群馬県

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

群馬県太田市(3)、南口駅前通り歓楽街

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。

以前、2016年6月、太田駅北口の街中を散策しましたが、今回は改めて南口を少し歩きます。ちなみに訪れたのは2022年の12月。更新のペースを定期的にするため公開を保留していました。
以前訪れた時の様子はこちら。

3698AF7A-4740-4D0D-AE03-840DC8214A6D

零戦を作っていた中島飛行機を前身とする大手自動車企業、スバル(富士重工業)。現在奥にまた新たな工場を建設中で、北口駅前の再開発も進んでいます。

C9C0B11D-CB2E-4411-AD80-F1BDA1AEFC40

さて、さっそく南口に移動します。駅前にドン・キホーテの入っているショッピングセンターのベルタウン。2021年5月に太田駅南口第三地区再開発事業として解体される事が発表され、以後規模縮小を続けていますが、立ち退きについてビル管理会社と一部テナントとの間で訴訟問題も発生しているとか。ちなみにこの建物は1977年建造で元々はユニーなどが入っていたそうです。

3639E41E-A29C-4ECC-882F-2AB8F78F62B2

太田駅の東寄りから南に向かって、かつて駅前商店街がありました。以前は5車線ほどの車道が有ったと思われますが、現在は広すぎる歩道と2車線道路。どう言う意図でこうなったのか。

F1A62652-3C73-4B34-B37D-FC170ECF0383

そして商店街の跡地はキャバクラやパブなどの歓楽街となっています。

FB6A36CF-BDF3-401C-9425-C3F1D8721B24

特に多いのがフィリピンパブ。思うのですが、以前の大通りだった頃、路上駐車して飲みに行く人が絶えなかったから、車道を縮小したのではないかと。そもそも飲酒運転など言語道断ですが、近年やっと取り締まりが厳しくなって来たものの、地方では暗黙の了解のように飲み屋に駐車場が併設されていました。

601286E7-017B-49A0-918E-DE3107EC41F7

2階建から3階建のビルが建ち並んでいますが、みな同じ造りをしています。恐らく長屋のような造りで同じ年代に建った物かと思われます。見た感じ昭和30〜40年代でしょうか、一度再開発がされたようです。

69728BE7-716B-4E81-B477-926494E74D90

なにしろ場所が中島飛行機のお膝元。当然空襲の標的になったわけで、焼け野原からの戦後の闇市と言う流れがあったのかもしれません。

1F8B6593-4E54-40B2-8CAA-815EA25B7CF1

裏から見るとこんな感じ。

C2C23E7D-8BDB-44A5-A4BF-9895AC0C23CF

建て増しで原型を留めてませんが、フィリピンパブで働く人々が2階で生活しているようです。しかし現在ここも一期市街地再開発検討支援地区に指定されております。

6BF0C6EB-1CDC-4135-9C3E-AA55D76AD41D

とは言えこれだけの飲食店を立ち退きさせるために、並々ならぬ時間が掛かるのは言うまでもありません。

3E51FE12-628F-427A-9BB8-D4CF9C677104

2021年12月に訪れた伊勢崎の街並みを思い出しました。あそこは駅前の商店街と歓楽街を一気に潰したものの、歓楽街は幹線道路沿いのシャッター商店街に移転することによりスムーズに行ったように見えますが、ここは……。

F9684DF9-A93F-4576-816E-702A406091DC

昼下がりの駅前は人っ子一人歩いていませんが、日が暮れたらキャバクラやフィリピンパブに通う男たちで賑わって来ることでしょう。商業圏がイオンモール太田のある郊外の幹線道路沿いに移行した現在、巨額の公共事業費を投じて駅前再開発を行ったところで、一体何になると言うのでしょうか。

12ED0DC9-40B2-4355-8CB8-52A723212EF1

最後にスバル本社のある北口に戻り、再開発によって消えゆく建築物を記録していきます。こちらは駅前ビジネス旅館。南口には立派なビジネスホテルが何軒も建っているので、利用される方がどれほどいるのか。

