三業地

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

茨城県筑西市(1)、下館の商家と花街跡

下館は東西にJR水戸線、北へ真岡鉄道、南へ関東鉄道常総線と、十字に鉄道が走ってます。

IMG_0461_Original

下館駅は明治22年(1887年)国鉄水戸線の前身となる水戸鉄道として開業。明治45年には国鉄真岡線の前身となる真岡軽便鉄道が開通し、大正2年(1913年)には関東鉄道の前身となる常総鉄道が開通し、交通の要衝となりました。現在の駅舎は昭和12年竣工。

IMG_0207

駅前には筑西市役所が入った複合施設、下館スピカが建っています。複合施設と言っても実際はほとんどが市役所で、一部オフィスとヤマザキYショップ、パソコン教室などが入るのみ。

IMG_0415_Original

平成3年(1991年)に開業したこの施設には、当初サティが入っていましたがマイカルの経営破綻の影響で平成14年(2002年)に閉店。一時は完全閉鎖となりますが、その後風俗店が施設内に開業すると言う噂を聞き下館市(当時)が国の補助金を使ってマイカル跡地を購入し再生。スーパーマーケットのエコスや2000年に経営破綻した長崎屋を誘致しました。しかしそのエコスも2006年に撤退。食品スーパーを補填するべくサントマトが出店されたものの2007年に撤退。その後エイムが出店したものの売り上げは下降の一途を辿り2008年に撤退。テナントが次々撤退する中、2007年に筑西市が分庁舎を開設。すると今度は経済産業省から中心市街地活性化総合支援事業の補助金を返せと言われ、4100万円を返還する事となる。

IMG_0413_Original

もうこうなったら売却しかないとの結論に辿り着くも買い手が見つからず、結局2017年筑西市役所本庁舎の老朽化を理由に、この施設へと本庁舎が引っ越して来ました。なんかWikipediaを読んでたらもはや笑うしかないと思った。

IMG_0247_Original

駅前通りは駅前商店街が道路拡張事業のために潰されており、さらに電線の地下化で電柱が無くなっています。商業の街としての歴史があるのに、税金の使い方として色々間違っている気がする。

IMG_0459_Original

駅前を東へ入ると下館魚市場が。かつては駅周辺も賑わっていたのでしょう。

IMG_0418_Original

下館の地形には独特なものがあります。駅前から少し西に歩くと小高い丘があります。その丘は3階建の屋根ぐらいの高さなのですが、丘自体は細長く北へ続き羽黒神社に繋がります。こちらは坂の途中の煎餅屋さん。

IMG_0211

丘に登ったところにある看板建築は塗炭板で塞がれている。何かの商売をされていたのでしょう。

IMG_0209

その斜向かいのかせき堂本店さんも目を惹きます。明治15年創業の洋菓子屋さんでカステラが人気だとか。

IMG_0422_Original

消化器の看板。かなりの年代物とお見受けできる。下館の現在の住所は甲、乙、丙で大雑把に分けられています。しかし実際の通称は旧町名である稲荷町(甲)とか金井町(乙)とか。

IMG_0246

丘の東側は稲荷町になりますが、この一帯はかつて花街として栄えていました。

IMG_0216

しかし稲荷町一帯は昭和15年、大火に見舞われたそうで、そのため戦前の建物はほとんど残っていません。

IMG_0219

花街なので料亭や置き屋、待ち合いなどの三業地かと思われますが、青線なども有ったのではとも言われてあります。

IMG_0220

VHDカラオケ。VHDとは1980年代に日本ビクターが開発したレコード盤形状のビデオディスクだそうです。しかし同時期、製品化が少し遅れたものの解像度の高いLD(レーザーディスク)をパイオニアが開発。VHD規格の市場は徐々にLDに押されて行く事となります。

IMG_0213

丘の東側麓を並行して稲荷町通りが続きます。

IMG_0221

建物の詳細は不明ですが、青線があった当時の建物はもう無いのかも知れません。

IMG_0222

ただ花街の名残りとしてスナック街の痕跡があります。そのほとんどが廃業していますが。

IMG_0235_Original

さらに北へ進むと銭湯の松の湯さんが。後継者不足のため2013年に廃業されたとか。

IMG_0229

稲荷町通り裏手の崖を登ると羽黒神社があります。1481年創建。神社の参道の周辺に花街があると言うのも、よく見る構図ですね。

IMG_0424_Original

羽黒神社の裏手にある中澤時計店の建物。もう営業はされていないようですが、昭和12〜13年に建てられたこの看板建築の重厚感たるやもはやボスキャラ。

IMG_0427_Original

丘の上の尾根道をそのまま北へ進むと国道50号線にぶつかります。交差点の建物もいい味出している。

IMG_0429_Original

東に広がる市街地へと国道を下って行きます。ちなみに現在北側郊外を迂回する形でバイパスが通っており、この市街地を突っ切る旧道は水戸と小山を結ぶ旧・結城街道となります。

