観光地、ましてや世界遺産なんて行かないと思ってましたが、最近ちょっと考えが変わって来ました。去年まで北関東の産業遺産関連を巡って来ましたが、ならば富岡製糸場ぐらい一度は行っておかないとと思い富岡市にお邪魔しました。
駅から南に歩いたところ、富岡製糸場の隣に建つ旧韮崎製糸場で富岡製糸場の入場券を購入します。駅からここまで小さなシャトルバスが走っていますが、徒歩10分なので散策しながら歩けばすぐ着いてしまいます。
この韮崎製糸場は明治9年から明治12年まで、富岡製糸場をモデルに建てられた民間の製糸場です。操業期間は短いものの当時の構造がそのまま残っていたため、貴重な遺構として保存されております。
さて、いよいよ超有名な富岡製糸場です。
入り口左手に建つ検査人館からして素晴らしい明治建築なのですが、残念ながらこちらは立ち入り禁止。
入ってすぐ横たわっているこの代表的な建物は東置繭所。いわゆる繭の保管倉庫ですが、入って正面の東棟と奥の西棟とがあります。幕末から明治初頭、それまでの生糸産業は手作業による物しか有りませんでしたが、それでは糸の太さが均一にならないと言う事情から機械化が欧米市場から求められました。
明治維新によって日本が開国して行ったそんな時代背景の中、富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が設立した模範器械製糸場です。まずは官営で機械化された工場を造り、それを模した形で全国に民間製糸場が広がって行くわけです。
こちらは奥に位置する西繭置所。西棟東棟ともに明治5年の開業当時の建造物です。とにかく巨大。二階建ての構造ですが倉庫だけあって1階層の天井がやたら高いです。ちなみに富岡製糸場開設の立役者としては大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一などが名を連ねています。まさに国家プロジェクト。
富岡製糸場は初め官営で開業されました。しかし海外から呼び寄せた技術者たちの高額な人件費や女工たちの在勤期間の短さなどが原因で経営不振に。当初の模範や伝承と言った目的も果たしたと言う事で、明治26年には民営化されます。
基礎や外壁こそは明治の物ですが何度も改修されているので、この扉などは昭和の物かも知れません。とは言え意匠は素晴らしい。
エレベーターが設置されたのは戦後でしょうか。明治26年に民営化されましたが最初の入札では買い手が付かず、2回目の入札で買い取る事を決めたのは三井銀行部の理事をされていた中上川彦二郎氏。福沢諭吉の甥に当たり、資源の乏しい日本にとって今後外貨を獲得するには機械産業の発展しか無いと言う思いからだったとか。
二階部分に登ってみます。赤煉瓦の外壁の中に、ブリキの内壁が二重構造という形となっています。これは昭和に入ってからの構造で、お茶の箱のように乾燥効率を上げるための工夫だとか。
内部はこんな感じ。三井の時代は9年続きましたが明治35年、原合名会社を率いる原富太郎が富岡製糸場を含む4つの工場を買い受けます。ちなみに原富太郎は横浜の三渓園を造った実業家で、前身の原商店は先代(義父)が生糸問屋で財を成しています。
赤煉瓦の外壁の内側に、当時の雑誌を貼り付けて修繕した跡が見て取れます。さすが女工さんで成り立つ工場だけあって主婦の友。広告のシボレーが1934年型と思われるので、昭和9年当時の印刷物かと。
こちらは東置繭所に併設されている変電施設。残念ながら内部は見れません。
そしてこちらがメインと呼べる繰糸所。開設当時の明治5年建造です。原合名会社による運営は長く昭和13年まで続きました。そして昭和14年、当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることとなります。
こちらが繰糸所の内部。現在展示されている繰糸機は開業当時のフランス式繰糸機を復元された物ですが、当時は繰糸所の規模として世界最大だったそうです。
蚕を煮て繭から糸を紡ぎ出す。その様子が一部の繰糸機に展示されていました。明治、大正、昭和と生糸産業を支えて来た富岡製糸場ですが、和服を着る機会の減少などに加え、昭和42年(1972年)の日中国交正常化による中国産の廉価な生糸の輸入増加などが原因で生産量は減少の一途を辿り、昭和62(1987年)に操業を停止、閉鎖となりました。
鉄水溜と貯水槽。左手奥の鉄水溜は明治8年頃に造られた製糸に必要な水を溜めておくための巨大な水槽です。この鉄水溜の製造には軍艦の造船技術であるリベット止めが使われ、およそ400トンの水を溜めおくことが出来たそうです。
それにしても操業停止から36年経っても廃墟化せず、当時のままで保存されていたのには片倉工業の努力があってこそです。解体せずそのままの姿で維持管理を続けるためには年間一億ものお金が掛かるとか。