02743ACF-B51E-4993-B4BF-BB01F333814E

北口の西側。この辺は6年半前にも撮りましたが、まだ生き残っていました。

3360F5F5-1B20-4D4E-AA23-F1525FFE51D2

とは言え以前訪れた時よりだいぶ空き地の数が増えました。

42CB6CAC-D7F5-4BE2-813C-E2AD907EFD9F

北口の東側はすでに広大な更地で工事が始まっています。この辺りも解体を待つばかり。

8E31A8A4-2E1D-47EF-9AB6-F3D939FA6BC9

空き地はひとまず駐車場になります。北口西側は飲み屋街なのですが、現在どれほどの店が営業を続けているのか。

819391AC-C421-429A-B5D5-3AD7C0DF5275

去年から今年にかけて北関東上毛地方を中心に地方都市を巡って来ましたが、観光地開発に成功した街や失敗した街、歴史が深く未だ栄えている街、ドーナツ化現象により駅前がゴーストタウン化した街など、様々な陰と陽が見えて来ました。今後も注目して行きたいと思います。

群馬県伊勢崎市(2)、絹織物で栄えた境町

東武伊勢崎線の太田と伊勢崎市の中間地点にある境町。ちょうど伊勢崎、太田、深谷に囲まれた知名度の低い町ですが、利根川の支流で赤城山から流れる広瀬川の北岸に位置する事から古くより交通の要衝として栄えて来ました。

9A520A28-B2EF-42FF-B2AC-474E86CC0F65

駅前には何も有りませんが、近くを通る国道17号線沿いにちょっとした工業団地があります。

469B8C36-8BED-4889-8A18-A63EC9060E11

駅前にはインド料理屋。ちょうど昼時だったので入ろうと思ったら、インド、パキスタン系の方々で満席。

18A0E628-1DD4-4DB6-9FAC-D0C47122706B

ならばここはどうか?と、思ったらイスラム教のモスクでした。

CCC47B18-CB3C-48DF-8E74-BB77C7D70AE7

気が付いたら町中をインド系の人々が闊歩しています。これは工業団地が近いせいでしょうか、外国人街になりつつあります。地方都市のあるあるですが、いずれこの辺もテーマに掘り下げて行きたいところ。

E5931408-1445-451C-8261-95D8C1E623F7

駅の近くにイベントスペースやアートギャラリーとして利用されている境赤レンガ倉庫があります。

8E608F80-D238-4D79-9556-6AE6EF672389

ここは大正8年(1919年)に繭の保管庫として建設されたレンガ造りの倉庫です。境町は江戸末期より織物産業が盛んになり、桐生、伊勢崎と肩を並べる織物産業の街で、伊勢崎銘仙として広く売り出されていました。ちなみに銘仙とは明治後期より使われるようになった平織した絣の絹織物(大衆向けの和服)の総称で、桐生銘仙や伊勢崎銘仙などブランド名としても使われていました。

BB5F43FD-3959-4367-88A2-7B73863E1BFC

路地にやたら立派な建物がありました。宏遠館って書いてあるこの建物は資源ごみのステーションになっているので、公民館か何かだったのでしょうか。詳細は不明。

4FE61D90-4BA9-476F-AB1E-1B3E55BDD6D7

境町は広瀬川の舟運が始まる鎌倉時代から発達した集落です。またこの辺りは足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の新田荘南西部に位置していました。

4B08C688-8457-40C1-8D01-2E63B028B70A

江戸時代になると京都から東照宮へと向かう勅使が、中山道から日光街道までショートカットする日光例幣使街道が整備され、境町も文久3(1863)年に正式に宿場町となり発展しました。また同時に足尾銅山の公銅(幕府の銅)を陸路から利根川の水運へと切り替える港としても栄え、江戸末期には生糸の流通でも重要な役割を担い、2と7の付く日は市が立ち「六斎市」と呼ばれていました。

39325C57-F1CA-4D78-A7AB-2830FB650421

織物産業で栄えていた当時の名残りとして蔵造りの商家などもあります。ちなみに関東の五大銘仙と言われていたのが境町を含む伊勢崎、桐生、足利、秩父、八王子。桐生はともかく足利も秩父も八王子も歩いていながら、絹産業をテーマに巡っていません。改めて行く必要があります。

