埼玉県

※まとめサイト等への画像及び文章の無断転載を禁じます。

     ⬜ 温泉リスト(フルプラウザ版) ⬜

    ⬜ 立ち飲みリスト(フルプラウザ版) ⬜

埼玉県秩父市秩父市街(3)、ちちぶ銘仙館

今年は月3回以上の更新を目指していましたが忙しい時は忙しく、なかなか出かけられないので5月に秩父へ行った際に立ち寄った秩父銘仙を記事にします。2018年10月に秩父銘仙に関連する史跡を訪れたのに、なぜ当時「ちちぶ銘仙館」に行かなかったのか!

C26A48B1-2882-4E48-8592-3B9F3C27957A

ちちぶ銘仙館は西武秩父駅から歩いて5分ほどのところにあります。建物は昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場跡で、国の登録有形文化財です。

E6B3EF97-6352-4DCC-8F96-B31459597F99

入るとすぐに秩父銘仙が展示されています。秩父地方は江戸期から養蚕(ようさん)が盛んで、絹織物産業が発展して来ました。

2773F1ED-B42C-4F07-BCB0-E51CB1DFAB11

ちちぶ銘仙館のエントランス脇の部屋は元々事務所のような物だったのでしょうか、受け付け窓口のような凝った造りの小窓があります。
江戸期の絹織物は農家が副業として、各農家ごとに養蚕から製糸、機織りまで一貫して生産していました。

D4606318-5344-4A4B-80B6-E2612F54B413

奥はノコギリ屋根の工場となっています。
しかし明治に入ると欧米の機械産業による織物が輸入されるようになり、逆に欧米には大量の絹糸を求められるようになります。以来日本の絹織物産業は養蚕と製糸に集中される事となります。

48E76606-AA99-421B-924A-13E6F229DEFA

ノコギリ屋根の内部に展示されているのは撚糸機。糸を撚る(よる)ための機械だそうです。以上のような時代の流れから富岡製糸場が生まれ製糸の機械化が進み、農家では養蚕だけが続けられる事となります。

002B1DA7-82C2-4A4C-8FA3-88B120C76DDB

ちなみに銘仙とは元々、上物の絹織物には不向きな屑繭や、2匹以上の蚕が1つの繭を作った玉繭から引いた太めの絹糸を緯糸(たていと)に使って密に織ったもので、絹としては丈夫で安価でもあったそうです。

32A9AAD7-6393-4AA7-AA05-07C9EA633CE1

こちらが、各農家ごとに機織りをしていた時代の機織り機。
関東の主な銘仙と言えば伊勢崎、足利、桐生、秩父、八王子。この銘仙と言う言葉も明治に銀座三越で販売される際、銘「選」の着物として売り出された事からだそうです。

C3AB8BD8-FC7F-4310-824C-93EB7095F070

その機織り製品も工場で生産されるように。結局のところ上質な生糸は外貨を稼ぐために輸出され、あぶれた生糸で国内向けの着物を織った物が銘仙と言う事になります。とは言え丈夫で安くデザイン性にも優れている事から、庶民の間では人気を博していました。

4F635048-2C54-4D56-8721-67F0B46E4FEF

こちらは蚕(かいこ)から糸を取り出すところ。リアルな蚕が見れます。蚕って結局、蛾の幼虫がサナギになった物なんですよね。
実際製糸工場では富岡製糸場に展示されていたような長大な繰糸機で一度に大量な蚕から糸が繰り取られます。

02078E88-4E0B-49F3-ABE1-F1FAC45D21B6

こちらは糸を染色する甕。地中に埋まっているのも意味があると思いますが、ちょっと駆け足で見てしまいました。また行く機会があれば色々質問もしてみたいところ。実際ここは蚕から着物が出来るまでの工程を、全て勉強出来、また体験も出来る施設となっております。
ちなみに日本ならびに中国(清国)に機械式製糸工場が広まった事により、欧米諸国に於ける生糸の相場が大暴落して、欧米の製糸工場や紡績工場が大打撃を受けたなんて事もあったとか。

