本庄は元々中山道の宿場町でした。
現在ではモータリゼーションによって郊外の幹線道路沿いに出来た巨大商業施設に客を奪われた、よくある寂れたシャッター商店街が連なります。
市内からは北に赤城山から桐生にかけての山々、西には神流川流域の山々が遠くに望む事が出来ます。写真は旧本庄商業銀行煉瓦倉庫。
至るところに漆喰が使われ換気口が設けられ、担保としての生繭や生糸を貯蔵するための倉庫として明治29年(1896)に建てられました。
明治16年(1883)に鉄道が開通してからは更に交通の要衝となり、地理的に熊谷と並び北関東の養蚕地帯と都心を結ぶ中継地点であった事から街が栄えました。
市街には栄華を誇った時代の建物が幾つか残されています。こちらは国登録有形文化財の本庄仲町郵便局。
こちらは県指定文化財の旧本庄警察署。結構古い建物は多く残されているのですが、街並みとしては保存されてないので観光資源としては弱いです。
こちらはガラスや陶器を扱う戸谷八。創業永禄3年(1560)と言うから、よ、460年前? 桶狭間!? 確かに戸谷家は利根川水系の廻船問屋で永禄3年に現在の太田市から本庄へと本拠地を移して名主を務め、1751年より砂糖と陶磁器の商いを始めたとされてます。
間口45mに対し奥行き90m。何気なく撮って後で調べてみれば、まさに本庄の歴史を語る上で欠かせない名家中の名家じゃないですか。地の利として本庄は利根川に鏑川や神竜川が合流する舟運の要衝でも有り、ただの宿場町ではありませんでした。
古くは中世から江戸期、明治大正昭和と発展し続けて来た本庄ですが、多くの地方都市がそうであるように栄えたのも昭和まで。こちらは映画館の旧・本庄シネマGIN座跡。
明治大正期の歴史的建造物などに目が行きがちですが、昭和の木造建築も多く残されています。こちらは看板建築長屋。丸窓が印象的です。
ことごとく廃業していますが、これらの建物も非常に貴重な昭和遺産です。
こう言った物がこれからの時代、観光資源になって行くと思うのですが。
そんな街ブラするだけでも楽しめる本庄ですが、ここからが本番。街の繁栄と共に当然花街や歓楽街としての発展もありました。
一本路地を入れば、そこかしこにスナックが点在しています。
バラックみたいな民家かなと思えば左奥に気になる構造物が。
ここもスナック跡でした。住宅街の中に忽然と姿を見せるので油断なりません。
こちらはかつて路地裏飲食店街だったのでしょうか。左手が空き地となっているので当時の様子を知ることはできませんが。
しかし空き地の奥に飲食店の入り口跡らしき物が。
これだけ栄えていた街だけに古くは宿場町の飯盛女から遊郭まで存在しました。二階の欄干がそれっぽいですが確証は得られません。
丸窓がいかにもな建物。埼玉県は明治8年(1875)に廃娼県となりましたが、群馬県から合併された本庄と深谷だけは遊郭が存続されました。しかし明治27年(1895)には群馬県も廃娼県となり、その頃には本庄の遊郭も消滅。
しかしながら公娼が料理店の名目で私娼となっただけで色街は残り続けました。
しかし廃娼県においてその存在はあくまで闇であり、戦後の赤線時代もあったかも知れませんが記録や資料が乏しいそうです。
ふと、気になるバラック長屋を見つけました。
この窓、普通の民家だろうか。
塀があって門を潜って玄関と言う造り。
本当にただの民家かも知れませんが、ただの長屋でこの造りは何とも。
共同の水場もあります。この辺は昭和以前の長屋って感じですね。
いわゆる私娼は黒歴史なので、あまり触れちゃいけない部分でも有ります。
真相は分かりませんが、ちょっと興奮しちゃいました。
最後に激渋理容室を幾つか。こちらは蔵をリノベーションした理容室。観光地化するポテンシャルを秘めています。
これだけ古い建物でも現役で営業しているのが凄い。
おいおい本当かよ!とついツッコんでしまった理容室。室外機そこでいいのか⁉︎