EC93EBAF-5849-42A0-B546-1BC18D108834

ただ、観光地として整備されていないので、貴重な歴史的建造物は朽ちるがまま。行政からの援助でもあればいいのですが。

5C8B0937-05D9-47B2-A737-A1492D529C86

こちらは商家をリノベーションして営業されている中澤カフェ。

B424664F-EC33-44A9-898A-294B5A733038

一方で傾いて倒壊しそうな建物も目に付きます。

3B0A0F41-8194-4483-9D5D-6E0C97594213

今では普通の民家ですが、かつては何かしらの商売をされていたのでしょうか。

C60255F8-6343-4447-8ADF-AA602DEEDF8C

見た目は看板建築ですが、中身は大正末期から昭和初期建造の町家造りと言われる井筒屋さん。

2A088C86-0BA7-47E3-8819-CFFADBC446F7

そしてこちらが境町のボスキャラと言うべき存在感を放つ板倉屋薬局。

DEF89414-61FE-4225-963B-36DE9C4FCAF9

昭和8(1933)年建造で、土蔵造りの商家に3階建ての洋館が増築されています。

5EA5E557-1412-4675-BAFA-5553FFD7D505

こちらは明治42(1909)年建造の土蔵造りの商家、斎藤家さん。

5DC8C3A4-675A-46ED-857C-087055CFF5ED

こちらはお団子や豆餅が好評な和菓子屋さんの伊勢屋さん。

DA82801D-21D5-4B35-BFF5-94F30845AB30

飯島本陣跡。表は近代的ですが、裏は中庭や蔵のある立派な商家となっています。

6997D4DB-6E16-4CE8-ABB7-42067876A662

宿場町の西の外れから北、東武伊勢崎線方面に戻ります。

A11194A8-9F99-43AE-A90A-156679CF6C7A

絹の家と呼ばれているこの邸宅は、境町で明治から大正に掛けて機織業の発展に努めた金子仲次郎の居宅です。平成17年の市町村合併により境町は伊勢崎市に組み込まれていますが、伊勢崎機織組合を立ち上げたメンバーの中にも境町出身の者が多く含まれていたそうです。

95CE28D7-C289-498B-B850-63D2F9FD23EF

住宅街の中の古民家。こう言う玄関って今ではなかなか見ない。いっとき境町の元機屋が「境銘仙」として売り出したら大当たりしましたが、すぐに伊勢崎町の元機屋が「伊勢崎銘仙」として売り出したため、地域ブランド名を伊勢崎に取られたと言う騒動があったとか。「境銘仙」は境町の専売であると訴訟したが通らず、最終的には伊勢崎銘仙に組み込まれてしまったとか。

560AD866-BDAC-4DB0-81F1-F00A5AB49464

旧群馬県蚕業取締所境支所。明治39(1906)年に蚕種の微粒子病対策を目的に設けられたもので、現在残る建物は昭和2(1927)年に建替えられた物。しかし現在では立ち入り禁止になっていました。

群馬県館林市(3)、織物や製粉で栄えた街

先月に引き続き館林へ再訪して来ました。

63884BD3-266F-4FF7-A2A4-AAE9FAC834DC

先月末、館林より帰ってから色々と調べるにつき、まず正田貞一郎を語らずして館林を語れないと知り、再訪の機会を伺っていました。しかし仕事が忙しく、早くも1か月が経ってしまった。

2678DB3D-F14A-4619-A5F0-AEFF2FE2D59B

まずは館林駅の真横に有りながらその存在に全く気づいてなかった変電所跡。

05CF6E65-F33A-4BE8-84CE-B06EEF4A072D

この建物は伊勢崎線が全線電化された昭和2(1927)年当時の建築物です。旧貨物駅跡になりますが東武の敷地なので、奥までは入れません。

BB34B4A4-A8F3-4F42-A9A6-A880EBB44447

では前回歩いてなかった町の北側を東へと進みます。前回遠くから撮ったボーリング場跡と思われるような造りの晴明ビル。以前はパチンコ屋が入ってたようですが、現在はパブやキャバクラが入っています。