IMG_0437_Original

城下町であるとともに宿場町としても栄えた下館ですが、街道筋には蔵造りの商家が立ち並んでいます。この建物は荒七酒店。

IMG_0434_Original

江戸時代より醤油や味噌の醸造をされてたそうですが現在は酒屋さん。母屋は昭和8年建造で登録有形文化財。

IMG_0439_Original

向かいの建物は料亭だった建物で、現在は建築設計事務所が入っています。こちらも登録有形文化財。

IMG_0447_Original

旧街道を東へ進んで行くと角に中島商店と言う煙草屋さん。下館は主に真岡木綿や結城紬を扱う商業の町として発展したそうです。

IMG_0237

結城街道から下館駅へ戻るべく市街地に入って行きます。駅前通りで特に目を惹くのがこの老舗の和菓子屋さん、たちかわ本店。大正12年(1923年)創業でやたら立派な造り。

IMG_0450_Original

古くからの商家が多いので敷地は縦長な鰻の寝床ですがそれでも広い。見た目小さな平屋建てに見えてもその奥に立派な蔵が控えていたりします。

IMG_0453_Original

もちろん立派なお屋敷ばかりでなく、このようなバラックもあります。かつて何の店だったのか、別に下館に限っての事じゃありませんが兎にも角にも現役の商店が非常に少ない。

IMG_0241_Original

最後に火の見櫓。道路の上に建っています。
下館の市街地は結構小さくまとまっており、軽く散歩するには丁度よい感じでした。

群馬県富岡市(2)、富岡の街並み

さて、富岡の市内を巡って行きます。

9F3C1B61-7CA2-4AE8-9379-7031656DD7DB

富岡にはまず高崎駅0番ホームより下仁田行きの上信電鉄に揺られて行きました。

44C5CB4F-3442-411E-9278-372563B350EC

車両は昭和56年新潟鉄工製の6000系がまだ現役で走っています。

34A40335-0D03-4122-BD9F-9271C0290582

長い直線を高速走行すると激しく横揺れ。実に懐かしい感覚です。

84E1D289-00BA-4ACB-9339-0ABE1F37D0DB

さすが世界遺産登録されただけあって、駅は綺麗に建て替えられています。

1431E4D7-4E2B-42EE-9070-AC4F97277146

駅前には富岡倉庫があります。右手の赤煉瓦造りは1号倉庫で明治34年建造。

840CAED1-5AEC-48E1-AF4A-C00953AA0C72

こちらの2号倉庫は大谷石造りで大正12年建造。この倉庫の向こう側に上信電鉄上州富岡駅があり、いわゆる上信電鉄の貨物輸送のための倉庫で、かつては線路が横付けされていたと思われます。

2BF5A939-4DA6-487C-85F3-D7CF5F2266BE

2号倉庫の先に繋がっているのは明治33年建造、木造土壁造りの3号倉庫。

7806E6FC-C909-49BE-BDAC-23C70BC7A3F0

3号倉庫の向かいには明治36年建造の乾燥場があります。富岡は駅前から明治大正期の建造物が出迎えてくれます。

D9D7101E-6768-401B-8903-A81B0F713727

二階の乾燥場に繭を上げるベルトコンベア。

870682A5-5E33-4866-A3A0-96FCFC99A158

さて、富岡倉庫から南へ歩いて行きます。東西に走る下仁田街道の手前、路地にあるのが神部医院。

20BF4851-A6C8-46C5-ABFF-349C28C2E6C1

病院ですがどう見ても料亭のような造り。かつてこの界隈は花町として栄えていた時期もあるので、その名残りかも知れません。

33E2E53D-3831-4D64-9D0D-8638F62F37FB

下仁田街道に出て西へ。少し歩くと左手に阪本耳鼻咽喉科医院が。商家の隣に増築された建物は大正建築でしょうか、詳細は不明。

9913B70F-BAA5-4FE4-A921-0AE171E1248B

製糸場西通りを左、南へ歩きます。この先は富岡製糸場の裏門に続きます。

3A939897-81FC-4F5E-A844-8C85E2F806E0

ひさしがひしゃげてますが、この二階の欄干は料亭か何かだった事を思わせます。最大38名の芸者が置屋に席を置い ていたとされていますが、昭和58年頃には消えてしまったとか。

