9月に入ってから俄に仕事が忙しく新しい記事も書けませんでしたが、性懲りも無くまた佐野市に行ってしまいました。
今回は佐野駅からバスに乗ります。中心街から多少外れているとは言え、やはり佐野駅前には唯一賑わっているセブンイレブン以外何もないです。なにしろ南東部に工業団地を中心とした佐野新都市なる開発事業があり、後発で駅前から中心街にかけての「まちなか元気UPプラン」計画が進行している状況です。
バスを待つ間、以前訪れた駅前路地裏飲食店街を覗いて見ましたが、相変わらずの荒廃ぶりでした。
市街地には古い建物も一応残っていますが、区画整理や道路拡張などで昭和の街並みはほとんど残っていません。むしろ開発途上で空き地ばかり増え、以前訪れた伊勢崎の街にも似ています。ここ最近で三回目となる佐野市訪問ですが、中心街は面白くないので行かないと言う。
佐野駅の北西、前々回訪れた田沼の南西になりますが、山沿いに赤見温泉と言う小さな温泉地があります。宿は4軒のみ。日帰り入浴できる所を探しましたが、食事込みの5千円〜9千円のプランしかありませんでした。千円前後で日帰り入浴させてくれてもいいのに。
近くには磯山弁財天が。ここが観光地となっており、温泉宿とセットになっています。しかし、かつては鉱山関係の会社の慰安会や忘年会などに際して多くの団体客が訪れていたのかもしれません。
水源地でもある出流原弁天池。休日だったので観光客もちらほら見受けられました。しかし現在では路線バスの定期運用が廃止され、予約を受けて走るデマンド交通のみとなっております。そのため定期運用のバスに18分揺られて手前の赤見中学校入口で下車し、あとは18分歩かなければなりません。
赤見温泉のすぐ近くにある荻野石灰工業。まだ廃業こそしていませんが、裏山の採石場はすでに閉山されています。
木造の建屋が歴史を感じさせます。一番右手前はトイレで、その前に井戸もあります。
向かいには廃屋となっていますが、役員の住居だったのか立派な家屋も。
隣の宮田石灰には出荷される石灰が置いてあったりするので、会社としては営業しているようです。離れた所に新しい工場があるのか、あるいは卸業としてのみ存続しているのか。
なぜそう思うかと言うと、宮田石灰の裏手に工場の跡地があるからです。かつては裏山から採石した石灰石の精製プラントが有ったのでしょう。
こちらは昭和23年創業の片柳石灰。本社を東京神田に置いていますが、発祥の地である出流原のプラントは操業している様子が見えない。そしてネット上の情報では従業員数1名となっています。なんだろうwww
木造の建屋は創業当時のものかもしれません。
草を掻き分けながら北関東自動車道脇の廃道を進んだ先、以上の三社の裏山には採石場の跡地があります。
もう閉山され採石はされてませんが、それぞれ会社としては存続しているようです。いつ頃から採石が始まったのかはわかりませんが、大正4年に両毛線の富田駅から軽便鉄道が開通しています。しかし思ったほど採掘量が伸びず、出流原弁天の観光開発も空振りに終わり、昭和2年には廃止となりました。現在も採掘が続いている葛生地方と違って、ここ出流原の鉱山は発展しなかったようです。
出流原から東へ、葛生方面から流れる旗川を渡った所に市営石塚住宅があります。
北側に9棟建つこちらの棟は昭和48年前後に建てられた典型的な団地です。
この市営団地が面白いのは、時代の変革に併せて三つの時代の団地建築が同時に見られる事。
こちらは平成12年〜23年まで、約10年間掛けて一棟づつ建て替えられた新しい棟。
南東側に全部で7棟あり、エレベーターが完備されています。
そして最も古いのがこちら、南西側に建つ平屋建て長屋建築の棟。
いつ頃市営住宅が建設されたのか分かりませんが、恐らくは昭和30年代前半ぐらいではないかと思われます。
一棟につき四戸。一戸につき扉が2箇所ありますが、片方は浴室の扉となっています。恐らく後から増設されたものだから、このような形になったのではと思われます。
縁側どころか室内まで隣の棟の玄関から丸見えになるのは、平屋建て団地の特徴とも言えます。前々回訪れた吉水の貸家地帯も同じ時代のものと考えられる。
空き家を覗くとこんな感じ。空き家が多いのですが、恐らくは新規入居者は入れず近い内に建て替えるつもりなんでしょう。公団、市営、県営問わず、老朽化で建て替えたいんだけど入居者が残っているから建て替えられないと言う話はよく聞きます。
とは言え人口が減少傾向にある佐野市の郊外。住宅事情が切迫しているようにも思えません。
この石塚団地、建設当時は出流原の石灰鉱山で労働する方々も住んでいたかもしれません。
また出流原に限らず佐野市北部の山間地には多くの石灰鉱山があります。吉水の貸家もそうですが、高度成長期の住宅事情の名残りが、市内各所に感じられました。
