トンネル

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群馬県安中市、碓氷峠の旧信越本線旧線の廃線跡(後編)

前回の続き、碓氷第三橋梁より横川までの廃線跡を紹介します。

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6号トンネルを出ると碓氷第三橋梁があります。1963年(昭和38年)に廃止されたアプト線区間は1996年(平成8年より遊歩道としての整備が始まり、2001年(平成13年)に完成しました。

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国立公園内のため電柱が立てられないなどの問題もあったそうですが、2012年(平成24年)には碓氷第三橋梁から前編で紹介した熊の平信号場までの区間も遊歩道としての整備が完了しました。そしてこの碓氷第三橋梁こそが碓氷峠を代表する重要文化財です。

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橋の上からは沢の奥の方に1963年(昭和38年)から1997年(平成9年)まで使われていた新線の廃線跡が見えます。

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この第三橋梁には個人的な思い入れがあります。子供の頃、鉄道関連の本にこの碓氷第三橋梁とその奥の新線を走る特急あさまの写真が掲載されており、その写真を見た私は旅情に駆られました。霧の立ち込める渓谷のモノクロ写真だったのですが、その一枚の写真が後の私の嗜好に多くの影響を及ぼしています。今回実物を生まれて初めて見た訳ですが、感慨深いものがありました。

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橋を渡った先には5号トンネルの軽井沢側出口があります。

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5号トンネル内部。1963年(昭和38年)にアプト線が廃止されて1996年に遊歩道として整備されるまでの33年間、これらのトンネル群は廃墟と化していました。なによりも驚かされるのは、完成してから今年でおよそ128年ものの歳月が流れていると言うのに、明治時代に造られた煉瓦トンネルがここまで完璧な形で残っていたと言う事。当時、よほど強固に造られていたんだと感心するばかりです。

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5号トンネル横川側入口。出口から入って入口から出るためややこしい文章になりますがご了承下さい。

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4号トンネル軽井沢側出口。

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4号トンネル横川側入口付近から3号トンネル。だいぶ標高を下りて来たためか、紅葉も良い具合に残っていました。

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4号トンネル横川側入口。遊歩道として整備されるまでは雑草に覆われていて、全体をはっきり見る事も出来なかったかもしれませんが、こうやって気軽に辿り着ける事も含めて有難い事です。

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3号トンネル軽井沢側出口。

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3号トンネル横川側入口付近。紅葉の奥では国道(旧道)がオーバーラップしています。

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3号トンネル横川側入口から、4号5号トンネルを望む。望遠で撮るといかに短いトンネルが連続しているが伺えます。

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2号トンネル軽井沢側入口。この辺りまで来ると、やっと人里まで降りて来た感じがします。

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2号トンネル横川側出口。

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2号トンネルを出た所に、当時の物と思われるレールが残っていました。

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いよいよ最後のトンネルです。1号トンネル軽井沢側入口。

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1号トンネル横川側出口。熊の平信号場から横川まで10ヶ所のトンネルを潜ってかましたが、熊の平から上の軽井沢までにも16のトンネルがあり、旧線時代には横川〜軽井沢間トータルで26ものトンネルと18の橋梁がありました。

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横川まで降りて来ました。日帰り入浴施設、峠の湯の辺りで、新線の廃線跡と合流します。

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遊歩道はそのまま新線の上り線跡に続きます。この辺りまで降りて来るとちょうど紅葉も見頃。

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霧積川橋梁。信越本線は過去何度も列車で通りました。特に夜行急行「能登」なんかは北陸に行く際よく利用していました。

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遊歩道を歩いて行くと途中に2棟からなる旧丸山変電所跡があります。

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横川側の東棟は蓄電池室、西棟は機械室で回転変流器と変圧器が有ったそうです。

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西棟内部。以前は公開されていた事もあったとか。

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碓氷峠を列車で通るのはほとんど夜行列車だったため、沿線の景色を眺めることはありませんでした。だいたい夜中の横川駅構内で、補助機として連結されるEF63を見て興奮してたぐらいです。しかしその信越本線が新幹線開業に伴い廃止になるなんて想像もしていませんでした。幹線が分断されて各駅停車で長野に行く事が出来なくなると言う、かつて貧乏旅をして来た自分にとっては本当にショックでした。もちろんEF63など越境に掛かる維持管理費を考えると大赤字だって事も理解出来るし、軽井沢や長野までは格安な高速バスもありますが、昭和の鉄道旅の終焉を感じるほどの出来事でした。
次回は最後に碓氷峠鉄道文化むらをお送りします。

