企業城下町

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群馬県太田市(3)、南口駅前通り歓楽街

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。

以前、2016年6月、太田駅北口の街中を散策しましたが、今回は改めて南口を少し歩きます。ちなみに訪れたのは2022年の12月。更新のペースを定期的にするため公開を保留していました。
以前訪れた時の様子はこちら。

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零戦を作っていた中島飛行機を前身とする大手自動車企業、スバル(富士重工業)。現在奥にまた新たな工場を建設中で、北口駅前の再開発も進んでいます。

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さて、さっそく南口に移動します。駅前にドン・キホーテの入っているショッピングセンターのベルタウン。2021年5月に太田駅南口第三地区再開発事業として解体される事が発表され、以後規模縮小を続けていますが、立ち退きについてビル管理会社と一部テナントとの間で訴訟問題も発生しているとか。ちなみにこの建物は1977年建造で元々はユニーなどが入っていたそうです。

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太田駅の東寄りから南に向かって、かつて駅前商店街がありました。以前は5車線ほどの車道が有ったと思われますが、現在は広すぎる歩道と2車線道路。どう言う意図でこうなったのか。

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そして商店街の跡地はキャバクラやパブなどの歓楽街となっています。

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特に多いのがフィリピンパブ。思うのですが、以前の大通りだった頃、路上駐車して飲みに行く人が絶えなかったから、車道を縮小したのではないかと。そもそも飲酒運転など言語道断ですが、近年やっと取り締まりが厳しくなって来たものの、地方では暗黙の了解のように飲み屋に駐車場が併設されていました。

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2階建から3階建のビルが建ち並んでいますが、みな同じ造りをしています。恐らく長屋のような造りで同じ年代に建った物かと思われます。見た感じ昭和30〜40年代でしょうか、一度再開発がされたようです。

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なにしろ場所が中島飛行機のお膝元。当然空襲の標的になったわけで、焼け野原からの戦後の闇市と言う流れがあったのかもしれません。

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裏から見るとこんな感じ。

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建て増しで原型を留めてませんが、フィリピンパブで働く人々が2階で生活しているようです。しかし現在ここも一期市街地再開発検討支援地区に指定されております。

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とは言えこれだけの飲食店を立ち退きさせるために、並々ならぬ時間が掛かるのは言うまでもありません。

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2021年12月に訪れた伊勢崎の街並みを思い出しました。あそこは駅前の商店街と歓楽街を一気に潰したものの、歓楽街は幹線道路沿いのシャッター商店街に移転することによりスムーズに行ったように見えますが、ここは……。

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昼下がりの駅前は人っ子一人歩いていませんが、日が暮れたらキャバクラやフィリピンパブに通う男たちで賑わって来ることでしょう。商業圏がイオンモール太田のある郊外の幹線道路沿いに移行した現在、巨額の公共事業費を投じて駅前再開発を行ったところで、一体何になると言うのでしょうか。

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最後にスバル本社のある北口に戻り、再開発によって消えゆく建築物を記録していきます。こちらは駅前ビジネス旅館。南口には立派なビジネスホテルが何軒も建っているので、利用される方がどれほどいるのか。

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北口の西側。この辺は6年半前にも撮りましたが、まだ生き残っていました。

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とは言え以前訪れた時よりだいぶ空き地の数が増えました。

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北口の東側はすでに広大な更地で工事が始まっています。この辺りも解体を待つばかり。

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空き地はひとまず駐車場になります。北口西側は飲み屋街なのですが、現在どれほどの店が営業を続けているのか。

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去年から今年にかけて北関東上毛地方を中心に地方都市を巡って来ましたが、観光地開発に成功した街や失敗した街、歴史が深く未だ栄えている街、ドーナツ化現象により駅前がゴーストタウン化した街など、様々な陰と陽が見えて来ました。今後も注目して行きたいと思います。

群馬県館林市(3)、織物や製粉で栄えた街

先月に引き続き館林へ再訪して来ました。

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先月末、館林より帰ってから色々と調べるにつき、まず正田貞一郎を語らずして館林を語れないと知り、再訪の機会を伺っていました。しかし仕事が忙しく、早くも1か月が経ってしまった。

