ちょっと更新に間が空きましたが、やっと仕事が落ち着いたので行田方面に行って参りました。
行田駅の駅前のスカスカ感、高崎線のどの駅で降りても似たような雰囲気です。かつては駅前商店街も多少有ったのかも知れませんが。
行田駅でレンタルサイクルを借り南西へ。堤防の上には決壊跡の碑があります。特に昭和22年のカスリーン台風の被害は酷く、沿岸から東京にかけて大規模な浸水被害があったとか。
度重なる洪水を経て築かれた堤防から荒川河川敷へと降りて行きます。ちなみに市街地は行田市でしたが、元荒川と言う小川を渡って荒川河川敷に入ると熊谷市になります。
広大な農地となっている河川敷を進むと墓地があります。この墓地がかつて存在した新川集落の痕跡です。
以前、さいたま市と川越市の荒川河川敷に存在した農村の跡地である塚本堤外地と握津堤外地に訪れましたが、ここは町としても栄えていたようです。
始まりは江戸初期、堤防の内陸側を流れる元荒川から現在の荒川へと流れを移した江戸初期の瀬替工事が新川村の発祥となります。
江戸時代、地下水が豊富だったことから桑が良く育ち、養蚕業が盛んになりました。川の下流側、南東側より上流側へと進んで行きます。
廃村としてはあまりにも古すぎて、かつての家はこのように雑木林になっております。
小さな祠はいつの時代の物か。奥の竹林も屋敷の跡地です。
農地の至る所に地下水を汲み上げるポンプがあり、そのために電線が張り巡らされています。
農地のほとんどが水田で、二毛作によって麦も作られているとか。土壌は本当に良いそうです。
こちらは数少ない遺構のひとつ、大正時代の屋敷の石垣。最盛期がいつ頃なのか分かりませんが、明治20年(1887年)の時点で94戸532人の人が住み、49艘の船があったそうです。
村の跡を進んでいくと新川村についての説明が。この村には江戸初期より500人ほどの人々が暮らし、戦後間もなく廃村となったそうです。
かつての村の地図。廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋などが軒を連ねています。秩父で伐採された材木が荒川を下り、この地で筏に組み上げられて江戸は木場まで下って行ったと言う。同時に船運としての交通の要衝でもあったようです。
かつての屋敷への入り口。中には基礎となる束石ぐらいは残っているかも知れませんが、とても入れる状態ではありません。
村の上流側の端辺りまで来ました。ここにも墓地があります。村は度重なる洪水の被害に遭いながらも300年もの歴史を重ねて来ました。
こちらは3箇所目の墓地。大正時代には現在の堤防が村の内陸側に出来た事により取り残される形となります。折しも鉄道の開通によって船運は廃れ、養蚕業もナイロンの登場によって廃れて行き、人口も減り続けていました。
最後に三島神社跡を探します。ゴルフ練習場の脇を進んで行くと行き止まり。戻って練習場の方に尋ねると、行き止まりの先の畑の奥にあるとの事。もう一度行き止まりまで進み畑へと降りて脇を進む。
目的地はこの藪の中。Googleで調べた時とはえらい違う様子。
あ、ありましたwww
崩れかけた鳥居。奥の藪は増水によって薙ぎ倒されています。いや、増水の度に幾度となく浸水しているだろう場所に、鳥居が残っているだけでも凄いです。
思えば墓地でも幾つかの墓石が倒れていました。その度に一族の方が直し、管理され続けているのでしょう。
先祖が暮らした土地と言う事で村の痕跡はほぼ消滅したものの、今でも農地は使われ続け、村の存在は語り継がれていきます。
行田駅の駅前のスカスカ感、高崎線のどの駅で降りても似たような雰囲気です。かつては駅前商店街も多少有ったのかも知れませんが。
行田駅でレンタルサイクルを借り南西へ。堤防の上には決壊跡の碑があります。特に昭和22年のカスリーン台風の被害は酷く、沿岸から東京にかけて大規模な浸水被害があったとか。
度重なる洪水を経て築かれた堤防から荒川河川敷へと降りて行きます。ちなみに市街地は行田市でしたが、元荒川と言う小川を渡って荒川河川敷に入ると熊谷市になります。
広大な農地となっている河川敷を進むと墓地があります。この墓地がかつて存在した新川集落の痕跡です。
以前、さいたま市と川越市の荒川河川敷に存在した農村の跡地である塚本堤外地と握津堤外地に訪れましたが、ここは町としても栄えていたようです。
始まりは江戸初期、堤防の内陸側を流れる元荒川から現在の荒川へと流れを移した江戸初期の瀬替工事が新川村の発祥となります。
江戸時代、地下水が豊富だったことから桑が良く育ち、養蚕業が盛んになりました。川の下流側、南東側より上流側へと進んで行きます。
廃村としてはあまりにも古すぎて、かつての家はこのように雑木林になっております。
小さな祠はいつの時代の物か。奥の竹林も屋敷の跡地です。
農地の至る所に地下水を汲み上げるポンプがあり、そのために電線が張り巡らされています。
農地のほとんどが水田で、二毛作によって麦も作られているとか。土壌は本当に良いそうです。
こちらは数少ない遺構のひとつ、大正時代の屋敷の石垣。最盛期がいつ頃なのか分かりませんが、明治20年(1887年)の時点で94戸532人の人が住み、49艘の船があったそうです。
村の跡を進んでいくと新川村についての説明が。この村には江戸初期より500人ほどの人々が暮らし、戦後間もなく廃村となったそうです。
かつての村の地図。廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋などが軒を連ねています。秩父で伐採された材木が荒川を下り、この地で筏に組み上げられて江戸は木場まで下って行ったと言う。同時に船運としての交通の要衝でもあったようです。
かつての屋敷への入り口。中には基礎となる束石ぐらいは残っているかも知れませんが、とても入れる状態ではありません。
村の上流側の端辺りまで来ました。ここにも墓地があります。村は度重なる洪水の被害に遭いながらも300年もの歴史を重ねて来ました。
こちらは3箇所目の墓地。大正時代には現在の堤防が村の内陸側に出来た事により取り残される形となります。折しも鉄道の開通によって船運は廃れ、養蚕業もナイロンの登場によって廃れて行き、人口も減り続けていました。
最後に三島神社跡を探します。ゴルフ練習場の脇を進んで行くと行き止まり。戻って練習場の方に尋ねると、行き止まりの先の畑の奥にあるとの事。もう一度行き止まりまで進み畑へと降りて脇を進む。
目的地はこの藪の中。Googleで調べた時とはえらい違う様子。
あ、ありましたwww
崩れかけた鳥居。奥の藪は増水によって薙ぎ倒されています。いや、増水の度に幾度となく浸水しているだろう場所に、鳥居が残っているだけでも凄いです。
思えば墓地でも幾つかの墓石が倒れていました。その度に一族の方が直し、管理され続けているのでしょう。
先祖が暮らした土地と言う事で村の痕跡はほぼ消滅したものの、今でも農地は使われ続け、村の存在は語り継がれていきます。