C59F4546-F735-4DA7-BB4D-36E362006CCD

右に曲がると大正湯と言う銭湯があります。臨時休業と書かれてましたが昼過ぎには煙突から煙が立ち昇っていたので、午後3時には開店していたのかもしれません。次回は入りたいところ。

8AA66281-D9E3-4D4C-84FB-9F216B51780A

下仁田街道の南を併走する銀座通りを東に歩きます。こちらは料亭でしょうか。明治大正から昭和中期まで製糸業で栄えた富岡ですから、当然接待などに使われた料亭も多かった事でしょう。

823A19D7-76FE-4B93-9386-772C5BA23DAA

折れてます。いつ倒壊してもおかしくない。富岡の街は2011年の東日本大地震の後、2014年に豪雪被害を受けてます。度重なる災害で半壊した家屋も多かった事でしょう。

01FA579D-EB77-41A0-A2A3-B8CAEA645B23

花街の名残りとしてスナックなども点在しています。かつては遊廓から戦後の赤線まであったそうですが、いかんせん群馬県は廃娼県だったので資料が全く残ってないそうです。

8DECD7F9-754A-4DD0-A0EA-1406AA242E78

二階に欄干があるだけで花街の名残りではと思ってしまいますが、なんとも言えません。

53B2EE85-AD23-4CBC-9184-C4415C9333EA

富士屋食堂。数年前までは営業してたみたいなんですが、訪れた時には既に廃業。ここで昼メシ食いたかった。

D4636A05-373A-4D84-9870-278DA26DF221

銀座通りを東に進んで行くと右手に狭い路地が。この路地は二町通りと言って現在寂れたスナック街となっています。赤線とか有ったのはこの辺でしょうか。

8D1966F2-51F6-42CF-83E4-CE6EFC1A6604

現役のスナックです。夜は夜で多少賑やかなのかもしれません。

AF7AB74F-2422-4083-9A61-84C8232C6E5F

ふと目に留まった民家ですが、この六角形の窓はただの民家では無さそう。

0E6B36ED-611A-44D5-8890-6B3F321A8F97

ニ町通りの奥にある廃墟スナック。左手の軒が崩れており、危険物件と言う事で行政から解体するよう言われているみたいです。

641501C8-31E2-4682-9E7A-A78D6525A374

御金処。いわゆる質屋さんですが、かつては左側にも建物があり相当狭い路地となっていたようです。後ろめたさから人目を忍んで狭い路地へスッと消えてゆく、みたいな。

956ED047-605E-4850-B76B-84A31E8AEE2A

銀座通りを更に歩くと右手が三町通りと言う路地になります。こちらは現役の割烹料理店よろづや。こちらも三業地(或いはニ業地)の名残りでしょうか。

8477375E-8E69-4F1A-931A-BB3B549540A0

銀座通りの南、富岡製糸場の正門から東へ伸びる城町通りに出たところに建つ民家に「梅本」の看板が。こう言った看板、元は置き屋だったのではと考えられます。この向かいにかつて昭和6年(1931年)に消防団の詰所として建てられた江原時計店の建物があったのですが、残念ながらすでに解体されていました。

169B4E66-D38F-4A10-B1CC-360FFB03E68C

町中の喫煙所。富岡市は分煙運動を進めており、市内のあちこちに灰皿が設置されています。私個人的な話になりますが、喫煙者としては頭ごなしに禁煙と言われないだけでも有難い限り。

50E054C3-AF31-410D-B979-D02D0EAE0B32

最後に衣料品店のいりやま。奥に赤煉瓦造りの倉庫もあります。
富岡製糸場は衰退の末に閉鎖となりましたが、街はまだまだ栄えているようです。元々は企業城下町だった部分はありますが、これからは観光産業で賑やかになっていって欲しいです。