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まずは館林駅の真横に有りながらその存在に全く気づいてなかった変電所跡。

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この建物は伊勢崎線が全線電化された昭和2(1927)年当時の建築物です。旧貨物駅跡になりますが東武の敷地なので、奥までは入れません。

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では前回歩いてなかった町の北側を東へと進みます。前回遠くから撮ったボーリング場跡と思われるような造りの晴明ビル。以前はパチンコ屋が入ってたようですが、現在はパブやキャバクラが入っています。

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こちらは「Tatebayashi public space」と言う厨房付きシェアスペース。

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意匠が見事ですが1930年代(戦前)建造で何かの事務所として使われていたそうです。

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ポツンと建っていたのは国登録有形文化財の分福酒造店舗跡。推定江戸末期の建造だそうです。国の文化財で記念館にもなっているのに、観光パンフなどに紹介されていない。

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こちらは銭湯の松の湯。夕方4時営業開始なので入れませんでした。

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前回見逃した木造建築物が、まだまだありました。

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仲町の辺り、バス通りを館林城跡方面に歩きます。しかし木造建築と木造建築の間がスッポリ空き地となっています。かつてはどんな街並みが連なっていたのか、もはや想像も出来ません。

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特に文化財などに指定されてないので詳細は分かりませんが、藍染の「ひろせ商店」と看板が出ています。

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館林城跡は微妙に紅葉シーズン。

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市役所の裏手、城跡の敷地に向井千秋記念こども科学館がありました。宇宙飛行士の向井千秋さんって館林出身だったんですね。

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その向かいに今回の目的地の一つ、旧上毛モスリン事務所。前回スルーしてしまいました。

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まずモスリンとは何ぞや。モスマンではなくモスリン。モスリンとは木綿や羊毛などを平織りにした薄地の織物の総称で、ヨーロッパでは薄手の綿織物を指しますが日本では毛織物全般を指すそうです。最初人物名かと思ってた。

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この上毛モスリン事務所は明治43年建造。元々建っていた場所とは多少ズレますが、現在は館林市第二資料館として公開されています。

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上毛モスリンは明治35(1902)年設立。当時仲町の辺りに工場を建てましたが、明治40(1907)年に東武鉄道が開通した事を受けてもっと近代的な大規模工場が必要と思い、明治43(1910)年にここ、旧館林城二の丸跡地に新工場を建設。当時の変電所の一部がモニュメントとして保存されています。

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この事務所も明治43年当時の物だそうです。元々養蚕の盛んだった北関東ですが、ここ館林周辺でも伊勢崎や桐生と並んで機織業が盛んでした。荒井藤七、鈴木平三郎らは輸入に頼っていたモスリン生地の国産化に取り組み、明治28(1895)年におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられています。

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金庫と倉庫の扉が一階の傍らに有ります。しかし大正12(1923)年、関東大震災で練馬の工場が倒壊した事などによる打撃から立ち直ることが出来ずに破綻。昭和2(1927)年、日本興業銀行や日本毛織などにより設立された共立モスリン株式会社に譲渡されました。

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その金庫は事務所から張り出す形で赤煉瓦にて建てられています。これは恐らく火事になっても大事な物は焼けないようにと言う事でしょう。共立モスリンは昭和16(1941)年、神戸の日本毛織に合併。工場はその後戦時下だった昭和18(1943)年には軍の要請を受けて中島飛行機(現・スバル)に貸与されましたが、戦後はGHQに摂取され倉庫として使われました。

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その後館林工場は神戸生絲に賃貸され再稼働しますが昭和53(1978)年、市庁舎建設に伴い規模を縮小。平成4(1992)年には館林市羽附旭町へ移転となって、城跡にあった繊維工場は解体されました。

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旧館林モスリン事務所の隣には武家屋敷でもある作家田山花袋邸跡があります。これは昭和54年に城町より移築されたもの。

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さらに東へ歩くと明治末期に建てられた旧秋元別邸があります。秋元興朝とその子春朝は旧館林藩主秋元家に係わりの深い人物で、東京駿河台にある秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