E0499BA3-220A-4FD8-B5B0-1F1F19CAB9E2

こちらは「Tatebayashi public space」と言う厨房付きシェアスペース。

0410A2A8-7B9E-4D76-A320-355EA78B93EA

意匠が見事ですが1930年代(戦前)建造で何かの事務所として使われていたそうです。

DA45EB69-AF5E-4B82-9253-875C95BE5434

ポツンと建っていたのは国登録有形文化財の分福酒造店舗跡。推定江戸末期の建造だそうです。国の文化財で記念館にもなっているのに、観光パンフなどに紹介されていない。

C59F4546-F735-4DA7-BB4D-36E362006CCD

こちらは銭湯の松の湯。夕方4時営業開始なので入れませんでした。

A9AEE612-6888-4DF4-9659-D9E6DBEA2A46

前回見逃した木造建築物が、まだまだありました。

B11322E8-79C5-44E0-8A18-60C6680A5090

仲町の辺り、バス通りを館林城跡方面に歩きます。しかし木造建築と木造建築の間がスッポリ空き地となっています。かつてはどんな街並みが連なっていたのか、もはや想像も出来ません。

2609629D-9537-4300-86AB-926460AC2F11

特に文化財などに指定されてないので詳細は分かりませんが、藍染の「ひろせ商店」と看板が出ています。

67F30109-90D1-4663-BBCA-4E02B56E6315

館林城跡は微妙に紅葉シーズン。

A12B2712-5F26-49EC-B4D6-F3DE8E324E05

市役所の裏手、城跡の敷地に向井千秋記念こども科学館がありました。宇宙飛行士の向井千秋さんって館林出身だったんですね。

4957B79B-8D15-4C65-857F-41FFD77308D1

その向かいに今回の目的地の一つ、旧上毛モスリン事務所。前回スルーしてしまいました。

86D7BEB4-25A2-4B23-A182-0A893ED5C91A

まずモスリンとは何ぞや。モスマンではなくモスリン。モスリンとは木綿や羊毛などを平織りにした薄地の織物の総称で、ヨーロッパでは薄手の綿織物を指しますが日本では毛織物全般を指すそうです。最初人物名かと思ってた。

ADC34372-56FA-41CD-B640-DF97CE88ADE2

この上毛モスリン事務所は明治43年建造。元々建っていた場所とは多少ズレますが、現在は館林市第二資料館として公開されています。

756A29AB-519F-4333-8884-69459BAB53E0

上毛モスリンは明治35(1902)年設立。当時仲町の辺りに工場を建てましたが、明治40(1907)年に東武鉄道が開通した事を受けてもっと近代的な大規模工場が必要と思い、明治43(1910)年にここ、旧館林城二の丸跡地に新工場を建設。当時の変電所の一部がモニュメントとして保存されています。

D08B40D6-8150-49C6-BF52-89861892F32B

この事務所も明治43年当時の物だそうです。元々養蚕の盛んだった北関東ですが、ここ館林周辺でも伊勢崎や桐生と並んで機織業が盛んでした。荒井藤七、鈴木平三郎らは輸入に頼っていたモスリン生地の国産化に取り組み、明治28(1895)年におそらく日本で初めて製織に成功したものと考えられています。

4E14B3D5-85DC-4B54-A1BA-E871ECD7141A

金庫と倉庫の扉が一階の傍らに有ります。しかし大正12(1923)年、関東大震災で練馬の工場が倒壊した事などによる打撃から立ち直ることが出来ずに破綻。昭和2(1927)年、日本興業銀行や日本毛織などにより設立された共立モスリン株式会社に譲渡されました。

036D7ACA-2F98-47E7-B493-CE8DB5E0EB8A

その金庫は事務所から張り出す形で赤煉瓦にて建てられています。これは恐らく火事になっても大事な物は焼けないようにと言う事でしょう。共立モスリンは昭和16(1941)年、神戸の日本毛織に合併。工場はその後戦時下だった昭和18(1943)年には軍の要請を受けて中島飛行機(現・スバル)に貸与されましたが、戦後はGHQに摂取され倉庫として使われました。

60BE3D20-D7E8-4E14-886B-C18C7EB99C2D

その後館林工場は神戸生絲に賃貸され再稼働しますが昭和53(1978)年、市庁舎建設に伴い規模を縮小。平成4(1992)年には館林市羽附旭町へ移転となって、城跡にあった繊維工場は解体されました。