群馬県館林市(2)、ニ業地の街並みと史跡

駅の東、県道57号を越えた辺りに、かつての花街がありました。最盛期で150人居た芸妓さんも今では消えてしまいましたが、料亭や割烹はその名残りとして残っています。花街を求めて歩いて行くと、県道を渡る前から料亭などが目につくようになってきます。

2874CA47-F926-4AF4-8F38-C586543B9952

大正3年より昭和13年まで見番があった青梅天神裏、見事な3階建ての木造建築があります。料亭「福志マ」(?)。看板の書体が古過ぎてよく読めません。

5A78A3B5-7EF2-40FA-A5E0-B07256D6A630

詳細は不明ですが、この辺りに見番があった時代から考えて恐らく大正時代の創業かと思われます。市内では町歩きのパンフレットなども配布されていますが、このような立派な建物が載ってないところ、ダメです。

1E11A7D1-353D-483C-A97E-980A5F289A20

こちらは旅館跡。昭和初期建造のようですが、かつては割烹旅館か何かだったのでしょうか。

91EC5D3A-B765-4210-9DC3-2697B57A1F89

県道を渡り一本奥の通りに出ると、そこはかつての花街であり今でも現役の料亭街。

99DD7149-4961-44A4-BCD2-65C74171E56F

南へ向かって歩くと料亭第五があります。

71BF9C42-4F17-4E7B-AEAA-EF8A151A700C

向かいは現在民家が建っていますが、かつてはこちら側に本店があったのでしょうか、潜り戸と行燈と松の木が残されています。

9DE6240B-BA96-492C-8C10-1C0758F07E07

第五で引き返して北へ向かって歩きます。こちらは現在お寿司屋さんですが、花街の面影を色濃く残しています。

37FB4FB5-2028-4FC1-BC4B-7BCBA494893F

こちらも現在居酒屋ですが、かつては料亭か何かだったのでしょうか。館林にはこのような花街の面影が多く残されており、それを観光の目玉とする動きがあります。

45160EF6-7911-4F69-A4EA-7CAE33447D4E

こちらは元酒屋さん。このような昭和遺産も残っています。

53C1ADCF-5600-4989-BAAD-7F47E77B79A3

現在は民家ですが屋根を見れば贅を尽くした建造物である事が伺えます。あとはこのような貴重な建物をリフォームしてカフェなどに再利用してもらえると、いつまでも残り続けるのですが。

F5FCE1AD-B32C-42C7-AE6B-B6FCCB910F22

途中右手に現れるのが、旧館林ニ業見番組合事務所。車寄せにある唐破風屋根とその上にある二つの千鳥破風が見事。

89CF2087-65E9-49F4-8A71-5CC8327C1194

ちょうど祝日だったので内部が公開されていました。この建物は昭和13年(1938)建造で、国登録有形文化財です。

26720B38-C5A8-478F-969A-A2757ADFE58B

玄関脇の増設された階段は、二段目まで豆タイル貼り。一般的には料亭、置屋、待ち合いで三業地と言いますが、埼玉と群馬は廃娼県だったので、料亭(甲種料理業)、芸妓置屋のみのニ業地となります。

30F18CC4-84C6-406E-A8D4-F052169259BF

芸妓さんたちが芸を磨いていた舞台。館林の見番は明治42年に堅町に設置され、大正7年谷越町の青梅天神裏に移転。さらに昭和13年、現在の場所に新事務所が建設され、見番が移転しました。

D8E3392A-34D2-4002-8FEE-AC732C70B863

ただ建物はあちこちにガタが来ており、改修もままならないのが現状です。東京芝浦の三業地見番跡のような本格的な改修工事には相当な予算がかかりますし。ただ見番として使用された期間は短く、昭和19年には日清製粉の所有となり、昭和31年には当時の所有者の正田貞一郎が館林市に寄贈。以後、商工会議所の事務所、本町2丁目区民会館などに利用されて来ました。

EC53FF37-9C27-4E4F-BA68-86BDB4D31642

見番跡をさらに北へ進むと、突き当たりに外池商店と言うこれまた古い商家が。昭和4年(1929)建造で、以前は造り酒屋も経営していたそうですが現在は酒屋さんとなっております。