1D391480-5B48-4F5D-8C2A-6B8FA8CF3999

かくして製糸、紡績産業は明治大正から昭和初期にかけて、日本の主要産業のひとつとなり、日清紡や東洋紡、カネボウなどの巨大企業を生み出しました。私もまだまだ勉強不足なのですが、蚕(カイコ)から糸を紡ぐのを長繊維(製糸場)と言い、綿花や羊毛、麻などから糸を紡ぐのを短繊維(紡績工場)と言うそうです。

8D09A08A-82A9-4DA6-9292-594FCA021572

しかしながら昭和後期、日中国交正常化以来安い製品が入って来るようになったり、東南アジアなどの途上国の発展やら貿易の規制緩和やらで、国内生産による紡績業界は衰退して行く事となります。特に現代は長繊維から織られる着物は着られなくなり、短繊維から織られる洋服の時代です。今や養蚕自体が過去の遺物とも言えます。

埼玉県児玉郡神川町、上武鉄道(日本ニッケル鉄道部)廃線跡

※学生時代のバイトの先輩で幾度か一緒に旅をした方が、上武鉄道廃止直後の廃線跡を訪れていました。その時代の貴重な写真をお借りする事が出来たので、記事に追記いたします。(6月6日)

日本ニッケル専用線(上武鉄道日丹線)廃線跡を訪れました。

BBB3F295-027A-4FB9-B040-DF201519FC5C

ここ最近、自分的にも何かと注目している八高線。セメント輸送で注目していましたが、戦前の軍需産業と言う側面に於いても昭和6(1931)年開通した国鉄(当時は鉄道省)八高線は重要な役割を担って行きます。

C3FB2C43-ED6C-40C0-8B9E-8C6DC28311BD

起点は八高線丹荘駅。緑色のフェンスの向こう側に、かつて上武鉄道丹荘駅がありました。単線の八高線で貨物列車がすれ違うための線路が構内にありますが、現在は使われておりません。

0D96E3A3-FFA4-4FCF-BC9B-278BCE31252D

まずはバスで中間地点である神川中学校前まで。さすがに全線踏破するつもり(体力)はありません。まずは神川中学校前駅跡から。

597545CA-FC35-4791-9BF6-38146E24CA2E

ちなみにこの神川中学校前駅跡は中学校が創立した昭和40年の翌年、昭和41(1966)年に開業しました。駅名標は廃止後、遊歩道が整備されてから建てられた物。

AB88152C-0928-4AAF-815F-EB57C64D90BA

こちらが廃止からおよそ2年後、昭和63(1988)年頃の神川中学校前駅。

A00618E2-68AD-4B82-937C-66375F7EF9D7

さて、上武鉄道日丹線(旧・日本ニッケル専用線)を歩いていきます。廃線跡の大部分は現在遊歩道として整備されています。

5B5CE10E-A1CF-4D58-8B22-C410D9814DB2

この線路は昭和16(1941)年、当初神流川(かんながわ)対岸の群馬県多野郡にあった多野鉱山と精錬所、及び埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の日本ニッケルから八高線の丹荘駅まで、専用線(日本ニッケル鉄道部)として開通しました。

C1465FA6-A2A9-4C62-8871-6EA48A73DB57

沿線では麦が収穫時期を迎えていましたが、二毛作の場合6月に入ってから稲作へと切り替えられます。ちなみに日本ニッケルは昭和11(1936)年、軍需産業に必要とされるニッケルの精製、並びにクロム鉱石の産出のため設立されました。

364FEFB3-8AB2-4D4A-9D64-EB099DF5A624

こちらは数少ない遺構のひとつ。戦後ニッケル鉱山の閉山により本来の役目を終えましたが、地元の要望もあって日本ニッケル鉄道部が昭和22(1947)年より旅客営業を開始しました。日本ニッケルは鉱山の閉山後も鉄工所として存続されたため、列車は貨車と客車の混合列車で走っていました。

42BB076C-B03E-45B6-A0DB-5C3D9632668A

その日本ニッケルは昭和35(1960)年、朝日化学肥料に吸収合併され西武化学工業となり、その後西武流通(後のセゾン)グループの傘下へと入ります。それに伴い日本ニッケル鉄道部が独立、昭和37(1962)年上武鉄道が設立されました。ちなみに路線は電化されず前期は蒸気機関車、後期はディーゼル機関車による牽引で、貨物列車に客車が1両だけ連結される編成でした。

