廃仏毀釈

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

川崎市麻生区、現代に残る廃仏毀釈の残滓

前回、廃仏毀釈をテーマに取り上げようと秩父の山奥まで足を運んだのに空振りに終わり、消化不良だったので改めて調べ、その物証を求めて川崎市麻生区に来ました。

7C2583B4-DB5A-4C41-8C01-3B5C149F2548

小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。

E94728E8-E0A0-4378-A60D-068CA54A0524

北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。

04C74083-052D-4DA5-931B-040E8AEC9336

その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。

EC9B9455-D37D-4EFE-9731-CF0D9E6E122C

改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。

15D23CBB-DD85-4399-BC54-2535092490B4

仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。

EF34F1DC-1E11-49C3-88D0-139511FD4BC0

次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。

7F514C32-D97A-461F-AB4A-C335D2BF13F1

神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。

922DF107-5493-4DE2-A2D4-8FBC241A4C14

神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。

5E91249C-9474-4727-B089-70C5352364FB

次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。

0DC6D53B-379B-40A0-B3D5-DFC218A7BC5B

ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。

58BFF636-26A0-460D-B99E-B5774FE5009F

取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。

A4082CB1-4C23-47DE-84A9-25E4BE04946B

ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。

65B679B3-9079-4CCC-B6AD-3DB6CEF6CC48

鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。

D830099E-C902-470D-8318-3C97CC5E4DA7

奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。

D34439E7-80C9-4B54-8A53-F28E2F5CB41B

最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。

D9510B41-A558-4F05-B99B-BEF840DFE003

寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。

ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。

栃木県日光市足尾(6)、簀子橋堆積場

夏に訪れて以来、草が枯れるのを待ってからの足尾再訪です。藪などに阻まれ入ることが困難だった場所へも、秋なら進めるようになります。

IMG_1299

まずは簀子橋堆積場が見下ろせる山の上へ。通洞駅近くの蓮慶寺脇から、今ではほとんど使われなくなった登山道を登って行きます。急な斜面を登ってゆくと、なぜか幾つもの庚申塚が打ち捨てられていました。

B5044D27-6D4B-4C5B-8D35-DFE0299FD60F

急斜面を登り切ると朽ちかけた祠が。しかし覗いてみると牛に跨った人物の首が無い。恐いから。
山村を訪れると稀にこのような首の無い仏像などを目にします。これは恐らく明治初期の神仏分離による廃仏毀釈運動によって破壊されたものでは無いかと想像出来ます。

IMG_1303

やがて緩やかな尾根伝いに登山道の痕跡を辿りながら登って行くと、高圧線の走る開けた場所に。

5D952B90-C7D5-4F9D-84FF-D53A64A7FCBE

二箇所目の高圧線。赤松が多いので紅葉としては微妙。

DA15C80E-1F5D-460A-B651-BF7ED1FF6D2C

尾根はやがて両側が崖という切り立った地形になって来ます。場所によっては突風が吹いたりして、かなり恐い。もう散歩とか旅とかじゃない、これはガチの登山です。

27A3E1A0-E1D3-475A-866C-7DBEE7350490

左手には簀子橋堆積場より古い時代に作られた堆積場が見えて来ます。こちらが一杯になったため簀子橋堆積場が造られたそうです。

IMG_1307

崖っ縁や岩場など、とても登山道とは言いがたい尾根を登り続けること約30分。視界の開けた絶壁から簀子橋堆積場が見下ろせました。ここは足尾銅山で産出された鉱物の選鉱・製錬工程で発生するスラグ(鉱滓)を沈殿させ堆積させる施設で、鉱滓ダムと言われるものです。

521E5939-9651-4012-B8AC-C6EE79125A6F

堆積場周辺の谷は全て古河機械金属の所有地のため一切立ち入ることが出来ず、本来その姿を見ることは出来ません。周辺を撮影したところ管理人にカメラを取り上げられたと言う噂もネットに上がっています。この茶色いのが鉱毒だと言うのですから、確かにヤバいです。

2A30BAC1-5720-4033-9FF6-F3794C6FAB44

この簀子橋堆積場は足尾でも最も規模も大きく見た目でも分かりやすい施設ですが、他にも多くの堆積場が今も残っています。東日本大震災ではその一部が崩落し、渡良瀬川に流出した事もあったそうで、かつて足尾鉱毒事件の被害を受けた下流域の住民に対する視察会や説明会は今も続けられています。写真はそう言った視察会などで使われると思しき立て看板。銅山による繁栄に対する代償は、閉山から44年経った今でも払い続けているということです。

