前回の続き、碓氷第三橋梁より横川までの廃線跡を紹介します。
6号トンネルを出ると碓氷第三橋梁があります。1963年(昭和38年)に廃止されたアプト線区間は1996年(平成8年より遊歩道としての整備が始まり、2001年(平成13年)に完成しました。
国立公園内のため電柱が立てられないなどの問題もあったそうですが、2012年(平成24年)には碓氷第三橋梁から前編で紹介した熊の平信号場までの区間も遊歩道としての整備が完了しました。そしてこの碓氷第三橋梁こそが碓氷峠を代表する重要文化財です。
橋の上からは沢の奥の方に1963年(昭和38年)から1997年(平成9年)まで使われていた新線の廃線跡が見えます。
この第三橋梁には個人的な思い入れがあります。子供の頃、鉄道関連の本にこの碓氷第三橋梁とその奥の新線を走る特急あさまの写真が掲載されており、その写真を見た私は旅情に駆られました。霧の立ち込める渓谷のモノクロ写真だったのですが、その一枚の写真が後の私の嗜好に多くの影響を及ぼしています。今回実物を生まれて初めて見た訳ですが、感慨深いものがありました。
橋を渡った先には5号トンネルの軽井沢側出口があります。
5号トンネル内部。1963年(昭和38年)にアプト線が廃止されて1996年に遊歩道として整備されるまでの33年間、これらのトンネル群は廃墟と化していました。なによりも驚かされるのは、完成してから今年でおよそ128年ものの歳月が流れていると言うのに、明治時代に造られた煉瓦トンネルがここまで完璧な形で残っていたと言う事。当時、よほど強固に造られていたんだと感心するばかりです。
5号トンネル横川側入口。出口から入って入口から出るためややこしい文章になりますがご了承下さい。
4号トンネル軽井沢側出口。
4号トンネル横川側入口付近から3号トンネル。だいぶ標高を下りて来たためか、紅葉も良い具合に残っていました。
4号トンネル横川側入口。遊歩道として整備されるまでは雑草に覆われていて、全体をはっきり見る事も出来なかったかもしれませんが、こうやって気軽に辿り着ける事も含めて有難い事です。
3号トンネル軽井沢側出口。
3号トンネル横川側入口付近。紅葉の奥では国道(旧道)がオーバーラップしています。
3号トンネル横川側入口から、4号5号トンネルを望む。望遠で撮るといかに短いトンネルが連続しているが伺えます。
2号トンネル軽井沢側入口。この辺りまで来ると、やっと人里まで降りて来た感じがします。
2号トンネル横川側出口。
2号トンネルを出た所に、当時の物と思われるレールが残っていました。
いよいよ最後のトンネルです。1号トンネル軽井沢側入口。
1号トンネル横川側出口。熊の平信号場から横川まで10ヶ所のトンネルを潜ってかましたが、熊の平から上の軽井沢までにも16のトンネルがあり、旧線時代には横川〜軽井沢間トータルで26ものトンネルと18の橋梁がありました。
横川まで降りて来ました。日帰り入浴施設、峠の湯の辺りで、新線の廃線跡と合流します。
遊歩道はそのまま新線の上り線跡に続きます。この辺りまで降りて来るとちょうど紅葉も見頃。
霧積川橋梁。信越本線は過去何度も列車で通りました。特に夜行急行「能登」なんかは北陸に行く際よく利用していました。
遊歩道を歩いて行くと途中に2棟からなる旧丸山変電所跡があります。
横川側の東棟は蓄電池室、西棟は機械室で回転変流器と変圧器が有ったそうです。
西棟内部。以前は公開されていた事もあったとか。
碓氷峠を列車で通るのはほとんど夜行列車だったため、沿線の景色を眺めることはありませんでした。だいたい夜中の横川駅構内で、補助機として連結されるEF63を見て興奮してたぐらいです。しかしその信越本線が新幹線開業に伴い廃止になるなんて想像もしていませんでした。幹線が分断されて各駅停車で長野に行く事が出来なくなると言う、かつて貧乏旅をして来た自分にとっては本当にショックでした。もちろんEF63など越境に掛かる維持管理費を考えると大赤字だって事も理解出来るし、軽井沢や長野までは格安な高速バスもありますが、昭和の鉄道旅の終焉を感じるほどの出来事でした。