88453B0E-41C1-4BB6-89EE-102C266887B7

廃線跡は途中、神流川(かんながわ)から取水される用水路と並走します。上武鉄道は貨物輸送がトラック輸送に変わって行った事や利用客の減少などから、昭和61(1986)年廃止となりました。会社自体は通運会社としてしばらく存続していましたが、平成10(1996)年事業を停止します。

A31EE921-0A47-44B3-8B1B-453365E85FF1

ちょうどこの辺りに青柳駅と言う駅があったそうです。現在その痕跡は残っていません。

2989521C-4407-4E37-8B59-60EE15EAF5C4

沿線には青柳古墳群と言って古墳が幾つも残っています。関東平野って本当に古墳が多いです。西武化学工業は1991年、朝日工業と社名を変えて1996年セゾングループからも独立し、今に至ります。

2E9BBFBA-0EFE-4F2E-A5CC-FDBC73B8B8A9

遊歩道は途中、一般道となる区間もあります。ちなみに元来日本ではニッケルがほとんど採掘されません。たとえ埋蔵されていても0.3%のニッケルを含むニッケル粘土しか出て来ないうえ、採掘するための費用に対してその産出量が釣り合わず採算も全く取れません。

5F00CB7C-F27C-4E24-9104-C1BAA4EE7779

こちらは恐らく沿線に並んでたであろう木造電信柱。ニッケル鉱石は本来出土しないため輸入に頼るしかないのですが第二次大戦前、開戦したら資源の輸入が困難になると分かっていたので、昭和8(1933)年発行の5銭と10銭硬貨をニッケル硬貨にして備蓄したりもしたそうです。ちなみに現在でもニッケル合金は50円玉と100円玉に使われています。

50873692-77E7-4D2C-9A9A-43468E1167F7

鉄道の遺構として盛り土された路盤がそのまま残っています。現在ニッケルの用途は主にステンレスですが、ニッケル合金は錆びず粘り強く耐熱性も兼ね揃えています。そのため航空機や装甲など軍需産業には特に必要不可欠の素材でした。

AD41D592-C3CF-46B4-918D-09AF895B1A96

しかし当然備蓄だけでは全く足りず、戦時中はインドネシアからの輸入に頼る事になります。しかし戦局が悪化するとニッケルを積んだ貨物船が次々に沈められ、仕方なくニッケルを僅かに含んだ質の悪い鉱物を国内で採掘するしかありませんでした。終戦の翌日には日本のニッケル鉱山、特に大きかったのは京都と山口でしたが、全国で一斉に閉山となりました。それだけ国産のニッケル鉱物は酷かったのです。

C4A93198-F2D0-47FD-9F26-9B71EA0AA5F2

キジ!走るの速ええ!

56D6BA24-C449-4D62-AC5C-9B13E22BAA97

日本は粗悪な鉱物からどうにかニッケルを精製しようと努力を重ねた訳ですが、その精錬技術が戦後役にたつ事となります。現在日本は、原材料の鉱石を一切産出しないのにも関わらず、ニッケルの生産量が世界第3位となっています。これは東南アジアで採掘されたニッケル鉱石を、日本(住友金属鉱山とJFEミネラル)が戦時中に培った製錬技術によって精製し、世界へと輸出すると言う構図に他なりません。

