石川県

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令和6年能登半島地震、お見舞い申し上げます

まずは被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
私は能登半島には2度、富山県氷見市には出張で1か月半滞在した他に3度ほど訪れており、特に好きな地方であります。

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こちらは能登町宇出津の街並み。能登半島は木造建築が非常に多く残されております。

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2020年の春にお世話になった宇出津の民宿「ふわ」さん。ご無事であればいいのですが。

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こちらは輪島市の中心街。半島は他地域と比較すると経済的な発展に於いてどうしても遅れており、その結果古くからの木造が多く鉄筋コンクリート造の建築物が少ないです。

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文化財建築も多いのですが、このような木造建築が多く残された街並みが好きで、正直「僻地」であって良かったと思っていました。

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しかし当然ながら耐震性で考えれば強いとは言い切れません。元々日本建築は地震には強いのですが、老朽化もありますし想定外の大地震には耐え切れません。さらに火事に弱いと言う弱点もあります。

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輪島市西部の上大沢集落。志賀町に近い地域になります。私はまずこの集落の事が心配になりました。

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断崖絶壁に囲まれた河口の集落は目の前が海になっております。さらにその集落はほぼ全てが古い木造建築です。まず津波の被害がどうか、そして住人の方々が高台に避難されたとしてももし火災が起きたら全滅の危険性があります。

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陸の孤島なので消防車も救急車も来れません。道路は崖にへばりつくように狭い道があるのみで、輪島方面に出る県道35号線は現在崖崩れのため寸断されています。

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この集落は自分の中でも思い入れが強く、必ずもう一度訪れたいと思い続けていました。住民の方々の無事を祈ります。

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今回の地震では能登半島付け根の東側、富山湾に面した富山県氷見市も甚大な被害を受けました。

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この街も多くの木造建築が残っており、また多くの家屋が倒壊してしまいました。私は東日本大震災直後、都内で仕事が無くなってしまったため氷見市の総合病院の建設に携わるべく1か月半長期出張していました。

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中心街には鉄筋コンクリート造の建物もありますが老朽化が進んでおり、耐震性に於いては不充分と言わざるを得ません。東日本大震災の時氷見市ではほとんど揺れなかったそうで、地元の方々の感覚では対岸の火事のような感覚がありました。

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古い建物は貴重な観光資源であり残すべきもの、そう私も考えておりましたが、当然人の命には換えられません。かと言って全てを耐震性耐火性に優れた新築建造物に建て替えるのも違うとも思う。古い街並みを景観として残したまま耐震補強工を施工する、それは非常に難しい事かも知れません。
私などは外部の人間が地方を訪れ古い街並みにテンションが上がるに過ぎない者ですが、実際に住まわれている方々の気持ちはどうか。これからはその辺の事柄にも寄り添って行ければと思います。
まずはライフラインの復旧。道路交通網の復旧。家屋などの復興。そして経済の復興。東日本大震災では震災以前と以後では人口の減少など大きく変わってしまいました。それを私は危惧しています。勝手な考えかも知れませんが、土地を離れず大地震前の生活に戻る事が復興だと思いますし、こちらとしては観光産業の復興と発展を応援する事ぐらいしか出来ません。

改めて、被災された方々にはお見舞い申し上げます。

石川県金沢市、新天地と金沢中央味食街

金沢は2006年と2007年に訪れていますが、いまだに観光名所には行っておりません。そして今回も。

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金沢随一の繁華街である片町。しかしちょうど新型コロナウイルスにより石川県が非常事態宣言を発令。旅の疲れも有るし夜は大人しくしていました。

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大通りから路地を1本入った所にある飲み屋街、新天地。戦後、昭和25年頃からある飲み屋街ですが、かつては青線地帯でもあったとか。

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二階建ての長屋が連なっていますが、店は改装を重ね店主も割と若い方が多いようです。

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ただ時節がら約7割のお店に臨時休業の張り紙が。

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今回金沢を訪れた目的はこちら。金沢中央味食街。屋根の低さにまず驚く。

