975-52C09C317B3A

こちらは吊り橋の西岸北側に建つ伊東園ホテル鬼怒川グリーンパレス跡。昭和50年代よりあさやホテル系列で開業。しかし2008年11月30日、上記あさやホテルグループの鬼怒川第一ホテルが閉館されたのと同時に、伊藤園ホテルグループに運営が譲渡されました。そして2015年末より耐震工事及び設備点検のため休館となりましたが、そのまま営業再開されずに今に至っています。
ちなみに伊東園ホテルグループは下流の鬼怒川温泉駅の近くでホテルニューさくらを現在でも運営しております。

A097E730-AD48-4646-B0B7-FD07F63C6C5C

廃ホテル巡りはまだまだ回り切れてませんが、今回はこの辺で。西岸の温泉街を歩きます。この辺り、かつての歓楽街の名残りを感じます。

375EC637-8ED4-4B12-9279-F911DC1C3BFF

特にこの辺。

5B1A3356-70F7-4240-A712-927890CC14CC

赤線とか置き屋とか、そう言った時代の名残りがあります。ただ温泉街を歩いて感じたことは、飲食店やお土産屋さんの閉店した跡の多い事。もちろん不景気や後継者不足などで廃業された店舗も多いと思われますが、今回のコロナ禍の影響も思いざるを得ません。

682F3635-0282-400E-A2F4-13ABCFA5253B

鬼怒川温泉駅に戻って来たら、ちょうどSL大樹が到着したところでした。東武鉄道は2017年の夏より、JR北海道から譲り受けたC11207(写真)と真岡鉄道から1億2500万で落札し譲り受けたC11325、二両の蒸気機関車によるSL大樹を土日祝日を中心に運行しております。

428B9059-AD01-4EB6-A173-8016AA69D0A5

水上温泉復興を睨んだJR東日本のSL水上を思い出しますが、駅前広場に転車台を設けた辺り、その本気度が伺われます。

51E64FB3-342C-4599-89CB-8571B82FE065

モータリーゼーションにより旅先の選択肢が増え、日帰り温泉旅行も増えた昨今、昭和の名残りである巨大ホテル群を抱える鬼怒川温泉の、観光地としての復興事業を、これからも見つめて行きたいと思います。
以上の情報は廃墟探索地図様他、先輩諸氏の情報を参考にさせて頂きました。

栃木県日光市川治温泉、寂れた温泉街と丸見え露天風呂

川治温泉は鬼怒川温泉の少し先にある小さな温泉街です。

BDFB2F66-53EF-4050-B148-F2BE2CA7DA61

いわゆる鬼怒川の奥座敷のようなな存在で、湯西川温泉同様に関東における知名度は高いです。

2ECA5696-4754-4187-A737-A93FA872C115

温泉街の中心に聳え立つのは昭和9年創業の老舗旅館、一柳閣。しかし現在では伊藤園ホテルグループに買い取られてしまいました。

BA7409E9-F85D-49E2-9F93-CCEEFD93B6A5

星野リゾートも進出しています。こちらは「界・川治」。

8C59A8AA-EBA4-47A3-BD66-350A99807BDD

もちろん廃ホテルや廃旅館も多く点在しています。こちらは2007年に閉業した「如水庵」。

8E6147A0-98F4-43B6-AFC5-E88BB8491F1A

こちらは寿庵という現役のホテル。1986年に野岩鉄道が開通し、それまで鬼怒川からバスでしか来れなかった所に電車が来るようになった事で、さぞ期待も高まった事でしょう。

9AD13DAF-DADF-466E-ACA8-67A7D13A2D06

しかしバブル崩壊やリーマンショックなどによる景気悪化の流れから団体客は減少し、さらに鉄道利用客の減少から野岩鉄道開通の効果も期待以上の物にならなかったんだと思います。ただ現在、特急リバティの誕生により特急列車の直通運転が可能となり、浅草や北千住から一本で来れるようになりました。

C1C1B5FB-FC11-4CC0-8A47-123F7ED784DE

温泉街の奥に野岩鉄道川治湯元駅があります。元々野岩鉄道は国鉄日光線今市駅から会津線会津滝ノ原までを結ぶ計画だった未成線です。昭和41年に着工された国鉄野岩線の未成線を、東武鉄道や自治体などの出資による第三セクターとして開通しました。

3E8D35F9-155B-4DEE-BEEA-BDEC092BF0F2

川治湯元駅から川治ダム発電所のある河川敷まで下りると、共同浴場の薬師湯があります。

A1D794B4-A4C4-4571-80DE-ABD8586F996F

男女別の内湯と混浴露天風呂があり、露天風呂は河川敷。

0719D88D-8003-453A-BC78-78A9965A449B

浴槽は二つあり片方は元々は女性専用露天風呂もありましたが、現在はどちらも混浴となっています。こちらは元々女性専用だった浴槽。

667D82C5-27ED-4B03-BADC-AE744B0E02E8

こちらがもう一つの浴槽。ただ、源泉温度が38度ぐらいしかなく、非常にぬるいです。受付の方も加温してないからぬるいですよーと言ってましたが、この季節ではさすがにぬる過ぎます。もちろん内湯は加温しているので、そっちに入れば問題ないのですが。とは言え加温加水無しの源泉掛け流しで鮮度だけは抜群です。

5897971D-D938-476F-825C-09DB32AAD814

そしてここの露天風呂は、遊歩道や向かいの旅館から丸見えです。1枚目の写真も対岸に渡る橋から撮りましたが、浴槽丸見えです。開放的過ぎる、とは言っても以前訪れた大分県の天ヶ瀬温泉ほどではありません。あそこは生活道路である県道からでしたから。しかし天ヶ瀬温泉は2020年の豪雨災害によって壊滅的なダメージを食らってしまい、河原の露天風呂も5軒中3軒が再開しているのが現状です。

IMG_9338

泉質は弱アルカリ性単純温泉。内湯にも浸かりましたが、浴感こそ弱いものの湯上がりはホカホカが止まらなくなる程の濃さがあります。お湯は知名度に引けを取らない上質な温泉でした。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