9C2A5574-7356-4940-853B-BC1F56C51C5A

終点の日本ニッケル(現在の朝日工業)の手前に残る寄島駅跡。

3B6A7030-C31A-4EC9-8FED-3C3F13E0F29D

ニッケルについて色々語って来ましたが、現在の朝日工業埼玉工場(旧・日本ニッケル)では鉄スクラップを溶かして再利用し、建材としての鉄筋を製造しているのみ。

A8FBDDF7-DF86-41FF-8961-31EF97E0307F

こちらが廃止からおよそ2年後の寄島駅。

4EEEDEA7-D48B-410E-9C6F-0ABB6334967D

寄島駅跡の先にある、唯一残された軌道跡。かつての踏み切りですが、奇跡的に残っていたようです。

CDA00783-E120-4E5A-9887-E5A13511AC9F

踏み切り跡の先で遊歩道は終了となります。廃線跡の散策はここまで。

3C5EAC6F-9636-44DE-A943-CBD30F5CF9EA

今ではすっかり見えなくなってしまいましたが、この先に鉄橋があります。

EE9ED147-B7B6-464E-965A-87C4E69E8F47

こちらがその鉄橋。沢を渡る鉄橋で、奥に見えるのは神流川。

C5F8006A-59BD-4668-AA2E-40302C3A78D8

当時はちゃんと見えていたようです。

984679B9-BEAF-435D-8242-C10A45DF5816

こちらが日本ニッケルを前身とし、西武化学工業を経て朝日工業となった工場。鉄鉱石からコークスを使って溶かす高炉のある製鉄所とは違い、ここは鉄屑を電気炉で溶かし建設用の鉄筋などに再利用する工場となります。

68EB2494-BCEE-431E-B377-E0EC88D15EE4

廃止当時は西武化学工業で、貨物駅の駅名も西武化学前駅でした。

CE6CF625-694D-4D51-B797-75986A857A0C

鉄屑が搬入され、鉄筋材が出荷されて行きます。要はリサイクルですが、金属製品によっては鉄屑リサイクルの方が多い物もあります。もちろんただ鉄屑を溶かして鉄筋にするだけでなく、錆びない、つまり酸化しないように高アルカリ性の皮膜でコーティングします。

0892E8C0-6B10-43EE-A452-F8B791451771

そんな訳で廃線跡を歩きながらニッケルについても調べて見ましたが、もうひとつの目的はここ、7年前に訪れた日帰り入浴施設白寿の湯

CC24AE48-8D46-46AE-9A82-92D3FE7511F6

こちらは公式サイトからお借りしました。この鉄分豊富な鉱泉による澱出物で鍾乳洞状態となった床。加温循環濾過しながらも源泉も掛け流されています。露天はぬる湯ですが、ゆっくり浸かれば至福の時間。埼玉県内の入浴施設では最高と謳われております。鉄工所の隣で酸化鉄まみれと言うね。

1262B7BA-81F2-49CC-82ED-F19F5D50B80F

以上。余談ですが帰りの八高線で、群馬藤岡駅に停車した際検査車両、キヤE-193系とすれ違いました。

埼玉県飯能市、横瀬町、正丸峠周辺の廃校舎巡り

飯能市から秩父へ抜ける正丸峠、その周辺の廃校跡を巡りました。

97FF6DC8-5F0C-4007-9D6F-4E21A94E00FF

ここは先月、地下ベルトコンベアのYルートと併せて訪れました。高麗川の上流、西吾野駅の辺りで川は北川と南川に分かれます。北川流域は林業が盛んで、現在でもキャンプ用の薪を中心に杉材が出荷されております。

B7B67E4B-AEF8-478E-B7B0-2D7CF6FB1166

まずは旧・飯能私立北川小学校。ツツジが咲く盛り土の向こうが校庭。

C1F61C33-66A2-4A09-928D-357418114185

この小学校は明治7年創立。現存する校舎は明治37年(19年)に建てられた非常に古い建物です。

3CD84ECD-0D09-4532-8D4D-61B33825B286

群馬県などもそうなのですが、埼玉県でも映画やCMなどのロケや地域コミュニティなどに木造校舎を再利用しております。やはり普通の木造建築と違って、多くの方々の思い出が詰まった建物なので、保存される事が多いのでしょう。

BE6C30DD-4485-4F94-B101-E67A4ED76B92

内部の様子。覗いた感じでは机や椅子など残されていませんでした。校舎は現在「山の迎賓館」としてロケやイベント等に貸し出されています。

B2C59469-4856-4388-8088-3FAFAD087CFB

正面玄関前に置かれている机。この北川小学校は平成5年(1993年)、吾野小学校と統合されて廃校となりました。もし自分がここに生まれていたら、余裕でこの校舎に通っていました。

F67C5F88-EE9E-4059-B680-A095B3DDB3FF

裏側はこんな感じ。ちなみにこの校舎の右手には大正10年に建てられた校舎がありました。音楽室、理科室、裁縫室などがありましたが、2016年に解体されてしまったそうです。