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このバラック横丁、13年前にたまたま通り掛るも、その雰囲気に二の足を踏んでしまい入りませんでした。その事がずっと後悔として残っていて。

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しかし今回、この路地裏飲食店街全体が休業中。そりゃ狭い密閉空間に密集するんですから当然でしょう。

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突き当たって左手に曲がると、裏手にも店が。しかもここ、空き店舗は無く20軒全てが営業しているそうです。金沢恐るべし。ここはコロナ騒動が沈静化してから、また改めてリベンジしたいと思います。

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大通りに出るとH&Mなんかあったりして、普通に都会って感じがします。しかしよく見ればそそるビル地下飲食店街も。

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大通りを北へ進むと犀川にぶつかり、片町界隈はここまで。川の向こうは料亭街などがあります。この大正13年に掛けられたという犀川大橋もかっこいい。

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川向こうは寺町。まず目に止まるのがこの木造建築。

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この見事な木造4階建の建物は懐石料理の山錦楼です。

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正面に回るとこんな感じ。内部も見たいけど、敷居も値段も高くて到底無理ってもんです。

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向かい側に建つのは山錦楼の別館のようです。

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その右隣にも懐石料理の店、春次郎が。

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坂を登り切った所にある古い建物、こちらは会社か何かのようです。ともあれ川を隔てた片町界隈と寺町とのギャップがえげつないです。
さらに奥へと進めば西茶屋街などもあるのですが、それはまた次の機会に。

石川県輪島市、間垣に囲まれた上大沢集落

能登半島の日本海側は内浦地区と雰囲気が一変し、荒々しい地形となります。

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海岸線は断崖絶壁となり、小さな河川が注ぐ狭い河口や山の中腹の僅かな平地に家々が身を寄せ合って集落を形成しております。輪島より集落と集落を結ぶ道は険しく、人の行き来を拒んでいるよう。

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輪島から西へ海岸伝いに行った上大沢地区。近隣の集落へ行くにも一度崖の上まで登り、峠道のような狭い道で尾根をいくつか越えて行かなければならない文字通り陸の孤島。もし富山湾側のように海岸線ギリギリに道を通そうものなら、日本海の荒波に一瞬で呑まれてしまいます。

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日本海側の集落の特徴として、海から吹き付ける北風から家々を守る間垣という囲いがあります。

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ここ上大沢地区のそれは集落全体を囲む大規模なもの。集落へ入るにも海側からだと、ご覧のような引き戸を開けて入ります。

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つい、ごめんくださいと言ってしまいそうな引き戸を潜れば集落が広がっています。

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振り返れば間垣の向こうに日本海。以前は北陸鉄道の路線バスも走っていましたが廃止され、2019年10月より輪島市によって「愛のりバス」というスクールバスが運行されています。輪島行きが朝2本昼1本、輪島発が昼1本夕方2本で、一応一般の人も乗れます。ただ運賃が一律100円で、輪島市に税金を払ってない他県者としては申し訳ない気分。タクシーを利用すると5000円以上掛かる距離だし。

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集落には狭い路地が張り巡らせられており家々の境界も曖昧。なんだか異世界に飛び込んでしまったような感覚。

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しかも集落のほぼ全ての家屋が板貼りの木造建築。国の重要文化的景観に指定されていますが、選定されたのが2015年。それまでにこれほど木造建築が密集して残っていたのは奇跡に近い。

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まるで映画のオープンセットのよう、と思ったら、ひと山越えた東隣の大沢地区では2015年NHK朝の連続ドラマ「まれ」のロケ地に使われていました。そのドラマ見た事は無いんですがね。

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集落は川の左岸(西側)に細長く、背後には山が迫っております。

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家々が密集しているため、路地のいたるところに消火栓があります。この狭さでは当然消防車など入って来れず、それ以前に輪島から消防車が到着するまで30分近く掛かる。火が出たら全滅の可能性だってある。

