墨田区

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【日記】ブルーインパルスによる東京オリンピック展示飛行

7月21日。

23日東京オリンピックを控えた21日、東京オリンピック開催に日に行われる展示飛行の予行練習が実施されました。

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※出典・防衛省航空自衛隊公式Twitterより
入間基地を12:20に離陸、練馬上空で待機後都心部を飛行して、13:00に入間基地着陸というスケジュール。恐らく当日もこのスケジュールになるかと思われます。

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訪れたのは芝給水所公園。東京タワーのお膝元です。

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この芝給水所は明治31年建造。当時の遺構が幾つか保存されています。

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給水所の上がサッカーグラウンドと公園になっています。

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来た!
あれっ⁉︎ 東京タワーの海側を通るかと思ったら手前側を!

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スモークとタワーを重ねたくてこの場所を選んだのに!www
いや、そもそも高度が高いから重ねるのは無理なのかな?

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編隊はスカイツリー方面へと飛び去り、その後国立競技場上空で五輪マークを描きます。

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再びスカイツリーを経由し戻って来ました。東京タワーの手前でスモークをカット。入間基地へと帰還していきました。

7月23日。

いよいよ今日が本番です。

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東京オリンピックの展示飛行と言えば国立競技場上空にカラースモークで描く五輪の輪ですが、私は東京上空を彩るブルーインパルスを撮るべく、東京タワーに続いて東京スカイツリーへとやって参りました。

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東京スカイツリーの東側、運河に架かる十間橋の袂にある喫茶店、シロウマさんで昼食をとりながら待機。カレーが美味い。

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いやまた逆!
もっと東側を飛ぶかと思ったのに、浅草側から狙った方が正解だったか!

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数分後、東京タワー方面へ。飛行機の撮影は難しい。

墨田区両国、東京慰霊堂及び復興記念館(伊藤忠太建築)

先日東京新聞のネット記事で、両国にある東京慰霊堂及び東京復興記念館にある装飾についての特集記事がありました。記事によれば建物の至るところに可愛いモンスターが居ると言うもの。今回はその神獣か聖獣か魔獣か、はたまた妖獣か、伊東忠太氏の謎多き装飾を追いました。

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両国駅に隣接する江戸東京博物館の奥、隣接する都立横綱町公園の敷地内に東京慰霊堂はあります。

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ここは関東大震災の遭難者約58,000人の身元不明御遺骨を納めるための霊堂として、昭和5年に建設されました。鉄筋コンクリート造の慰霊堂は後の空襲による戦火を免れたため空襲による戦没者も合祀するようになり、最終的には合計163000人の御遺骨を納めるに至ります。
いまいち実感が湧きませんが、東京都中央区の全人口が141500人。また広島の原爆による死者数は推定140000人と言われています。因みに東日本大震災の死者数は15899人。新型コロナウイルスの死者数は2021年4月17日の段階で9552人です。

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本堂の内部はまるで教会のように椅子が並べられており、さらにはアラベスク的な模様も使われており、和洋アジアあらゆる宗教様式を取り入れた物となっております。

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本堂の奥に建つ納骨堂。多くの身元不明遺骨を納めているため、様々な宗教観が混在した建築物となったのでしょう。

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この東京慰霊堂及び後に紹介する東京復興記念館は、2016年までに改修及び耐震補強工事がなされました。写真の黒ずんだ壁は建設当初の物。

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この慰霊堂の屋根の端々に、このような鳥の造形物が飾られています。

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その数が尋常じゃない。

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こちらは建設当初の造形物。現在の物は造り直された物ですが、それにしても可愛い。

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納骨堂の軒下には竜のような造形物が。これらは魔除けの意味合いも有るのでしょう。

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本堂内部に入り、振り返って上を見上げると、このような照明を咥えた謎の生き物が。これらの造形物について伊東忠太氏は資料を残しておらず、何を模したのか謎のままだそうです。ただ伊東忠太氏は幼少の頃より妖怪などが好きだったとか。

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こちらは釣鐘堂の屋根に居るドラゴン(?)。伊東忠太氏は明治から大正、昭和にかけて活躍した建築家であり研究者でもありました。主に西洋建築(鉄筋コンクリート造)を基本とした神社仏閣を設計しており、帝国大学(現・東京大学)の名誉教授にして文化勲章も受賞している、近代建築の大御所的存在です。中国、インド、ヨーロッパへの留学で影響を大きく受けたためか、その代表作としてあの築地本願寺があります。他にも壇原神宮、平安神宮、湯島聖堂などがあり、他の神社仏閣建築とは一線を画した存在です。