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こちらは昭和初期に離れだった洋館を移築、増築したもの。

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庭先には多くのツツジや桜なども植えられており、観光スポットとなっております。

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訪れた10/25は暖かく、紅葉と一緒に勘違いした桜までもが咲いてしまっていました。紅葉と桜なんて、とんだ異常気象です。

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城跡の先には城沼が広がっています。館林城はこの沼を濠として利用し造られました。ここで館林駅に戻るのですが、基本みんな車で移動するものだから館林駅から市役所のある館林城跡までの路線バスが1時間に1本あるかないか。そのため館林駅まで20分ほど歩かなくてはなりません。この辺は群馬県ならではと言えるかもしれない。

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館林駅の反対側(西側)に、群馬県のご当地醤油である正田醤油が有ります。あまり聞き慣れない醤油メーカーですが、主に業務用として全国で使われているそうです。

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正田醤油は三代目正田文右衛門が千葉県野田市の二代目茂木房五郎(野田醤油・後のキッコーマン)より醤油醸造業を勧められ、明治6(1873)年末に醤油醸造業を創業したのが初めで、当時はキッコウショウ(亀甲正)と言う屋号でした。

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本社の脇に正田記念館が有りますが午後2時に閉館だったために入れず。キッコウショウはその後大正6(1917)年に正田醤油として会社設立。営業所が仙台、東京、名古屋、大阪にあるので、都内のスーパーでも見かける事があるかも知れません。

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正田醤油の南隣には日清製粉があります。日清製粉の前身は明治33年(1900)創業の館林製粉で、後の明治40年に創業した横浜の日清製粉を翌41年に吸収合併し、社名も日清製粉と改名しました。

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西口駅前には日清製粉グループ製粉ミュージアムがあります。入場料200円。群馬県東部及び栃木県南西部のいわゆるJR両毛線沿線は、古くから二毛作により稲作と共に小麦が栽培されており、日本屈指の小麦生産地として名を馳せて来ました。

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こちらは展示されている昔の製粉機械。それ以前は水車と石臼により小麦が製粉されて来ましたが、いち早く機械化による製粉事業を興したのが館林製粉、後の日清製粉であります。ちなみにカップヌードルの日清食品やサラダ油の日清オイリオとは無関係。日清製粉(現・日清製粉ウェルナ)は小麦粉やマ・マースパゲッティの会社。

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新館を抜けると創業当初から使われて来た本館が現れます。ちなみに国内で主に生産されている小麦は中間質小麦と言って、うどんなどに適した中力粉となります。パンに適しているのは硬質小麦によって出来る強力粉ですが日本には梅雨があるため熟成させることが出来ず、アメリカ産やカナダ産に頼っています。


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館林製粉創業者の正田貞一郎は正田醤油の創業者、三代目正田文右衛門の孫であり、平成の明仁天皇の皇后、美智子妃殿下の祖父に当たります。そのため美智子妃殿下は当時、粉屋の娘などと揶揄されていたとか。

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こちらは上毛モスリン事務所に展示されていた正田貞一郎の馬車。貞一郎は明治33年に館林製粉を創業した際、当初自らは専務取締役に就任。その後日清製粉の二代目社長や東武鉄道の会長、貴族院議員などを歴任されています。ちなみに館林製粉〜日清製粉の初代社長には明治30年創業の東武鉄道の初代社長(創立総会役員に代わって明治38年就任)も兼任した鉄道王の異名を持つ根津財閥創始者、根津嘉一郎を据えてます。東武との関係は切っても切れない。
スタッフに質問したのですが、小麦の穀倉地帯であり貞一郎の実家のある館林で製粉業を始めたものの、うどん以外は輸入小麦に頼らざるを得ない現状から結局港から館林に運んで製粉して各地に出荷すると言うのは、東武鉄道が開通したとは言え非効率だったのではと疑問を投げ掛けてみました。すると、苦労したのだと思いますとの答え。うーん。結局大正15年に鶴見工場が完成するわけですが。