IMG_1308

登山道はさらに奥へと続いているそうですが、素人の私がこれ以上進むのは無理。だって右も左もマジで崖なんですもの。

4B84FD2E-FD63-4299-883D-17FEABA5E610

振り返れば通洞の街が見事に見渡せました。しかし、下山はもっと恐いです。不明瞭なルートを地形を見ながら戻らなくてはなりません。この帰路、尾根が二手に分かれています。登った時はもう一つの尾根に合流した事に気付かなかったため、下山の際は途中で左に斜面を下りなければならなかった。

5F188197-4C9E-43DF-AAE3-640A5624F213

気付いたら巨岩のてっぺん(写真中央)。こんな時焦ってはダメです。冷静に来た道を引き返し、地形図から今居る場所を考えて、正しい道を探さなければなりません。
ともあれどうにか無事下山。正直、距離が短いからと言って登山の素人が行っちゃいけない山です。いや、登山道としてもはや整備されていない点から言って中級者でもキツいかも。


栃木県日光市足尾(1)、足尾銅山観光
栃木県日光市足尾(2)、旧足尾線貨物専用線跡
栃木県日光市足尾(3)、足尾銅山本山製錬所跡
栃木県日光市足尾(4)、鉱山住宅跡(その1)
栃木県日光市足尾(5)、鉱山住宅跡(その2)
栃木県日光市足尾(7)、秋の田元鉱山住宅跡〜変電所跡

埼玉県川越市、廃村、握津集落堤外地

 前回に引き続き荒川中流域の堤外地を訪れます。今回は塚本より上流、JR川越線を越えた左岸、握津(あくつ)集落です。

image

 さっそく民家跡を発見。ここは荒川の東側になりますが、住所的には川越市の飛び地となります。

image

 生け垣が農村風景の面影を残しています。ここ握津は他の堤外地同様、大正時代に始まった荒川改修工事によって、堤防の外側に取り残されてしまった集落です。その堤防も現在高さを上げるための工事がなされています。

image

 堤防の上から眺めると河川敷の水田地帯に雑木林が点在しているようにしか見えませんが、歩いて見ると生活道の痕跡があちらこちらに残っています。

image

 昭和の初め頃までは渡し舟の船着き場などもあり、およそ70世帯、500人もの人々が暮らしていたそうです。しかし堤防が内陸部に築かれて以降、昭和5〜6年に20〜30戸が強制移転。それ以降、平成15年までに26世帯が自費で移転。しかし平成11年の水害で全18世帯が床上浸水した事をきっかけに、平成16年には国から移転補償予算が出るようになったため、平成18年までには全世帯の移転が完了したそうです。

image

 廃村となった後、全ての家屋は解体され、現在このような空き地しか残っていません。荒川改修工事は東京を水害から守るためのものだったそうで、その際幾つもの集落が堤外地として犠牲になってしまいました。どこかダム湖に沈んだ村などを思い出します。

image

 左奥の高台にも住居跡があります。よくある農村風景から民家だけが消え去っています。

image

 僅かに残る遺構。確かにこの場所で人々は暮らしていました。

image

 木製の古い電柱。川沿いに長く広がる大宮カントリークラブのための送電線と所々僅かに掛かる電線以外は、昔のまま時が止まっています。

image

 しかしここも前回紹介した塚本集落同様、農地だけはそのほぼ全域が現役で使われていました。

image

 水田の所々に建つ小屋は水を汲み上げるポンプ小屋かと思われます。

image

 直進すると家々を繋ぐ生活道。左手は民家に上がる私道です。

image

 こちらも民家跡。かなり立派な家屋が多かったと想像出来ます。

image

 集落の中心にただ一軒、公民館の跡だけが解体されずに残っています。その入り口脇に庚申塔が残っていました。

image

 公民館はすでに使われておらず廃墟と化しています。

image

 公民館の左手前には集落の各所から集められて来たのでしょうか、馬頭観音やお地蔵さんなどが無造作に並べられています。しかしよく見るとお地蔵さんの首が! これは恐らく明治初期全国的に広がった廃仏毀釈運動の名残りだと思われます。
 急に怖くなって来ましたが大丈夫。少なくとも先日行った浦山地区みたいに熊は出ないから。

image

 公民館左手には防火水槽が残っています。

image

 そして裏手には雑草に覆われた廃神社が。どうもこの握津集落は、下流の塚本集落とどこか違った雰囲気が漂っているように感じてしまいます。

image

 集落を抜けて荒川まで出ると大宮カントリークラブ。急に近代的かつ現実的な世界へと解放されます。
 なんだこの雲は!wwwww

群馬県榛名神社(2)、修験道の名残ある神社

 近年パワースポットとかよくテレビで紹介されていたりしますが、私の思うにそんな物は全国至るところにあって、別に特別でも何でも無いと思うわけです。山ばっかりの国なんだから、手付かずの自然の方が多い訳だし、神域だってそこらじゅうに有る訳です。‌‌特に春は芽吹きの季節で山は生命力に溢れます。‌‌