古い物、特に歴史的価値のあるものを大切に保存するという心意気には尊敬の念を抱きます。しかし一部の建物は重要文化財指定を受け、最終的には世界遺産に登録されたわけですから、その苦労も報われたんじゃないでしょうか。
こちらは開業当時の動力として使われていた蒸気機関の復元モデル。これが実際蒸気で動いています。この徹底ぶりは感動します。現在片倉工業は保守管理の役目を終え富岡市に所有権を譲りました。
東繭置所の向かい、入場ゲートに近い所にある女工館。こちらは開業時、全国に技術を伝える役目を担った伝習工女たちに、ヨーロッパの機械製糸の技術を教えた4人のフランス人女性教師のために建てられた建物。明治6年建造で実に贅沢な造りをしてますが、残念ながら内部は見れません。建物は後に役員宿舎や娯楽施設などに利用され、大正12年以降は従業員食堂として使い続けられていました。
こちらは片倉時代の昭和15年に建造された診療所。しかし医師は開業当時からずっと常駐されていたそうです。福利厚生というか、明治初頭から労働者のことを考えられたシステムと言うのは、政府が雇用したフランス人のポール・ブリューナの指導があったからこそかも知れません。
こちらがフランソワ・ポール・ブリューナが家族と暮らした首長館。ブリューナは官営製糸場の建設地選定から携わっており、契約期間を終えた明治9年に帰国しています。しかし当時の一般的な日本人職工の年俸が74円程度だったのに対し年俸9000円を支払われており、一時期大久保利通や伊藤博文らが問題視した事も。
首長館の裏手には講堂が併設されております。明治維新後の日本はブリューナのような多くのお抱え外国人(通称)を雇っており、彼らは日本の近代化に大いに貢献されました。
講堂の奥には大正7年(1917年)建造の寄宿舎(榛名寮)。20畳以上の大部屋が幾つもあり、地方から出てきた女工さんたちが共同生活されていたそうです。女性の社会進出と言えば高度成長期のイメージですが、地方の貧しい農家に産まれた女性が嫁入り以外の選択肢として、このような雇用が有ったと言う事です。
こちらは昭和15年(1940年)建造の寄宿舎(妙義寮)。右手に同じ造りの浅間寮があります。一棟につき15畳の部屋が16室あり、一部屋に12人ほどが暮らしていたとか。室内にはアイドルのポスターや観光地のペナントなどが貼られているそうですが内部は非公開。見てみたい。
最後に敷地内に建つ社宅を紹介します。敷地内と言う事は部長や専務など重要なポストに就いていた方々が暮らしていたのでしょう。
下駄箱が古い。この建物の建設年代は見落としてしまいましたが、造りからして恐らく昭和初期と言ったところでしょうか。明治、大正、昭和と、それぞれの年代の建築物が混在している富岡製糸場を巡っていると、明治建築と戦後建築との違いとか、なんとなく分かるようになってきます。
それにしても、よくぞ当時のままの形で残っていると感心するばかりです。これが昭和62年(1987年)まで現役で稼働していたと言うのですから。
台所の雰囲気も昭和そのもの。閉業間際の頃にはすでに使われなくなり、廃墟化していた時期があったのかも知れませんね。置かれている魔法瓶や食器などは展示用にディスプレイされた物でしょう。
ちょっと立派な社宅。役職によって社宅のグレードが変わって来るのは、以前足尾銅山の社宅で見ました。富岡製糸場の敷地内には多くの建築物が残っていますが、内部を公開しているのは極一部。それでも公開されている箇所にはそれぞれスタッフを配置し、監視カメラも多く設置されています。世界遺産故に多くの外国人観光客を受け入れなければならないので、案内と同時に監視もしなければならない。
こちらは三軒長屋の社宅。敷地外にも恐らく多くの社宅が存在していたと思われます。もっと多くの建築物を内部まで公開するには当然もっと多くのスタッフが必要となりますし、そうなってくると大赤字になってしまいます。
まだ一部、乾燥所など復元作業が行われている棟もあります。土曜日に訪れましたが、観光客の数に対してスタッフの人数の多さを考えるとすでに赤字じゃ無いかと思われますし、かと言って人数を減らすのは外国人観光客受け入れの観点から言ってリスキー。税金で運営している分それに見合った経済効果がなければ今以上お金も掛けれないし難しいところですが、富岡市は充分頑張っていると思います。京都ぐらい観光客が来ればいくらでもお金掛けられるけど、なんだかんだ言ってマイナーだし、渋いし、バエないしwww
以上となりますが、とにかく見応えありました。まぁ近代史などに興味が無い方はどうか分かりませんが、私は予想以上に行って良かったと思います。もっともっと多くの人に訪れて欲しいし、観光会社も近隣の温泉と併せたツアーなんかを組んで欲しい。