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アンケートに答えたらお土産にお好み焼き粉を貰いました。
ともあれ館林はとんでもない経歴の実業家のゆかりの地であり、北関東を代表する都市の一つである事がわかりました。

群馬県館林市(1)、駅周辺のレトロ建造物

うわ、レトロとか言っちゃったよ。
東武伊勢崎線から北東へ佐野線が、西へ小泉線が分岐する館林。都心からの電車は久喜止まりで久喜からここ館林まで各駅停車が往復し、館林から先の伊勢崎線は大田止まりと伊勢崎行き。さらに太田から桐生方面の赤城行きが発着と、現在の北関東を走る東武の各駅停車は走行区間が細切れで、何度も乗り換えなければなりません。急行や快速などは無く唯一の直通運転は浅草から桐生方面へ走る全席指定の特急「りょうもう」のみなのですが、夕方浅草に戻る「りょうもう」が3両編成のリバティのためいつも満席で乗れない。確かに平日の夕方の上り特急は、かつて200系・250系の6両編成時代空席が目立ってましたが。

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愚痴っぽい前置きが長くなってしまいましたが、群馬県の東の端に位置する館林に行って参りました。群馬県が東へ細長く伸びてる部分で、北の渡良瀬川を越えれば栃木県、南の利根川を越えれば埼玉県になります。

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電車からも見える駅前の倉庫。前置きでも触れましたが、各駅停車が細切れと言う事は、通勤電車として利用されているのがここ館林と佐野、足利、大田、伊勢崎、桐生などに勤めている方々で、それぞれの都市ごとに雇用があると言う事。この点が一点集中型の東京や各地方都市との違いかと思います。

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駅の近くには元々ボーリング場だったような施設が。ちなみに館林で代表的な企業は日清製粉。他にもアサヒ飲料やカルピスの工場なんかもあり、駅西口にはご当地醤油の正田醤油の醸造所があります。

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駅周辺から発展しており、多くの商店が現役で営業されています。この辺りは低湿地帯と低丘陵地からなりますが水が豊富で、明治以降は毛織物産業や製粉業などの近代産業が早くから発展しました。

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駅前通りの近くにある料亭。次の記事で触れますが、館林には花町の名残りとして多くの料亭があります。

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もちろんスナックなども多く点在しています。一階が駐車場って辺りが地方っぽいです。

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良い雰囲気の飲み屋さんも点在していますが、特にスナック街のような纏まりは無く、広い範囲で栄えている感じ。

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館林駅の東、料亭街や城跡の手前を南北に走る県道57号線。道路を拡張する計画があるのか、道路の西側に空き地が続きます。開発のために古い建物などを相当壊してしまったと思われます。ちなみにこの県道は、かつての日光脇往還(日光裏街道)で、この辺りは宿場としても栄えていました。

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県道を北に進みます。商店街がゴッソリ消えてしまったと思われる西側とは逆に、東側にはこのような看板建築も残っています。こちら旧森牧商店。

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こちらも県道沿い東側の看板建築。表は看板建築ですが、その実奥へと長細い昔ながらの町屋造りとなっています。

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県道から東に戻ります。こちらも表は看板建築な町屋造り。皮肉にも多くの建物が解体されて歯抜け状態となったからこそ、このような構造が知れます。

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県道から館林駅方面へ。こちらは昭和9年(1934)建造の旧館林信用金庫本店。現在は市の消費生活センターとなっています。

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消費生活センターから北へちょっと入った所に板張りの渋い建物が。泉新本店と言う飲食店ですが、桐生の有名老舗鰻屋さんとは関係無いと思われます。

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かつて館林に存在した映画館、館林クラブ(1922〜1990)と館林キネマ(1918〜1982)の看板が残る街灯跡。

実のところ館林を訪れたのは10/10なのですが、もう一度行って日清製粉ミュージアムと正田記念館を訪れてから記事を完成させようと思ってました。しかし最近仕事が忙しくなかなか行ける時間がないので、また近い内に再訪する事にします。
続く。