IMG_1549

 双龍門。1855年建造。ここまで結構登って来ましたが、いよいよ社殿です。‌‌

IMG_1567

 それにしてもこの辺りは奇岩だらけ。恐らくは火山灰質で雨の浸食を受け易いんだと思いますが、だからこそ古の人々は神秘的な物を感じたんだろうと思います。‌‌

IMG_1555

 1764年に再建された神楽殿。社殿と向かい合う位置に建ち神楽などが奉納される。‌‌

IMG_1553

 こちらが社殿。見事な透かし掘り彫刻に、赤と黒を基調とした装飾。日光東照宮のような絢爛さとは違い、力強くも落ち着いた趣がある。‌‌

IMG_1560

 彫刻の数々。上は社殿の梁に巻き付く龍。

IMG_1563

 こちらは神楽殿の鬼。龍なんか削り出しでここまで立体的な物を彫るんだから見事の一言に尽きます。‌‌

IMG_1551

 神楽殿裏手にひっそりと佇む祠。至るところに神がいる。

IMG_1566

 社殿は背後にそそり立つ巨岩『御姿岩』にめり込むよう建てられており、その岩にある洞窟に御神体が奉られているそうです。

IMG_1565

 この背後の御姿岩の中腹には榊のような物が確認出来ますが、どうやってあそこに置いたかは謎。きっと天狗の仕業に違いない。‌‌どうも、このような修験道系の土地に来るとテンション上がります。‌‌

 すっかり榛名神社を満喫したので、麓まで降りてまいりました。お腹も空いたので門前蕎麦を食おうと言う事に。どうせ食うなら文化財建築で!‌‌

IMG_1575

 しかしすでに3時を過ぎていたため、どこも蕎麦が品切れになってしまってましたが、バス停の前まで下りて辛うじて蕎麦にありつけました。‌‌

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

群馬県榛名神社(1)、穴場的なマイナー観光名所

 高崎駅で観光パンフを物色するものの、グルメマップばかり。グルメじゃない。マイナーなスポットを探しているのだ。唯一観光マップが1冊だけあり、隅々まで見てみる。高崎ダルマも微妙だし、下仁田コンニャクも微妙。そこで地図の一番左上端に載っていた写真に目が止まりました。切り立った崖に建つ寺院。ちょっとカッコよさげだ。と言う事で、高崎の北東部、榛名山の中腹に建つ榛名神社へ向かいました。‌‌
 一時間に一本しかないバスに揺られて一時間ちょい。かなり山間部へと入って行きます。‌‌

IMG_1524

 標高が高くなるに連れ季節が逆行。終点の榛名神社に着いた時にはGWなのに桜が満開でした。

IMG_1527

 バス停から山門までは急坂が続き、その門前両脇には、かつての宿坊が建ち並びます。‌‌

IMG_1529

 宿坊とは元々修行中の僧侶が寝泊りをする施設で、平安期以降一般の参詣者も泊まれるようになった宿。しかしここ榛名神社では『○○坊』と屋号だけが名残りとしてあり、すでにみな蕎麦屋などに変わってしまいました。これは明治新政府による神仏分離令で、天満宮榛名寺として修験道も盛んだったこの地が『神社』と認定されたからなのかも知れません。‌‌かつての宿坊は文化財建築もいくつか残されていますが、修復などはあまりされていない感じでした。‌‌

IMG_1531

 鳥居の向こうに見える山門。この辺も神仏ごちゃ混ぜの時代を感じさせます。現在は随神門と呼ばれ随神が置かれてますが、神仏分離以前は仁王門と呼ばれ二力士が置かれていたそうです。‌‌

IMG_1534

 苔むした参道脇には傾いた、なんて言うんだろ、神社にある氏子とか書いた石の柵みたいなやつ、あれが山沿いに連なってます。‌‌

IMG_1536

 参道は巨木ばかりの杉木立に囲まれており、至るところに祠や五輪塔が点在しております。

IMG_1545

 創建は585年~587年頃と言うから古墳時代である。1400年以上の時が流れているだけあり、様々な時代、様々な場所に祠が建てられて来た。‌‌だからってこんな崖っぷちに建てなくても。(笑)‌‌

IMG_1538

 参道に建つ三重の塔。明治2年に再建されたもので、神仏習合の名残りを留める。‌‌

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