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同じく都立横綱町公園の敷地内に東京復興記念館があります。こちらの建物も伊東忠太氏の作品で慰霊堂の翌年昭和6年建造。

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正面入り口の上に、このような愛らしい生き物四体が。

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このデフォルメされた姿は、もはやポケモンに近い。

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この造形物はこのように原型を留めていない状態だったのですが、昨年様々な資料を元に再現されたそうです。

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屋根にはシーサーのような物も乗っかっています。

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復興記念館の一階には関東大震災の被災に関する資料が展示され、二階には東京大空襲の被害に関する資料が展示されております。首都圏の街は二度に渡り焦土と化し、二度に渡る復興を遂げて来ました。この辺が他の地方都市との違いで、例えば京都や金沢のような中世の面影が無いのもこのためです。

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何気なく中に入りましたが、かなりショッキングな内容で、気付けば二時間近く経っていました。元々この横綱町公園は陸軍被服廠(軍服工場)の跡地で、震災当時は公園の造成を進めていました。そこへ墨田区や江東区方面から人々が一時避難しましたが、四方より火の手が迫り開けたこの場所で火災旋風が巻き起こり、東京全体の死者の半数を超える38000人もの命が一瞬にして失われてしまいました。横浜は震源地が近かったため全壊家屋が多く、人々は着の身着のまま避難したのに対し、東京は半壊家屋が多かったため家財道具を持ち出して避難しました。それが火災旋風の原因とも言われており、悲劇へと繋がりました。
その悲劇の直前の非難民が密集している写真が展示されています。また鎮火後の写真も展示されており、灰の山と化していました。納骨とは言っても骨すら残っていないご遺体も多かったようです。
また二階には太平洋戦争における空襲に関する写真が多く展示されています。当時民間人は戦争の記録写真を撮る事を許されておらず、従軍カメラマンによる写真なのですが、写真の多くがGHQに摂取される中、自宅に隠し持っていたフイルムによる物だとか。歴史の闇に葬られる事を逃れた貴重な資料です。

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江戸東京博物館は入った事ないですが、江戸東京博物館を訪れた際にはぜひともこちらも併せて訪れて欲しいものです。

開館時間 午前9時〜午後5時(但し、入館は午後4時30分まで)
入館料  無料
休館日  毎週月曜日及び年末年始(月曜日が祝日の場合は火曜日が休館日)
所在地  東京都墨田区横網2-3-25

以下、余談ですが伊藤忠太建築の造形物を追ってみました。
まずは湯島聖堂。

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本堂である大成殿の屋根、鯱鉾のように聳える造形物は鬼犾頭と言うそうです。

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大成殿の屋根の端には翼の生えた狛犬のような生き物が居ますが、これは鬼龍子と言うそうです。

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大成殿を取り囲む回廊と杏壇門の屋根の端々には、俯いた動物が。魔除けなんでしょうけれども。

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事務所などの屋根の端々には何でしょう、鳥のような造形物。

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事務所の軒下にも何か居ます。これらの造形物は湯島聖堂の依頼を元にデザインされた物なのか、はたまた伊藤忠太が勝手に造ったのか。

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さて、こちらは伊藤忠太建築の代表作とも言える築地本願寺。

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この建物にはあまり生き物の造形物がありません。

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しかしながら、改めて近くで見てみると凄い迫力。日本の寺院として唯一とも言えるインド様式の本堂は、本当にとんでもない建築物を造ったものだと溜め息しか出ません。内部は写真撮れないのかなぁ。

墨田区東向島、東武博物館

鉄道博物館は大宮も梅小路も行っておらず、東急電車とバスの博物館にしか行ってないと言う。そりゃ大宮の鉄博に行けばテンションマックスになる事は分かっている。ただブログのネタにはならない。と言うことでマイナーな所から攻めるのです。

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東向島駅のガード下にある博物館の外観を撮らず、いきなり1720系デラックスロマンスカーです。昭和35年から平成3年まで30年以上東武の顔として走り続けた名車。箱根出身者としてはロマンスカーと言えば38年就業の小田急SE車だろうなどと思い、東武帝国は東急帝国のライバルとして見ていたのですが、ともあれこの顔はロボっぽくてセンセーショナルでしたね。