栃木県佐野市(3)、葛生の石灰石鉱山と廃線跡

前回吉水駅を訪れた続きとして、今回は東武佐野線の終点である葛生駅に行って来ました。折しも台風接近の最中、一瞬だけ集中豪雨に見舞われ靴下びっちゃびちゃで巡ります。

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かつてセメント工業の最盛期は出稼ぎ労働者も多く集まり多くの人で賑わったと言われる葛生の街。現在では1時間に1本、2両編成のローカル線がワンマン運転で折り返すのみ。

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その葛生駅構内はセメントの原材料を積んだ貨物列車のターミナルでした。現在ではその敷地の半分程度が太陽光発電施設として活用されています。

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葛生駅からは貨物専用線である東武会沢線、大叶線、日鉄鉱業羽鶴線の3路線が伸び、それぞれ沿線の精製プラントからセメントや石灰、ドロマイトなどを運び出していました。

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葛生駅からほど近く、貸家地帯の脇を通る廃線跡には、架線が辛うじて残っています。セメント列車はそのまま東武佐野線、伊勢崎線を通り業平橋、現在スカイツリーの聳える貨物ターミナルまで走っていましたが、東武鉄道の貨物事業撤退を受けて平成9年年(1997)廃止されました。

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大叶鉱山への谷を見下ろす嘉多山公園には、東武B3形30号機関車が保存されています。こちらの機関車はイギリスのピーコック社製で大正3年(1914)より昭和41年(1966)まで東武佐野線で活躍していました。ちなみに会沢線ではB3形31号機が活躍しており、この30号機が会沢線でも運用されていたかは不明。

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最初に見えてくるプラントは住友大阪セメント。この工場にも引き込み線がありましたが、ここの左手から奥の唐沢鉱山に向かって東武会沢線が走っていました。ちなみに途中に存在した上白石貨物駅から先の会沢線と大叶線は昭和61年(1986)に廃止。

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東武の貨物線とは別に、住友大阪セメント専用線のガソリンカーもそれぞれの鉱山で走っていました。特に唐沢鉱山から会沢線と並走する専用線では、最盛期には朝7時から夜の7時まで50往復もしていたとか。

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ただこう言った専用線は精製されたセメントを運ぶ東武の貨物列車とは違い、採掘された石灰石をふもとの精製工場まで運ぶと言う役割を担っていました。

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東武会沢線及び大叶線と分岐して西へ向かうこの廃線跡は、日鉄鉱業羽鶴線です。こちらは事業所が開設された昭和26年(1951)に開通し、平成3年(1991)に廃止。

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葛生の貨物専用線は非常に複雑で、東武の貨物線の他に各鉱山会社の専用鉄道が合流分岐しながら採石場と精製工場を結んでいました。

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このような橋梁跡を見ると廃線跡であると実感できます。石灰石は現在、唯一日本で国内自給可能な鉱物であり、その生産量はアメリカ、中国に次ぐ第3位だそうです。この狭い国土で世界3位と言うのが驚きで、海底が隆起して出来た島国故にと言う事でしょうか。

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廃線跡のほとんどが道路になっていたりして痕跡を残していませんが、廃線跡の土地の所有権はどうなっているのか。とは言えその辺は大雑把で近隣住民が家庭菜園をしたりと、長閑な光景も見受けられます。

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こちらは村樫石灰工業の工場。ちょうどこの手前をかつての大叶線が走っていました。

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大叶線が走っていた谷の奥には吉澤石灰工業の工場が見えます。この吉澤石灰工業は明治6年(1873)、葛生で初めて本格的に石灰石採掘を始めた老舗で、広大な採石場の地下を今でもバッテリーカーによる長大な鉄路やベルトコンベアで結んでいます。

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踏み切り、と言うか線路を渡る道の名残り。今でこそ産出量は減っていますが、日本の高度成長期の建設業を支えていたのは間違いありません。

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しかし高速道路やバイパスの整備などによりトラック輸送に押され、鉄道貨物は衰退して行きました。奥に写る団地のような建物は吉澤石灰工業の社宅。