4F17329F-476A-4C6E-B795-D9FBF818DDC4

西吾野駅から南川沿いに正丸駅方面へと歩いて行きます。途中、南に分かれる支流の先には子の権現。すでに廃業されていますが、かつて参拝者が利用していたであろう旅館の跡があります。

CC8DFB17-8FF1-43AC-A098-86AF751C575A

その向かい、沢の合流地点の谷間の集落に、旧・南川小学校があります。

9C634DAB-6E68-4E28-A523-D9B8EFC5481F

この飯能市立南川小学校は明治7年(1874年)創立。校庭右手に建つこちらの旧校舎と高台の新校舎があります。

56C9E1E8-BF10-460B-8315-30BBC25A22E2

現在は公民館としても利用されておりますが、この日校庭では地元のお爺ちゃんお婆ちゃん方がテーブルと椅子を並べて井戸端会議。

C34E9C7B-B6C5-44CE-91BC-CA5BE44FC748

この旧校舎は明治37年竣工。なんと北川小学校と同じ年に建てられております。思いもかけず2連続明治建築ですが、北川小学校共々もはや文化財指定されてもいいのに。

C04D01F9-F68C-4DFA-AB8A-8843B9B42203

校庭の正面、高台に建つ新校舎。新とは言っても昭和12年竣工。つまり戦前です。

90B24DB9-E622-4B98-B7EC-49399D1A9CB9

新校舎の正面玄関は漆喰仕上げ。凝った造りは石灰産業が盛んな秩父が近いためか。

FB77D979-82E2-432C-AD0E-DDD878605965

新校舎の内部を覗くとほぼ物置き状態でした。

987B9F6E-3A82-46F9-9A24-2EBE3DF9AB9C

新校舎の左手にはトイレ棟があります。

143DEBDC-8423-4B04-A0DD-9D726A74CE7A

当然和式ですが、さすがに水洗設備は有ったかと思われます。

D27722F1-127B-4F7A-A19B-6429EA3477F7

男子トイレは衛生陶器など無く、壁に木板の簡素な衝立があるだけ。

EF7FA310-DAAE-4A25-8FB5-0AF1AC98527C

ここは現在ドラマのロケにも使われていますが、平成5年(1993年)に廃校となりました。

0DC2181A-AEBF-40DC-ADD8-4FB3CCE5F711

続いては正丸峠を越えて横瀬町、芦ヶ久保駅の近くに旧・芦ヶ久保小学校があります。

9BA5E5FF-F70F-4377-AD38-766DE5433648

この芦ヶ久保小学校は明治22年(18年)芦ヶ久保尋常小学校として創立。当初は近くの竜源寺に仮校舎を建てていましたが、明治36年現在の場所に初代校舎が落成。

453DD019-374A-4304-8AB5-551AAF1C97E3

現在の校舎は昭和10年(1935年)に完成し、昭和27年に増築された物です。戦後は小学校と中学校が併設されていました。

95E558F0-FC02-4B90-A8ED-5A3AA30AC8E1

1階内部に当時の机と椅子は残っていませんが、もしかしたら2階とかに残されているのかも知れませんね。イベントスペースとしても使われているので、例えばロケなどで使う場合、学校関連の小道具は別で用意するのかも知れません。ちなみに使用量は平日30000円、土日祝日45000円。

