神奈川県

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【日記】近況報告〜酒とスーパー銭湯

にわかに仕事が忙しくなり更新が滞りそうなので、日頃のスナップなどを並べつついつもの如く近況報告などしてお茶を濁します。
実は去年の秋から連れが板橋の帝京大学附属病院に入院したりなど、プライベートで色々有りました。

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帝京大学附属病院から石神井川沿いに歩き国道17号線でバスに乗り、過去幾度となく訪れている前野原温泉さやの湯処へ。週1〜2回お見舞いに行っていましたが、その帰りに立ち寄っていました。

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仕事は横浜などが多く、馬車道辺りで喫煙可能喫茶店などを探してみたり。こちらは喫茶店アミーゴ。

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ただ横浜は普通に喫煙可能店ばかりなので、探すまでもなく。早く仕事終わった時やランチタイムなんかに幾度となく利用しました。

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仕事が終わればドヤ街の寿町へ。寒い夜、福祉センター(職安)の前には炊き出しに並ぶ人々。

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私は二軒残る町中華の一軒、珍来軒さんで腹を満たす。

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赤いアクリル板にズラリと並ぶメニュー。ただここの店主がもう相当なご高齢で、いつまで店を続けられているか。

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二軒隣の上海亭は黄色いアクリル板メニュー。こちらの店主はまだ若そう。

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上海亭のニクソバ。どちらの店も度々濃いめの人間模様が垣間見れて面白い。

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トイレは建物の裏手に行かされます。この雑居ビルの裏にこんな中庭があったとは知りませんでした。

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まさかの共同トイレ。相当の古さです。

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雑居ビルと言うかそのほとんどが簡易宿泊施設なのですが、外観はこんな感じ。左手に小さいスーパーと二軒の中華料理屋があります。

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行きつけの「優子」は韓国人のママが旧正月につき10日ほど釜山に帰省しておりお休みでした。なので仕方なく新規開拓。写真右手の「和」さんに突入。

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当たりでした。いい人ばかり集まる楽しい店。客層がヤバい店を引き当てるリスクがあるため、寿町での新規開拓は緊張します。紹介してもらえばいいんですがね。この店も韓国人のママですが、韓国には暫く帰ってないとか。行きつけの店がまた一軒増えてしまった。

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晴海埠頭のオリンピック選手村跡、内装を改装して分譲マンションに再利用しています。そんな晴海のど真ん中にある晴海小中学校建設現場に入った際、埠頭の方を散歩していたら日本丸が停泊していました。去年横浜の大黒ふ頭で見て以来。

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連れが帝京大学附属病院から戸田中央リハビリテーション病院へと転院しました。そこで見つけたのがスーパー銭湯彩香の湯。週1〜2回お見舞いに行くたびに必ず立ち寄っていました。ここのお湯は本当に良かった。さらに蕎麦も美味いので、会員ガード作っちゃいました。

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ヤケ酒じゃないけど酒の量が増えた。赤羽駅南口の行きつけのスナックにも頻繁に通うようになりましたが、一番街の一本奥のアーケードで火事なんかありましたね。ちょうど丸健水産の奥辺り、ホルモンいくどんから出火。一部の噂では再開発の話も出てるし、わざとって言う話も。あくまでも噂です。

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約8年ぶりに大塚の現場。駅前まで足を伸ばして久々の北大塚ラーメンへ。

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やっぱ美味い!
半辛で頼むのがわたしの定番ですが、焼豚麺を頼むと焼豚が多過ぎて胃がもたれるので普通のラーメン。先代の大将は皿洗いに回って、息子さん(かな?)が麺を担当してました。後継者が居て良かった。

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大塚駅北口から道路を渡って左手、ピンサロのちょっと先にある立ち飲み屋の「ゆる酒場」。コロナ禍を乗り越え生き残っていました。

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ここも8年前ちょいちょい通ってた店。仕事帰りに軽く2〜3杯引っ掛けて帰るのに丁度良い店。

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逆に消えてしまった物もあります。かつて南口の東側に建っていたバッティングセンターひょうたん島。