次回は富岡の市内散策を紹介します。
駅から南に歩いたところ、富岡製糸場の隣に建つ旧韮崎製糸場で富岡製糸場の入場券を購入します。駅からここまで小さなシャトルバスが走っていますが、徒歩10分なので散策しながら歩けばすぐ着いてしまいます。
この韮崎製糸場は明治9年から明治12年まで、富岡製糸場をモデルに建てられた民間の製糸場です。操業期間は短いものの当時の構造がそのまま残っていたため、貴重な遺構として保存されております。
さて、いよいよ超有名な富岡製糸場です。
入り口左手に建つ検査人館からして素晴らしい明治建築なのですが、残念ながらこちらは立ち入り禁止。
入ってすぐ横たわっているこの代表的な建物は東置繭所。いわゆる繭の保管倉庫ですが、入って正面の東棟と奥の西棟とがあります。幕末から明治初頭、それまでの生糸産業は手作業による物しか有りませんでしたが、それでは糸の太さが均一にならないと言う事情から機械化が欧米市場から求められました。
明治維新によって日本が開国して行ったそんな時代背景の中、富岡製糸場は明治5年(1872年)に政府が設立した模範器械製糸場です。まずは官営で機械化された工場を造り、それを模した形で全国に民間製糸場が広がって行くわけです。
こちらは奥に位置する西繭置所。西棟東棟ともに明治5年の開業当時の建造物です。とにかく巨大。二階建ての構造ですが倉庫だけあって1階層の天井がやたら高いです。ちなみに富岡製糸場開設の立役者としては大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一などが名を連ねています。まさに国家プロジェクト。
富岡製糸場は初め官営で開業されました。しかし海外から呼び寄せた技術者たちの高額な人件費や女工たちの在勤期間の短さなどが原因で経営不振に。当初の模範や伝承と言った目的も果たしたと言う事で、明治26年には民営化されます。
基礎や外壁こそは明治の物ですが何度も改修されているので、この扉などは昭和の物かも知れません。とは言え意匠は素晴らしい。
エレベーターが設置されたのは戦後でしょうか。明治26年に民営化されましたが最初の入札では買い手が付かず、2回目の入札で買い取る事を決めたのは三井銀行部の理事をされていた中上川彦二郎氏。福沢諭吉の甥に当たり、資源の乏しい日本にとって今後外貨を獲得するには機械産業の発展しか無いと言う思いからだったとか。
二階部分に登ってみます。赤煉瓦の外壁の中に、ブリキの内壁が二重構造という形となっています。これは昭和に入ってからの構造で、お茶の箱のように乾燥効率を上げるための工夫だとか。
内部はこんな感じ。三井の時代は9年続きましたが明治35年、原合名会社を率いる原富太郎が富岡製糸場を含む4つの工場を買い受けます。ちなみに原富太郎は横浜の三渓園を造った実業家で、前身の原商店は先代(義父)が生糸問屋で財を成しています。
赤煉瓦の外壁の内側に、当時の雑誌を貼り付けて修繕した跡が見て取れます。さすが女工さんで成り立つ工場だけあって主婦の友。広告のシボレーが1934年型と思われるので、昭和9年当時の印刷物かと。
こちらは東置繭所に併設されている変電施設。残念ながら内部は見れません。
そしてこちらがメインと呼べる繰糸所。開設当時の明治5年建造です。原合名会社による運営は長く昭和13年まで続きました。そして昭和14年、当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることとなります。
こちらが繰糸所の内部。現在展示されている繰糸機は開業当時のフランス式繰糸機を復元された物ですが、当時は繰糸所の規模として世界最大だったそうです。
蚕を煮て繭から糸を紡ぎ出す。その様子が一部の繰糸機に展示されていました。明治、大正、昭和と生糸産業を支えて来た富岡製糸場ですが、和服を着る機会の減少などに加え、昭和42年(1972年)の日中国交正常化による中国産の廉価な生糸の輸入増加などが原因で生産量は減少の一途を辿り、昭和62(1987年)に操業を停止、閉鎖となりました。
鉄水溜と貯水槽。左手奥の鉄水溜は明治8年頃に造られた製糸に必要な水を溜めておくための巨大な水槽です。この鉄水溜の製造には軍艦の造船技術であるリベット止めが使われ、およそ400トンの水を溜めおくことが出来たそうです。
それにしても操業停止から36年経っても廃墟化せず、当時のままで保存されていたのには片倉工業の努力があってこそです。解体せずそのままの姿で維持管理を続けるためには年間一億ものお金が掛かるとか。