F2778F1A-60CF-45E1-A3DB-AD8C440100B1

外池商店のある通りは「歴史の小径」として館林駅から館林城跡までの散策路として整備されています。城跡方面へ歩いて行くとまた古い建物が目につくようになります。

A3FF3CF7-9A82-42E3-BB9D-1715C9B34180

二階の壁の装飾がちょっと凝っている木造建築。館林は古くから城下町として栄えていましたが、特に発展したのは徳川家や松平家が城主となった江戸中期からとされています。

E52BF45E-32EF-4988-8A68-D22285A40C32

こう言うカーブとか風情を感じます。

6C4F0167-2166-48DE-9C98-1E426115CCA1

鷹匠町長屋門。豪農の松沢家の長屋門を再利用、改築して武家屋敷の長屋門を再現したもの。館林の古い建物はもうだいぶ壊されており、観光のために作られた物も点在しております。

7763AD8C-1BBD-44A0-B6AC-F7302FE7A119

移築されて来た武家屋敷。駅から城跡までの散歩コースである歴史の小径にわざわざ移築されています。

57829FD1-AF43-450B-BBB9-4F5BC30D2154

武家屋敷の塀。その裏にはマンションが建設されています。奥には田中正造記念館もありますが休館中でした。どうも、観光地として城下町を売りにするのか明治大正期の街並みを売りにするのか、どちらも中途半端でコンセプトがしっかり決まって無いようにも感じられます。

A6C8AEC0-FB2B-461D-A9A8-78BE8D6A06CE

こちらは館林城の土橋門。建物のほとんどは明治7年の火事で焼失され、現在天守のあった敷地には市役所や美術館、文化会館などが建てられています。日本の城は明治政府の廃城令で全国から消えてしまいましたが、その跡地に市役所や県庁などを建てたいって言う気持ちは分からないでもない。

51927164-9805-4DC9-B51A-DA4C2B118C95

城跡の手前の国道7号線沿いには、営業しているかどうか不明な旅館が。

1EF2FC16-A2E3-42A5-B654-FBF12A48E004

倉庫なのか住居だったのか、謎の廃墟も。

次回に続く。



茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街

実のところゴールデンウィーク中に訪れた際、行き損ねた場所があったので、2回に渡り訪れました。なので天気が快晴だったり曇りだったりしています。

茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

267175AF-C2D8-4386-AA87-D8498F0E8FD6

さて、再びJR水戸線笠間駅から。閑散とした駅前左手にある旅館の裏手に回ると、駅前横丁と言う看板が目に入ります。

F558DBB7-9F17-4EE9-ABED-0EB896F13B11

まさかここを入るのかと不安になるほどの狭い路地を進んで行くと、かつての路地裏飲食店街が姿を現します。

4E128696-C74A-49DA-9184-E4A723CDE2BF

しかしそこは既に廃墟。生き残っている店が一軒も無いゴーストタウンでした。

E5850857-A5AE-45B9-9477-CD93E9399507

建物と建物の間にはこのような通路があり、下へ降りれるようになっています。つまり平屋建てかと思った建物は全て二階建てでした。

5E0CCFEF-E09C-45CA-A366-702B30B48E31

まず水戸線の駅に降りると言う発想がマイナー過ぎてそもそもありませんでした。とは言え水戸線の前身である水戸鉄道は明治22年(1889)に開業しており、茨城県内でも古くから発展しております。特産品は北西に位置する益子と同じく陶器の笠間焼。あとは栗、菊、梅。

F4819585-4D1B-4CBF-AF8F-4DA0BDD818C0

こちらも建物と建物の間。よく見るとスロープになっており、下の階には左右に扉が有ります。恐らく倉庫などに使われており、そのため台車で降りれるようになっているのではないかと想像できます。