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昭和遺産と言うべき施設が解体されてしまいました。中に入っておけばよかった。

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単発の仕事で2日ほど阿佐ヶ谷にも行きました。しかし阿佐ヶ谷の路地裏は飲み屋だらけですね。阿佐ヶ谷で飲んだ事はありませんが、いい街です。

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立ち寄ったのは立ち飲み屋「風太くん」。阿佐ヶ谷は若い頃外回りで来たり七夕見に来たりしたぐらいで散策した事はありませんが、高円寺阿佐ヶ谷荻窪と、この界隈も改めて訪れてみたいですね。

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串一本200円ですが、二本分ぐらいのボリューム。しかも激ウマ。2日間でポテサラや煮込みなども食いましたが、ここは何食っても美味かった。今度途中下車してでも寄りたいです。

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一人飲んだくれて昔連れと通ってた新宿二丁へ目へ。

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顔見知りのオカマバー。コロナ禍を乗り切っていました。若い頃はよく朝まで飲み明かしていた。

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神田のガード下で飲み過ぎて、ママさんと常連仲間と3人で二軒目へ。もう寒桜も咲いており、春の訪れを感じます。

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ママの紹介で日本橋室町4丁目の居酒屋「とし」へ。なかなか雰囲気の良いお店。今度一人で行ってみようかなんて。
と言う訳で、年末年始色々ありましたが彼女も無事退院し、デイケアでリハビリしております。回復してから遠出の旅行なども行ければいいのですがね。

【日記】暑中お見舞い申し上げます

あっつい。
仕事が忙しくてどこにも行けなかったのですが、たとえ時間が出来たとしても出かける気にならないんじゃないだろうか。
しかしブログの更新はしなければ!と言う義務感と危機感、そして強迫観念があります。

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そんな訳でブログのネタにもならないスナップショットなどを並べでお茶を濁します。まずは茅ヶ崎。
茅ヶ崎駅の海側はほとんど散策してなかったのですが、仕事でたまたま茅ヶ崎に行った際、いい感じの路地裏を見つけました。

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で、この「ふうさん」と言うのは写真右手(駅側)の居酒屋の店名であり、この路地裏飲食店街の正式名称は不明。

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非常に短い路地裏ですが、舗装がしっかりされてない所なんて神奈川らしい感じです。

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仕事帰りのちょい飲みは、過去に行った事のある所ばかり。最近ではあえて新規開拓しようと言う気力がなかなか湧かないのです。

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南武線溝の口駅の線路ぎわ、闇市発祥のバラック街で電車の音を聴きながら立ち飲み。「いろは」さんは9年前に行って以来、機会があれば立ち寄ります。

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現在、メインの仕事は五反田。五反田と言えば目黒川沿いの立ち飲み屋「へそ」五反田店が昔から行っている店。なのですが、西五反田の路地裏に角打ちを発見しました。

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桑原商店さんは酒屋の倉庫で飲めると言う素晴らしいシステム。特に日本酒のラインナップが充実しています。

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私がハマったのはこの小豆島のクラフトビール、レモンビール。サッパリした飲み口で、ついつい2本飲んでしまいました。酒のアテも酒、特に日本酒が進む物ばかりで美味いです。ただ、唯一タバコが吸えないと言う点からその後行っていませんが、女性なんかも入りやすく人気のお店になりそうです。

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何度か仕事で通った渋谷区大山町。小田急の代々木上原と東北沢の間ぐらいの北側になります。その交差点で見つけた渋い建物。

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もし営業してたら絶対入りたい所ですが、食べログの書き込みを見ると2018年が最後だったので、閉店されてからだいぶ経っている様子。



大山町の交差点から代々木上原に行く途中にあるモスク、東京ジャーミイ。イスラム教徒でなくとも見学自由との事なので、いつか中に入ってみたいです。トルコ系のモスクですが売店もあるので、イスラムグッズとか見るのも面白いかも。イスラム文化には興味もあります。