25547631-C186-42BA-A138-6EC8A395C57D

旧館林モスリン事務所の隣には武家屋敷でもある作家田山花袋邸跡があります。これは昭和54年に城町より移築されたもの。

CC89A87B-DEEB-492E-A1F0-9CBF3ACB458C

さらに東へ歩くと明治末期に建てられた旧秋元別邸があります。秋元興朝とその子春朝は旧館林藩主秋元家に係わりの深い人物で、東京駿河台にある秋元家の屋敷の庭園から移築された石燈篭や庭石もあります。

A3D92017-ADA9-42D5-9926-ACC1A8D4203E

こちらは昭和初期に離れだった洋館を移築、増築したもの。

38CE0A82-0B82-44FD-A51D-06813DD2A757

庭先には多くのツツジや桜なども植えられており、観光スポットとなっております。

77E8128E-88FD-429F-99B2-06A79727212F

訪れた10/25は暖かく、紅葉と一緒に勘違いした桜までもが咲いてしまっていました。紅葉と桜なんて、とんだ異常気象です。

63A48DB5-3825-45BC-9FD7-2AC326D76C21

城跡の先には城沼が広がっています。館林城はこの沼を濠として利用し造られました。ここで館林駅に戻るのですが、基本みんな車で移動するものだから館林駅から市役所のある館林城跡までの路線バスが1時間に1本あるかないか。そのため館林駅まで20分ほど歩かなくてはなりません。この辺は群馬県ならではと言えるかもしれない。

95D7E0CC-5338-42FE-B358-C2F0E6F07EA7

館林駅の反対側(西側)に、群馬県のご当地醤油である正田醤油が有ります。あまり聞き慣れない醤油メーカーですが、主に業務用として全国で使われているそうです。

848C1A22-3997-444C-844A-1B93F639FE92

正田醤油は三代目正田文右衛門が千葉県野田市の二代目茂木房五郎(野田醤油・後のキッコーマン)より醤油醸造業を勧められ、明治6(1873)年末に醤油醸造業を創業したのが初めで、当時はキッコウショウ(亀甲正)と言う屋号でした。

B880743F-5F87-4DB7-B61C-AE93F5602305

本社の脇に正田記念館が有りますが午後2時に閉館だったために入れず。キッコウショウはその後大正6(1917)年に正田醤油として会社設立。営業所が仙台、東京、名古屋、大阪にあるので、都内のスーパーでも見かける事があるかも知れません。

022DAA51-497A-4FB1-B3A5-A1626463611B

正田醤油の南隣には日清製粉があります。日清製粉の前身は明治33年(1900)創業の館林製粉で、後の明治40年に創業した横浜の日清製粉を翌41年に吸収合併し、社名も日清製粉と改名しました。

EBDD07C9-FA90-4931-8C6E-29753CA10DD0

西口駅前には日清製粉グループ製粉ミュージアムがあります。入場料200円。群馬県東部及び栃木県南西部のいわゆるJR両毛線沿線は、古くから二毛作により稲作と共に小麦が栽培されており、日本屈指の小麦生産地として名を馳せて来ました。

65F31707-50FB-45FA-9CEE-158DC65EF6DA

こちらは展示されている昔の製粉機械。それ以前は水車と石臼により小麦が製粉されて来ましたが、いち早く機械化による製粉事業を興したのが館林製粉、後の日清製粉であります。ちなみにカップヌードルの日清食品やサラダ油の日清オイリオとは無関係。日清製粉(現・日清製粉ウェルナ)は小麦粉やマ・マースパゲッティの会社。

2A47E92D-1CDD-4E39-83DC-4B76A1A3B7BB

新館を抜けると創業当初から使われて来た本館が現れます。ちなみに国内で主に生産されている小麦は中間質小麦と言って、うどんなどに適した中力粉となります。パンに適しているのは硬質小麦によって出来る強力粉ですが日本には梅雨があるため熟成させることが出来ず、アメリカ産やカナダ産に頼っています。


24B70A92-2890-4124-AD5C-FDC43FCEE63B

館林製粉創業者の正田貞一郎は正田醤油の創業者、三代目正田文右衛門の孫であり、平成の明仁天皇の皇后、美智子妃殿下の祖父に当たります。そのため美智子妃殿下は当時、粉屋の娘などと揶揄されていたとか。