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かつて日光を走っていた路面電車。今現在も万年渋滞な日光駅から東照宮の先の馬返までの坂道を走っていたそうです。馬返から先はケーブルカーがいろは坂の上まで登り明智平ロープウェイへと接続していました。このケーブルカーの遺構もいつか訪れてみたいところ。

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車内はこんな感じ。昭和29年製造で昭和43年には路線が廃止されていますがそんなに古さを感じさせない。地方で走っていても不思議じゃないです。

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入場して最初に目にするのはこの5号機関車。明治31年に英国から輸入しましたが、なんと昭和40年まで貨物線で走っていたと言うから、その物持ちの良さに驚かされます。現在では真岡鐵道から買ったC11牽引のSL大樹が走ってますが、東武鉄道ならば大切に使ってくれるだろうと感じられます。

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博物館としては目玉と 言えるデハ1形5号です。大正13年製で、よくぞ保存していたと思う。正面5枚窓が珍しく感じますが、電気系統や台車が米国製という事で、言われて見ればアメリカっぽく見えて来る。

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しかも車内に入れちゃいます。綺麗に磨かれた車内。細かい所まで見れば勉強にもなり、博物館に来た甲斐があると思わされます。

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ED101形(101号)電気機関車。ブドウ色のデッキ付き機関車は大好きでしたが、私鉄の機関車は見事に無視していました。昭和3年の英国製で、昭和47年に近江鉄道へ譲渡、昭和63年まで活躍し続いていたそうです。

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5700系(5701)。昭和26年、戦後に造られた日光鬼怒川特急用車両。前面二枚窓って好きなんですよねぇ。昭和35年、貫通扉(前面扉付き)に改造され、最終的には臨時や団体用として平成3年まで走っていましたが、引退後に前面をデビュー当時の前面二枚窓に復元したそうです。ナイスです。

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車内の様子。関東ではあまり見ない転換式クロスシート(背もたれを前後させて進行方向を向かせる)ですが、就業当時からそうだったのかな?

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館内には同じく5700系(5703)の先頭部分が展示されています。こちらは昭和28年製で最初から貫通扉型でした。同じく平成3年引退ですが、現役時代にこれを撮りに行きたかった。

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昭和34年から同59年まで東上線で活躍していたED5010形(5015号)機関車。高坂の秩父鉱業や越生線西大塚の日本セメントからの貨物列車を牽引していたそうです。西武電鉄などもそうですが、セメント列車は日本の高度成長期を支えていましたね。

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ED5015の手前にはキャブオーバーバス、TN714型1625号が展示されています。このバスは昭和26年にニッサンのエンジンを載せ富士自動車工業で製造されました。

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戦後、航空機開発を禁止された中島飛行機が非軍需産業への転換を迫られ、その一部が富士工業としてスクーターやバスの製造へと乗り出します。当時は財閥解体から再統合、合併への流れが複雑で、富士重工が発足するのはその2年後の昭和28年。

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ペコッと木の板が飛び出すウインカー。屋根の上の速度に合わせて点灯するランプもカッコイイです。バスは乗用車と違い、エンジン、シャーシ、ボディー、それぞれが違うメーカーである事が多いです。これは現代でもトラックの本体と荷台を違うメーカーが製造しているような感覚でしょうか。

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そもそもキャブオーバーバスとは、乗員数を増やして輸送効率を上げるために、従来のボンネットバスのボンネット部分に運転席と座席を張り出させたもの。そのため運転席の脇にエンジンルームが思い切り飛び出しています。

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このリアの丸っこさも大好き。ちょうどこの頃から富士重工では、かつての航空機の製造技術を生かしたモノコックボディー方式で、リアエンジン式バスの製造も始めていました。

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奥のホールではヘッドマーク展をやってました。ともあれ近いし入場料200円と安いし、シミュレーターも揃っているので夏休みの雨の日の子供連れも多く楽しまれていました。子供のみならず大人も充分楽しめるし勉強にもなります。

墨田区向島、鳩の街の赤線地帯跡の名残り

以前、とは言っても随分昔にお隣、東向島の玉の井のカフェー建築を訪れましたが、今回は曳舟から隅田川沿いまで歩いたところにある鳩の街へ。

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この辺りには昔、働いていた会社の社宅があり、そこに住む先輩の部屋に入り浸って格ゲーの対戦ばかりやっていた時期が有りました。なので曳舟駅から鳩の街商店街まではよく通っていた道のりなのですが、当時は赤線街などに全く興味が無かった。