副都心線東新宿近く、知る人ぞ知る立ち飲み屋「山根商店」。およそ6年ぶりに行きましたが、やはり変わらずモツ煮が美味い。ただ現在、お母さんが腰を悪くしてしまったようで、息子さん(?)一人で切り盛りしており、スペースを若干狭くしての営業となっております。

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今年は横浜の日本大通り駅辺りでの仕事が続きました。こちらは昭和4年(1929)竣工の横浜貿易協会ビル。横浜はちょっと歩けば昭和の建築物に当たります。

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貿易協会の向かいに建つのは横浜開港資料館。昭和6年(1931年)に建設され英国領事館として使われていた建物です。

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内部には幕末から昭和にかけての様々な資料が展示されています。

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横浜港大さん橋の入り口に、横浜港湾飲食企業組合の大桟橋食堂があります。港湾労働者の食堂と言う事で、一度入って食べてみたいところ。

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初めて大さん橋(正式名称が「さん」を平仮名表記しているみたい)に行って見ました。ウッドデッキがとんでもない!

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これ、設計した人も大概ですが、貼った職人も相当です。どれだけの人数と日数が掛かったのか、とにかくいい仕事をしています。ちょうどこの頃自分も合同庁舎のテラスのベンチにウッドデッキ材を貼っていましたが、この面積を見ると気が遠くなります。

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たまたま練習船の日本丸が停泊しておりました。昭和5年に建造され昭和59年まで活躍していた初代日本丸は現在桜木町の石造りドックに保存されていますが、こちらは初代が引退した年に完成した二代目となります。

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先週3年ぶりに訪れた横浜橋商店街。横浜はいつも寿町へ飲みに行くのですが、行きつけの優子さんが開いて無かったので、永楽湯で汗を流して横浜橋まで。

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コロナ禍になった2020年以来の立ち飲み屋「まいめり」さんで、風呂上がりの一杯。ここも以前と変わらず常連さん方で賑わっておりました。

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その流れで三吉橋を渡り、3年前よく通ってた「フライ屋」さんへ。店内を改装されていましたが、こちらも以前と変わらない雰囲気でほっとしました。相変わらず安くて美味い!

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そして先日は寿町のカラオケスナック優子で飲んでいました。やはりここが落ち着く。

仕事はそろそろ落ち着いて来たので、近いうちにどっか写真撮りに行く機会があるかも知れませんが、この暑さなので資料館や博物館など、涼しい所がいいな。

神奈川県横須賀市、千代ヶ崎砲台跡

さて、走水砲台と川間ドックの後は観音崎の南の岬にある千代ヶ崎砲台跡に行ってみます。

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川間ドックの少し先、急な坂道を延々と登って行くと千代ヶ崎砲台に辿りつきます。こちらは走水砲台に比べると全然高い位置にあります。土曜日曜祝日のみの公開となりますが、ボランティアガイドによる親切な案内と説明もあります。いずれも無料ですが、ガイドをしてもらうと地下内部まで入らせてもらえます。

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千代ヶ崎砲台は明治28年(1895年)完成。こちらは塁道という通路。左手の盛り土された部分の向こう側が砲台となります。明治大正期の砲台は基本的には石積みで、ところどころに煉瓦が使われています。ちなみに東京湾の砲台に使われている石材は、対岸の富津市鋸山で産出された房州石と言われています。

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ここは終戦まで使われていましたが、戦後、昭和35年(1969年)より海上自衛隊の通信施設、千代ヶ崎送信所として利用されてました。左手のコンクリートの壁面は自衛隊施設時代の名残り。ちなみにコンクリートは幕末より日本に入って来ていましたが、一般的に建築で使われるようになったのは関東大震災後と言われています。

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塁道から各砲座までは地下通路で繋がっています。千代ヶ崎送信所は2013年に閉鎖され、2016年に横須賀市管轄となります。以降、埋め立てられた砲座を掘り返すなどの発掘作業や施設整備を経て、2021年に一般公開されるようになりました。

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濾過池(奥)と沈殿池(手前)。こちらでは雨水を集めて濾過し、飲料水としていました。