07554C02-FBA5-4D91-8E53-C0CF71D283A0

こちらは上毛モスリン事務所に展示されていた正田貞一郎の馬車。貞一郎は明治33年に館林製粉を創業した際、当初自らは専務取締役に就任。その後日清製粉の二代目社長や東武鉄道の会長、貴族院議員などを歴任されています。ちなみに館林製粉〜日清製粉の初代社長には明治30年創業の東武鉄道の初代社長(創立総会役員に代わって明治38年就任)も兼任した鉄道王の異名を持つ根津財閥創始者、根津嘉一郎を据えてます。東武との関係は切っても切れない。
スタッフに質問したのですが、小麦の穀倉地帯であり貞一郎の実家のある館林で製粉業を始めたものの、うどん以外は輸入小麦に頼らざるを得ない現状から結局港から館林に運んで製粉して各地に出荷すると言うのは、東武鉄道が開通したとは言え非効率だったのではと疑問を投げ掛けてみました。すると、苦労したのだと思いますとの答え。うーん。結局大正15年に鶴見工場が完成するわけですが。

DDBA5FFB-7F98-4082-9D2A-8AEC96E97079

アンケートに答えたらお土産にお好み焼き粉を貰いました。
ともあれ館林はとんでもない経歴の実業家のゆかりの地であり、北関東を代表する都市の一つである事がわかりました。

群馬県館林市(2)、ニ業地の街並みと史跡

駅の東、県道57号を越えた辺りに、かつての花街がありました。最盛期で150人居た芸妓さんも今では消えてしまいましたが、料亭や割烹はその名残りとして残っています。花街を求めて歩いて行くと、県道を渡る前から料亭などが目につくようになってきます。

2874CA47-F926-4AF4-8F38-C586543B9952

大正3年より昭和13年まで見番があった青梅天神裏、見事な3階建ての木造建築があります。料亭「福志マ」(?)。看板の書体が古過ぎてよく読めません。

5A78A3B5-7EF2-40FA-A5E0-B07256D6A630

詳細は不明ですが、この辺りに見番があった時代から考えて恐らく大正時代の創業かと思われます。市内では町歩きのパンフレットなども配布されていますが、このような立派な建物が載ってないところ、ダメです。

1E11A7D1-353D-483C-A97E-980A5F289A20

こちらは旅館跡。昭和初期建造のようですが、かつては割烹旅館か何かだったのでしょうか。

91EC5D3A-B765-4210-9DC3-2697B57A1F89

県道を渡り一本奥の通りに出ると、そこはかつての花街であり今でも現役の料亭街。

99DD7149-4961-44A4-BCD2-65C74171E56F

南へ向かって歩くと料亭第五があります。

71BF9C42-4F17-4E7B-AEAA-EF8A151A700C

向かいは現在民家が建っていますが、かつてはこちら側に本店があったのでしょうか、潜り戸と行燈と松の木が残されています。

9DE6240B-BA96-492C-8C10-1C0758F07E07

第五で引き返して北へ向かって歩きます。こちらは現在お寿司屋さんですが、花街の面影を色濃く残しています。

37FB4FB5-2028-4FC1-BC4B-7BCBA494893F

こちらも現在居酒屋ですが、かつては料亭か何かだったのでしょうか。館林にはこのような花街の面影が多く残されており、それを観光の目玉とする動きがあります。

45160EF6-7911-4F69-A4EA-7CAE33447D4E

こちらは元酒屋さん。このような昭和遺産も残っています。

53C1ADCF-5600-4989-BAAD-7F47E77B79A3

現在は民家ですが屋根を見れば贅を尽くした建造物である事が伺えます。あとはこのような貴重な建物をリフォームしてカフェなどに再利用してもらえると、いつまでも残り続けるのですが。