次回は最後に碓氷峠鉄道文化むらをお送りします。
6号トンネルを出ると碓氷第三橋梁があります。1963年(昭和38年)に廃止されたアプト線区間は1996年(平成8年より遊歩道としての整備が始まり、2001年(平成13年)に完成しました。
国立公園内のため電柱が立てられないなどの問題もあったそうですが、2012年(平成24年)には碓氷第三橋梁から前編で紹介した熊の平信号場までの区間も遊歩道としての整備が完了しました。そしてこの碓氷第三橋梁こそが碓氷峠を代表する重要文化財です。
橋の上からは沢の奥の方に1963年(昭和38年)から1997年(平成9年)まで使われていた新線の廃線跡が見えます。
この第三橋梁には個人的な思い入れがあります。子供の頃、鉄道関連の本にこの碓氷第三橋梁とその奥の新線を走る特急あさまの写真が掲載されており、その写真を見た私は旅情に駆られました。霧の立ち込める渓谷のモノクロ写真だったのですが、その一枚の写真が後の私の嗜好に多くの影響を及ぼしています。今回実物を生まれて初めて見た訳ですが、感慨深いものがありました。
橋を渡った先には5号トンネルの軽井沢側出口があります。
5号トンネル内部。1963年(昭和38年)にアプト線が廃止されて1996年に遊歩道として整備されるまでの33年間、これらのトンネル群は廃墟と化していました。なによりも驚かされるのは、完成してから今年でおよそ128年ものの歳月が流れていると言うのに、明治時代に造られた煉瓦トンネルがここまで完璧な形で残っていたと言う事。当時、よほど強固に造られていたんだと感心するばかりです。
5号トンネル横川側入口。出口から入って入口から出るためややこしい文章になりますがご了承下さい。
4号トンネル軽井沢側出口。
4号トンネル横川側入口付近から3号トンネル。だいぶ標高を下りて来たためか、紅葉も良い具合に残っていました。
4号トンネル横川側入口。遊歩道として整備されるまでは雑草に覆われていて、全体をはっきり見る事も出来なかったかもしれませんが、こうやって気軽に辿り着ける事も含めて有難い事です。
3号トンネル軽井沢側出口。
3号トンネル横川側入口付近。紅葉の奥では国道(旧道)がオーバーラップしています。
3号トンネル横川側入口から、4号5号トンネルを望む。望遠で撮るといかに短いトンネルが連続しているが伺えます。
2号トンネル軽井沢側入口。この辺りまで来ると、やっと人里まで降りて来た感じがします。
2号トンネル横川側出口。
2号トンネルを出た所に、当時の物と思われるレールが残っていました。
いよいよ最後のトンネルです。1号トンネル軽井沢側入口。
1号トンネル横川側出口。熊の平信号場から横川まで10ヶ所のトンネルを潜ってかましたが、熊の平から上の軽井沢までにも16のトンネルがあり、旧線時代には横川〜軽井沢間トータルで26ものトンネルと18の橋梁がありました。
横川まで降りて来ました。日帰り入浴施設、峠の湯の辺りで、新線の廃線跡と合流します。
遊歩道はそのまま新線の上り線跡に続きます。この辺りまで降りて来るとちょうど紅葉も見頃。
霧積川橋梁。信越本線は過去何度も列車で通りました。特に夜行急行「能登」なんかは北陸に行く際よく利用していました。
遊歩道を歩いて行くと途中に2棟からなる旧丸山変電所跡があります。
横川側の東棟は蓄電池室、西棟は機械室で回転変流器と変圧器が有ったそうです。
西棟内部。以前は公開されていた事もあったとか。
碓氷峠を列車で通るのはほとんど夜行列車だったため、沿線の景色を眺めることはありませんでした。だいたい夜中の横川駅構内で、補助機として連結されるEF63を見て興奮してたぐらいです。しかしその信越本線が新幹線開業に伴い廃止になるなんて想像もしていませんでした。幹線が分断されて各駅停車で長野に行く事が出来なくなると言う、かつて貧乏旅をして来た自分にとっては本当にショックでした。もちろんEF63など越境に掛かる維持管理費を考えると大赤字だって事も理解出来るし、軽井沢や長野までは格安な高速バスもありますが、昭和の鉄道旅の終焉を感じるほどの出来事でした。
次回は最後に碓氷峠鉄道文化むらをお送りします。