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明治20年代以降の建築なので、ここの煉瓦はオランダ積み(イギリス式)となります。入り口付近の色が黒っぽい煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と言って、焼き過ぎる事で撥水効果を出しているとか。

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雨水が当たる所は黒ずんだ焼き過ぎ煉瓦。煉瓦建築も知れば知るほど奥が深い。

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塁道に面しているのは兵員詰所や倉庫。火薬はその奥の地下部分になります。

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兵員詰所を内部から見たところ。当時の鉄扉や窓枠などの金属部品は、戦後の混乱期に悉く盗まれてしまったとか。左下の小さな穴は換気口。

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部屋の一番奥には排気口があります。

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排気口の地上部分はコンクリートで埋められてました。

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こちらが詰所の奥にある火薬庫。

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火気厳禁なのでランプは部屋の外にあり、明かり取りから採光する形。

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火薬庫の中には地上の砲座に火薬を揚げる縦穴が2箇所あります。

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火薬庫の奥の階段を昇り砲座に出て来ました。

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千代ヶ崎砲台には3箇所の砲台があり、それぞれに28ミリ榴弾砲が2門づつ、計6門の大砲がありました。

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砲台は土塁に囲まれたすり鉢状となっています。これは敵艦に発見されないためで、逆に砲撃する際は観測所から角度やタイミングが指示されます。

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昔の潜水艦映画などで見るような、通信するための管。これで観測所からの指示が届きます。ガイドさんの説明を聞きながら巡ると砲台の構造が良く理解出来て面白いです。

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これが砲座の一つを上から見たところ。東京湾要塞の砲台は、その大部分が三浦半島に集中しています。それはひとつに東京湾の入り口である浦賀水道が、最も対岸との距離が近い事。もうひとつは千葉県側は遠浅で水深が浅いため、艦船はどうしても三浦半島の東海岸に沿って航行しなければならない事。

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一度埋まっていたこれらの砲座を掘り出したと言うのだから、ほぼ発掘作業ですね。また当時の大砲は飛距離も無く命中率も低いため、浦賀周辺以外に造る意味があまり無かったそうです。

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こちらは先程まで歩いていた塁道を土塁の上から見たところ。この千代ヶ崎砲台は他の各砲台と同様、結局火を噴く事はありませんでした。それもそのはず、大艦隊で東京湾に押し寄せたところで、浦賀水道を抜けるには一直線に並ぶしか無く、いい標的となってしまうのでわざわざ東京湾から上陸しようとは思いません。実際、太平洋戦争末期、アメリカが計画した首都制圧作戦(コロネット作戦)では相模湾と九十九里浜に上陸する予定でした。

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もちろん抑止力としての役目は果たしましたが、それ以前に徳川家康が幕府を開く地に江戸を選んだ時点で、天然の要塞は出来上がっていたとも言えます。

神奈川県横須賀市、走水砲台跡と川間ドック

横須賀市の南、以前訪れた観音崎砲台跡の近くにある走水砲台跡と川間ドック、千代ヶ崎砲台跡に行ってまいりました。

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JR横須賀駅より観音崎行きのバスに乗って行きます。横須賀の海上自衛隊基地には輸送艇くにさきが停泊中でした。

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観音崎の手前、西側の入江は走水漁港。乗り合いの釣り船宿が多く、釣り師たちで賑わっています。

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走水砲台跡は漁港の横須賀寄り、西側の小高い岬に造られています。当時の階段が急過ぎるため、坂道を迂回して登ります。

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砲台は全部で四基。右翼側(海に向かって右)より第一から第四まで並んでいます。こちらは第一砲座。

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こちらが当初設置されていた27cm 加農(カノン)砲です。

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第一砲座と第二砲座の間には地下火薬庫があります。この走水砲台は明治18年(1886年)、陸軍によって建造されました。時に明治政府が内閣制度を創設し、伊藤弘文が初代首相に選ばれた年です。

