まず鹿島神宮に行かなければならないのですが、ウチからの最速ルートが日暮里乗り換え常磐線、我孫子から成田線。この成田線、我孫子〜成田間が支線のようになっており、成田で佐倉〜銚子間の本線に合流するので成田駅にて銚子行きに乗り換えて佐原まで。
外房も内房もそうですが千葉を走る209系ってとにかく窓が汚いと言う勝手なイメージがあります。前置きが長いですが、何しろ今回の目的地が少ないので撮れ高の問題がありまして、余談で間を繋いでいきます。
去年の3月鹿島線に投入されたE131系で佐原より鹿島神宮まで。実に4回も乗り換えました。昔は東京駅から鹿島神宮行き特急「あやめ」なんて言う特急列車もありましたが、今の時代鉄道使って観光目的で水郷訪れる人も少ないのでしょう。まぁ、佐原や潮来もその内訪れてみようかと思います。
鹿島神宮から鹿島臨海鉄道に乗り換え、北浦と鹿島灘の間を北上し大洋駅まで。トータル埼玉の川口から3時間以上掛かりました。遠いわー。
駅から鉾田方面に歩いて20分、県道242号線沿いに旧陸軍鉾田飛行学校監敵壕があります。
窓は銃口を出せる最小限の大きさで、裏に小さな入り口がありました。昭和16年1月、静岡県浜松市の飛行学校より分離移転し建てられたこの施設は、主に軽爆撃機に関する教育と研究を行なっていたそうで、この年の12月には太平洋戦争開戦となりました。
近くに陸軍鉾田飛行学校の顕彰碑が建っています。戦況が悪化した昭和19年3月、この飛行学校にも本土防衛のため飛行連隊が編成され、特攻する飛行機すら不足してきた同9月にはここの九九式双発軽爆撃機までもが特攻に駆り出されて行きました。
この建物は当時の遺構でしょうか、非常に怪しいです。中を覗いたところブロック塀に外側だけモルタル仕上げで木造の屋根と言った造りでした。関東大震災のあとブロック塀は倒壊の危険性からしばらく禁止され、大谷石が擁壁などに使われるようになったと聞きますが、戦時中とかどうだったのでしょう。
かつて滑走路があった場所は全て農耕地帯となっており、当時の面影など全く残っていません。
そんな農耕地帯の真ん中に、今回の目的地である廃車両があります。1時間以上歩いてやっと遠くに見えて来ました。
日立電鉄のモハ11。昭和23年日立製作所製です。茨城には倉庫として再利用されている日立電鉄の廃車両が幾つか残っていると言う情報を、2018年11月に付近を訪れた後で知りました。しかし年々解体されて行き、現在残っているのは数少ないようです。以前訪れた時ここの廃車両を知らずに帰ってしまい、その時の悔しい思いをずっと引き摺っていました。
内部はこんな感じ。床も腐っており、もう倉庫としてもあまり使われていないのでしょうか。
劣化が激しいですが、運転席にはマスコンがちゃんと残っているじゃありませんか。木製扉もいい感じ。
雨晒しなので錆びるがまま。いずれ天井も崩れ落ちてしまうでしょう。
印象に残る風景。ネットで写真を見てから、ずっと来たいと思っていました。個人所有物のため詳しい場所は明かされておらず、何日もGoogleマップの空撮とストリートビューでしらみ潰しに探して特定しました。
ついでと言ったらなんですが、前回訪れたクモハ352も見て来ました。
前回も書きましたが、元々は静岡鉄道の車両で昭和43年製造。昭和59年に日立電鉄へ譲渡され、平成6年まで使用されていたそうです。現在は倉庫として再利用されており、外装はなぜか静岡鉄道仕様に塗装し直されています。ちなみにその日立電鉄も平成17年、設備を更新する資金が無い事を理由に全線廃止されてしまいました。
ここにも廃車両がwwww