群馬県安中市、碓氷峠の旧信越本線旧線の廃線跡(前編)

どうも最近有名どころばかり行ってますが、今回訪れた碓氷峠も以前より訪れてみたかった場所です。

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群馬県と長野県の県境にあたる碓氷峠。その入り口とも言える横川駅に到着しました。峠を越えれば長野県の軽井沢に出ます。

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名物である峠の釜飯は、横川駅か開業した1885年に創業した荻野屋が1958年に発売した人気の駅弁です。うちの実家にも益子焼で作られた峠の釜飯の容器が有りました。使いもしないのにとっておいてしまいがち。

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まずはタクシーで熊の平信号場跡まで登りました。迎車での600円を含めて3500円程で到着。先週までは旧道経由の軽井沢行きバスも走っていたのですが、ちょうど秋の行楽シーズンも終わり冬季はバイパス経由のみとなってしまうため、タクシーに乗らざるを得ませんでした。

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信越本線は1885年(明治18年)高崎〜横川間が開業し、碓氷峠の難工事の末1893年(明治26年)に横川〜軽井沢間が開業した事によって全線開通しました。中間地点にあたるこの熊ノ平信号場も当時、給水給炭所として開設されました。この熊ノ平変電所は1937年(昭和12年)に開設。

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横川〜軽井沢間は勾配が急過ぎるため、当初日本で初めてアプト式と言う歯車で登る方式が取られました。線路にこの様なラックレールと言う物が敷かれ、機関車は歯車をこのラックレールに噛ませて登るわけです。写真は横川の碓氷峠鉄道文化むらに展示されているもの。

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しかし時代は変わって1963年(昭和38年)、輸送量の増加や所要時間の短縮が求められる中、直流1500V(従来は600V)によって粘着運転と言う従来の走行に変更され、さらに複線化された事によりアプト式が廃止。北側の長大トンネルを経由する新線が開通しました。ちなみに新線が開通するまで信越本線は非電化(蒸気やディーゼルエンジン)でしたが、この時期に高崎から長野までの全区間が電化されました。写真は熊ノ平信号場から旧信越本線軽井沢方面を見た所。一番左のトンネルがアプト線跡で、中央と右側が新線。

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こちらは旧信越本線新線の横川方面を見た所。しかしながらさらに時代は過ぎて1997年(平成9年)、北陸新幹線(当時長野新幹線)の開業に伴い、横川〜軽井沢間が廃止となりました。

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今回は昭和38年に廃止となった信越本線旧線、アプト線跡を歩いて行きます。写真は熊ノ平信号場から一つ目のトンネル、10号トンネルの軽井沢側出口。

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アプト線は当時、地下鉄銀座線や丸の内線と同じく第三軌条集電方式が採られていました。第三軌条集電方式とは線路の脇に架線に代わるレールが敷かれている方式。写真は10号トンネル内部。

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10号トンネル横川側入口。アプト線には車輪に対するブレーキの他、駆動輪である歯車に、さらに集電するための第三軌条にもブレーキを設けて、三重の安全対策を採りました。

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ここからはしばらく短いトンネルが連続します。写真は10号トンネル横川側入口付近から見た9号トンネル。

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トンネルは本来起点側、つまり信越本線では高崎側を入口、軽井沢側を出口と呼称します。今回の訪問では峠の途中から降りて来たので、軽井沢側出口から入り横川側入口へと出て行きます。ややこしいですが坂を登りたくないもので。写真は9号トンネル横川側入口。

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アプト式を採用する際にラックレールを施設するため強固な道床が必要とされました。そのため鉄橋は造らず煉瓦造りによるアーチ橋が採用されたとか。写真は9号トンネルと8号トンネルの間にあるアーチ橋。

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明治中期の技術で難工事の末(すえ)完成したアプト線ですが、前途のような輸送力強化が求められるとともにトンネル掘削技術の進歩もあり、新線の開業へと繋がった訳です。こちらは8号トンネル軽井沢側出口。

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そう言ったわけで開業から70年、アプト式の旧線はその役目を終えました。こちらは 8号トンネル横川側入口。