F65264B3-7E22-40F3-AF42-D24165F14385

一番奥から振り返ったところ。たった4軒しかありません。

0ABFD01F-B1A4-4082-9DBC-D738DA219F94

一番奥の下へ降りるスロープ。もしかしたら住居として使われた事もあるのかも知れません。

0F6160F4-2614-4156-BF2E-537724D4B693

裏手に回るとこんな感じ。

7A95FD7E-F269-4129-AB3B-F261B8D45F3C

半地下状態になっており、各戸窓がひとつだけあります。

79DCB29B-BCB0-48D7-8B7F-39525F2B18EC

今でこそ駅前及び稲荷神社までの沿道は閑散としていますが、かつてはもっと賑やかだったのでしょう。

ED0E5294-A842-4ADF-B6E0-CDB08040B35C

商店街としての賑わいも有ったかも知れませんが、笠間稲荷の北西近くにイオン笠間店が出来た事で衰退して行きました。車社会の現代、駐車場完備は必須です。

D445E3C3-31F9-4848-AD44-55A09D67A1EF

さて笠間稲荷神社の手前、写真右脇の路地を入って行きます。

FD7D3DC2-FBE8-4C40-9815-1CA2224E2AEE

奥に進むとバラック飲み屋街が姿を現します。

AD8B59A5-95B7-49CC-AE41-8FD3A6517A8A

地元の観光産業に携わっている人々が飲みに来るのでしょうか。かつては泊まりがけの観光客も訪れていたかも知れません。

819D3339-B9D5-4E75-B29D-69E71B07A8B4

結構新しい感じの店もあり、現役である事が伺えます。

6875B203-F5F7-4531-8398-B688C0CE260D

裏に廻ればこんな感じ。バラック感がいいです。

11E09AFA-D64E-4088-BFA8-16BDBCC81D3F

その裏手にはスナック街がありました。

B03A5825-F699-4D80-9B17-7A6FF046434E

かつては路地裏スナック街の雰囲気があったであろうと思われますが、だいぶ解体されてしまってます。

446889DF-1898-4787-AC0C-7F2A54A33B9F

今度は笠間稲荷神社の裏手をぐるっと回っていきましょう。周辺にもスナックの跡が点在していますが、営業されている店は無さそう。

1CD63A3A-0523-434D-BC1A-2E0C257051CE

スナック街と言うほどではありませんが、稲荷神社が街の中心である事が分かります。

59B81662-EDC8-48BB-ACB0-DD32ECA7B327

右手には廃墟化したお屋敷。

09D32D8D-4A92-48CB-A3EA-2D7C5A19E83C

すでに廃墟化していますがお寿司屋さんも。現在賑わっているのは門前のみのようです。

更に続きます。

茨城県笠間市(1)、人車軌道と花街と廃墟ホテル

巨大廃ホテルやバラック飲み屋、スナック街がある事をインスタで知り、笠間に行って来ました。

茨城県笠間市(2)、笠間の終末スナック街
茨城県笠間市(3)、廃映画館の昭和館跡
茨城県笠間市(4)、寂れたラブホ街と廃車両群

57BC2CA6-9246-466D-A466-8AD35056D234

以前、筑波海軍航空基地に訪れるため笠間市にある常磐線友部駅に降りました。しかし笠間市の中心街は友部から水戸線でふた駅乗った笠間駅。元々は城下町として発展した笠間ですが、町の中心には笠間稲荷神社があります。

1F6874E6-6261-449C-A91F-5C5C3C85B25D

しかし水戸線笠間駅は中心街である笠間稲荷周辺より1キロ以上南に位置しています。これは中心街に駅を設置すると線路を大きく北へ迂回させる必要が出て来ると言う地形的な理由からだと言われていますが、鉄道によって宿場が寂れるからと反対運動が起きたとも言われています。

653F60D9-F6A9-4208-BAA5-7AF5F78DD0E3

そのため笠間駅から笠間稲荷神社まで観光客を運ぶべく、笠間人車軌道が大正5年(1915)より営業されました。駅前から笠間稲荷神社の西側まで一直線に敷かれた線路は、路面電車のように道路に敷設されたため、廃線跡の痕跡は一切残っておりません。

DF5C2179-A5A3-49E5-9389-B33A74E20C8E

途中、当時の人車軌道を復元した車両が展示されています。

8EAE6158-022C-48B1-8B7E-0FBBF68BEE41

この車両は人車軌道が開業してから100年の節目である2015年に、クラウドファンディングで集めた資金によって再現されました。

81CD9F68-FD20-42F8-90C9-DE5A84D56719

当時、線路を順繰り順繰り前に持って行く形で走行させ、笠間駅から笠間稲荷神社停車場跡まで、実際走行させたそうです。もちろん人力で押しながら。

51E77137-3AF8-4518-A00F-63E0AB603EAD

こちらは復元車両試作1号機。ちなみに人車軌道は大正14年(1925)にガソリンカーを導入し人力では無くなりますが、競合する乗合バスに押されて昭和5年(1930)廃止となりました。