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このような隔絶された集落でも猫はいる。

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間垣は海岸から川沿いに沿って、ずっと続きます。谷が狭いため川伝いに風が吹き込むのでしょう。

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漁具でしょうか。海底のウニとかワカメとか取れそうな形。

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集落の一番奥には神社もあります。夏には祭も開催されていますが、すでに高齢化が進んでいるため山車の曳き手にも困っている事でしょう。

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集落の奥には川沿いに水田地帯が広がっています。いわゆる半漁半農を生業として来たようです。

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輪島の北東部にある千枚田は有名ですが、この間垣の里は直前まで全く知りませんでした。もっとも隣の大沢地区に民宿が一軒あるのみで、この上大沢地区には商店はおろか自動販売機すら無く、観光スポットとしてもマイナー中のマイナー。本当に明治大正から時が止まっているかのようです。

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間垣がニガタケという細い竹を使用してますが、まるで城壁に囲まれた都市国家のようにも見えて来ます。ウドを採って来たお婆ちゃんに挨拶するとにこやかに返事してくれましたが、ここまでの秘境となると村社会的意識も強かろうと想像します。

石川県能登半島、旧・のと鉄道廃線跡(後編)

現在旧能登線のルートを代替バスが走っており駅の無かった集落にもバス停が出来て、結果的には大量輸送出来ない代わりに利便性が向上したのかも知れません。

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こちらは波並駅跡。海沿いの駅で桜並木も見事。

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無人駅ですが、もし鉄道が走っていれば素晴らしいロケーションです。

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待合室も当時のまま残っていました。富山湾沿岸の内浦地区が波も穏やかで、海岸線ギリギリを道路と線路が走っていました。ただ漁村の背後には山が迫り、このような地形ゆえに道路の拡張が難しく、一部の地域では未だに1車線道路のまま。その頃はまだ鉄道の利用価値も高かったのですが、山間部に道幅の広いバイパスが開通すると、穴水や金沢方面への人の流れが変わり、鉄道廃止の一因となりました。

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波並駅跡と藤波駅跡の間、跨線の下に廃車両が打ち捨てられています。

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この車両、NT123形気動車は元々宇出津駅に留置されていた物を、宇出津駅構内の線路の撤去、並びに構内の再開発に伴い、線路の続く限り移動されてこの場所に辿り着いたとか。辛うじて雨をしのげる跨線下を選んだのは、頑張って来た車両に対するせめてものはなむけでしょうか。

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車両の脇には2003年に開業した能登空港の広告。のと鉄道廃止までの1年半、貼られ続けていたという事でしょうか。羽田から1日2便直行便が発着することで、奥能登の発展を夢に見ていた事でしょう。

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こちらは宇出津駅跡。現在は図書館や公民館などが入るコミュニティセンターが跡地に新設されています。

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宇出津駅跡より珠洲方面に少し歩くと、トンネルの跡が残っています。

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こちらは珠洲にも近い鵜飼駅跡。現在駅舎はカフェとして再利用されています。

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鵜飼駅跡のプラットホーム。桜が咲き誇っていました。

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待合席の跡も残っています。のと鉄道の遺構はほぼ全ての駅がこのような形で残っております。

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こちらは珠洲駅跡。現在すずなり館としてバスターミナル、お土産店、観光案内所などが入り、奥能登の観光拠点となっています。

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ホームと線路は当時のまま。廃線跡では大抵全ての線路が撤去され再利用されているのですが、ここは鉄道が走っていた事を記憶しておこうと保存されています。

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駅名表示板が国鉄時代の物でしょうか。

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正院駅と終点の蛸島駅の間、一両の車両が佇んでいます。

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この車両、NT102形気動車はNPO法人のとレール・エア21に譲り受けられ、2007年を目処に体験運転の出来る動態保存を目指していました。しかし資金難やスタッフ不足によるのでしょうか、見ての通り朽ち果てております。