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8号トンネルを出てすぐに架かるアーチ橋。日本に於けるアーチ橋は古くは江戸時代の石橋からありますが、明治中期に竣工した煉瓦造のアーチ橋が現存するのは貴重な事例のため、重要文化財に指定されています。

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トンネルの坑門や内壁はことごとく明治期の煉瓦造りが残されています。コンクリート建築が本格的になる前の時代の構造物がこれだけ残っているのは、やはり貴重です。写真は7号トンネル横川側入口。

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開通した1893年(明治26年)より電化される1912年(大正元年)までの間は蒸気機関でした。急勾配のため大量の煙を排出する上トンネルが連続するこの区間では、機関士の窒息事故なども起きていたそうです。写真は8号トンネル内部から7号トンネルを望む。

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一応全ての坑門を撮って来たので写真の枚数が多くなりすぎてしまい、対して文章を書くネタが無くなって来ました。 6号トンネル軽井沢側出口。

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6号トンネル内部。途中、三つの穴から外の光が差し込みます。不意に外光に照らし出される煉瓦の内壁。

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横川側から軽井沢方面を振り返った所。元々は蒸気機関車の煙を逃す役目があったそうで、天井部にも穴が空いてます。

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その少し先には五つの横穴が。

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こちらは天井に空いている排煙用の穴。

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外に出て見たら、やはり見事な煉瓦建築。

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横川側から軽井沢方面を振り返った所。なんと言うか、その美しさに息を呑みました。

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こちらは結構長かった6号トンネル横川側入口。6号トンネルを抜けるといよいよ有名な碓氷第三橋梁に出ますが、写真の枚数が多いため続きは後編で。

千葉県成田市(2)、東成田駅(旧・成田空港駅)

千葉県成田市(1)、空港シャトルシステムと成田駅周辺
成田空港はスカイアクセス線で随分と便利になりました。スカイライナーじゃない方の通勤型車両による特急に乗れば、標準軌の線路で長い直線区間を轟音を立てながら無理矢理飛ばしまくります。頑張れスカイアクセス特急!

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到着したのが成田空港第1ターミナル。飛行機の利用以外で訪れたのは2回目となります。

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今回の目的地はここ、東成田駅。空港第1ターミナルと第2ターミナルの中間辺りで無茶苦茶空港敷地内になります。東成田駅までは空港手前で京成本線から分岐する京成電鉄。ひと駅先の芝山千代田駅までが第三セクターにより1992年末開業した芝山鉄道。相互乗り入れはしてますが、鉄道会社としてはひと駅しかない、日本一短い鉄道です。

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最近テレビでも紹介されたのでご存知の方も多いかと思われますが、この駅はかつての京成成田空港駅だった場所。

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京成電鉄は成田空港建設当初、現在の第1ターミナルおよび第2ターミナル直下に駅を建設する予定でした。しかし当時、成田新幹線の建設計画が有ったためターミナル直下へのアクセスを新東京国際空港公団が渋り、その結果運輸省が施工認可を保留したそうです。

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結果、京成電鉄はどちらのターミナルからも離れている中間地点に駅を建設せざるを得なかったのです。

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東成田駅は1978年5月、京成電鉄成田空港駅として開業しました。そして1987年の国鉄分割民営化に伴い計画が消滅した成田新幹線計画用地に1991年、第1ターミナル直結の現・成田空港駅、1992年同用地に第2ターミナル直結の空港第2ビル駅が開業(JR東日本も同時に開業・成田エクスプレス運行開始)したため、空港駅としての役目を終えました。ちなみに現在JR成田空港支線と京成本線から成田空港の敷地内に入る線路に関しては、第三セクターの成田空港高速鉄道が所有しています。とても複雑。

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パーティションで隠された中に、当時空港駅だった頃の名残りが見受けられます。

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武富士のポスター!しかも1989年ルマンの武富士ポルシェ!

