今年は月3回以上の更新を目指していましたが忙しい時は忙しく、なかなか出かけられないので5月に秩父へ行った際に立ち寄った秩父銘仙を記事にします。2018年10月に秩父銘仙に関連する史跡を訪れたのに、なぜ当時「ちちぶ銘仙館」に行かなかったのか!
ちちぶ銘仙館は西武秩父駅から歩いて5分ほどのところにあります。建物は昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場跡で、国の登録有形文化財です。
入るとすぐに秩父銘仙が展示されています。秩父地方は江戸期から養蚕(ようさん)が盛んで、絹織物産業が発展して来ました。
ちちぶ銘仙館のエントランス脇の部屋は元々事務所のような物だったのでしょうか、受け付け窓口のような凝った造りの小窓があります。
江戸期の絹織物は農家が副業として、各農家ごとに養蚕から製糸、機織りまで一貫して生産していました。
奥はノコギリ屋根の工場となっています。
しかし明治に入ると欧米の機械産業による織物が輸入されるようになり、逆に欧米には大量の絹糸を求められるようになります。以来日本の絹織物産業は養蚕と製糸に集中される事となります。
ノコギリ屋根の内部に展示されているのは撚糸機。糸を撚る(よる)ための機械だそうです。以上のような時代の流れから富岡製糸場が生まれ製糸の機械化が進み、農家では養蚕だけが続けられる事となります。
ちなみに銘仙とは元々、上物の絹織物には不向きな屑繭や、2匹以上の蚕が1つの繭を作った玉繭から引いた太めの絹糸を緯糸(たていと)に使って密に織ったもので、絹としては丈夫で安価でもあったそうです。
こちらが、各農家ごとに機織りをしていた時代の機織り機。
関東の主な銘仙と言えば伊勢崎、足利、桐生、秩父、八王子。この銘仙と言う言葉も明治に銀座三越で販売される際、銘「選」の着物として売り出された事からだそうです。
その機織り製品も工場で生産されるように。結局のところ上質な生糸は外貨を稼ぐために輸出され、あぶれた生糸で国内向けの着物を織った物が銘仙と言う事になります。とは言え丈夫で安くデザイン性にも優れている事から、庶民の間では人気を博していました。
こちらは蚕(かいこ)から糸を取り出すところ。リアルな蚕が見れます。蚕って結局、蛾の幼虫がサナギになった物なんですよね。
実際製糸工場では富岡製糸場に展示されていたような長大な繰糸機で一度に大量な蚕から糸が繰り取られます。
こちらは糸を染色する甕。地中に埋まっているのも意味があると思いますが、ちょっと駆け足で見てしまいました。また行く機会があれば色々質問もしてみたいところ。実際ここは蚕から着物が出来るまでの工程を、全て勉強出来、また体験も出来る施設となっております。
ちなみに日本ならびに中国(清国)に機械式製糸工場が広まった事により、欧米諸国に於ける生糸の相場が大暴落して、欧米の製糸工場や紡績工場が大打撃を受けたなんて事もあったとか。
かくして製糸、紡績産業は明治大正から昭和初期にかけて、日本の主要産業のひとつとなり、日清紡や東洋紡、カネボウなどの巨大企業を生み出しました。私もまだまだ勉強不足なのですが、蚕(カイコ)から糸を紡ぐのを長繊維(製糸場)と言い、綿花や羊毛、麻などから糸を紡ぐのを短繊維(紡績工場)と言うそうです。
しかしながら昭和後期、日中国交正常化以来安い製品が入って来るようになったり、東南アジアなどの途上国の発展やら貿易の規制緩和やらで、国内生産による紡績業界は衰退して行く事となります。特に現代は長繊維から織られる着物は着られなくなり、短繊維から織られる洋服の時代です。今や養蚕自体が過去の遺物とも言えます。
ちちぶ銘仙館は西武秩父駅から歩いて5分ほどのところにあります。建物は昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場跡で、国の登録有形文化財です。
入るとすぐに秩父銘仙が展示されています。秩父地方は江戸期から養蚕(ようさん)が盛んで、絹織物産業が発展して来ました。
ちちぶ銘仙館のエントランス脇の部屋は元々事務所のような物だったのでしょうか、受け付け窓口のような凝った造りの小窓があります。
江戸期の絹織物は農家が副業として、各農家ごとに養蚕から製糸、機織りまで一貫して生産していました。
奥はノコギリ屋根の工場となっています。
しかし明治に入ると欧米の機械産業による織物が輸入されるようになり、逆に欧米には大量の絹糸を求められるようになります。以来日本の絹織物産業は養蚕と製糸に集中される事となります。
ノコギリ屋根の内部に展示されているのは撚糸機。糸を撚る(よる)ための機械だそうです。以上のような時代の流れから富岡製糸場が生まれ製糸の機械化が進み、農家では養蚕だけが続けられる事となります。
ちなみに銘仙とは元々、上物の絹織物には不向きな屑繭や、2匹以上の蚕が1つの繭を作った玉繭から引いた太めの絹糸を緯糸(たていと)に使って密に織ったもので、絹としては丈夫で安価でもあったそうです。
こちらが、各農家ごとに機織りをしていた時代の機織り機。
関東の主な銘仙と言えば伊勢崎、足利、桐生、秩父、八王子。この銘仙と言う言葉も明治に銀座三越で販売される際、銘「選」の着物として売り出された事からだそうです。
その機織り製品も工場で生産されるように。結局のところ上質な生糸は外貨を稼ぐために輸出され、あぶれた生糸で国内向けの着物を織った物が銘仙と言う事になります。とは言え丈夫で安くデザイン性にも優れている事から、庶民の間では人気を博していました。
こちらは蚕(かいこ)から糸を取り出すところ。リアルな蚕が見れます。蚕って結局、蛾の幼虫がサナギになった物なんですよね。
実際製糸工場では富岡製糸場に展示されていたような長大な繰糸機で一度に大量な蚕から糸が繰り取られます。
こちらは糸を染色する甕。地中に埋まっているのも意味があると思いますが、ちょっと駆け足で見てしまいました。また行く機会があれば色々質問もしてみたいところ。実際ここは蚕から着物が出来るまでの工程を、全て勉強出来、また体験も出来る施設となっております。
ちなみに日本ならびに中国(清国)に機械式製糸工場が広まった事により、欧米諸国に於ける生糸の相場が大暴落して、欧米の製糸工場や紡績工場が大打撃を受けたなんて事もあったとか。
かくして製糸、紡績産業は明治大正から昭和初期にかけて、日本の主要産業のひとつとなり、日清紡や東洋紡、カネボウなどの巨大企業を生み出しました。私もまだまだ勉強不足なのですが、蚕(カイコ)から糸を紡ぐのを長繊維(製糸場)と言い、綿花や羊毛、麻などから糸を紡ぐのを短繊維(紡績工場)と言うそうです。
しかしながら昭和後期、日中国交正常化以来安い製品が入って来るようになったり、東南アジアなどの途上国の発展やら貿易の規制緩和やらで、国内生産による紡績業界は衰退して行く事となります。特に現代は長繊維から織られる着物は着られなくなり、短繊維から織られる洋服の時代です。今や養蚕自体が過去の遺物とも言えます。