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火薬庫の中は煉瓦壁に除湿のための漆喰が塗られています。この火薬庫の左右に縦穴があり、第一、第二、それぞれの砲台へと砲弾と火薬が吊り上げられていきます。これよりちょっと歴史のおさらいをして行きます。

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火薬庫の上には司令官が指揮する台があります。東京湾の要塞化は幕末の文化7年(1810年)、会津藩が相州側の江戸湾警備を命ぜられた辺りから始まります。会津藩の駐屯は10年ほどで終了し、文政4年(1821年)からは浦賀奉行所の管理となります。

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こちらが右翼側から二番目の第二砲座。会津藩はまず観音崎、久里浜、城ヶ島に砲台と陣屋を築きました。この時代の砲台は対外国船と言うより薩長を警戒していたのかもしれません。

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右翼側の第一第二砲座と、左翼側の第三第四砲座の間には、兵士の詰所があります。嘉永6年(1853年)ペリー来航。これを契機に品川台場が建設され、以降東京湾の要塞化は加速して行きます。

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こちらが詰所内部。地下になるので当然薄暗いです。ペリー来航から14年後の慶応3年(1968年)、明治新政府の樹立により東京湾要塞は明治新政府による管轄となりました。

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鉄筋が残っている何かの台座。こちらも遺構になるので、ちゃんと残されています。東に隣接する観音崎砲台は、明治13年から20年代にかけ、江戸末期の台場跡に新たに砲台基地を随時建設。ちょうどこの走水砲台と同時期になります。ちなみに横須賀沖の猿島砲台は前年の明治17年竣工。

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こちらは第三砲座。周辺の窪みは砲弾置き場です。走水砲台はその後関東大震災の被害を受け復旧工事を受けたものの昭和9年除籍。しかしその後横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として9cm速射加農砲4門が移設され、終戦時まで残っていたそうです。

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第三砲座と第四砲座の間にある火薬庫。こちらは閉まっていました。

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最後に第四砲座。最近まで走水砲台跡は非公開でしたが、現在条件付きで公開されています。土・日・祝 はガイドなしで自由に見学可能ですが平日はガイドを予約する必要があります。

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一旦浦賀へ。浦賀ドックも一度見学したいのですが、定員予約制で第二第四日曜日しか見学出来ません。こちらは浦賀ドックに水を供給するための水道トンネル。明治33年建造。

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浦賀ドックの南にある川間ドック。こちらは当時、東京石川島造船所の取締役会長だった渋沢栄一氏によって、明治31年(1898年)に完成した煉瓦積みドライドックです。

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川間ドックは現在マリーナの敷地内となっております。浦賀ドック(明治32年建造)は海水を抜いた状態で保存されているので底部まで見ることができますが、こちらは水面上の部分のみが遠目に見えるのみとなっております。
次回、千代ヶ崎砲台に続きます。

神奈川県横浜市神奈川区、子安漁港の狭過ぎる路地

前々から訪れて見たいと思っていた子安に残る漁村。9月より俄に仕事が忙しく、合間を見て訪れて来ました。

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JRと京急の止まる新子安より国道15号を西、横浜方面へと歩いて行きます。沿道にはなかなか古そうな建物も。

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かなり立派な廃屋。子安の辺りは海岸まで丘陵地が迫っているため平地が少なく、この辺りの第一京浜こと国道15号線は旧東海道の街道筋に当たります。

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しばらく歩くと水路に流れる入江川の船溜りが見えて来ました。水路という言い方は正しくなく、元々の海岸線で目の前の海が埋め立てられた事により、水路と言うか運河のような形になってしまったと言うもの。ただ、ここではとりあえず水路とします。

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さっそく狭い路地に吸い込まれるように歩いて行くと井戸が。これは防災井戸と言って、いわゆる消火用の井戸です。

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水路の手前を浜通りと言い、通りと水路の間の狭い土地には漁師小屋などが建ち並んでいました。

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こちらは船溜りにある船の整備工場。水面まで軌道が敷かれています。この入江川は鶴見の奥、以前仕事で行った事のある二反田の谷戸地帯からJR横浜線沿いに流れるれっきとした河川です。