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当時営業していた喫茶店の跡も廃墟となって残っております。

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この旧・成田空港駅から当時使われていた、第2ターミナルまでの地下通路が残っています。

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まずは150m歩いてこの突き当たりを左へ。

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そこから350m。合計500m歩きます。

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望遠レンズで撮ればこんな感じ、誰も歩いていない地下空間。途中至るところに監視カメラが設置されています。

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第2ターミナルに到着。普通に人々で賑わう、と言っても現在は閑散としていますが、成田空港国際線ターミナルです。

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さて、東成田駅(旧・成田空港駅)に戻って来ました。写真は改札内のコンコース。

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駅構内には成田空港駅の歴史を語るポスターが展示されています。

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現在の京成電鉄及び芝山鉄道東成田駅ホームの向かい側には、今では使われなくなり立入禁止となっている、当時終着駅だった頃のホームが残っています。駅名標は当時の成田空港駅のまま。

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ついでと言ってはなんですがお隣の終着駅、芝山鉄道芝山千代田駅まで足を伸ばしました。空港敷地の南東端になりますが、東成田駅、芝山千代田駅、共に駅周辺には空港の関連施設が多くあるため、働いている方々の通勤の足として機能しています。ただ、芝山鉄道の区間である終点の芝山千代田駅だけ交通系ICが使えません。何気に罠です。
ちなみにこの芝山鉄道の開業は、成田空港の東側に住む住民達が成田空港を突っ切って成田市に出れるようにと建設されました。その経緯には成田空港建設当時の反対運動なども絡んでいて、つくづく成田空港を取り巻く歴史は複雑極まりない。

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空港敷地の外側に日帰り入浴施設、空の湯があります。時間があったので何気なく寄ってみました。いわゆる大深度から掘削したモール泉で最近よく見るやつだろう、と思ったら、予想を上回る素晴らしいお湯に驚かされました。
内湯は人工温泉と人工炭酸泉。温泉は露天のみとなりますが、なんと源泉加温掛け流し。六畳ほどの狭い湯船が掛け流しで、隣の広い浴槽は加水循環濾過。壺湯や寝湯もありますが、それらは全て普通のお湯。つまり、少ない湧出量の中で100%源泉掛け流しを実現するためにあらゆる犠牲を惜しまないと言う、湯使いに対するこだわりが窺える施設なのです。
さらに隣の建物にはレンタルサイクルでマウンテンバイクやロードバイクが用意されていました。ここで自転車を借りれば近隣でバスが通ってない場所にある廃校跡も巡れる。しかも帰りに温泉に浸かれると言う。航空科学博物館や三里塚の防空壕など以前休館日で入れなかった場所もあるし、ここはまた来たいと思います。

千葉県茂原市(3)、押日地区の素掘り隧道群

先月、旧・海軍茂原航空基地跡の掩体壕群を巡った際、最後に地下壕跡を探しに丘陵地まで足を伸ばしました。地下壕こそ竹藪に塞がれ発見出来ませんでしたが、道すがら素掘りの隧道と出会いました。

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写真は先月、まだ暑い盛りに訪れた御領隧道。暗いし圧迫感あるしで、かなりビビってしまいました。
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千葉県に素掘りトンネルが多い事は知っていましたが、よくよく調べてみるとこの茂原市に密集している地域があることを知りました。そこで今回は特に密集している押日地区を訪れてみます。

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立派な屋敷ですが廃屋でした。丘陵沿いには古くからの農家が点在していますが、過疎化や少子化などで離農される方も多いようです。押日地区は御領隧道があった豊田地区からゴルフ場のある丘陵を挟んだ西側。茂原駅から路線バスもあり訪れ易いです。

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さて、隧道巡り開始します。バス通りである茂原街道から右手、北へと入ります。早速穴を目にしますが、これは倉庫か何かとして掘ったと思われる穴。房総半島は砂岩質が多く比較的簡単に掘削出来るため、古くから地元の方が自分で穴を掘りまくったという歴史があります。

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まずは茂原市街地から見て一番奥に位置する国府関地区からアプローチする戸田谷隧道。建設推定時期は1923年。
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今回はヘッドランプを用意して来ましたがあまり役に立たず。やはりビビってしまいます。

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天井が鋭角になっているのを観音掘りというそうです。

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抜けると押日地区になります。素掘りトンネルは基本的には生活道や旧道などで道幅も狭く未舗装も多く、車で訪れると地元の方の邪魔になることもあるので自転車あるいは徒歩をお勧めします。

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押日地区は水田地帯の中央の丘陵が新興住宅街として開発されています。

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その新興住宅街を囲むように田園と丘陵沿いに点在する旧家。隧道はこの地区を取り囲む丘陵から放射状にいくつも存在します。

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坊谷隧道へのアプローチ。道が途絶えており、とりあえず開けた谷の奥へと進んで見ます。