古い物、特に歴史的価値のあるものを大切に保存するという心意気には尊敬の念を抱きます。しかし一部の建物は重要文化財指定を受け、最終的には世界遺産に登録されたわけですから、その苦労も報われたんじゃないでしょうか。
こちらは開業当時の動力として使われていた蒸気機関の復元モデル。これが実際蒸気で動いています。この徹底ぶりは感動します。現在片倉工業は保守管理の役目を終え富岡市に所有権を譲りました。
東繭置所の向かい、入場ゲートに近い所にある女工館。こちらは開業時、全国に技術を伝える役目を担った伝習工女たちに、ヨーロッパの機械製糸の技術を教えた4人のフランス人女性教師のために建てられた建物。明治6年建造で実に贅沢な造りをしてますが、残念ながら内部は見れません。建物は後に役員宿舎や娯楽施設などに利用され、大正12年以降は従業員食堂として使い続けられていました。
こちらは片倉時代の昭和15年に建造された診療所。しかし医師は開業当時からずっと常駐されていたそうです。福利厚生というか、明治初頭から労働者のことを考えられたシステムと言うのは、政府が雇用したフランス人のポール・ブリューナの指導があったからこそかも知れません。
こちらがフランソワ・ポール・ブリューナが家族と暮らした首長館。ブリューナは官営製糸場の建設地選定から携わっており、契約期間を終えた明治9年に帰国しています。しかし当時の一般的な日本人職工の年俸が74円程度だったのに対し年俸9000円を支払われており、一時期大久保利通や伊藤博文らが問題視した事も。
首長館の裏手には講堂が併設されております。明治維新後の日本はブリューナのような多くのお抱え外国人(通称)を雇っており、彼らは日本の近代化に大いに貢献されました。
講堂の奥には大正7年(1917年)建造の寄宿舎(榛名寮)。20畳以上の大部屋が幾つもあり、地方から出てきた女工さんたちが共同生活されていたそうです。女性の社会進出と言えば高度成長期のイメージですが、地方の貧しい農家に産まれた女性が嫁入り以外の選択肢として、このような雇用が有ったと言う事です。
こちらは昭和15年(1940年)建造の寄宿舎(妙義寮)。右手に同じ造りの浅間寮があります。一棟につき15畳の部屋が16室あり、一部屋に12人ほどが暮らしていたとか。室内にはアイドルのポスターや観光地のペナントなどが貼られているそうですが内部は非公開。見てみたい。
最後に敷地内に建つ社宅を紹介します。敷地内と言う事は部長や専務など重要なポストに就いていた方々が暮らしていたのでしょう。
下駄箱が古い。この建物の建設年代は見落としてしまいましたが、造りからして恐らく昭和初期と言ったところでしょうか。明治、大正、昭和と、それぞれの年代の建築物が混在している富岡製糸場を巡っていると、明治建築と戦後建築との違いとか、なんとなく分かるようになってきます。
それにしても、よくぞ当時のままの形で残っていると感心するばかりです。これが昭和62年(1987年)まで現役で稼働していたと言うのですから。
台所の雰囲気も昭和そのもの。閉業間際の頃にはすでに使われなくなり、廃墟化していた時期があったのかも知れませんね。置かれている魔法瓶や食器などは展示用にディスプレイされた物でしょう。
ちょっと立派な社宅。役職によって社宅のグレードが変わって来るのは、以前足尾銅山の社宅で見ました。富岡製糸場の敷地内には多くの建築物が残っていますが、内部を公開しているのは極一部。それでも公開されている箇所にはそれぞれスタッフを配置し、監視カメラも多く設置されています。世界遺産故に多くの外国人観光客を受け入れなければならないので、案内と同時に監視もしなければならない。
こちらは三軒長屋の社宅。敷地外にも恐らく多くの社宅が存在していたと思われます。もっと多くの建築物を内部まで公開するには当然もっと多くのスタッフが必要となりますし、そうなってくると大赤字になってしまいます。
まだ一部、乾燥所など復元作業が行われている棟もあります。土曜日に訪れましたが、観光客の数に対してスタッフの人数の多さを考えるとすでに赤字じゃ無いかと思われますし、かと言って人数を減らすのは外国人観光客受け入れの観点から言ってリスキー。税金で運営している分それに見合った経済効果がなければ今以上お金も掛けれないし難しいところですが、富岡市は充分頑張っていると思います。京都ぐらい観光客が来ればいくらでもお金掛けられるけど、なんだかんだ言ってマイナーだし、渋いし、バエないしwww
以上となりますが、とにかく見応えありました。まぁ近代史などに興味が無い方はどうか分かりませんが、私は予想以上に行って良かったと思います。もっともっと多くの人に訪れて欲しいし、観光会社も近隣の温泉と併せたツアーなんかを組んで欲しい。
次回は富岡の市内散策を紹介します。