852011FF-D8F2-45E0-826B-22481BAE07A8

二宮金次郎像。グランドで球技をやる際に窓ガラスを割らないようにと言うことでしょうが、ネットが邪魔ですね。

68DC63C8-EB4E-4FA9-A496-89368AB9C597

木造校舎の裏手に建つこの体育館は昭和36年(1961年)に完成。ちなみにこの体育館だけは貸し出しされておりません。

4D36D455-5B6A-4122-BB29-3986D9F9FC7C

昭和42年(1967年)、体育館の右手に3階建の新校舎が完成し、こちらが小学校、木造校舎が中学校として使われました。

173E139E-239D-462E-9A50-560C8336C007

しかし3年後の昭和45年に芦ヶ久保中学校は横瀬中学校に統合されます。新校舎を建てたはいいものの、すでに過疎化が始まっていたと言う事でしょうか。

8CD7D958-30F3-4183-B993-938D3859E734

新校舎1階と旧校舎の2階とは渡り廊下で繋がっております。中学校統合後も旧校舎は使われていたかと思われます。

7AE225D9-542C-4033-82BB-F57708F9EE0A

そして平成21年(2009年)3月、芦ヶ久保小学校は閉校となりました。

928C92A2-BE71-453A-8935-E62C2C876182

私は小学校2年生までと、中学校の3年間木造校舎に通っていました。廊下の軋む音や風が吹くとガタガタ煩い木枠窓など、少年時代の記憶として残っております。都心に於いて関東大震災以降の復興建築は全て鉄筋コンクリートでしたが、今現在40代〜50代の方で地方の田舎出身の方などは、木造校舎に通った記憶のある人も多いのではないでしょうか。
例えばですが、木造校舎で当時の机と椅子を並べて一般公開すれば、観光資源とかにもなるんじゃないでしょうかね。古民家のカフェが流行るくらいですし。

埼玉県秩父市、武甲山周辺のセメント貨物専用線

久しぶりに秩父まで行って来ました。ここのところ追いかけて来たセメント産業のシリーズもそろそろラスト。

0AD4A838-5BCD-4512-8241-3E79253A9A5B

まず西武秩父駅から見えるこの山が、石灰石の一大産地である武甲山です。元々は漆喰などの原料として石灰が産出されて来ましたが、大正時代よりセメントの原料として本格的な採掘が始まりました。特に関東大震災後はコンクリート建築が見直され、秩父のセメント産業が震災の復興、そして戦後の復興と高度経済成長を支えて来ました。

A5B6C9F0-2AA3-47C5-9657-6CFF835DF7F5

武甲山の北側、秩父鉄道の影森駅はセメント列車の貨物ターミナルでした。今でも多くの留置線が残っています。秩父鉄道(旧・上武鉄道)は明治32年(1899年)創業ですが、秩父〜影森間は大正6年(1917年)開通。

4AD207F5-3152-41A9-9B66-236BFA56E985

その影森駅から武甲山の採石場に向かって引き込み線が伸びています。1番左は三輪線と言って太平洋セメント(旧・秩父セメント)の積み込み場の三輪鉱業所へ向かう線路。中央はかつて秩父鉱業(旧・日本セメント)の積み込み場である武甲駅まで走っていた廃線跡で武甲線と言います。右は三峰口へ向かう秩父鉄道本線。

60EEFF4A-8EC8-4867-8890-6CEF4A2D554A

三輪線から影森方面を見たところ。線路はこの後方で左に大きくカーブを描き、すぐ三輪鉱業所に着きます。武甲山で採掘された石灰石をベルトコンベアで麓まで降ろし、セメント列車へと積み込む。ゴールデンウィークなのでさすがに休業日でしたが、秩父鉄道ではいまだにセメント列車が現役だそうです。石灰石は現在、熊谷の太平洋セメント(旧・秩父セメント)の工場や、秩父市東部の大野原にある太平洋セメントの工場(旧・秩父セメント第二工場)まで運ばれて行きます。

922FC142-8E11-454F-9A8E-B2C0E2C1E9E2

線路の先には鉱石を積み込むホッパーが。ちなみにこの三輪鉱業所と三輪線が開業したのは、かつて秩父駅の南側にあった秩父セメント第一工場が建設された大正14年(1925年)。この段階で秩父鉄道の売り上げが5倍に跳ね上がったそうです。そう考えるとこの線路はすでに98年使われ続いていると言う事。さらに現在の太平洋セメント(旧・秩父セメント)は秩父鉄道の筆頭株主でもあります。

1FE800C6-DD9A-4DC7-8D11-627ADBC5F1B1

三輪線と秩父鉄道本線の間に秩父鉱業の積み込み場への廃線跡、武甲線跡。秩父鉱業(旧・日本セメント)は太平洋セメント(旧・秩父セメント)の少し奥、西側にあります。

16D9F191-990D-4E7D-91B3-68CDF69785BA

こちらが武甲線の廃線跡。ちなみに現在の秩父鉱業は昭和26年に日本セメントから分離独立しました。

F6F65508-79BE-4B2E-B8C5-0B13863863A2

そしてこの武甲線は秩父セメントへの三輪線よりも前、大正7年((1918年)に開業しております。ただ電化されたのは大正11年なので、最初の4年間は蒸気機関車による運行だったかと。