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最奥部の藪の中に坊谷隧道発見!
いや、これいわゆる廃道じゃないっスか。無理!絶対無理!
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新興住宅街を右手に見ながら丘陵沿いの農村を茂原街道に向かって歩きます。すると左手に細田隧道へのアプローチが。

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細田隧道発見。暗いなー。
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く、暗っ!
怖っ!
トンネルの途中にLEDの街灯があるけど、S字を描くトンネルは入り口からすでに夜みたいな暗さ。誰か探索に付き合ってくれないかなぁ。

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出口付近には雪だるまみたいな簡素な道祖神様が。ちょっと可愛い。

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細田隧道の南側出口。丘陵を越えた所も押日地区になります。

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隧道の左上には八幡神社があり、左下から右上への斜路は隧道が出来る以前の旧道です。すでに廃道となった旧道も撮ったのですが、暗くて手ブレしてしまいました。

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ひとまず猫に癒されます。

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再び押日地区北側の丘陵を目指します。この先で道は二股に分かれ、左に後呂隧道、右に猪喰隧道が有ります。いずれも丘陵の向こう側、坊谷堰の水源から広がる水田地帯に抜けます。

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まずは猪喰隧道へアプローチ。道の奥には闇溜まり。
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そのまま深い切り通し。く、暗れーっ!
太陽光が差していれば苔生した切り通しが綺麗だろうに、闇が深すぎてヘッドランプが何の意味も持たない!

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こちらは左隣の後呂隧道。うん、短いし先が見えるし多少明るい。
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後呂隧道の坊谷堰側出口。明治〜大正期に完成と推定されるが詳細は不明。

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坊谷堰側の水田地帯。押日集落から隧道を通って農作業をしに通っていたのでしょう。

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押日第一第二分水と書いてあります。

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押日集落から丘陵の下を水路が通っているのでしょう。

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さて、こちらは猪喰隧道の坊谷側のアプローチ。

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猪喰隧道坊谷側出口。
ええ、そうです。猪喰隧道のあまりの暗さにビビって通り抜けられなかったんですよ!
この猪喰隧道も明治〜大正期に完成と推定されています。

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坊谷側を茂原街道に向かって下って行くと、右手に花立隧道へのアプローチ。

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花立隧道。昭和10年頃に完成と推定されますが、すでに廃道となっております。抜けた先の押日側もえらい廃道なので、行きません。敬愛するサイトの「山いが」さんみたいなオブローダーじゃないし。そもそもこのブログのタイトルには散歩って書いてあるし!
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坊谷の水田地帯を下ると緑園台という新興住宅地があります。写真左手は押日側の丘陵地で、外側の造成地は建設が中断された模様。

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その丘陵沿いに歩くと狸谷隧道が有ります。
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明治〜大正期に完成と推定。現在も生活道として使われているようで、途中にはLEDの街灯が。

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フフン、余裕で通り抜ける。
……んー、何やってんだろ俺、ってちょっと思った。

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狸谷隧道の押日側アプローチ。

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押日側に出てすぐ右手には、先程坊谷側から見た廃道の花立隧道へのアプローチがあります。

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アプローチったって廃道です。藪漕ぎは嫌いですが、これくらい背が低ければ行ける。

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ぐはっ。そりゃ通り抜けられないさ。花立隧道の押日側出口。
このまま押日側に出ると次に訪れる隧道へ遠回りになるため、再び狸谷隧道を通り坊谷側へ戻ります。

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緑園台住宅から茂原街道に向かう丘陵沿いの道には、いくつかの謎のアプローチがあります。隧道ではなく丘陵の上を乗り越える廃道でしょうか。

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やがて右手に見えて来た野本隧道へのアプローチ。
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ハイ。廃道ー。抜けた先はエラい事になってます。

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抜けた先の左手の竹藪をガシガシ登って行くと木生坊隧道があるそうですが、行きません。木生坊隧道の坊谷側出口も探して見ましたが、怪しい箇所こそあるもののジャングル状態だったので断念しました。

そんな訳で8箇所の隧道を巡って来ましたが、冬の晴れた日なんかの方が良かったのかもしれません。
今回は途中パラパラと小雨に見舞われるような曇り空で、昼下がりにも関わらず夕方ぐらいの暗さがありましたが、それを差し引いても陰鬱とした雰囲気がありました。この雰囲気だけで何の根拠も無く心霊スポットとされる場所は多く存在しますが、湿気が多く苔むしており、なおかつ切り通しによる圧迫感は恐怖心を煽ります。自分がただのビビリィなだけかも知れませんが、房総半島の雰囲気って他の地域と違った独特な雰囲気があるのは確かです。