F5FCE1AD-B32C-42C7-AE6B-B6FCCB910F22

途中右手に現れるのが、旧館林ニ業見番組合事務所。車寄せにある唐破風屋根とその上にある二つの千鳥破風が見事。

89CF2087-65E9-49F4-8A71-5CC8327C1194

ちょうど祝日だったので内部が公開されていました。この建物は昭和13年(1938)建造で、国登録有形文化財です。

26720B38-C5A8-478F-969A-A2757ADFE58B

玄関脇の増設された階段は、二段目まで豆タイル貼り。一般的には料亭、置屋、待ち合いで三業地と言いますが、埼玉と群馬は廃娼県だったので、料亭(甲種料理業)、芸妓置屋のみのニ業地となります。

30F18CC4-84C6-406E-A8D4-F052169259BF

芸妓さんたちが芸を磨いていた舞台。館林の見番は明治42年に堅町に設置され、大正7年谷越町の青梅天神裏に移転。さらに昭和13年、現在の場所に新事務所が建設され、見番が移転しました。

D8E3392A-34D2-4002-8FEE-AC732C70B863

ただ建物はあちこちにガタが来ており、改修もままならないのが現状です。東京芝浦の三業地見番跡のような本格的な改修工事には相当な予算がかかりますし。ただ見番として使用された期間は短く、昭和19年には日清製粉の所有となり、昭和31年には当時の所有者の正田貞一郎が館林市に寄贈。以後、商工会議所の事務所、本町2丁目区民会館などに利用されて来ました。

EC53FF37-9C27-4E4F-BA68-86BDB4D31642

見番跡をさらに北へ進むと、突き当たりに外池商店と言うこれまた古い商家が。昭和4年(1929)建造で、以前は造り酒屋も経営していたそうですが現在は酒屋さんとなっております。

F2778F1A-60CF-45E1-A3DB-AD8C440100B1

外池商店のある通りは「歴史の小径」として館林駅から館林城跡までの散策路として整備されています。城跡方面へ歩いて行くとまた古い建物が目につくようになります。

A3FF3CF7-9A82-42E3-BB9D-1715C9B34180

二階の壁の装飾がちょっと凝っている木造建築。館林は古くから城下町として栄えていましたが、特に発展したのは徳川家や松平家が城主となった江戸中期からとされています。

E52BF45E-32EF-4988-8A68-D22285A40C32

こう言うカーブとか風情を感じます。

6C4F0167-2166-48DE-9C98-1E426115CCA1

鷹匠町長屋門。豪農の松沢家の長屋門を再利用、改築して武家屋敷の長屋門を再現したもの。館林の古い建物はもうだいぶ壊されており、観光のために作られた物も点在しております。

7763AD8C-1BBD-44A0-B6AC-F7302FE7A119

移築されて来た武家屋敷。駅から城跡までの散歩コースである歴史の小径にわざわざ移築されています。

57829FD1-AF43-450B-BBB9-4F5BC30D2154

武家屋敷の塀。その裏にはマンションが建設されています。奥には田中正造記念館もありますが休館中でした。どうも、観光地として城下町を売りにするのか明治大正期の街並みを売りにするのか、どちらも中途半端でコンセプトがしっかり決まって無いようにも感じられます。

A6C8AEC0-FB2B-461D-A9A8-78BE8D6A06CE

こちらは館林城の土橋門。建物のほとんどは明治7年の火事で焼失され、現在天守のあった敷地には市役所や美術館、文化会館などが建てられています。日本の城は明治政府の廃城令で全国から消えてしまいましたが、その跡地に市役所や県庁などを建てたいって言う気持ちは分からないでもない。

51927164-9805-4DC9-B51A-DA4C2B118C95

城跡の手前の国道7号線沿いには、営業しているかどうか不明な旅館が。

1EF2FC16-A2E3-42A5-B654-FBF12A48E004

倉庫なのか住居だったのか、謎の廃墟も。

次回に続く。



群馬県館林市(1)、駅周辺のレトロ建造物

うわ、レトロとか言っちゃったよ。
東武伊勢崎線から北東へ佐野線が、西へ小泉線が分岐する館林。都心からの電車は久喜止まりで久喜からここ館林まで各駅停車が往復し、館林から先の伊勢崎線は大田止まりと伊勢崎行き。さらに太田から桐生方面の赤城行きが発着と、現在の北関東を走る東武の各駅停車は走行区間が細切れで、何度も乗り換えなければなりません。急行や快速などは無く唯一の直通運転は浅草から桐生方面へ走る全席指定の特急「りょうもう」のみなのですが、夕方浅草に戻る「りょうもう」が3両編成のリバティのためいつも満席で乗れない。確かに平日の夕方の上り特急は、かつて200系・250系の6両編成時代空席が目立ってましたが。