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こちらは佐野市葛生化石館に展示されている石灰石。簡単に言えば、石灰石は精製工場で細かく砕かれ高温で焼かれてセメントになります。そのセメントに砂利や砂、水が加えられた物がコンクリート。またこの化石館には全国で産出される鉱物なども展示されています。

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今回のランチは激渋中華、その名も来来軒さん。中華と言ってもメニューはタンメン、カレーライス、野菜炒め、焼きそば、あとは酒のみ! 86歳のお婆ちゃんが一人で切り盛りされてます。

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待っている間、コーヒーいるかい? クッキーいるかい? 煎餅食べな、と次々出されます。やがて出て来たタンメンは超野菜マシマシ。さらに食べてる最中に、カボチャいるかい?
なんでこう、田舎のお婆ちゃんって食わそうとするのか!wwww
まぁ美味しくいただきましたが、お腹パンパンです。さらに帰り際、追い討ちを掛けるようにコレ持ってきな、と、柿ピーひと袋wwww
後継者もおらず、あと何年続けられているのか。また葛生に来た時は寄って来なさい、生きとるか分からんけど。と、お婆ちゃん。笑えませんて。

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この来来軒さんは昭和41年創業。当時は出稼ぎの人も多く非常に賑わっていたそうです。そう考えれば今月頭に訪れた吉水駅周辺の貸家地帯も鉱山関係の労働者が多かったのではないかと想像できます。

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本当は露天掘りの採石場などの写真も撮りに行きたかったのですが、ずっと小雨も降っていたしタクシーでないと行けないしで断念しました。また訪れる機会があれば、もっと掘り下げていきたいと思います。

群馬県太田市(1)、スバルの企業城下町

 太田市は群馬県東部、東武伊勢崎線沿線にあります。個人的には伊勢崎、館林、足利と、どうもこの地域の位置関係がモヤモヤしていますが、それはJR両毛線が北の山沿いを走るのみで、完全に東武帝国線路網の只中であるがゆえと考えられます。

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 そしてここはスバルお膝元の企業城下町でもあります。また同時に太平記で鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ新田義貞ゆかりの土地でもあります。

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 駅前は現在大規模な再開発が進んでいるのですが、街の古さから見てかなりの範囲に渡り駅前商店街が消滅しているように思えます。

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 かつて駅前として栄えていた街も、その多くが取り壊されて駐車場と化しています。この太田駅北口はスバル本社(前身は中島飛行機)を中心に旧街道筋に商店街が発展していたそうです。

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 確かに、群馬県を自動車普及率(保有台数)全国一位に引き上げた立役者であるスバル自動車の本拠地ですから、駅前の空洞化は当然とも言えるでしょう。

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 路地裏飲食店街の名残りはあるものの、廃業店舗や空き地が目立ちます。

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 なかなか年季の入った建物。ただバラックなどは少なく、しっかりとしたコンクリート造が多い。

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 現在の太田駅北口は閑散としていますが、以前はこのような商店が軒を連ね栄えていたのでしょうか。初めて降り立ったので面影から想像する以外無いです。

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 両隣が取り壊され孤立した鰻屋さん。店頭で焼いている様子も無いのですが、一応営業中の模様。

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 駅から少し東に歩いて行くと古い公民館がありました。ここはかつて図書館だった建物で、県の指定有形文化財となっています。

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 さらに進むとパン工場が。木造建築で、英文字の看板が時代を感じさせます。

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 こちらの火の見櫓は真下が通り抜けられるようになっており、その先にはお寺があります。
 元々は太田のご当地グルメの黒焼きそばを食べてみようと思っていたのですが、調べてみたところどの店も駅から遠すぎて歩いて行くには困難なので諦めました。しかし帰ってよくよく写真を見てみたら焼きそばの幟が。

 今回はこの太田駅北口界隈を歩いてみましたが、よくよく調べてみると駅の反対側、南口に関東随一と謳われる外国人系歓楽街が広がっているとか。知らずに帰って来てしまいましたが、次回はその商店街が丸ごと歓楽街へと変貌したと言われる南一番街を歩いてみたいと思います。南口、何もないとばかり思ってました。
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