一般的にはトラックの荷台などが農家の倉庫として再利用されているようです。
帰りは鹿島神宮駅から高速バスで東京駅まで。なんと切符が硬券でした。
外房も内房もそうですが千葉を走る209系ってとにかく窓が汚いと言う勝手なイメージがあります。前置きが長いですが、何しろ今回の目的地が少ないので撮れ高の問題がありまして、余談で間を繋いでいきます。
去年の3月鹿島線に投入されたE131系で佐原より鹿島神宮まで。実に4回も乗り換えました。昔は東京駅から鹿島神宮行き特急「あやめ」なんて言う特急列車もありましたが、今の時代鉄道使って観光目的で水郷訪れる人も少ないのでしょう。まぁ、佐原や潮来もその内訪れてみようかと思います。
鹿島神宮から鹿島臨海鉄道に乗り換え、北浦と鹿島灘の間を北上し大洋駅まで。トータル埼玉の川口から3時間以上掛かりました。遠いわー。
駅から鉾田方面に歩いて20分、県道242号線沿いに旧陸軍鉾田飛行学校監敵壕があります。
窓は銃口を出せる最小限の大きさで、裏に小さな入り口がありました。昭和16年1月、静岡県浜松市の飛行学校より分離移転し建てられたこの施設は、主に軽爆撃機に関する教育と研究を行なっていたそうで、この年の12月には太平洋戦争開戦となりました。
近くに陸軍鉾田飛行学校の顕彰碑が建っています。戦況が悪化した昭和19年3月、この飛行学校にも本土防衛のため飛行連隊が編成され、特攻する飛行機すら不足してきた同9月にはここの九九式双発軽爆撃機までもが特攻に駆り出されて行きました。
この建物は当時の遺構でしょうか、非常に怪しいです。中を覗いたところブロック塀に外側だけモルタル仕上げで木造の屋根と言った造りでした。関東大震災のあとブロック塀は倒壊の危険性からしばらく禁止され、大谷石が擁壁などに使われるようになったと聞きますが、戦時中とかどうだったのでしょう。
かつて滑走路があった場所は全て農耕地帯となっており、当時の面影など全く残っていません。
そんな農耕地帯の真ん中に、今回の目的地である廃車両があります。1時間以上歩いてやっと遠くに見えて来ました。
日立電鉄のモハ11。昭和23年日立製作所製です。茨城には倉庫として再利用されている日立電鉄の廃車両が幾つか残っていると言う情報を、2018年11月に付近を訪れた後で知りました。しかし年々解体されて行き、現在残っているのは数少ないようです。以前訪れた時ここの廃車両を知らずに帰ってしまい、その時の悔しい思いをずっと引き摺っていました。
内部はこんな感じ。床も腐っており、もう倉庫としてもあまり使われていないのでしょうか。
劣化が激しいですが、運転席にはマスコンがちゃんと残っているじゃありませんか。木製扉もいい感じ。
雨晒しなので錆びるがまま。いずれ天井も崩れ落ちてしまうでしょう。
印象に残る風景。ネットで写真を見てから、ずっと来たいと思っていました。個人所有物のため詳しい場所は明かされておらず、何日もGoogleマップの空撮とストリートビューでしらみ潰しに探して特定しました。
ついでと言ったらなんですが、前回訪れたクモハ352も見て来ました。
前回も書きましたが、元々は静岡鉄道の車両で昭和43年製造。昭和59年に日立電鉄へ譲渡され、平成6年まで使用されていたそうです。現在は倉庫として再利用されており、外装はなぜか静岡鉄道仕様に塗装し直されています。ちなみにその日立電鉄も平成17年、設備を更新する資金が無い事を理由に全線廃止されてしまいました。
ここにも廃車両がwwww
一般的にはトラックの荷台などが農家の倉庫として再利用されているようです。
帰りは鹿島神宮駅から高速バスで東京駅まで。なんと切符が硬券でした。