7ECFA443-41D9-40A8-916A-89E4CFF9E42D

愚痴っぽい前置きが長くなってしまいましたが、群馬県の東の端に位置する館林に行って参りました。群馬県が東へ細長く伸びてる部分で、北の渡良瀬川を越えれば栃木県、南の利根川を越えれば埼玉県になります。

0623CD9A-B0B1-454D-B5E0-C6C7D7C592DD

電車からも見える駅前の倉庫。前置きでも触れましたが、各駅停車が細切れと言う事は、通勤電車として利用されているのがここ館林と佐野、足利、大田、伊勢崎、桐生などに勤めている方々で、それぞれの都市ごとに雇用があると言う事。この点が一点集中型の東京や各地方都市との違いかと思います。

6C679B27-4992-4B06-8F3A-ACBE98EF8263

駅の近くには元々ボーリング場だったような施設が。ちなみに館林で代表的な企業は日清製粉。他にもアサヒ飲料やカルピスの工場なんかもあり、駅西口にはご当地醤油の正田醤油の醸造所があります。

27034CDC-CE52-43C5-8425-B0F8A1162CAB

駅周辺から発展しており、多くの商店が現役で営業されています。この辺りは低湿地帯と低丘陵地からなりますが水が豊富で、明治以降は毛織物産業や製粉業などの近代産業が早くから発展しました。

0C57DC08-EC91-4507-BAC7-72AA9A1EEADC

駅前通りの近くにある料亭。次の記事で触れますが、館林には花町の名残りとして多くの料亭があります。

20679BEF-8939-45BE-BCD7-F4994C1F0EC3

もちろんスナックなども多く点在しています。一階が駐車場って辺りが地方っぽいです。

08935F50-686B-4E4A-98F3-0FA39F054F86

良い雰囲気の飲み屋さんも点在していますが、特にスナック街のような纏まりは無く、広い範囲で栄えている感じ。

774A2CDF-BEB6-4AD8-B3C2-2516A077E235

館林駅の東、料亭街や城跡の手前を南北に走る県道57号線。道路を拡張する計画があるのか、道路の西側に空き地が続きます。開発のために古い建物などを相当壊してしまったと思われます。ちなみにこの県道は、かつての日光脇往還(日光裏街道)で、この辺りは宿場としても栄えていました。

897876E8-2872-4142-B073-47CD2B10989F

県道を北に進みます。商店街がゴッソリ消えてしまったと思われる西側とは逆に、東側にはこのような看板建築も残っています。こちら旧森牧商店。

8E00476C-F8FA-4B2B-B850-E8F27028BB28

こちらも県道沿い東側の看板建築。表は看板建築ですが、その実奥へと長細い昔ながらの町屋造りとなっています。

FB0C5D29-C811-4923-ACD6-113492B8D0E0

県道から東に戻ります。こちらも表は看板建築な町屋造り。皮肉にも多くの建物が解体されて歯抜け状態となったからこそ、このような構造が知れます。

582A1CF9-79AC-471A-8AC0-7CF7D1C3FF9C

県道から館林駅方面へ。こちらは昭和9年(1934)建造の旧館林信用金庫本店。現在は市の消費生活センターとなっています。

8DDDD371-4A21-4D65-BE45-0826074F53D8

消費生活センターから北へちょっと入った所に板張りの渋い建物が。泉新本店と言う飲食店ですが、桐生の有名老舗鰻屋さんとは関係無いと思われます。

D7C3641F-528E-45CD-A864-677712E9E883

かつて館林に存在した映画館、館林クラブ(1922〜1990)と館林キネマ(1918〜1982)の看板が残る街灯跡。

実のところ館林を訪れたのは10/10なのですが、もう一度行って日清製粉ミュージアムと正田記念館を訪れてから記事を完成させようと思ってました。しかし最近仕事が忙しくなかなか行ける時間がないので、また近い内に再訪する事にします。
続く。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