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しかし2019年12月、石川県珠洲市にある石川県立飯田高等学校が授業の中で行っている探究型学習「ゆめかなプロジェクト」で、「廃列車カフェを開こう!」を目標に集まった生徒達が企画し、草刈りや車内清掃などをして、二日間限定で廃列車カフェを開催しました。今年2020年4月、第2回廃列車カフェを計画していましたが、新型コロナウイルスの影響で延期。現在のこのウイルスが沈静化し元の生活が戻って来た折には、ぜひまた実現して欲しいものです。

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最後に終着駅の蛸島駅跡。

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珠洲市の東の外れにある小さな漁村で、ここより北東には小さな漁村と能登半島の先端、禄剛崎しかありません。まさに最果ての街。

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ここにも見事な桜が。のと鉄道能登線沿線の多くの駅には桜が植えられており、もし鉄道が走っていたら花見列車として立派な観光資源となった事でしょう。

石川県能登半島、旧・のと鉄道廃線跡(前編)

かつて北前船が流通の主役だった時代より鉄道の時代へと移り変わり、能登半島は果ての地となってしまいました。しかし鉄道網の発展により1935年、北陸本線の津幡より外洋に面する輪島へ至る国鉄七尾線が全線開通。その後富山湾に面する内浦地区の各漁村を結ぶべく、穴水より枝分かれして蛸島へと至る国鉄能登線が1964年に全線開通した。

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しかし人口減少や自家用車の普及に伴い赤字路線となり廃止の危機を迎えるも、国鉄がJRへと分割民営化された後の1988年、和倉温泉以北の七尾線と能登線は第三セクター形式での存続が決定。のと鉄道が発足する。写真は現在の穴水駅構内。

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当初のと鉄道は運転本数を増やすことで利便性を向上させ黒字経営に転じさせた。しかし半島の中央などに道路が整備され、モータリゼーションに少子化や過疎化の波が追い打ちをかけた結果、2001年には穴水〜輪島間が、2005年には穴水〜蛸島間が廃止されてしまいました。かつて観光列車として活躍したのと恋路号が、蛸島方面へと向かうホーム跡に留置されたまま。しかし車両はイベント会場等に再利用されています。

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今より32年前、当時19歳だった私はJR能登線からのと鉄道へと変換する場面に立会いました。写真は1988年3月24日、JR能登線最後の日。当時写真の専門学校生だった私は自分で現像やプリントをするため、モノクロ中心で撮影していました。

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どこで撮影したか記憶が定かではないのですが、藤波〜波並付近かと思われます。

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こちらは当時発行されたフリーきっぷ。

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今回はその旧・のと鉄道能登線の廃線跡を巡っていきます。

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まずは沖波駅跡。無人駅でしたが待合室が残されています。

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線路の下をくぐる坂道の途中から待合室の脇を通っていきます。

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1988年3月25日、のと鉄道開業の日は地元の子供たちによる駅伝大会が催されていました。

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階段を昇ればプラットホーム。

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皆、手に手に小旗を振って新しい列車を歓迎していました。

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現在の姿がこちら。廃止より15年の月日が経ち、竹藪に覆われてしまいました。

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酔っ払ったお父さんがホームで踊り出す。当時は地域住民の方々がお祭り騒ぎで開業を祝っていました。

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今では列車も来なければ人も来ない、忘れ去られたプラットホーム。

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子供達は都会に出て老人達は亡くなられ、人々の記憶からも風化して行く。私自身も当時どこの駅で撮影したか思い出せず、ネットの画像から恐らくここだろうと予想して訪れました。

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こちらは矢波駅跡。海と集落を隔てる線路の盛り土が、堤防のようになっています。

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ホームに昇れば見事な桜並木。

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入学シーズンには新入生の子供達を送り出して行ったことでしょう。

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奥能登の未来を築くのと鉄道。残念ながらその役目は鉄道には果たせず。

後編につづく。
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