0B790AD5-6232-4960-8FFE-7C2CC4CCB216

こちらは終点の稲荷神社前停車場跡地。駅からの参拝客を笠間稲荷神社まで送迎する目的で走っていたので、停車場は笠間駅前と稲荷神社前の2箇所しかありませんでした。

00C5F3B9-9CFB-4103-BB97-8087ADB97099

折しもゴールデンウィーク、多くの観光客で賑わっていました。笠間稲荷神社は菊人形で有名です。茨城と言えば偕楽園の梅と笠間稲荷神社の菊人形。

6DD74DFA-2E75-404A-AF57-E7A975B44A69

門前のお土産屋さんも近年の観光地としては珍しく賑わっています。

4958E946-271F-4845-8368-101361EFCFB1

笠間稲荷神社自体知らなかったのですが、よくよく調べてみたら日本三大稲荷の一つに数えられているそうです。日本三大稲荷には諸説あり、自称も含めて14社寺もあるとか。しかし一般的には伏見稲荷大社(京都)、豊川稲荷(愛知)、笠間稲荷神社(茨城)、祐徳稲荷神社(佐賀)の4社寺が挙げられることが多いそうです。

54C36FAE-31E4-4686-97E0-363FCE56B6A2

門前にも多くの観光客。時代に合わせてカフェなんかもちゃんとあります。

3021A09E-0819-4427-997E-5C0E50CAC804

笠間稲荷神社の向かいに御神酒を造られている酒蔵、笹目宗兵衛商店があります。

DF313E87-3207-4DB9-A0C1-370BA795FD8E

この酒蔵は敷地内を通り抜けることが出来、中を見学することもできます。この酒蔵は当初笠間藩主牧野家の醸造元でしたが、明治6年より現在の笹目宗兵衛商店へと経営が譲られました。

CFF78076-3019-45CC-A07C-F10BE4E25735

酒蔵の裏に出ました。むしろこちらが正面になるのかな。

A97C3957-81E3-4486-BA29-08A79D2CF298

稲荷神社から見て酒蔵を抜けた先、駅寄りになりますが、かつて花街だった一画があります。写真は今も残る芸妓組合。

19179348-E0AC-47CA-82EC-61E9EAFB0676

旧町名で喜楽町と呼ばれていたこの一画には、花街の名残りとして割烹や旅館などが点々とあります。

5905C4DB-8EBE-4E81-BEDB-1CFE27B78FDA

しかしながら数は少なく建物も新しく、花街として栄華を誇っていた時代の景色はほとんど残っていませんでした。強いて言えばこの屋号ぐらい。

60677341-28B6-44EC-A770-95F397FCB14F

門前右手の突き当たりには、かさま歴史交流館。かつてこの建物は、明治中期建造の木造三階建ての旅館、井筒屋本館でした。東日本大震災の被害を受け、それを契機にリノベーションされたそうです。

A6883A51-5BF9-4A13-81A0-197A82B01C10

旅館と言えば、笠間稲荷神社の東の丘陵に廃ホテル、ホテル山乃荘があります。

03F2735D-9CC8-459E-93A5-ACD89DE488D4

バブル期に増築なり改築なりされたのでしょうか、天守閣を模した建造物まで。市街を見下ろす眺望は、さぞ見事だったろうと想像できます。

D5156D6C-BAA6-4739-809A-063FF4898C52

廃墟の右手、東側の坂を登って行くと、建物の正面側に回り込めます。ここホテル山乃荘は昭和28年(1953)創業。しかし2011年の東日本大震災で被災し、以後復旧を試みていましたが、同年の5/10に廃業となりました。山乃荘女将のツイッター参照。ちなみに女将は現在伊香保で働いているとか。

28F75B3B-2572-4713-B1D9-382581669BBD

建物の西側に回り込み少し坂を下ると、正面玄関へのアプローチがあります。

AC224249-A932-4ACB-954D-1FE44F6BA948

震災を機に廃業となりましたが、笠間でこれだけの巨大施設は時代のニーズにも合っておらず、恐らくは経営自体も廃業寸前では無かったのかと想像できます。

A315A08F-F4E9-4C7E-84D4-5B8B3E1356EA

現に廃業後10年以上経った今でも解体出来ずに放置されています。崖地でこれだけの施設ですから解体費用も相当なものかと思われますがそんなお金はどこにも無く、ましてや税金で賄うわけにもいきません。

6C1D829F-6DA1-4912-A743-C2DB1C33A502

これは全国各地の温泉街などでも問題となっていますが、特に良質な温泉が出る訳でもなく観光地としての発展が見込めないのも事実であります。

と言う訳で笠間は奥が深いので、このまま続編へと続きます。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