1840A84B-9F4D-430E-873D-F804A50F9753

こちらも鉄道関連の遺構でしょうか。ちなみに秩父鉱業の鉱床は採掘し尽くしてしまったため、現在では粉砕や精製、加工などが主な業務となっております。

1E11874D-C756-47F6-92A9-8F9668096AE1

開けた谷間に出たところでレールと枕木。高度成長期の武甲山は、ひとつにこの武甲線から秩父鉄道の寄居駅、八高線経由で日高市の日本セメント(当時)埼玉工場へ搬出するルート(現在は地下ベルトコンベアのYルート)、後は三輪線で秩父鉄道を経由し大野原や熊谷にある秩父セメント(当時)の工場へ搬出するルート。もう一つ、武甲山の東側の西武秩父線の横瀬駅にある三菱鉱業(現・UBE三菱セメント)の工場に搬出し、西武線で国分寺まで運んで行くルートなどがありました。

AC1C8B53-1843-46F9-956A-AB9E8B41F817

この武甲線は昭和54年(1984年)廃止となりました。Yルートの完成が昭和58年だから、それ以前からトラック輸送に切り替えられていたのでしょう。

38D869E6-22AE-4CDA-8610-9664ED4DF912

工場はいまだ現役で稼働中なので、積み出しは現在もトラックによります。

A34404B1-DEC0-4BE7-BDEE-2F9E3B5DFA1D

会社の前には浅野総一郎の像が。浅野総一郎は浅野セメント及び浅野財閥の創始者であり、セメント産業の父ともいえます。浅野セメントは後の日本セメント、その日本セメントから分離独立したのが秩父鉱業です。

0C7DE218-38AA-44FE-AEB9-7261A948FDF6

近くに浦山歴史民俗資料館があります。ここは昔訪れた浦山ダム周辺の歴史やお祭り、行事などについて勉強できます。以前は浦山地区の廃村などを巡りましたが、獅子舞などの行事も見に行きたいところ。

65E5AE95-2DC4-4D0C-BC3B-ED6B455753C1

影森から現在終点の三峰口までは昭和5年に開業。現在では西武秩父駅から秩父鉄道の御花畑駅まで歩かなくても、直通で三峰口まで行けるようになっております。ただ、観光客は皆西武秩父駅から三峰神社までの急行バスを利用しているので、鉄道の利用者は相変わらず少ないようです。

DCA2AAE6-FBAD-48E0-B1E5-A161C358EEE6

ちなみに終点の三峰口にも鉱山があり、過去には引き込み線もあったようです。

埼玉県日高市、日本セメント埼玉工場専用線跡(後編)

さて、セメント列車専用線の廃線跡、後編です。

4F8F0886-7B2C-49DF-8835-2D7CB749DD35

前回に引き続き太平洋セメント埼玉工場よりスタート。

577592FC-FF6A-40DB-A09C-D84D9D62AE06

工場の西側はJR八高線高麗川駅までの貨物専用線がありました。こちら側は遊歩道として整備されています。

FA1183B3-9422-47FD-9C88-2796CE5EF307

踏み切りなど当時の設備が残されています。日本セメント(現・太平洋セメント)埼玉工場専用線の高麗川〜埼玉工場間は昭和30年(1955年)、工場の稼働と同じ年に開通しました。

9812553C-4275-4FAC-B616-D66AD5CCFF5D

開通当初は蒸気機関車による運行でしたが、昭和45年(1970年)よりディーゼル機関車(DD51)に変わります。

ED248916-76A7-4D3D-B250-26379A46E8C6

この路線は秩父の武甲山で産出されたセメントの原材料である石灰石を、秩父鉄道の寄居駅を経由して八高線で高麗川駅まで至り、工場へと運び込んでいました。同時に作り出されたセメントを、高麗川駅から山梨県の石和、東京の隅田川、群馬県の倉賀野などに出荷して行きます。