神奈川県横須賀市、猿島要塞のレンガ建築と砲台跡

今更なのですが、メジャーな観光地でもある猿島要塞に行って来ました。多くのブログ等でも紹介され尽くされてますが、一度行ってみたかったんです。

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島を離れる時の写真であると航跡で思い切りバレてしまいますが、猿島は横須賀の三笠公園から一時間毎に出航する船に乗り10分ほどで到着してしまいます。

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着くなり島内の至るところが歴史的価値のあるものだらけです。10:30の便で20名ほど、平日の午前中にもかかわらずの盛況ぶり。浜辺でのBBQ目的の団体もいましたが。

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最初に出迎えてくれるのがこの発電所。明治28年建造で当時は蒸気機関による自家発電だたとか。現在も自家発電として機能しています。

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切り通しを登って行くと右手に兵舎が。猿島は幕末、外国船から江戸を守るための台場として開発されました。砲台は太平洋戦争終結まで存在しましたが、レンガ造りの建造物は明治中期のもの。

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切り通しはウッドデッキが敷かれとても歩きやすくなっています。右手前にあるのは弾薬庫。

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こちらは随分と蔦に覆われていますが兵舎です。雰囲気はめっちゃあります。

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ここのレンガ造りはフランス積みと言い、明治20年頃からはイギリス積みが主流になったため非常に貴重なものだそうです。ちなみにここはトイレの跡。

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しばらく歩くとトンネルが現れます。ここの切り通しの石垣はいつの時代のものだろうか。苔がいい味出してます。

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赤レンガが美しいトンネル。このトンネルの途中から横に入れば、立入禁止ですが地下壕の司令所などもあるそうです。

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こりゃ歴史的価値以上にフォトジェニックっていうヤツですね。インスタなんかで広まって観光客が多く訪れるようになったっていう。奥に見えるのは弾薬庫跡で、その向こう側に抜けられるようになっています。

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トンネルを抜けると道は右に折れます。奥にトンネルがありますが、現在法面工事に伴い通行止め。先程の弾薬庫から砲台側に抜けて行きます。

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弾薬庫を抜けた反対側出口はこんな感じ。ラピュタの世界なんて言われたりもしているようですが、どうもその言い方、個人的には気に食わなかったりします。

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海沿いに抜ければいくつか砲台跡があります。

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東京湾防衛と言えば観音崎砲台や海上の第一〜第三海堡、富津岬や館山の大房崎、洲崎などがありますが、結局どこの砲台も火を噴く事はありませんでした。もし終戦が遅れて本土上陸作戦が実行されたとしても、駿河湾と鹿島灘から上陸する計画でした。

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こちらも砲台跡。太平洋戦争時の高角砲が設置されていました。元々東京湾に侵入してくる軍艦を迎え撃つために建設された猿島要塞でしたが、時代は飛行機、しかも高射砲も届かない高度一万メートルをB29が飛来して来た訳です。

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こちらも砲台跡です。猿島については資料も少なく、実際幕末から明治、大正、昭和と、どの局面でどこに砲台があり、どのように変革して来たのかはっきり分からない部分もあるとか。もちろん現在残っているコンクリート造の遺構はほとんどが昭和に入ってからの物と思われますが。

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こちらは廃墟的にもカッコいいのですが、展望台と言われています。確かにトーチカにしてはコンクリートが薄いですが、下部の窓なども含めどうしてもただの展望台とは思えません。見張り台と言われれば、しっくり来ますね。

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そんな訳で、一時間の滞在で戻って来ました。帰りの船は11:45発でしたが、来た船は往路の倍ぐらいの乗船率で、早めに来て良かった。猿島へ渡る船は記念艦三笠の艦尾から出ています。三笠の内部も非常に見応えがあるのですが、昔見たので今回はスルーします。

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昼食は昔何度か訪れたhoney bee。米軍基地の正面にあるピザとタコスとハンバーガーの店ですが、近年メディアに露出して行列が出来るようになってしまいました。

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この日もほぼ満席でギリギリ座れた感じ。チーズバーガー美味いし良い店です。
さて、午後は横須賀軍港巡りの遊覧船に乗ります。

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