本庄、なかなか奥が深い。
現在ではモータリゼーションによって郊外の幹線道路沿いに出来た巨大商業施設に客を奪われた、よくある寂れたシャッター商店街が連なります。
市内からは北に赤城山から桐生にかけての山々、西には神流川流域の山々が遠くに望む事が出来ます。写真は旧本庄商業銀行煉瓦倉庫。
至るところに漆喰が使われ換気口が設けられ、担保としての生繭や生糸を貯蔵するための倉庫として明治29年(1896)に建てられました。
明治16年(1883)に鉄道が開通してからは更に交通の要衝となり、地理的に熊谷と並び北関東の養蚕地帯と都心を結ぶ中継地点であった事から街が栄えました。
市街には栄華を誇った時代の建物が幾つか残されています。こちらは国登録有形文化財の本庄仲町郵便局。
こちらは県指定文化財の旧本庄警察署。結構古い建物は多く残されているのですが、街並みとしては保存されてないので観光資源としては弱いです。
こちらはガラスや陶器を扱う戸谷八。創業永禄3年(1560)と言うから、よ、460年前? 桶狭間!? 確かに戸谷家は利根川水系の廻船問屋で永禄3年に現在の太田市から本庄へと本拠地を移して名主を務め、1751年より砂糖と陶磁器の商いを始めたとされてます。
間口45mに対し奥行き90m。何気なく撮って後で調べてみれば、まさに本庄の歴史を語る上で欠かせない名家中の名家じゃないですか。地の利として本庄は利根川に鏑川や神竜川が合流する舟運の要衝でも有り、ただの宿場町ではありませんでした。
古くは中世から江戸期、明治大正昭和と発展し続けて来た本庄ですが、多くの地方都市がそうであるように栄えたのも昭和まで。こちらは映画館の旧・本庄シネマGIN座跡。
明治大正期の歴史的建造物などに目が行きがちですが、昭和の木造建築も多く残されています。こちらは看板建築長屋。丸窓が印象的です。
ことごとく廃業していますが、これらの建物も非常に貴重な昭和遺産です。
こう言った物がこれからの時代、観光資源になって行くと思うのですが。
そんな街ブラするだけでも楽しめる本庄ですが、ここからが本番。街の繁栄と共に当然花街や歓楽街としての発展もありました。
一本路地を入れば、そこかしこにスナックが点在しています。
バラックみたいな民家かなと思えば左奥に気になる構造物が。
ここもスナック跡でした。住宅街の中に忽然と姿を見せるので油断なりません。
こちらはかつて路地裏飲食店街だったのでしょうか。左手が空き地となっているので当時の様子を知ることはできませんが。
しかし空き地の奥に飲食店の入り口跡らしき物が。
これだけ栄えていた街だけに古くは宿場町の飯盛女から遊郭まで存在しました。二階の欄干がそれっぽいですが確証は得られません。
丸窓がいかにもな建物。埼玉県は明治8年(1875)に廃娼県となりましたが、群馬県から合併された本庄と深谷だけは遊郭が存続されました。しかし明治27年(1895)には群馬県も廃娼県となり、その頃には本庄の遊郭も消滅。
しかしながら公娼が料理店の名目で私娼となっただけで色街は残り続けました。
しかし廃娼県においてその存在はあくまで闇であり、戦後の赤線時代もあったかも知れませんが記録や資料が乏しいそうです。
ふと、気になるバラック長屋を見つけました。
この窓、普通の民家だろうか。
塀があって門を潜って玄関と言う造り。
本当にただの民家かも知れませんが、ただの長屋でこの造りは何とも。
共同の水場もあります。この辺は昭和以前の長屋って感じですね。
いわゆる私娼は黒歴史なので、あまり触れちゃいけない部分でも有ります。
真相は分かりませんが、ちょっと興奮しちゃいました。
最後に激渋理容室を幾つか。こちらは蔵をリノベーションした理容室。観光地化するポテンシャルを秘めています。
これだけ古い建物でも現役で営業しているのが凄い。
おいおい本当かよ!とついツッコんでしまった理容室。室外機そこでいいのか⁉︎
本庄、なかなか奥が深い。