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路地裏にはまたしても井戸が。この界隈の路地は異常なほど狭く当然ながら消防車も入って来れないため、このような井戸が町中に点在しています。生活用水としても使われているようですが、さすがに海岸なので塩水に近いのかも知れません。

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水路沿いに西へ進むと富士見橋があります。浜通りと水路の間に建つバラックを水路側から見るとこんな感じ。奥に聳えるのは新子安駅北口のタワーマンション。

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こちらは富士見橋より横浜方面を眺めたところ。ただこの橋、渡った先の埋立地には貨物線が通り、その奥は日本油脂とマツダのR&Dセンターがあり、敷地内と言う事で入れません。

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こちらも路地裏の防災井戸。ポンプが接続されており、蛇口も取り付けられています。今は上水道も施設されていますが、洗濯ぐらいには利用されていたのでしょうか。しょっぱいかどうか試しに味見してみれば良かった。

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立派な家屋が一軒だけ。漁師町の元締め的な存在だったのでしょうか。

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銭湯もあります。午前中だったので入れませんでしたが、この井川湯は明治後期から120年ほど続いており、横浜で2番目に古い銭湯と言われています。手前にはまたも防災井戸。

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左右のコントラストがエグい。新築家屋やアパート、そして空き地なども混在しています。

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再び浜通りに出ました。トタン貼りの漁師小屋と住居が連なっています。

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ちょうど子安漁港の中央付近に架かる常盤橋から鶴見方面を望む。手前には恐らくレース用の伝書鳩の鳩小屋。

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横浜方面はこんな感じ。子安漁港は古くから江戸前の穴子やシャコの漁で栄えていました。

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しかし高度成長期における工業用地確保のための埋め立て事業やその後の工業排水による海洋汚染などがあり、漁師を廃業する方が続出しました。今では漁のための倉庫が駐車場として使われている所も。

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再び路地に入ります。しっかし狭い。この子安漁港は横浜の大黒ふ頭や川崎の扇島東ふ頭埋め立てに伴って昭和46年(1971)に一度漁業権を放棄しました。しかし昭和54年より漁を再開。

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狭い路地の奥に多少広い場所があり防災井戸がある。これ、今でこそ防災井戸となっていますが、かつては飲み水にも使っていたのでしょうか。そう思えるくらい井戸が多い。

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路地の奥に突然神社が現れたりもします。子安浜の漁は700年もの昔より続いていたそうです。

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またもや井戸が。やはり、かつての生活用水か。

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路地の狭さがだんだんエグい事になって来ました。突き当たりのように見えて……

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抜けられます。いや、もう、ひとんちか、これは。

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私道どころじゃなくて、もはや敷地内のような気が。勝手に通り抜けちゃいけないですよね、本来。

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とりあえず猫に癒されましょう。他所者の侵入に警戒されてますが。

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単なる家と家との間であり道じゃないと思っていても、その奥に玄関があったりします。

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このアプローチの狭さは昔訪れた川崎の池上町以来です。

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浜通りから第一京浜までの間で、およそ10メートルほどの高低差があります。

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無造作に置かれてますが道祖神らしきものが。一応道なんですね。

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お邪魔しますと呟きながら通り抜けます。

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なんとか広い所に出た。いや、広かないけどwww

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消防車どころか消防士すらも入って行くのに困難なくらいの路地。かつては都内および首都近郊各地に存在しましたが、そのほとんどが区画整理によって消滅しました。

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子安浜に戻りました。漁港には漁船の他に船宿の釣り船や屋形船なども停泊しています。

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新浦島橋から東を眺める。子安漁港はここまでとなります。高度成長期に消滅の危機を乗り越えて来た子安浜の江戸前漁業ですが、現在も高齢化や後継者不足による消滅の危機を迎えています。とは言え漁村そのものはいまだ多くの人々が暮らしています。狭小地なので空き家になると不信火の恐れがあるため即解体されますが、更地となっている所は少なく、よって人口は減っていないのです。
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