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下町の商店街としてもかなり古い建物の残る街ですが、最近までは毎年隅田川の花火大会を観に行って、帰りにはこの商店街を歩いて20年以上の馴染みの居酒屋に立ち寄ってました。夜だった事もありいつも赤線の名残りを探さずスルーし続けて来た。

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そんな前置きはともかく、さっそくカフェー建築の物件です。商店街の東側の路地裏にそれは残っていました。

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外壁は上貼りされていますが、モザイクタイルの円柱が辛うじて残っています。

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もう一軒はすぐ近くにあるこの建物。元々はお隣、玉の井にいた業者が空襲で焼き出され、戦後の昭和20年から焼け残った土地を買収して商売を再開したのが、赤線街としての鳩の街の始まりだそうです。

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この建物もだいぶ改装されていますが、モザイクタイルの円柱が残っています。

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カフェー建築としてハッキリとした形を残しているのは、おそらくこの二ヶ所のみでしょう。

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それっぽい建物はいくつもありますが、ぽいってだけで確証はないしキリがない。

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強いて言えば質屋なんてのも華街ならでは。また、この鳩の街から南に歩けば向島の料亭街となります。

墨田区錦糸町、南口の歓楽街

 錦糸町はほとんど降りた事が無く、私にとっては未開の地です。

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 以前、日記でアップしたかも知れませんが改めて。錦糸町南口を出て右手通りにある純喫茶白鳥跡のビル。昭和の純喫茶の貴重な外観が残っていますが、随分前からテレクラにビルを買収されました。

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 南口西側界隈。飲み屋街と歓楽街が混在するカオスですが、亀戸餃子の支店なんかもあり、昼間から楽しめそうです。

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 渋い居酒屋などもある事にはあるのですが、基本的には近代的な雑居ビルにスナックや風俗店が詰まっているような街の景色が多いです。

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 なかなか時代を感じさせるニュー錦糸町ビル。1階は間口の狭い店舗がひしめき合っています。

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 駅から少し離れるとラブホが目立つようになって来ます。

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 南口東側は、にわかにコリアタウン化しています。韓国食材店を中心に韓国系飲食店が林立。

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 韓国食材店向かいの雑居ビルの1階は通り抜けられるようになっており、飲食店街が形成されています。

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 しかしそのほとんどが空き家。以前ここに『杓』という立ち飲み屋があったそうですが、すでに閉店。

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 一見マンションのように見えるビルも、如何わしい店で埋まっていたりします。踏み込まれたらヤバい店なんかも有るかも知れません。

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 錦糸町は風俗店が密集しているような目立った歓楽街は特に無く、街全体のいたるところに散在しているような感じです。しかし客引きのお兄さんは健在。

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 googleで立ち飲みを検索し一通り廻ってみたところ南口の『杓』と北口の『でかんしょ』がすでに閉店。早速googleに報告。北口の東側ガード下の立ち飲み屋『粋』は食べログなどでも評判のようで、満員御礼。

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 結局南口を出て右手、路地を一本入ったところにある『丸源』で落ち着きました。この店、昼間は立ち食い蕎麦屋として営業しているようです。

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 生400円、サワー系250円、焼き鳥他一本110円。なかなかにしてリーズナブル。

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 もつ煮込み350円。もう、もつ煮の季節です。店のキャパはなかなか広く、一人でも落ち着いて飲めます。気さくな大将と、ホールは明るい中国系の姉さん方。地元の会社員に愛されている店のようで、ここは通いだなと思いました。

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 錦糸町はスナックなどの数が都内屈指の多さ。しかしそのほとんどが雑居ビルに収まっているので、いちげんにはなかなかハードルが高いようにも感じました。

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 追記。錦糸町駅から北へ少し離れ押上に近くなってしまいますが、横川三丁目にある温泉銭湯に先日行って参りました。造りは昔ながらの銭湯といった感じですが、増築でサウナや露天風呂も楽しめるようになっています。

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 お湯はメタケイ酸の含有量により温泉とされていますが、療養泉ではないため泉質名はありません。そのため銭湯としては高濃度炭酸泉と表記しています。しかし、無色透明無味無臭なため塩素臭が際立ち、温泉としての特徴もあまり感じられませんでした。
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