90F6032A-ADB1-4571-94C3-802AD919FF84

専用線の全長は1.4km。1983年に武甲山からの鉄道貨物輸送が廃止され、1999年工場から製品を出荷する貨物列車も廃止。この引き込み線も廃線となりました。

6936999B-A6CC-43E0-85E3-52C54FE4080B

高麗川駅の近くまで行くと、右手に八高線の線路が見え始めて来ます。ちなみにここより北の小川町から西の山岳部に向かい、東武根小屋線と言う貨物線が走りセメントなどに使う珪石を運搬していました。ただそこは昭和元年(1926年)から昭和42年(1967年)までしか走ってなかったので日本セメント埼玉工場とは関係無く、小川町から先は八高線で運ばれていたと思われます。

007FE053-6A57-4257-BC1F-C4293CFA8940

こちらがJRとの合流地点。踏み切りから線路が見えます。高麗川駅を背にして、右手は川越線で左手に八高線。

586F0727-0EDC-41F4-B03B-FB8F4EB4CE9B

高麗川駅構内には貨物操車場跡があります。八高線は昭和6年(1931年)軍事用として開通しました。そのため旅客と言うより貨物線としての意味合いが強かったとか。

E3EE724C-22F4-476F-8161-1612DD70D31C

秩父鉄道寄居駅及び八高線経由で石灰石を搬入していた列車が廃止となった理由はここにあります。この地面から出てきたパイプのような物、これは石灰石を運ぶベルトコンベアなのです。

E4130EC5-C7B0-4312-9DCB-FC8F107309B5

なんと驚いたことにこのコンベア、秩父の武甲山から正丸峠や秩父山地の山々の地下を抜け、日高市の埼玉工場まで繋がっております。名称は「Yルート」。

32A7E671-11C5-4C43-88D3-F3CDB964530D

昭和58年(1983年)に完成したこのベルトコンベアは全長23.4km、その97%がトンネルです。今でこそ新幹線のトンネルなどで20km超えはありますが、三国峠を越える関越トンネルでさえ約10km強。もちろん公共ではないので距離だけでは何とも言えませんが、しかし西武線で言えば飯能から西武秩父までトンネル掘るような物です。(直線ではないので実際の営業キロは33km)

10F451E9-DD7A-4168-BE8E-7499D9E75244

工場からすぐ地下に潜ったコンベアは、高麗川を渡る際地上に顔を出します。自動車道や鉄道のトンネルとは訳が違いますが、山脈の地下をぶち抜こうって言う発想が凄い。

664AA9F6-B6AF-4FDC-9F09-9E84EF95D2CD

トンネルとベルトコンベアは全て繋がっている訳ではなくて、途中4箇所の地上積み換え所が設けられてられいます。

84A4C836-E39F-4C39-936F-EB75C6985380

私はこのコンベアに興味を持ちまして、正丸峠の手前、飯能市北川の地上に顔を出すポイントに行ってしまいました。石灰石は露天掘りが多いですが、かつての炭鉱などでは何十キロものトンネルを掘りまくっていた訳で、鉱山会社的にはそんな大袈裟な話でも無いのか?

3B2655AB-C974-43DD-A115-2B8F93563570

ここは谷を渡るための橋で、トンネルから出て橋を渡ったら再びすぐトンネルに入ってしまいます。幅は見た感じで4m無い感じか。池上に出ている時はもちろん屋根や壁で覆われており中は見えませんが、内部は一本のベルトコンベアと管理用の道があります。さすがにバイクか何かで走ると思われますが。

88B39131-C601-442C-880F-F2D515C93663

こちらが石灰石を産出する武甲山です。古くは漆喰の材料として採掘が続けられて来ましたが、明治よりセメントの原材料としての採掘が開始されます。特に昭和15年、横瀬町に秩父石灰工業武甲工場が創業すると武甲山東麓が一気に削られ、山容が今のような形になったそうです。
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ブログ紹介
都内、近郊の古い街並みや建造物、路地裏などの写真とレポートを載せています。また、国内の寂れた観光地やマニアックな温泉スポット、廃墟などもご紹介。

鰻田ニョロの小説部屋
→昔書いた小説など
カテゴリー
最新記事
記事検索
  • ライブドアブログ