今回は佐野駅からバスに乗ります。中心街から多少外れているとは言え、やはり佐野駅前には唯一賑わっているセブンイレブン以外何もないです。なにしろ南東部に工業団地を中心とした佐野新都市なる開発事業があり、後発で駅前から中心街にかけての「まちなか元気UPプラン」計画が進行している状況です。
バスを待つ間、以前訪れた駅前路地裏飲食店街を覗いて見ましたが、相変わらずの荒廃ぶりでした。
市街地には古い建物も一応残っていますが、区画整理や道路拡張などで昭和の街並みはほとんど残っていません。むしろ開発途上で空き地ばかり増え、以前訪れた伊勢崎の街にも似ています。ここ最近で三回目となる佐野市訪問ですが、中心街は面白くないので行かないと言う。
佐野駅の北西、前々回訪れた田沼の南西になりますが、山沿いに赤見温泉と言う小さな温泉地があります。宿は4軒のみ。日帰り入浴できる所を探しましたが、食事込みの5千円〜9千円のプランしかありませんでした。千円前後で日帰り入浴させてくれてもいいのに。
近くには磯山弁財天が。ここが観光地となっており、温泉宿とセットになっています。しかし、かつては鉱山関係の会社の慰安会や忘年会などに際して多くの団体客が訪れていたのかもしれません。
水源地でもある出流原弁天池。休日だったので観光客もちらほら見受けられました。しかし現在では路線バスの定期運用が廃止され、予約を受けて走るデマンド交通のみとなっております。そのため定期運用のバスに18分揺られて手前の赤見中学校入口で下車し、あとは18分歩かなければなりません。
赤見温泉のすぐ近くにある荻野石灰工業。まだ廃業こそしていませんが、裏山の採石場はすでに閉山されています。
木造の建屋が歴史を感じさせます。一番右手前はトイレで、その前に井戸もあります。
向かいには廃屋となっていますが、役員の住居だったのか立派な家屋も。
隣の宮田石灰には出荷される石灰が置いてあったりするので、会社としては営業しているようです。離れた所に新しい工場があるのか、あるいは卸業としてのみ存続しているのか。
なぜそう思うかと言うと、宮田石灰の裏手に工場の跡地があるからです。かつては裏山から採石した石灰石の精製プラントが有ったのでしょう。
こちらは昭和23年創業の片柳石灰。本社を東京神田に置いていますが、発祥の地である出流原のプラントは操業している様子が見えない。そしてネット上の情報では従業員数1名となっています。なんだろうwww
木造の建屋は創業当時のものかもしれません。
草を掻き分けながら北関東自動車道脇の廃道を進んだ先、以上の三社の裏山には採石場の跡地があります。
もう閉山され採石はされてませんが、それぞれ会社としては存続しているようです。いつ頃から採石が始まったのかはわかりませんが、大正4年に両毛線の富田駅から軽便鉄道が開通しています。しかし思ったほど採掘量が伸びず、出流原弁天の観光開発も空振りに終わり、昭和2年には廃止となりました。現在も採掘が続いている葛生地方と違って、ここ出流原の鉱山は発展しなかったようです。
出流原から東へ、葛生方面から流れる旗川を渡った所に市営石塚住宅があります。
北側に9棟建つこちらの棟は昭和48年前後に建てられた典型的な団地です。
この市営団地が面白いのは、時代の変革に併せて三つの時代の団地建築が同時に見られる事。
こちらは平成12年〜23年まで、約10年間掛けて一棟づつ建て替えられた新しい棟。
南東側に全部で7棟あり、エレベーターが完備されています。
そして最も古いのがこちら、南西側に建つ平屋建て長屋建築の棟。
いつ頃市営住宅が建設されたのか分かりませんが、恐らくは昭和30年代前半ぐらいではないかと思われます。
一棟につき四戸。一戸につき扉が2箇所ありますが、片方は浴室の扉となっています。恐らく後から増設されたものだから、このような形になったのではと思われます。
縁側どころか室内まで隣の棟の玄関から丸見えになるのは、平屋建て団地の特徴とも言えます。前々回訪れた吉水の貸家地帯も同じ時代のものと考えられる。
空き家を覗くとこんな感じ。空き家が多いのですが、恐らくは新規入居者は入れず近い内に建て替えるつもりなんでしょう。公団、市営、県営問わず、老朽化で建て替えたいんだけど入居者が残っているから建て替えられないと言う話はよく聞きます。
とは言え人口が減少傾向にある佐野市の郊外。住宅事情が切迫しているようにも思えません。
この石塚団地、建設当時は出流原の石灰鉱山で労働する方々も住んでいたかもしれません。
また出流原に限らず佐野市北部の山間地には多くの石灰鉱山があります。吉水の貸家もそうですが、高度成長期の住宅事情の名残りが、市内各所に感じられました。